芽生える感情③
6
自室に戻った華蓮はその身を勢いよくベッドに放り投げた。
「何やってんだろ……」
華蓮は顔を枕に埋めて自身の行いを振り返る。
「最悪だな……」
自分に嫌悪感を示すのは一瞬で十分、そう言わんばかりに華蓮は跳ね起きて、洋服ダンスからジャージを取り出す。
寝室に設置されていた監視カメラは偶然を装って水をぶっかけて壊してあるので特に憚ることなく、その場で着替える。
元々着ていた赤色のジャージを脱ぎ去って、体をふいて新しく取り出した紺色のジャージを身に纏う。
「行こう……」
生あくびをしながら、華蓮は部屋を出た。
「それで何を?」
湯船に浸かって、ふにゃー、とくつろぎながら、アラタは零に聞いた。
「今の状況、どう思う?」
「そうですねぇー、とても快適です。疲労が解けていくようなこの感覚、いいですよねー」
真剣な表情を浮かべる零とは対照的に、アラタは幸せそうな顔で湯船に沈んでいく。
「今の状況じゃねえよ⁉ いや、今の状況なんだけどさ⁉」
まだ違和感を覚えられるほど感情は戻っていなかったのか、零が若干落ち込んだ時に、
「だから言ってるじゃないですか、とても快適だって。この場所から離れられないようになってしまいそうなほど」
不敵な笑みを浮かべるアラタを見た零は息が詰まる。
「それにしても、なるほど。桐谷君と城風さんもこの場所の奇妙さを感じてたんですね」
「あ、ああ、ちなみに上水流はいつから?」
「僕は三日前くらいからですね。それと……、できれば上水流と呼ぶのは止めてください。何となくですが、その名を聞くと喉奥に胃酸が逆流してくるような感覚に襲われるので」
スポーツ選手が体で覚えるのと同じように、脳に保存される記憶でなく、体に染みついている経験がある。アラタのそれは過去の遺物としての経験なのだろうか、零はそれを感じ取るが口には出さない。
「分かった。じゃあ、えっと……」
そこで言葉に詰まってしまう。
「えっと……、悪い、下の名前……、なんだっけ?」
「――――アラタです。最初にみんなで名乗ったじゃないですか」
名乗ったじゃないですか、と言われても勘弁してほしい。名乗ったのはそれこそ最初の一回。しかも状況把握もままなっていなかった時だ。
完全記憶能力を有しているわけでもない零にとってその一回で全員のフルネームを覚えろというのは中々難度が高い。
「アラタな。うん、今度はちゃんと覚えた」
頭の中でアラタというワードを反芻して定着させる。
「ところで、他の人達の名前も分からないんですか?」
「え? ああ、まあ、基本的には」
「基本的には、ですか」
湯船に顔の半分まで浸けた状態でブクブクと泡を放出させながらアラタは意味深な目線を零に送る。
「な、なんだよ……」
「ちなみに、フルネームを覚えてるのは?」
「? 城風――」
そこまで言って零はしまったと顔を歪める。
「へー、城風さんだけフルネームで言えるんですか」
「……っ」
零はわなわなと肩を震わせるだけで何も言い返せない。
「俺先に出るから!」
零はそう言うと、『あ、逃げた』という言葉を背中に受けながら、足早に逃げ去った。
風呂から上がった零はいつものように食事に向かおうとした。
本来なら華蓮を誘ってもよかったのだが、今日に至っては触れるなと言われているようでそれは出来なかった。
零は一人で食堂に向かう。今日はバイキング形式、一人でやたらと広い会場のバイキングというのは少しばかり物悲しい気持ちにならなくもないが、他に誰かを誘うのもそれはそれでめんどくさく感じた。
修哉の場合は会話をするのがめんどくさい。佳奈の場合は大人しい女子を口説いているようになるのでNG、朱音は男を避けているので論外、アラタもからかってくるだろうから無し、という消去法で選択すると誰も残らなくなってしまう。
皿を取って、肉、寿司、肉、寿司、と自分の好きなものだけを盛り付けるが、そこで遠くから自分を凝視する視線に気づいた。ただその視線は恋する乙女が送るようないじらしいものではなく、丸眼鏡をかけた五〇過ぎの給仕長が送る、圧迫感溢れるものだった。
