進む先に②
3
こ
これから先のことは何も考えていない。零はただ勢いのまま行動しているだけだ。とは言ってもぶつかるものはある。
未成年では住宅の契約が結べない。さらに金もない。今までどれだけ楽な空間にいたのかを改めて認識させられた。言えば何でも出てくる地獄の空間。籠から解き放たれた鳥はどう動けばいいのか。中学生ではバイトもできないしそもそも身分証もない。
捨て子として孤児院にでも行くかという思考がよぎったが、そんなところに行けば間違いなく國枝に見つかるだろう。
國枝東吾。WIZARDの統括管理担当者であり、零が最も憎むべき相手。それにも関わらず昨日の施設襲撃の際にはその姿を確認できず、仕留めそこなってしまった。だからといって今更草の根掻けて探し出し、その命を絶とうとも思わない。昨日ほど頭が沸騰しているわけでもない。いずれぶつかるときがあるならばその時に決着をつければいい。
零は目下差し迫る危機、住居と食事について思考を巡らす。住居は適当な空き家に忍という手がないわけではないが、食事はどうしようもない。
辺りは暗く、街の電灯が点きはじめた。
零は昨日の埠頭での戦闘、そして施設の破壊から一切着替えていない。防護性には定評がある服だとは言っても臭いや汚れはどうにもできない。
できるだけ人通りのない道を選んで歩いているが、ただ歩いているだけで目的地もない。
「はぁ」
零は電柱に背をかけてため息をついた。いっそ変なチンピラが絡んでくれれば正当防衛ということで金を奪うこともできるのに、というつまらない思考が浮かぶ。
自暴自棄になって彼らの下を離れたのは失敗だったか、過去の選択を後悔し、肩を落としたその時、
「大丈夫かい? 家出でもしたのかい?」
警察か? そう思って顔を上げた零の前にいたのは茶色のコートを着た三〇代半ばくらいの男性。大きめの黒い眼鏡をかけており、どことなく優しそうな印象を与える。
どう答えるべきか、零が思案していると、その男性は右手に持った真っ白な傘を開いた。サイズは大きく、二人でも十分入れるほどの傘。そして、零は感じた。手に落ちてきた白いさらさらとした物体を。手に触れた瞬間溶け消えたそれは紛れもなく、雪だった。
(そうか、今は三月だったけな……)
三月一〇日、歩いていた時に見かけた街頭テレビに映っていた情報を思い出した。その男性は無言で傘を零に向ける。
「もしも行くところがないのなら家に来ないかい?」
「悪いけど、俺男だよ」
零の反応に男性は少し目を丸くし、ふふふ、とほほ笑んだ。
「分かっているさ。いや、だが世界は広い。男は狙われないなんて固定観念は持たない方がいいぞ?」
「なに? じゃあ男好きなの? ショタコンってやつ?」
修哉が前に言っていたショタコン、という言葉が不意に口から出た。
「ははっ、あいにくとそういうわけでもなくてね。あしながおじさんとでも思ってくれればいい」
「百パーセント善意だと?」
「善意か……、その定義にもよるだろうがね。ただ私は君をどうこうしようと思っているわけではない。君は今までたくさんの悪意の中で生きてきたはずだ。信じられるものは何もないと思っているのかもしれない。それでも、知ってほしい。見てほしいんだ。いろいろな世界を。この世界は悪意に負けないくらい、多くの希望に満ちているんだ」
証拠はない、それでも純粋に、心の底からそう思っていることが伝わってきた。
「……まるで俺の人生を見てきたような言い方だね」
「確かに、私は君の人生を見てきたわけじゃないよ」
男性はそこで一旦言葉を区切ると、傘を零に渡し、一歩下がった。
「君たちWIZARDは確かに強い。だけどまだ子供なんだ。たまには休んだっていいじゃないか。そして、今の君には何よりも休息が必要だ」
WIZARD、その言葉を発した瞬間、零の体に緊張が走った。そして瞬時に辺りを警戒するが、他に誰かが潜んでいる気配はない。
「まだ信じてくれというのは無理かもしれないけれど……、これだけは約束しよう。私は君の敵じゃない。だからついてきてくれないか」
男性はそう言うと、傘を零に預けたまま歩き出した。空から落ちてくる雪は少しずつ増え、水っぽさも消えて、じっとりと降り積もる形に変化しつつあった。
この服ならば寒さをしのげるだろうが、雪の中、中学生が一人で深夜徘徊というのは補導される可能性もある。
「……」
男性は零が付いてくるのを信じているかのように前を歩いていく。その背中は無防備で、今すぐゼロ・ブラストを撃てば間違いなく殺せるという自信があった。
だからこそ、零はゆっくりと男性の後を追った。男性の黒髪は雪のせいで所々が白髪のように見える。しかし、男性は全く気にする様子なく、歩き続けた。
一〇分もすると、住宅街に入った。男性は表札になんの名前も彫られていないある家の前で立ち止まると、鍵を取り出し、玄関のドアを開けて、零を招く。
