第17話:【ネットの誹謗中傷】と、悪意の嵐を切り裂く劇薬
メタバースの過疎化を昭和の居酒屋オヤジの「横丁マインド」で救い、第2部のバグも全て片付けたはずだった。
俺――岩田めぐるは、ラーメン屋『名探偵』のカウンターで、ようやく一息ついて、少し伸びきった極太麺を口に運んでいた。
だが、安息の時間はまたしても、信じられないほどの轟音によって破られる。
――バリバリバリィィィン!!!
今度は暖簾をくぐるどころではない。天国の最上層の空間そのものが、まるで重いハンマーで叩かれたかのように激しくひび割れた。その隙間から、これまで見たこともない、禍々しい「真っ黒な泥のようなノイズ」がドロドロと溢れ出し、店内の大理石の床を汚していく。
「め、めぐる先輩ぃぃぃーっ! た、助けて、助けてくださいぃぃ!」
エルの悲鳴が響く。飛び込んできた彼女の白い羽は、その黒い泥を浴びて、無惨にもどす黒く染まりかけていた。彼女の抱える端末は、警告音すら鳴らせないほど激しくショートし、煙を上げている。
「エル! その泥に触るな!」
俺はつけ麺の箸を投げ捨て、カウンターを飛び越えてエルの首根っこを掴み、後ろへと引きずり戻した。床に落ちた黒い泥からは、人間の「呪詛」や「悪意」が凝縮されたような、不快な耳鳴りが立ち上っている。
「なんだこれは……。これまでのバグとは、明らかに悪意の桁が違うぞ」
「これ、現世のネットの最深部から溢れ出してきた【ネットの誹謗中傷・匿名による集団リンチ】のデータなんです……! 天国のシステムは、現代人のこの巨大な負の興味を抑え込むために『ネット秩序・炎上処罰の神』のポストを作りました。……でも、それが天国最悪のバグを引き起こしちゃったんです!」
エルは黒く染まりかける自分の羽を抱えて、ガタガタと震えながら叫んだ。
「システムは『その道の最高峰』のルールに従って、現世で最も多くの開示請求やネット名誉毀損を裁いてきた『天才IT専門弁護士』の魂を神様に選んだんです。……そしたらその神様、正義感が強すぎたせいで、ルール通りに『悪口を書いたアカウントを片っ端から自動で凍結・処罰する完璧な検閲システム』を敷いちゃって!
その結果、現世の人間たちの行き場を失ったドロドロした悪意と攻撃性が、一気に天国のシステムへ逆流して、天国のメインサーバーを内側から腐らせ始めたんです! このままじゃ、天国そのものが悪意の泥に飲み込まれて地獄になっちゃいます!」
「なるほどな。正義の力で悪意を力任せに『禁止』しようとしたせいで、ガス爆発を起こしたわけだ」
俺はポリポリと頭を掻きながら、漆黒のトレンチコートの襟を立てた。脳内の名探偵の領域が、すでにこのネット社会最悪の病理を、冷徹にハッキングしている。
「エル、またしても人選の間違いだ。法律家は『ルールで人を裁くプロ』であって、人間のドロドロした悪意の扱い方を知るプロじゃない。
匿名の悪意の嵐を沈める神に必要なのは、清廉潔白な正義の法律じゃないんだ。人間の醜い嫉妬や、集団で一人を叩いて悦に浸る歪んだ心理を誰よりも熟知し、それを『正義の言葉』で殴るのではなく、もっと別の、強烈な【劇薬】でコントロールできる、**【悪意の裏をかく、毒を以て毒を制する超一流のプロ】**だ」
法律で縛る弁護士じゃない。ネットの悪意そのものを燃料に変えて、手のひらで転がしてきた本物の怪物。
そんな危険極まりない適任者の魂のあり処を、俺の探偵脳はすでに、天国の最も深い監獄エリアから導き出していた。
「法律事務所じゃない。エル、天国の『裏社会・グレーゾーン監禁エリア』の……一番奥にある、特殊な隔離室へ行くぞ」
「へ? グレーゾーン……? 天国にそんな恐ろしい場所があるんですか!?」
*
辿り着いたのは、天国の華やかな光が一切届かない、冷たいコンクリート壁に囲まれた隔離エリアだった。
