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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第10話 赤い小瓶と藻の奥



 翌朝。


 清水の間には、昨日より少し硬い空気が流れていた。


 水音は変わらない。


 ぽたり。


 ぽたり。


 村人たちは、いつも通り水を汲みに来ている。


 だが、視線は時々、第2層の奥へ向いた。


 ぬかるみ回廊のさらに奥。


 昨日、新しく開いた第3層。


 藻の匂いが、薄く漂っている。


 冒険者たちも静かだった。


 リオは短槍を握っている。


 サナは剣の柄から手を離したまま、奥を見ている。


 見習い魔術師は杖を抱きしめ、治癒術師見習いは小さな鞄の紐を何度も確かめている。


 行きたい。


 見たい。


 でも怖い。


 そういう感情が、清水の間にじわじわ溜まっていた。


 カティアがその空気を一刀両断した。


「新人は第3層に入れねえ」


「えっ」


 リオが声を漏らした。


 カティアは即座に睨む。


「えっ、じゃねえ。開いたばかりの階層に新人だけで突っ込ませるほど、あたしは暇じゃない」


「暇の問題なんですか」


「死体拾いは手間だ」


 サナが真面目な顔で聞いた。


「では、誰が入るんですか?」


「クレス、あたし、フィン、マイラ」


 フィンが自分を指差した。


「俺もですか?」


「お前は第2層で泥に顔を売ったからな。藻にも顔を出しとけ」


「俺、迷宮内で顔が広くなってるんですか?」


「鼻だけな」


「鼻だけ!」


 マイラが少し心配そうに第3層の方を見た。


「私たちは補助、ですよね」


 クレスがうなずく。


「ああ。主判断は俺とカティアがする。君たちは無理に前へ出なくていい。足場、魔力、負傷、撤退経路を見る」


「分かりました」


 リオが一歩前に出かけた。


「俺たちは?」


「第1層と第2層入口で待機」


 クレスが答えた。


「入れない理由を見て学べ。入りたい気持ちだけで入る者は、奥で判断を誤る」


 リオは唇を引き結んだ。


 サナが代わりに頭を下げる。


「分かりました。待機します」


「いい返事だ」


 カティアが鼻を鳴らす。


「待機も仕事だ。退屈だからって勝手に奥へ来た奴は、帰りにあたしが泥へ埋める」


「帰りがある前提なんですね」


 フィンが言うと、カティアはにやりと笑った。


「そこは努力しろ、泥鼻」


「今日も泥鼻なんですね」


「藻鼻になりたきゃ第3層で頑張れ」


「なりたくはないです!」






 黒い水膜の内側で、俺はそのやり取りを見ていた。


「カティア、口は悪いけど判断が早いな」


『新人を入れないのは正しいわね』


「俺としても、いきなり全員で入られるより助かる。第3層、まだ開いたばかりだし」


『初めて踏み込む者の反応は濃いわ』


「それを冷静に拾いたいところだな。残DP26だし」


 俺は表示をちらりと見た。


【現在DP:26】


 うん。


 何度見ても心細い。


 昨日までの「よし、作れた!」という高揚感が、今朝になって「これ回収できなかったらどうしよう」という現実味に変わっていた。


 投資直後の胃の底冷えである。


『顔が険しいわよ』


「そりゃ険しくもなる。第3層、250DPだぞ。前世なら家電買う時くらい悩むやつだ」


『かでん?』


「便利な道具。買ったあとに口座を見て真顔になる」


『つまり今の貴方ね』


「そう。迷宮主、初の大出費で真顔」


『なら、見届けなさい。人間が欲に向かって歩くところを』


「だな」


 俺は第3層の入口を見た。


 ぬかるみ回廊の奥。


 水音が揺れている。


 昨日までなかった、青く湿った気配。


 藻の迷路。


 初めての報酬階層。


 ここから先は、入口の声が届かない。


「さて。初回調査、どうなるか……!」


 胸が少しざわついた。


 怖い。


 でも、楽しみでもある。


 自分で作った迷宮の奥へ、初めて人間が踏み込む。


 これ、作った側なのに緊張するな……!






