第9話 藻の迷路と、紅い雫
清水の間は、朝から少し混んでいた。
村人が水を汲みに来る。
冒険者が第2層の入口を見に来る。
子どもが魔術師の杖を見に来る。
老人が「また若いのが増えたのう」と石段に座る。
フィンが泥を落として戻ってくる。
マイラが杖の先を拭いている。
クレスは静かに全体を見ている。
カティアは腕を組み、入口付近で邪魔になりそうな新人を目で蹴り戻している。
「そこ、立ち止まんな。水汲みの邪魔だ」
「は、はい!」
「杖を振るな。ここで魔法を試したら、あたしが先にお前を外へ投げる」
「振ってません!」
「振りたい顔をしてる」
「顔も駄目ですか!?」
「顔はだいたい次の失敗予告だ」
見習い魔術師が杖を胸に抱え直した。
リオが短槍を背中側へ回し、村人の桶に当たらないように立ち位置を変える。
サナは剣の柄に手を置かず、壁文字の前で一度深呼吸した。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
短い。
だが、冒険者が増えた今、その短さが逆に効いていた。
余計な言い訳をする余地がない。
水を汲む者の場所。
戦う者が騒ぐ場所ではない。
それだけは、全員が理解し始めていた。
オルド村長は、その様子を見ながら髭を撫でた。
「……広くなったとはいえ、いずれ手狭になりそうじゃな」
フィンが泥落としの泉から顔を上げる。
「これで広くなった後なんですか?」
「初めはもっと狭かった」
「なるほど。俺たち、いい時期に来たんですね」
「そうかもしれんな」
「じゃあ迷宮にも挨拶した方がいいですかね。広くしてくれてありがとうございまーす、って」
カティアが即座に振り向いた。
「余計なことをするな、泥鼻」
「挨拶も余計ですか!?」
「相手が返事しねえ場所で調子に乗るな。返事の代わりに床が沈むかもしれねえだろ」
「なるほど。沈黙にも種類があるんですね」
「お前はまず鼻の泥を落とせ」
「もう落ちてます!」
フィンは慌てて鼻をこすった。
マイラがじっと見る。
「少し残ってる」
「残ってるの!?」
カティアは鼻で笑った。
「そのまま目印にしとけ。迷った時に便利だ」
「俺の鼻、方角を示せるほど泥ついてます?」
「今なら北くらいは分かる」
「北!?」
黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。
「……やっぱり、ちょっと狭いな」
『ええ。村人だけなら足りたけれど、冒険者が増えると動線が詰まるわね』
「水汲み組と冒険者組がぶつかるのはまずい。第1層は生活区域だし」
『戦う者の靴と、水を運ぶ者の桶は相性が悪いわ』
「うまいな。今のは分かりやすい」
『当然でしょう』
「そこは普通に受け取るんだ」
俺は清水の間を眺めた。
水盤。
桶置き場。
石段。
第2層へ続く通路。
今のままだと、冒険者が増えた時に入口付近で詰まる。
水を汲みに来た村人が、剣や槍の間を通ることになる。
それは駄目だ。
「第1層を少し広げよう」
『大きく広げるの?』
「いや、少しだけ。水汲みの場所はそのまま。冒険者の待機場所を脇に作る。あと、第2層へ行く通路を水場から離す」
『待機場所?』
「冒険者を並べる場所。列が決まってないと、人間はすぐ詰まるんだよ」
『人間は水の流れより詰まりやすいのね』
「ほんとそれ。あと、詰まると文句も出る」
『水路より面倒ね』
「かなり面倒」
俺は床に浮かぶ青白い表示を見た。
【現在DP:113】
「今なら少しはいけるな。清水の間、部分拡張。水汲み場と冒険者待機場所を分ける。第2層への導線も少しずらす」
『壁文字は増やす?』
「増やさない。説明が多いと、逆に読まれない。形で分かるようにする」
『人間は文字を読まないものね』
「それはかなり正しい」
【第1層 清水の間を部分拡張します】
【水汲み区域を維持】
【冒険者待機用の側室を生成】
【第2層入口までの導線を調整】
【床面の排水溝を追加】
【DPを26消費しました】