これを無視して好きなものだけを取り続けるという選択肢がないわけではないが、それをすると明日の朝ご飯は悲惨なことになってしまうだろう。
零はその脅しに折れ、仕方なく野菜類も皿の端っこにちょこんと盛り付けた。
7
バランスよく盛り付けたにも関わらず――零の中では、だが――給仕長が姿を表し、子供の健やかな成長を促す献立が成立してしまった。
ここの施設の人間は基本的に零達の意向をすべて汲もうとして動いてくれるのだが、ここの給仕長だけは零が頬を膨らませても怯むことなく立ち向かってくる。
ピーマンを残そうとすると肉詰めにして出してくるし、にんじんを残そうとすれば野菜ジュースを出してくる。
苦手な物でも姿を変えて食べさせる。それこそ高等主婦の技術を持ってそれを成す。
バイキングの長所を打ち消すような行動だが、幸か不幸か苦手な食べ物に対する意識はどんどんと薄くなっている。
そんなこんなで腹を膨らませた零は一人自室に籠るのも暇なので遊技場に赴いた。
遊技場と言っても大層なものがあるわけではなく、会議室並みの広さのそこには最新のゲーム機器と大型モニターがあるくらいだ。
この部屋を使うのは基本的に修哉が主なので、彼の要望により、寝っ転がっても埃が付きにくい青い絨毯が敷いてある。修哉のプレイスタイルは寝っ転がってコントローラーをピコピコ動かすタイプなのだが、この部屋には三人掛けの薄緑色のソファーが向き合うようにして置かれている。
零の記憶ではこのソファーは一週間前までなかったはずだ。
だとしたらこのソファーは修哉が注文したものだ。
一週間前、修哉が明確に人間らしい思考を有するようになったのも一週間前だ。
このソファーを何の目的で注文したのか理解した零は、そこに垣間見える修哉の性格に思わず微笑する。
だが今はその彼はこの部屋にはいない。
まだ佳奈を引き連れてオーラの特訓をしているというのはあり得ないだろう。
カリキュラムは一日に約八時間。正社員が働く時間と同じだ。しかし零達はずっと動いているため肉体労働のようなものだ。さらに彼らは子供、そんな状態でさらに特訓なんてことをすれば倒れかねない。
(すれ違いで食事にでも行ったか?)
一人でゲームをしようかとも思ったが、零はゲームをした記憶がない。説明書を読んで手探りでやるという方法もあるがそこまでしてゲームをしたいとも思わない。
施設の誰かに要請して適当に漫画でも貰って部屋に戻ろうか、そう思った時、バタン、と何かが倒れたような小さな音がした。
零のいる遊技場ではない。だとすると少し離れた部屋だろうか、適当に当たりを付けた零は遊技場を出て周りの部屋を見て回った。
隣の部屋ではない。
向かいの部屋でもない。
一目見ただけで即断できる。
それらの部屋は何に使用されているわけでもない。無人の部屋なのだ。おそらくは修哉のように特別な部屋を欲しがった人用に開けてあるのだろう。
零はその隣の部屋、その隣の部屋、というふうに少しずつ部屋を見ていくが空っぽの部屋が乱造されているだけだ。
(気のせいだった?)
多少の不気味さは感じるがこれ以上調べても実があるようには思えないので引き上げようとした時、一つの部屋から明かりが飛んできた。
その部屋は他の部屋とは違い、入り口のドアがガラス張りで出来ている部屋で普段零達がオーラについての訳の分からない練習をさせられている体育館のような部屋だ。
遊技場とカリキュラムをこなすその部屋は結構離れているのだが、零は恐怖心に駆られたのか、無意識に結構遠くまで調べていたらしい。
(まさかマジで桜を引っ張って特訓してるんじゃないだろうな……)
想像できてしまうその光景に薄い笑いを浮かべながら零はガラスの中を覗き見る。
「えっ……?」
しかし、零は予想だにしなかったその光景に目を丸くしてしまう。
「どうして――⁉」




