悪意なき悪意⑥
5
「なあ、あの話だけど――」
修哉がそう切り出したのは零と二人で湯船に浸かっている時だった。任務はなく、訓練という名のカリキュラムを終えた零は思考を放棄し、ひたすらにぼぉーっと湯に浸かっていたのだが、修哉にそう言われたことで否が応でも意識を取り戻さなければならなかった。
「――あの変態男のことか?」
「あいつはきっとこれから先も事件を起こす。その度に被害者がでるんだ」
数日前に零が出会ったあの変態は確かに渋谷から新宿までずっとついてくるくらいには粘着質だった。この先、社会の善となるか悪となるかで分類するなら間違いなく後者の分類だろう。
「めんどくさいなぁ……」
零は無意識にそう呟いていた。
「居場所は分かるの?」
「これから特定する。あの男やたら自己主張が強いというか承認欲求が高いというか、とにかくSNSの使い方が杜撰だから簡単だと思う」
確かに、将来ハッカーとして就職できるであろう修哉にかかればお遊戯程度の事なのだろう。
「……わかったよ」
零は素っ気なくそう返して、再び思考能力を放棄して湯を堪能した。
修哉が再びコンタクトを取ったのは翌日の朝。朝食を食べ終わり、『今日は午後から任務がある』と國枝に言われ、それならその時間までお昼寝をしようと思い、ベッドに身を放り投げた瞬間だった。
「今日の営業は終了致しました。また明日お越しください」
部屋にずかずかと入ってきた修哉――鍵は閉めていなかったので、零にも非はあるが――にそう告げて、頭まで布団をかぶるが、一瞬でそれを剥ぎ取られ、強制おはようの刑に処された。
「寝たい」
「駄目」
どうあっても引くつもりのない修哉の声色に零はうんざりしながら体を起こし、おおあくびをする。
「ほい、行くよ」
そんな零のアピールを無視し、修哉は勝手に計画を決めてしまう。
結局、高速で着替えた零はどこにでもいる普通の中学生の私服になり、外に出るために、例のエレベーターに乗った。
『午後から任務だがどこへ行くつもりだ』
スピーカーから聞こえる國枝の声、どうこたえるべきか、零が思案していると、
「一二時までには帰る。ちょっと畑中昇を殺してくる」
簡潔に目的を告げる修哉。そしてその内容に圧されたのか、スピーカーの向こうが無音になった。
『畑中昇、数日前に桐谷達が接触した男か?』
「知ってたのか。というか接触したのは俺じゃなくてあっちからな」
『……いいだろう。処理はこっちでしてやるが変に痕跡を残すなよ』
いつもより声のトーンが若干高くなった國枝は二人の外出を快諾し
た。エレベーターが動き出し、二人は地下駐車場に降り立った。
「それで? 具体的にどこなんだよ。ここ新宿だから地方まで行ったら一二時までに帰れないぞ」
零が部屋を出たのは九時過ぎ、二人が自由に使える時間は三時間、作業の時間と往復での距離を考えると新宿から一時間圏内でなくては不可能だ。
「大丈夫。場所は新宿だから。ただ少し距離はあるけど。じゃ行こう」
修哉は歩き出し、零はただ黙ってその後を追う、駅から離れ、人通りはどんどん少なっていき、建物も低くなり、数も減っていく。
「なあまだなのか? もう三〇分は歩いたと思うんだけど」
「後一〇分くらいだけど……」
修哉は周りに人の気配がないのを確認すると、オーラを発現させた。
「どうせなら跳んでくか」
ボンッ、と勢いよく跳ね上がり、近くの民家の屋根に飛び移った。修哉が屋根に乗った拍子でミシッっと揺れた家を見て零は若干の不安を抱くが、自分も同じように後に続き、そのまま屋根の上を飛び移るように疾駆し、目的の場所に向かった。
秒速五〇メートルを超える今までの比にならない速度で進んだために、二人は一分もしないで目的の地に降り立った。
「まじでここ……?」
零は畑中昇の情報を一切知らない。それでも犯罪を揉み消せるバックがある以上それ相応の暮らしをしているものだと思っていたのだが、二人の前にあるのは錆びついた二階建てのボロアパートだ。強く踏みしめれば落ちてしまいそうな階段、壁の塗装も剥がれ、築歴の重さを感じさせる。
「……間違いなくこの場所だ。畑中はここのアパートの全室を一括で購入している。言ってしまえばこのアパートの持ち主だ」
こんなアパートを買い占めるくらいならもっといいマンションを一室買った方がいいだろうに、と思うが、畑中にもここを買う理由があったのだろう。
