第1話:眠れる名探偵と、天国の矛盾
島の一日は、いつもヤギのけたたましい鳴き声で始まった。
朝もやが煙る港、潮の香りが染み付いた堤防、そして申し訳程度に立っている島で唯一の信号機。それが、俺のいた世界のすべてだった。
人口はわずか数百人。最後に大きな事件が起きたのはいつかと老人に尋ねれば、「明治の頃に牛が盗まれたことかねぇ」なんて返ってくるような、時間の流れが半分止まったような島だ。
そんな島で、俺――岩田巡は、地方公務員、つまりは駐在所のお巡りさんとして生涯を過ごした。
「めぐる」という名前は、島中を自転車で巡回するようにという願いでも込められていたのだろうか。その名の通り、俺は毎日、錆びついたママチャリのペダルを漕いで島を回った。
だが、お巡りさんらしい緊迫した仕事をした記憶は、八十年の人生の中でただの一度もない。
たまに発生する「事件」といえば、居酒屋の裏手からヤギのシロが脱走したとか、近所の中学生が自転車のサドルをどこかに置き忘れて泣きついてきたとか、その程度だ。
「めぐるさん、今日も平和だねぇ。お茶でも飲んでいきなよ」
「ああ、ありがとうございます婆さん。平和が一番ですよ」
縁側で湯呑みを預かり、そんな会話を何万回と繰り返した。誰に恨まれることもなく、誰を疑うこともなく、島の人間全員に見守られながら、俺は畳の上で大往生を遂げた。八十歳だった。
(あー、いい人生だったな。次はもうちょっと都会に生まれて、テレビで見た美味いラーメンでも毎日食べ歩きたいもんだ)
それが、現世での俺の最後の記憶――になるはずだった。
「……というわけで、岩田めぐる。お前を本日付けで『天国専属の名探偵』に任命する」
「……はい?」
深い眠りから覚めると、そこは畳の上でも、病院のベッドの上でもなかった。
見上げるほどに巨大な大理石の柱が立ち並び、足元には黄金の光がさんざめく雲のような床が広がっている。まるで神話に出てくる神殿だ。
そして俺の目の前には、世界そのものを凝縮したような圧倒的な威厳を放つ老人――天国の最高権力者である『絶対神』が鎮座していた。その隣には、背中に白い羽を生やし、なぜか涙目でパチパチと頼りない拍手を送ってくる少女天使が一人。
「あの、絶対神さん。人違いじゃないですか? 俺はただの島のお巡りさんですよ。事件なんてヤギの捜索くらいしかしたことがないんですが」
「それが大問題なのだ!」
絶対神がドォンと大理石の机を叩いた。その衝撃で、隣の天使が「ひゃうっ!?」と短い悲鳴を上げて飛び上がる。神様は大きな白髭を震わせ、大真面目に頭を抱えた。
「お前は生まれる前、魂の浄化レベルが我が天国の査定で『最高ランク』だったのだ。だから天国の自動転生システムは、ルール通りにお前を現世で最も穏やかで幸せになれる『あの平和な島』へ生まれ落とした。……ここまではいい。問題はその後だ。システムはお前の前世の徳に報いるため、お前に『シャーロック・ホームズにも勝る名推理の才能』をもセットで授けておったのだ!」
「はぁ……。でも、さっきも言った通り島は平和でしたよ?」
「そうなのだ! 平和すぎる島に送ったせいで、事件が一件も起きず、お前はその天才的な才能を一度も開花させずに、ただのサドル探しで一生を終えてそのまま天国へ返却してきおった! 宝の持ち腐れにも程がある!」
絶対神はハァ、と天国が揺れるほどの深い不満のため息をついた。
「……ああ、これだから融通の利かん天国のシステムは困る。『徳の高い綺麗な魂ほど、平和で良い環境に送られる』という基本ルールのせいで、そこに授けられた『尖った才能』が絶対に発揮されずに死んで戻ってくる。まさに天国の矛盾じゃ!」
神様は隣でガタガタ震えている少女天使の頭をぐりぐりと小突いた。
「お前のような最高級の推理リソースを、タダで気楽な猫とかに転生させるわけにいかん。こちとら今、人間界の文明とエンタメのアップデートが早すぎて、天国のシステムに次々と深刻なバグが生じて大パニックなんじゃよ。神様たちの困り事が増えすぎて、毎日ブラック労働で倒れそうなのだ。こいつは天使のエル。神様選別課に所属しながら、担当案件のノルマを落とし続け、次の案件を失敗したら翼をもぎ取られてクビ(強制転生)寸前のポンコツだ」
「ひ、ひどいです絶対神様! 私はいつだって大真面目に——あわわわっ!?」
エルと呼ばれた天使は抗議しようとして自分の足に引っかかり、抱えていた大量の書類を床へ派手にぶちまけた。本当に救えないレベルのポンコツだった。