割とどこにでもあるタイプの洋風造りの二階建て。零は居間のような場所に通され、ソファーに腰かけた。男性はちょっと待ってねと言ってキッチンの方へ向かうと、瞬間湯沸かしポットの電源を入れ、お湯を沸かした。少しするとキッチンの方からコーヒーのにおいが漂ってきた。そしてそれと同時に、無意識のうちに限界をむかえていた零の腹がけたたましく鳴り響いた。咄嗟に腹を押さえるが、防音されるわけはなく、零は顔を赤くする。
「こんなのしかないんだけど」
男性は冷蔵庫から取り出したまだ値札の貼られている海鮮丼と、先ほど入れたコーヒーを持ってきた。男性は食事を長テーブルに置くと、キッチンの方に戻り、割り箸を持ってきた。
「えっと……」
「どうぞ」
男性に促され、零は海鮮丼のふたを開け、割り箸を割った。丸一日何も食べていなかった腹は限界値をむかえており、気づけば、貪るように箸を進めていた。
二分もしないうちにプラスティックの容器は空になり、男性はいつの間にか用意していたペットボトルのお茶を零に差し出した。
「おいしかったかい?」
今までWIZARDが、零が食べてきたのは安いものでも一食で千円札が数枚は飛んでいくような代物だった。それと比べれば、ご飯は安物でねっちょりしているし、刺身はぱさぱさしているし鮮度も劣る。それでも、零の一日ぶりのご飯は腹を満たすのに十分だった。
「……おいしかったです」
男性はそれを聞くと、軽く微笑んで、テーブルに書類を置いた。その書類はいわゆる編入手続きの書類。学校名は分からないが、近くの市立中学校だろう。
「戸籍は偽造だが特に問題はないだろう。ただ資金が潤沢というわけではないから高校は都立に行ってくれよ」
「なにを……」
男性は零と向かい合うようにソファーに腰を落とし、まっすぐに目を捉えていった。
「さっきも言ったが君には休息が必要だ。WIZARDという肩書を捨ててただの桐谷零として、普通の中学生として、これからの生活を送るべきだ。……そうさせてあげるのがせめてもの償いだ」
最後の一フレーズを濁すように呟いた男性は苦しみの中で無理に笑う、まるで給仕長が最後に見せたような笑みだ。
「さて、急ですまないが私はこれから仕事でね。少し出なければならないんだ。寝室は二階だ。そこの部屋の机の引き出しに通帳も入っている。パスワードは机の下に付箋がはってあるからそれを見てくれ。少なくとも桐谷君が高校を出るまでに必要な額はあるはずだ。それとこの家は好きに使ってくれて構わないから」
「お、おい! ちょっと待ってくれ!」
矢継ぎ早に繰り出される発言についていけず、零は困惑の表情を浮かべる。
「なにを……、っていうかなんで急にそんなことに……」
「行くところがないんだろ? この世界は中学生が一人で生きていくには厳しすぎる。幸いこの家は國枝にも須藤にも目を付けられていない。うかつなことをしなければ困るようなことはないはずだ」
須藤という名に聞き覚えのない零は一瞬首を傾げるが、國枝の仲間の一人なんだろうと判断した。
「じゃあ私は行くよ」
「ちょ……」
零に止める暇を与えさせずに名も知らぬ男性は玄関に向かい、ブーツを履いて扉に手をかける。
「あ、そうだ……、國枝のことを――」
男性はそこで思い直したように、口を固く結んだ。
「――表の表札、ちゃんと名前を入れておけよ?」
急に話題を変え、男性はそう言い残し、扉を開け、外に姿を消した。
理解が追い付いていない零はありもしない残像を掴むかのように手を伸ばして呆然としている。
「わけわかんねぇ……」
名前も、年も、目的も分からないあしながおじさんに家を提供され、高校卒業までの費用も与えられた。
零は状況が呑み込めないまま居間に戻り、男性が置いていった資料を眺める。
「中学校……」
きっとそこには同年代の子が沢山いるのだろう。閉鎖的空間しか見てこなかった零にとって、それに対する好奇心がないわけではない。だがそれでも。
「無理だ……、無理だ……」
昨日から片時も離れない彼女の顔、頭に焼き付いているその笑顔。自分を憎んで、恨んで死んでいったであろうその女の子。
――ダメだ。
同じ年の子供が沢山いる世界。それを想像しただけで体が震えてしまう。
――怖い。
誰かに近づくのが怖い。誰かを失うのが怖い。
「華蓮……」
零はその書類をまとめてテーブルの端に寄せた。
「寝室は二階か……」
ゆらゆらとした足取りで階段を上がり、目についたドアを片っ端から開ける。二階は左右に二室ずつあり、寝室以外の部屋は何も置かれていない空っぽの部屋だ。
零は寝室らしき部屋を見渡す。六畳ほどの部屋にベッドと勉強机、三段の洋服ダンスが置かれ、壁には茶色の縁取りの時計が掛けられている。寝室というよりは中学生向けの子供部屋だ。
状況も把握できず、理解もできないが確実に疲れは溜まっており、体はベッドに吸い寄せられる。