「それで? どの部屋にいるのさ」
「さあな、ただ多分片っ端から開ける必要はあるだろうから一番端からいこうぜ」
修哉はどことなくやるせない顔で一階の一番端の部屋に向かう。
「それにしても臭いな……」
その辺に散乱している生ごみのせいで建物自体が腐臭に包まれている。近くの電柱で様子を窺っているカラスは二人がいなくなった瞬間、このゴミに群がるのだろう。
零は鼻をつまみながら部屋の前に歩くが、その扉の前に立った時、歪めていた顔を一際強く顰めた。
辺りから臭っていた腐臭とは違う、一際強く鼻を刺す臭い。気付けば零は扉を蹴り飛ばしていた。
簡単に破壊された扉は、くの字型に曲がって、部屋の内側にバタンと倒れた。扉が壊されたにもかかわらず、部屋の主は一切動じることはない。いな、動じることはできなかった。
零はその光景に目を見開き、修哉は軽く目を伏せる。
六畳一間の部屋には家具と呼べるのはベッド以外何もない。しかし、二人の目を引いたもの、ベッドの足に括りつけられた鎖、そしてその鎖が伸びる先にはその鎖で両手を拘束された亡骸があった。
「なっ……」
「このアパートは凄く特殊な造りでな。完全防音なんだ。だからほら」
修哉が指さす先の壁には鎖が何度も打ち付けられたような傷が残っている。零はその死体に近づき、鎖を外す。
もうそんなことをしたって何の意味もないことはわかっている。だからこれはただの自己満足にすぎない。それでも零はそうしなくてはならないと感じた。この場を目撃してしまった一人として。
死後二日、それが二人の見立てだった。もちろん二人は専門の人間じゃないし、解剖をしたわけでもないから概算に過ぎないが。
定かではないが死体は恐らく少女、中学から高校のあたりだろう。服を纏わず、一糸まとわぬ姿で何日放置されたのだろう。
「なあ……このアパート全部がそうなのか?」
「全部じゃないと思うけどな。多分――‼」
死体に意識を向けていた二人は咄嗟に後ろに気配を感じ、横に飛びのいた。
修哉がいた場所に振り落とされたのは金属バット、空を切ったそのバットを握っているのは数日前に零がのした男だ。
「おいおい、てめえら……人ん家で何してんだよ」
バットを向けて威圧する男、しかし圧で言えば顔に傷のある人たちの方がよっぽど強い。
男は思い切りバットを振り被ると、零の脳を割ろうと勢いよく振り落とす。
零は頭を護るように右腕を頭上に上げて防御態勢に入る。男は腕でも構わないという様子で一切の躊躇いなく振り切った。
(な、なんで……、こいつの腕が折れずに――)
男が想像していたのはガキが痛みで這いずり回る姿。しかし状況は全く違う。ガン! と鈍い音を立ててひしゃげたバットはもう使い物にならない。
「正直……、殺すのはやりすぎかなって思ってた。痴漢に空き巣にナンパ、ただの軽犯罪者だと思ってたしな。だけど――‼」
零は勢いよく床を蹴り、右腕でアイアンクローをするように男の顔を掴む。
「お前みたいな人間は死ぬべきだ‼」
闇の中で生きている人間は常に死を覚悟している。死んでも文句の言えない人種ばかりだろう。だが、中にはこんなやつだっている。
零は男の足を払い、そのまま男の顔を床に押し付ける。
「グッ……この……‼」
男は必死に抵抗し、足をバタバタと動かし、零を引き剥がそうと両手を頭上に向けるが、
「がっ……」
猛烈な痛みに襲われ、男はその動作を中断してしまう。そして次の瞬間には右腕は男の意思を全く受け付けなくなっていた。何が起こったのか、男は腕に視線を動かすと、右腕は修哉の足で潰されており、前腕の部分は紙切れ程度の薄さしかなかった。
「あ、ぁぁ……」
現状を理解した男はわけのわからない嗚咽を漏らす。そして、
「が、がぁああああああ‼」
もう一本の左腕にも同じ衝撃が走り、男は恐怖にまみれた悲鳴を上げた。
二本の足を踏み砕いた修哉は冷めた目で男を見下ろし、静かに告げる。
「なぁ、痛いか? やめてほしいか?」
「や……やめてくれ……」
絶望の中に現れた光の藁を掴むように、顔を汚して懇願する男、零はこれ以上掴んでいると自分の手が汚れそうなので、手を放したが、もはや立ち上がる気力もないらしい。
「じゃあ今から言う質問に素直に答えること。一問目、今まで何人の人を殺しましたか?」
