過去の影②
3
「体痛い……」
華蓮は零に肩を貸してもらい、自室に舞い戻った。
一日のカリキュラムは終わり、後は基本的に自由時間だ。だが華蓮はその自由時間を満喫できるような状態ではなく、疲労困憊だ。
今日のカリキュラムはどこぞの軍人用に用意されたものなんじゃないかと思われる内容だった。
最初の基礎運動はまだ良かったが、その後のフルマラソンに近い距離のランニング――しかも室内で――や顔に傷の入った厳めしいおじさんたちとのスパーリング、一メートル四方の部屋で一八〇キロのボールを避ける練習。SASUKEのコースを模したアスレチックのような場所での特訓。
精神よりも肉体が悲鳴を上げている。
華蓮は自室の床に力尽きたようにしゃがみ込む。
「なんなのあれ⁉ どこの軍用トレーニング⁉ っていうかなんでみんなはついていけるの⁉」
「ついていけてるわけじゃないだろ、ただ疲労とかに鈍いだけで。現に俺は疲れてる」
「全然そう見えないんだけど」
息を切らしている華蓮と対照的に零はいつもの様相で落ち着いている。
そんな零の様子に華蓮は理不尽な視線を向けるが、零とて疲れていないわけではない。ただ単にカッコ悪く息を切らす姿を見せたくなくて必死にこらえているだけだ。
「それだけ汗を掻いてたらまずは風呂だな。俺は行ってくるけど」
「行ってらっしゃい、あたしは少し休んだら行く」
「ん」
零は鉛を抱えているかのようなだるさを見せる華蓮を背に、自室に戻り、風呂に向かった。
大浴場は昔ながらのヒノキ風呂、五〇以上ある洗い場、そしてその倍の人数を収容できるほどの浴槽がある。
それにも関わらず使っているのは零、修哉、アラタの三人だけ。他の職員も時間をずらして使用しているのかもしれないが見たことはなかった。
その名の通りの大浴場に足を踏み入れると、既に先客がいた。
湯船に浸かりながらジプロック越しにゲームをしている修哉、そして洗い場で体を洗っているアラタ。
二人の姿を視認した零はアラタの横に腰をおろす。
正直な話をすれば一つくらいスペースを空けたいところではあるのだが零がやるべき最優先事項は彼らと交流して感情を発露させることだ。
「き、今日は疲れたな、上水流は意外と平気そうにこなしてたけど、運動神経いいんだな」
「……そうでもありませんよ。中枢は確実に損傷していますし痛みも順調に走っています。ただわざわざそれを表面化する必要がないだけです」
感情を感じさせない顔でヴォーカロイド音声を張り付けたような不自然さ。会話をしようとは微塵も思えない。
「そうか……、でも辛いときは辛いって言った方が楽なんじゃないか?」
「……言ったところで何かが変わるとは思えません。それに――」
「それに?」
「いえ、なんでもありません。口は災いの元という諺もあることですし多弁は控えるべきでしょう」
アラタはそう言うとスタスタと歩いて湯船に行ってしまう。
まだ体を洗っていない零は追いかけるわけにもいかず、アラタの言葉を頭の中で反芻しながら適当に体を洗っていく。
(無口で丁寧、いや丁寧というよりも一歩引いてる?)
感情を奪われたアラタたちの表層に出てくるのは昔の自分に近いもの、影響を与えたもの。零はそう考えている。
――もともと大人しい性格。
――おしゃべりすぎてうざがられていた?
二つの案を出してみるが絞れるわけがない。
(まあなんでもいいか)
投げやりな気持ちでそう結論付けた零は湯船に向かう。
結局彼らがどんな人間だったかは分かりようがない。仮に分かるとしたらそれは記憶が戻った時だ。彼らの過去がどうであれ零がすることは変わらない。
何も考えず超速で指を動かしてゲームをしている修哉、周りを全く意に介さないアラタ。
最初に比べれば幾分人間らしくなってきた二人、しかしその瞳は黒く澱んでいる。
どれだけ淡くてもいい、そこに光を灯すのが今の零がやるべきことだ。
――疲れた
華蓮の心中にはそれしかなかった。
肉体的疲労は言うまでもないが、それを癒すために来た浴場で精神的疲労まで負うことになろうとは……。
この時ばかりは二人に悪態をつきたい気分だった。
重たい体を引きずるようにして大浴場に向かった華蓮は脱衣所で佳奈と朱音が先に来ていることに気付いた。
平時ならコミュニケーションをとるために積極的に行くところだが、生憎とそんな気分になれない華蓮は無の心で扉を開ける。
分かってはいたが中には二人がいた。しかし二人ともぼーっとした様子で湯船に浸かっているので大した気を使う必要もないと思い、華蓮は安堵する。
華蓮は手際よく体を洗いながら今日のカリキュラムについて思考を巡らした。
(筋トレに軍事訓練、バランス感覚を養うようなトレーニング。あたしたちを忍者にでもしたいのかな)
ここ一週間に行われていたのは簡単な運動と座学。といっても何故だか、習う必要なく全問解答できてしまうので基本的にはテストを受けているだけだ。
そして今日になって急に軍用トレーニングのようなメニューにシフトした。
(カリキュラムが一段階進んだ?)
未だオーラを使えるのは零と華蓮の二人だけ。しかもオーラについては殆ど何も分かっていない状況だ。この状況で國枝が華蓮達に何をさせたいのかを推論するのはかなり難しい。
(後で桐谷ともう一度相談だな)
零一人では潰れてしまう。
華蓮一人では潰れてしまう。
状況を共有できる相手がいる、先は全く見えず暗雲が漂っているが、二人が潰れないのは互いの存在が大きく影響していた。