【現在DP:87】
清水の間が、低く鳴った。
ごご、と石が動く。
水盤の横ではなく、反対側の壁がゆっくり奥へ下がった。
冒険者が数人並べる程度の側室ができる。
床には浅い溝が走り、泥落としの泉から出た水が清水側へ流れ込まないようになった。
派手な変化ではない。
だが、かなり実用的だ。
「よし。これで村人と冒険者が少し分かれる」
『地味ね』
「地味は強い。あと、事故が減る」
『事故が減ると、恐怖も減るわよ』
「第1層で恐怖を稼ぐ気はない。ここで混乱される方が損だ」
『……貴方、本当に入口を大事にするわね』
「入口が荒れる場所は長続きしないからな」
『迷宮なのに?』
「生活インフラ迷宮だからな」
『まだその言い方、慣れないわ』
「慣れてくれ。うちの看板みたいなものだ」
『看板なら高貴さが欲しいわね』
「高貴なる生活インフラ迷宮?」
『やめて。余計に安っぽいわ』
「難しいなあ」
外側では、突然動いた壁に新人たちが飛び上がっていた。
「うわっ!」
「壁が動いた!」
「広がった……?」
リオが短槍を構えかける。
その腕を、カティアが後ろから掴んだ。
「構えるな。まだ攻撃じゃねえ」
「す、すみません!」
「反応は悪くない。だが、ここは第1層だ。怖いからって槍を向けるな」
リオは慌てて槍を下げた。
サナは新しくできた側室を見た。
「冒険者用の待機場所……でしょうか」
クレスは床の溝と通路の向きを確認し、静かに頷いた。
「おそらくな。水汲みの導線と、第2層へ向かう導線を分けた」
「迷宮が、わざわざ?」
「そう見える」
見習い魔術師が小声で言った。
「親切……なんですか?」
カティアが鼻で笑う。
「親切って顔で見るな。使わせたい場所と、汚されたくない場所を分けただけだろ」
「それは親切では?」
「管理だよ、管理。いいか、こういう場所は甘く見るな。優しく見える仕組みほど、破った時が怖い」
フィンが少し離れたところで腕を組んだ。
「カティアさん、言い方は怖いけど分かりやすいんだよなあ」
「聞こえてんぞ、泥鼻二号」
「二号になった!? 一号は誰ですか!?」
「昨日のお前」
「昨日の俺と今日の俺が別枠!」
マイラが小さく笑った。
村人たちは、広くなった清水の間を恐る恐る見回していた。
水場はそのまま。
でも、人の流れは少し良くなった。
誰かがぽつりと言った。
「……これなら、桶を持っていても通りやすいな」
その言葉が、清水の間に小さく広がった。
不安。
驚き。
少しの安堵。
そして、もっと使いやすくなるかもしれないという期待。
黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。
【第1層 生活区域拡張への認識を確認】
【安堵、利便欲、規律認識を獲得】
【新規冒険者の警戒、好奇心を獲得】
【獲得DP:24】
【現在DP:111】
「お、少し戻った」
『利便欲。面白い流れね』
「便利になると、人間はもっと便利を求めるからな」
『欲に底がないわね』
「ない。だから流れができる」
『人間は面倒だけれど、迷宮の糧としては悪くないわ』
「迷宮核らしい感想」
『迷宮核だもの』
俺は新しく広がった清水の間を見た。
広くなったとはいえ、まだ小さい。
でも、村人と冒険者の距離を分けられたのは大きい。
第1層は生活。
第2層は訓練。
次は、第3層。
報酬のある階層だ。
その日、クレスとカティアは新人二組を第2層の入口で止めた。
奥へは進ませない。
今日は観察と足場の確認だけ。
カティアは、リオの短槍の持ち方を見て舌打ちした。
「長物を前に出しすぎだ。滑った時、自分の槍で仲間を突くぞ」
「はい!」
「返事はいい。足元を見ろ」
サナには、剣の柄に手を置くタイミングを注意した。
「すぐ抜くな。抜いた後に踏ん張れる足場か見ろ。剣を抜いてから転んだら、ただの刃物持った泥団子だ」
「泥団子……」
「嫌なら転ぶな」
見習い魔術師には、何もさせなかった。
ただ、立ち位置だけを何度も変えさせた。