その最深部にある部屋に入ると、そこにはパイプ椅子に座り、現世のSNSの炎上騒ぎをモニターで眺めながら、不敵な笑みを浮かべている眼鏡をかけた男の魂がいた。
彼の魂は、地獄に落ちるほどの悪行はしていないが、あまりにも「毒」が強すぎるため、この隔離室に置かれていた。
彼の魂の履歴書には、生前、ネットのあらゆる炎上案件の裏に潜み、数々の悪徳企業や芸能人の裏工作(炎上マーケティング)を仕掛け、時には集団心理を誘導してネットのデマを大爆発させ、また時にはそれを一瞬で鎮火させて大金を稼ぎ出した『伝説の炎上プロデューサー(ネットのフィクサー)』と書かれていた。
「失礼。ネットの黒幕さん、お仕事中すいませんね」
「おや、天国の『最高顧問』様が、僕みたいな日陰者に何の用だい? ここには面白いデマの種なんて転がってないよ?」
男は眼鏡の奥の、爬虫類のように冷徹で、しかし恐ろしく知的な目で俺たちを見た。
「いえ、デマじゃなく、あんたのその『ネットの悪意を燃料に変えるプロの技』をスカウトしに来たんですよ」
俺は彼の目の前で暴走している、ネットの誹謗中傷の黒い泥を指差した。
「プロデューサー、あんたは天国に来てからも、この悪意の逆流を見て笑っていただろ。
天国のシステムは『悪口を禁止する』という真面目なルールを作ったが、それは間違いだ。匿名の人間は、禁止されればされるほど、もっと陰湿な言葉を使って集団で叩く標的を探す。
どうすれば、その叩きたいというエネルギーを、全く別の無害なコンテンツへの熱狂に逸らせるか。どうすれば、叩いている奴らに『自分たちが踊らされている』と気付かせて、一瞬で白けさせられるか……。
ネットのドロドロした悪意を、法律ではなく『心理の罠』で完璧にコントロールできる本物のスペシャリストは、正義の弁護士じゃない。生前、その悪意の嵐の真ん中でタクトを振るっていた、あんただけだ」
「な、なんですってぇぇ!?」
エルがいつものように隔離室の鉄格子につまずき、派手な音を立てながら絶叫した。
男は一瞬、不気味に沈黙したが、やがて「ククク……、ハハハハ!」と、肩を揺らして狂おしく笑い出した。
「いや素晴らしいね、名探偵! 天国の神々ときたら、綺麗事ばかりで吐き気がしていたところさ。ネットの悪意を消そうなんてのは素人の発想だ。悪意ってのはね、消すんじゃない。もっと別の『面白いおもちゃ』を投げて、誘導して飼い慣らすものなんだよ!」
男の瞳の奥に、現世の何千万人ものネットユーザーの心理を欺き、操ってきた、伝説の黒幕としての狂気的な輝きが宿った。
俺は懐から、第2部最大の劇薬となるバッジ――『ネット秩序・悪意統括の神』のバッジを机に置いた。
「天国のシステムが、あんたのその『毒』を必要としています。法律で縛るのをやめて、あんたの心理誘導で、現世のネットの悪意をコントロールしてやってくれませんか」
男はニヤリと禍々しく笑い、バッジを指先で弄んだ。
「いいね、最高だ。正義の味方のフリをして、現世の愚民どもの悪意を手のひらで転がしてあげるよ。天国で一番クズな神様の仕事、喜んで引き受けよう」
その瞬間、バッジから漆黒と黄金が混ざり合った、妖しくも強力な光が放たれ、天国を満たしていた黒い泥のノイズを一瞬にして吸い込んでいった。
ただ禁止するだけだったネットの管理システムに、悪意のエネルギーをエンタメや別のトレンドへの熱狂へと「受け流す」天才的な誘導ルールが組み込まれたことで、天国を地獄に変えかけていた最大最悪のバグが、完全に大解決したのだ。
「め、めぐる先輩! 黒い泥が全部消えました! 私の羽も、元の綺麗な白に戻ってます!」
エルが自分の翼をパタパタと動かしながら、涙目で大喜びする。
「やれやれ、綺麗な正義だけじゃ割り切れないのが、現世のネットの闇だからな。たまには劇薬も必要なのさ。……さあエル、今度こそラーメンが完全に伸びちまう。店に戻るぞ」
「はいっ! 喜んでお供します!」
(第17話・了)