「そ、そんなの……覚えて……」
「じゃあ二問目、どうして殺したんですか?」
普段呆れるほど雑でぶっきらぼうな修哉の丁寧語、それが与える重圧は零すら一歩引いてしまう程の圧迫感を感じさせ、男は歯をカチカチと鳴らすだけで認識できる言語を発せない。
「三、二、一――」
「や……、や……殺すつぼびばんでながった……」
男は口角から漏れる泡と、泣きはらした混乱のせいでぐちゃぐちゃに崩れてはいるが、なんとか意味を成す言葉を発っせた。
「じゃあ三問目、どうしてこんなことをしたんですか?」
「あ、ぁ……」
男は切望するような視線で修哉を仰ぎ見るが修哉の表情は一切変化せず、何も映さない無表情だ。
「素直に答えましょうね」
「だ、だって……、逃げられる……」
「そうじゃねえよ」
修哉は無表情の仮面の上に冷然な目を浮かべ、男を鋭い眼光を向ける。
「拘束具の理由について聞いてるんじゃない。どうして女の子を攫って監禁してんだってことを聞いてるんですよ」
踵をカンカンと鳴らして男を心理的に追い詰めつつ、修哉は問うた。
「そ、それは……」
「素直に答えましょうね」
修哉に再度重圧を乗せられた男は目が限界まで見開き、口は金魚のようにパクパクと動き、心臓が張り裂けんばかりに激動し、事切れる寸前だった。
「……ぁ」
「聞こえねえよ」
修哉は動かしていた足を止め、大きく振り上げ、床を大きく叩いた。
それが理性という最後のストッパーを壊す一撃になった。
「……は、は……」
男は陸に打ち上げられた金魚のように、ビクンと身を跳ねさせた。金魚は生きている限り、もがき続ける、しかし男のもがきは一回で終わった。死んでいるわけではない。目は開いているし、口も微かに動いている。
「……決まってんだろ……」
男は見開いた眼をギョッと動かし、口裂け女のように不気味に口角を吊り上げてそう言った。
「決めってんだろ‼ 気持ちいからだよ‼ それ以外に理由なんてねえよ‼ なあ知ってるか? 女ってのは押し倒されてもいやいや言うくせに一度殴れば大人しくなるんだぜ⁉ 簡単な生き物だよなぁ⁉ どれだけ殺した? 覚えてねえよそんなもん‼ 好きなだけ食って飽きたら捨てる、たまに死んじまってることもあるけど仕方ねえよなぁ? だってそいつは生きる力がなかったってだけのゴミなんだからさぁ‼」
ブレーキの壊れた男は地面に背を付けながら汚い口を動かし、二人に汚い言葉をぶつける。
「もう黙れ……」
「それでよぉ、助けて助けてって泣き叫ぶのよ‼ いやほんと傑作だよなぁ、助けなんか来ねえってのにさぁ‼」
「もう黙れ‼」
修哉は左足で男の胸板を踏みつけ、そこに全体重を乗せて重心を移す。そして左足を軸にするようにして右足を後ろに振り上げる。
「だからさぁ女なんて――」
「もういい‼」
そして振り子のように動く右足で男の顎を蹴り飛ばした。
ブチィ‼
繊維と繊維を引きちぎるような異質音が部屋に響き、男の首から上が弾けてそこら中に赤黒い染みを生み出す。
修哉は広がった染みを悲しそうな目で見た後、いつの間にか自分の後方に下がっていた零に視線を向ける。
「あ、ごめん……ちょっと……」
零は壁に手をつきながら青ざめた顔色を戻そうとするが顔が引きつってぎこちない表情になる。
「悪かった……、こうなることはわかってたんだけどな……」
修哉は目を伏せて謝ると、丁度、床に倒れている女の子の遺体が目に入った。
零が頭を抱えて苦悶しているのは飛び散った赤い粉末のせいではない。それで体調を崩すようなら以前の襲撃の際に吐き出しているはずだ。
修哉が佳奈や華蓮、朱音を同行させなかった理由はここにある。アラタは同行させてもよかったのだが声をかけようとした瞬間、心のどこかでストップがかかった。
「……悪いけどやることはまだあるんだ」
体調万全とは言い難い零を片目に捉えながら修哉は上を向く。
「分かってる」
零は簡潔にそう答え、壁に預けていた体重を両足に戻し、ゆっくりと歩いて破壊されたドアから外へ出た。
一階に四室あるこのアパートの全室が同じような状況になっているとしたら……、零は想像するだけで虫唾が走り無意識のうちに奥歯を強く噛みしめていた。
「俺は二階の端から行くから修哉は一階の残りをお願いな」
「おう」
二人はそれぞれの部屋のドアを蹴破って中の状態を確認する。