「後ろにいろ。だが、後ろすぎるな」
「ど、どのくらいですか?」
「前衛が転んだ時、巻き込まれず、見捨てずに済む距離だ」
「難しいです」
「だから練習するんだよ」
治癒術師見習いには、マイラが少しだけ話していた。
「泥が落ちてから傷を見る。泥がついたまま魔法を使うと、見落とす」
「はい」
「魔力は使えるから使うんじゃなくて、使う必要がある時に使う」
「マイラさんは、昨日使ったんですよね」
「うん。だから今日は使わない練習をしてる」
フィンが横から口を挟む。
「俺は泥と仲良くしない練習をしてる」
カティアが即座に言った。
「お前はまず泥に挨拶するのをやめろ」
「してません!」
「顔がしてる」
「顔って便利に罪を着せられますね!?」
新人たちは少し笑った。
だが、笑いながらも足元を見ている。
滑る石。
浅瀬。
苔鼠の穴。
泥スライムの気配。
ぬかるみ回廊は、今日も派手な成果を出さなかった。
その代わり、冒険者たちの姿勢を少しずつ変えていた。
黒い水膜の内側で、青白い表示が浮かぶ。
【第2層 複数パーティによる入口訓練を確認】
【警戒、緊張、挑戦欲、指導欲、魔力抑制を獲得】
【新規冒険者の第3層期待を予兆として獲得】
【村人の注目、商売欲、利便欲を獲得】
【獲得DP:168】
【第2層 泥スライム再配置、苔鼠小巣維持にDPを3消費】
【現在DP:276】
「増え方が変わったな」
『人数が増えた分、薄い感情が束になっているわ』
「指導欲って出てる」
『カティアやクレスから流れたのでしょう。人間を死なせたくない、けれど甘やかしたくもない。そういう面倒な欲ね』
「面倒見のいい人間ほど、本人は面倒見を認めないんだよな」
『あの斥侯のこと?』
「そう」
『死体拾いが面倒、と言っていたわ』
「それ、だいたい面倒見いい人の言い訳だぞ」
『人間の言い訳は複雑ね』
「素直じゃないってだけ」
『貴方もよく似たものでは?』
「俺は素直だろ」
『魔法を見たいのに、見たいと言いすぎると怒られそうだから我慢している顔をしているわ』
「それは素直とは別問題!」
『そうかしら』
「そうです」
俺は咳払いした。
この話題は危ない。
魔法を見たい欲が、迷宮の方向性を歪める可能性がある。
それは、さすがにまずい。
俺は魔術師の杖ではなく、DP表示に目を戻した。
「第3層、いけるな」
『ええ。今なら生成できる』
「……いや、いけるけど、これほぼ全部持っていかれるやつだよな?」
『報酬のある階層よ。第1層の側室や、第2層の訓練区域とは違うわ』
「第2層を作った時が104DPだったよな」
『ええ』
「今回は、迷路、水路、藻、魔物、宝箱、報酬、声の遮断まで入る。倍以上かかって当然か」
『安く済ませれば、安い迷宮になるわ』
「その言い方、めちゃくちゃ刺さるな」
『貴方が作ろうとしているのは、初めての報酬階層よ。欲を置くなら、それに見合う器が必要になる』
俺は表示を見つめた。
現在DP276。
多い。
少し前なら、大金に見えた。
だが、第3層を作れば一気に消える。
ここで温存する選択肢もある。
第1層をもっと広げる。
第2層を安定させる。
泥スライムを増やす。
できることはある。
ただ、それだけでは迷宮が伸びない。
水と訓練だけでは、冒険者はいつか慣れる。
慣れたら、飽きる。
飽きたら、来なくなる。
来なくなれば、ヴェルティアが弱る。
そして俺も危ない。
「……分かった。使う」
『迷わないの?』
「迷ってる。めちゃくちゃ迷ってる」
『なら、やめる?』
「やめない。報酬のある階層を作らないと、この迷宮は次に進めない」
『怖い?』
「怖い。残DPが少なくなるのは普通に怖い」
『なら、なぜ笑っているの?』
「新しい階層を作るの、ちょっと楽しいから」
『欲張りね』
「人間だからな」
ヴェルティアの赤い瞳が、少し楽しげに細まった。
『いいわ。迷って、それでも選ぶなら迷宮主らしいわ』
「雑に背中を押すなあ」
『押していないわ。落とし穴の縁まで案内しているだけよ』