「特に今、最も致命的なバグが起きているのが『ゲームの神様』のエリアだ。現世で新しく生まれた概念に対して、天国の古いルールが追いつかずにおかしなことになっておる」
絶対神は顔をしかめ、宙に光の画面を浮かび上がらせた。そこには現世の若者たちが熱中している最新のゲーム画面が映し出されている。
「天国には『人が興味を持ったすべての概念に、それぞれ専門の神様をつけなければならない』という絶対ルールがある。昔からあるパズルゲームや落ち物ゲームなんかは、元々天国にそれらを司る神がいたおかげで、現世でもすんなり誕生して発展できた。少し前には、現世でスマホを作った『ジョブズ』と呼ばれた男の魂をそのまま『スマホの林檎神』に据えることで、スマホ文化を正常に反映させることにも成功した。だがな……」
絶対神は悔しそうに歯噛みした。
「林檎神がスマホゲームの概念を生み出したせいで、現世では凄まじい勢いでゲーム内課金が流行し、システムから『スマホの課金系ゲームの神』を選別しろと命令が下った。それだけでも人手不足なのに、ここへ来てさらに『戦争ゲーム』や『犯罪系ゲーム』という、過去の天国の歴史に一切存在しなかった異質な概念までが急激に進化し、完全に処理落ちしているのだ。天国側は急いで『プロゲーマーの神』という新たなポストを作り、現世にその言葉を反映させた。……だが、それによって致命的な矛盾が生まれた!」
絶対神の言葉を聞いているうちに、俺の頭の奥底で、変化が起き始めた。
八十年間、一度も使われることのなかった脳の未知の領域が――パチパチと火花を散らすように、猛烈な勢いで回転を始めるのが分かった。
目の前の絶対神の視線の僅かな動き、床にぶちまけられた書類のバラつき方、エルの呼吸の浅さ、そして神が口にした天国のルール。
そこから導き出される無数の情報が、完璧な論理となって脳内で一本の線に繋がっていく。
(……なるほど。そういうことか。だからあんたたちは行き詰まったんだ)
自分でも驚くほど冷徹で、クリアな思考が頭を支配していく。どうやら俺には、本当に『探偵』としての恐ろしい才能が眠っていたらしい。
俺はオロオロしているエルを横目に、絶対神の言葉を引き継いだ。
「天国が『プロゲーマー』という言葉と世界を作ったのが最近すぎるせいで、現世でそのゲームを専門にやってきた本物のプロゲーマーたちは、まだ若すぎて一人も寿命を迎えていない。つまり、天国に『プロゲーマーのスペシャリストの魂』がまだ来ていない(存在しない)んだ。そうですね?」
「……! その通りだ!」
絶対神が目を見開いて叫んだ。
「天国のルールでは『その道の最高峰のスペシャリスト』しか神にできない。だが、その世界のプロはまだ誰も死んで天国に来ていない! 戦争や犯罪の本物の経験者は、天国の慈悲ルールですぐ転生するか地獄行きだからここには残らん! ルール通りに選ぼうとしても、該当する魂がこの世のどこにもおらんのだ。だからシステムが『適任者不在』のエラーを吐き出し続け、パンクしかけている!」
頭を抱える神様。そして「えっ? え、どういうことですか!?」と完全に置いてけぼりにされているエル。
だが、俺の『名探偵の脳』にとっては、その矛盾こそが最高のヒントだった。
「何のスペシャリストが必要か、天国のシステムもあんたたちも根本から勘違いしているんだよ。天国の矛盾によって眠ったまま戻ってきた、俺のこの才能なら、そのバグの裏をかける」
「ほう……?」
絶対神の目が、鋭い光を帯びる。
「現世のプロゲーマーの寿命が尽きるのを待つ必要はない。ゲームのプロを探すからエラーになるんだ。必要なのは、別のスペシャリストだ」
俺は鋭くなった視線を天国の最高権力者へと向け、不敵に笑った。
「——分かりました。どうやら私の頭は、この天国のバグを解きたがっているようだ。さあ、天国で名探偵始めました」
「よし、その意気だ! というわけで、そのポンコツのクビがかかった最初のバグを直すため、今すぐ『ゲームの神様』のエリアへ行って選別を始めてこい!」
絶対神がパチンと指を鳴らした瞬間、俺たちの足元が目も眩むような光に包まれる。
「ひゃあああ! めぐるさん、置いていかれないように私に掴まってくださいぃぃ!」
エルの叫び声と共に、俺たちの身体は天国のシステムバグを修正するための最初の現場へと、強制転送されるのだった。
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