「それ押す前提の案内じゃない?」
『落ちるかどうかは貴方次第よ』
「怖い相棒だな」
『高貴なる相棒よ』
「そこは変わらないんだな」
第1層は守る場所。
第2層は鍛える場所。
だが、それだけでは冒険者は飽きる。
何度か訓練すれば、次を求める。
危険を越えた先に、欲しくなるものが必要だ。
水でも泥でもない。
報酬。
迷宮らしい、奥へ進む理由。
「第3層は、報酬を置く」
『金貨?』
「早い」
『魔剣?』
「もっと早い」
『呪われた王冠?』
「なぜ呪わせた」
『迷宮の報酬らしいでしょう?』
「最初の報酬で王権争いを始めるな」
『では、何にするの?』
「美容」
ヴェルティアは、少しだけ目を細めた。
『びよう』
「そう。美容」
『人間は、戦ってまでそれを欲しがるの?』
「欲しがる」
『命に関わらないのに?』
「命に関わらないからこそ、欲が生々しくなることもある」
『分からないわね』
「例えばだ。傷を治す薬なら、怪我人が欲しがる。病気を治す薬なら、病人が欲しがる。でも、美容は違う。健康でも欲しい。元気でも欲しい。若くても年を取っていても欲しい。冒険者でも商人でも村人でも、欲しがる人間がいる」
『広く刺さる報酬、ということね』
「そう。ただし、やりすぎない」
『若返りは?』
「駄目。最初にそれを出したら、たぶん国が動く」
『美貌を作る薬は?』
「それも駄目。顔立ちを変えるとか、権力者が絶対に面倒な使い方をする」
『病や傷跡を消す薬は?』
「駄目。治療と美容を混ぜると、期待が膨らみすぎる」
『制限ばかりね』
「制限があるから、扱えるんだよ」
俺は清水の間にいる村人たちを見た。
水汲みで手が荒れている女。
看病続きで顔色の悪い母親。
畑仕事で頬が乾いた老人。
冒険者の中にも、寝不足で目元が暗い者がいる。
大きな病ではない。
命に関わる傷でもない。
だが、人はそういう小さな不調を嫌う。
そして、戻せるなら戻したいと思う。
「顔色が少し良くなる。くすみが抜ける。疲れた印象が少し戻る」
『それだけ?』
「それだけ。でも、その“それだけ”が欲しくなる」
『人間は不思議ね』
「本来の調子に戻る感じだな。美人になる薬じゃない。若返りでもない。治療でもない。だけど、鏡を見た時に、あれ、ちょっと顔色いいかも、ってなる」
『鏡を見る欲まで拾うのね』
「そこは強いぞ」
『貴方の前世、時々妙な方向に詳しいわね』
「広告と売り場は、人間の欲望図鑑だからな」
『欲望図鑑』
「怖いだろ」
『少し興味があるわ』
「ヴェルティアが前世の売り場に行ったら、一日中帰ってこなさそう」
『売り場?』
「小さな欲の宝物庫」
『それは迷宮では?』
「ある意味、現代の迷宮だな」
ヴェルティアは少し真剣な顔になった。
『では、その美容の報酬。どの程度にするの?』
「階層突破者1人につき小瓶一つ。薄い赤の雫。飲むと、頬や唇に自然な赤みが戻る。軽い肌荒れ、手荒れ、乾燥、寝不足の顔色に少し効く」
『持続は?』
「当日から分かる。翌朝が一番分かりやすい。七日くらい実感があって、十日ほどで薄れる」
『保存は?』
「取得から二十日。そこを過ぎたら、ただの薄い赤い水になる」
『人間に期限を知らせるの?』
「瓶底に残り日数を仕込む。水紋数字だな」
『水紋数字?』
「水面に小石を落とした時の波紋みたいに、数字がゆらっと浮かぶやつ。普通の刻印じゃなくて、水の模様で数字になる」
『それを常に見せるの?』
「いや。魔力を流した時だけ浮かぶ。魔力を吸われる違和感があって、瓶底に数字が出る」
『人間にすぐ意味が分かるかしら』
「最初は分からなくていい。あとで気づく方が噂になる」
『性格が悪いわね』
「迷宮主だからな」
『便利な肩書きね』
「便利にしていく」
ヴェルティアは、わずかに笑った。
『名前は?』
「紅肌の雫」
『あかはだ?』
「こうはだ、かな。赤い肌じゃなくて、血色が戻る感じ」
『紅肌の雫』
ヴェルティアがその名を口にした瞬間、水盤の表面に淡い赤が一筋だけ混ざった。
すぐに消える。
でも、確かに形が決まった気がした。
「よし。報酬はそれでいこう」
『では、階層は?』
「美容の報酬だからって、綺麗すぎる階層にはしない」
『なぜ?』
「報酬だけ綺麗だから欲しくなる。道中まで綺麗だと、ただの観光地になる」
『観光地』
「危険のない迷宮は、欲を濃くしない」
『いいわ。少し迷宮主らしいことを言うようになったじゃない』
「今のは素直に褒めた?」
『少しだけね』
「少しでも十分」
俺は第2層の奥を見た。
泥。
浅瀬。
滑る石。
足元を鍛える階層。
第3層は、そこから一段変える。
足元だけではない。
方向感覚。
時間。
焦り。
迷うこと。
「第3層は、藻の迷路にする」
『藻?』
「水路と藻。ぬめる石床。緑に沈んだ通路。視界を遮る藻の壁。水音が反響して、方向が分かりにくい」
『第2層より迷宮らしいわね』
「慣れた冒険者なら、三時間くらいで最奥まで行ける広さ。新人だけなら危ない。引率ありなら初見調査ができるくらい」
『魔物は?』
「水スライムを少量」
『少量でいいの?』
「主役は迷路だ。水スライムは焦らせる役でいい。進路を塞ぐ。時間を削る。無視すると足を取る。そのくらい」
『第3層からは報酬がある。なら、危険も増やすべきでは?』
「増やす。ただ、いきなり殺意を上げすぎない。ここは“報酬に釣られて奥へ行く”初めての階層だ。危険はある。でも、戻る余地も残す」
『甘いわね』
「甘いだけじゃない。第3層からは、入口の声が届かない」
ヴェルティアの赤い瞳が細くなった。
『……なるほど』
「第2層までは、クレスやカティアが入口から声をかけられる。戻る練習だからな。でも第3層からは違う。外からの指示が届いたら、いつまでも誰かの判断を待つ」
『自分たちで迷い、自分たちで戻り、自分たちで進む』
「そう。そこからが本格的な迷宮だ」
『いいわ』
ヴェルティアは黒いドレスの裾を揺らし、静かにうなずいた。
『第3層以降、入口からの声は届かない。音も、魔力の呼びかけも、浅く歪ませる。外から助言はできない』
「できるのか?」
『できるわ。迷宮だもの』
「おお、便利」
『ただし、中から完全に助けを呼べなくするわけではないわ。悲鳴や強い魔力反応は、迷宮には届く』
「俺たちには分かるってことか」
『ええ。だが、外の人間には届かない』
「……その仕様、外の冒険者はまだ知らないよな」
『知らないでしょうね』
「次に入る時、入口で気づくかもしれない。呼んでも返事が薄いとか、声が変に沈むとか」
『それでいいの?』
「いい。第3層からは、本格迷宮だって体で知ってもらう。説明しすぎると、第1層みたいになる」
『線引きね』
「うん。第1層は分かりやすく守る場所。第2層は戻る練習。第3層は、自分たちで判断する場所」
少しだけ、胸の奥が重くなった。
第3層からは、今までより危ない。
報酬を置く。
欲を置く。
だから、踏み込む側にも責任を置く。
日本人としての俺は、やっぱり一瞬だけためらう。
でも。
「まあ、そこは割り切るか」
『軽いわね』
「軽く言わないと重くなるんだよ。俺も死にたくないし、ヴェルティアも砕けさせたくない。迷宮を大きくするなら、ここから先は線を引かないとな」
『そうよ。優しいだけの迷宮は、食い荒らされるわ』
「だな。第1層は守る。第2層は鍛える。第3層は、欲を試す」
『藻の迷路、紅肌の雫』
「うん。いこう」
床に、青白い表示が広がった。
【第3層 藻の迷路を生成します】
【水路を生成】
【ぬめる石床を生成】
【藻の壁を生成】
【反響する水音を設定】
【方向感覚阻害を弱度で設定】
【水スライムを少量配置】
【最奥小部屋を生成】
【宝箱を生成】
【踏破報酬:紅肌の雫を設定】
【紅肌の雫 小瓶生成規格を登録】
【紅肌の雫 有効期限二十日を設定】
【水紋数字表示を設定】
【第3層以降、入口からの声を遮断】
【DPを250消費しました】
【現在DP:26】
地面の奥で、水が動いた。
清水の間ではない。
第2層のさらに奥。
泥と浅瀬の向こうで、新しい水脈が開く。
重たい石が沈み、細い通路が伸び、緑の藻が水中からふわりと広がる。
水音が増えた。
ぽたり、ではない。
さらさら。
ちゃぷ。
こぽり。
どこから聞こえるのか分からない水音。
ぬめる石床に、藻の影が揺れる。
透き通ったような水スライムが、藻の下で小さく震えた。
最奥には、小さな部屋。
その中心に、宝箱。
中には、小瓶。
薄い赤の雫。
紅肌の雫。
まだ、誰も知らない報酬。
誰も知らない欲の種。
「……残り、26」
俺は思わず数字を二度見した。
第1層を広げた時とは違う。
第2層を作った時とも違う。
今回は、迷宮の腹を裂いて奥へ道を通したような感覚があった。
「やったなあ……」
『ええ。やったわね』
「これ、失敗したら普通に詰むな」
『失敗しないように、人間を呼び込むのでしょう?』
「言い方は怖いけど、その通りだな。ここから回収しないとまずい」
『迷宮主らしい顔になっているわ』
「たぶん今、胃が迷宮より深い」
『胃?』
「心のぬかるみみたいなもの」
『妙な内臓ね』
「人間の胃はだいたい迷宮だよ」
『なら、貴方の胃もそのうち階層化するのかしら』
「やめろ。胃に第3層とか作りたくない」
俺は新しく開いた奥を見た。
第3層。
藻の迷路。
ここから先は、入口の声が届かない。
訓練ではない。
報酬のある迷宮だ。
外側でも、その変化はすぐに分かった。
第2層の奥から、水音が変わった。
泥の匂いに、青く湿った藻の匂いが混ざる。
カティアが最初に顔を上げた。
「……奥が変わった」
クレスも剣の柄に軽く手を置く。
「新しい階層か」
リオが目を見開いた。
「今、ですか?」
サナがぬかるみ回廊の奥を見つめる。
「水の音が増えた……」
見習い魔術師が、杖を握りしめた。
「魔力も、少し変わりました」
マイラが小さくうなずく。
「水と……植物? 藻のような気配がします」
フィンは真顔で言った。
「泥の次は藻ですか。俺の靴、そろそろ泣きそうです」
カティアが振り返る。
「靴より先にお前の足が泣くぞ」
「足には頑張ってもらいます」
「なら今日は行くな」
「はい?」
「確認と、踏み込むのは別だ。匂い、音、魔力の変化を見るのは確認。奥へ足を入れるのは別物だ」
カティアはぬかるみ回廊の奥を睨んだまま続けた。
「新しい階層が開いた直後だ。調子に乗る馬鹿は、だいたい最初の記念品になる」
フィンは口を閉じた。
クレスも頷く。
「今日は入らない。まず入口まで確認するだけだ」
「でも、見ないんですか?」
リオが言った。
カティアが即座に睨む。
「“ちょっと見に行く”が一番死に近い言葉だ。入口で止まる確認と、奥へ入る欲張りを一緒にするな。覚えとけ」
「はい!」
サナは、ぬかるみ回廊の奥をじっと見ていた。
「でも、報酬があるかもしれない」
その一言に、何人かの冒険者の目が動いた。
報酬。
その言葉は、火よりも早く冒険者の心に移る。
クレスは静かに言った。
「だからこそ、今日は入らない」
カティアも続ける。
「欲しがるのは明日でもできる。死ぬのは今日でもできる。どっちを選ぶか、考えろ」
新人たちは黙った。
村人たちは、奥の水音を不安そうに聞いている。
オルド村長は、清水の間の壁文字を見たあと、第2層の奥を見た。
「また、迷宮が深くなったか」
誰も答えなかった。
水音だけが、奥から響く。
さらさら。
ちゃぷ。
こぽり。
清水の迷宮は、初めて“報酬のある階層”を開いた。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第1層は少し広がり、村人と冒険者が使いやすい形になりました。
そして第3層「藻の迷路」が生成されました。
第1層は守る場所。
第2層は鍛える場所。
第3層からは、報酬のある本格的な迷宮です。
次話では、クレスたちが藻の迷路へ挑みます。
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