 クレスたちは第2層を抜け、第3層の入口前に立った。


 ぬかるみ回廊の泥とは違う匂いがした。


 水。


 石。


 青臭い藻。


 そして、閉じた場所の湿気。


 カティアがしゃがみ、通路の入口を見た。


 石床は濡れている。


 泥ではない。


 だが、ぬめりがある。


 壁には緑の藻が垂れ、奥の視界を細く切っていた。


「嫌な湿り方してんな」


 フィンが自分の靴を見た。


「俺の靴が震えてます」


「足が震えてんだよ」


「なるほど、靴に罪を着せるの失敗」


 クレスは入口の外側にいるリオたちを振り返った。


「ここから先は、俺たちだけで入る。入口から勝手に入るな」


「はい!」


 リオたちが返事をする。


 その声は、はっきり届いた。


 クレスは一歩、第3層の入口を越えた。


 カティアが続く。


 フィンとマイラも入る。


 その瞬間、空気が少し変わった。


 背後の声が遠くなった。


 まるで水の中に布を一枚垂らされたように、清水の間側のざわめきが鈍る。


 フィンが振り返った。


「リオー! 聞こえるかー?」


 声は出た。


 しかし、入口の向こうでぼやけた。


 返事はある。


 だが、何を言っているか分からない。


 水音に混ざって、形を失う。


「……聞こえにくいですね」


 マイラが小さく言った。


 カティアは舌打ちした。


「なるほどな。ここからは入口の声を当てにすんなってことか」


 クレスも静かにうなずく。


「第2層までとは違う」


「いいか、泥鼻」


「はい」


「後ろから誰かが叫んでくれると思うな。ここでは自分の目と耳を使え」


「了解です」


 フィンの声から、いつもの軽さが少し消えた。


 マイラも杖を握り直す。


 クレスは通路の奥を見た。


「進む。無理はしない。地図は作れないが、印は残す」


「印なら任せろ」


 カティアは腰の小袋から細い白石を取り出した。


 濡れた石壁に、短い線を引く。


 藻に覆われていない場所を選び、分岐の手前に小さな傷をつけた。


「藻に隠れにくい高さに刻む。床の印は流れる。壁の低い位置は藻に食われる。目線より少し下だ」


 フィンが感心したように言った。


「斥侯って、こういうことするんですね」


「こういうことをしない斥侯は、迷子の上手い人間だ」


「迷子の上手い人間」


「褒め言葉じゃねえぞ」


「分かってます!」


 カティアは鼻を鳴らした。


「分かってねえ顔だな」


「顔への判定が厳しい!」






 黒い水膜の内側で、俺は思わず唸った。


「……入口の声、ちゃんとぼやけてるな」


『ええ。仕様通りよ』


「外の声が完全に消えるわけじゃない。でも頼れない。いい塩梅だ」


『外に頼ろうとするほど、音は水に溶けるようにしたわ』


「怖いけど、うまいな」


『褒めた?』


「評価した」


『それは私の言い方では?』


「たまには借りる」


 俺はカティアの印を見た。


 壁。


 高さ。


 藻のかかり方。


 床の水の流れ。


 彼女は全部見ている。


「やっぱり斥侯は厄介だな」


『ええ。あれは迷宮の癖を読む』


「しかも、口で新人にも伝えてる。死体拾いが面倒とか言いながら、めちゃくちゃ面倒見てる」


『本人に言えば怒るでしょうね』


「絶対怒るな」


『だから言えないわね』


「そもそも言えないけどな。無口営業だから」


『その言い方、まだ続けるの?』


「今日は続ける」






 第3層は、派手な階層ではなかった。


 炎もない。


 巨大な魔物もいない。


 宝石が光る広間もない。


 あるのは、水路と藻と、濡れた石床。


 だが、進むほどに嫌らしさが分かってきた。


 通路は細く曲がる。


 藻の壁が視界を遮る。


 足元の石は、踏める場所と滑る場所が似ている。


 水音が反響し、どちらから流れているのか分かりにくい。


 右から聞こえたと思った水音が、次の角では左から聞こえる。


 真っ直ぐ進んだつもりが、いつの間にか斜めに戻される。


 カティアは足を止めた。


「止まれ」


 全員が止まる。


 フィンは片足を上げかけたまま固まった。


「この体勢で止まるの、なかなかきついです」


「なら、足を下ろす前に見ろ」


「はい」


 フィンはゆっくり足元を見る。


 踏もうとしていた石の表面に、薄い透明な膜が張っていた。


 藻ではない。


 水スライムだった。


 石と同じ色に見えるほど薄く広がり、踏まれるのを待つように動かない。


 フィンの顔が引きつった。


「……これ、踏んだら?」


「足を取られるな。倒れたところを藻に突っ込む」


 カティアが短く言う。


 フィンはそっと足を戻した。


「俺の鼻が藻鼻になるところでした」


「惜しかったな」


「惜しくないです」


 クレスが剣を抜く。


 だが、大きく振らない。


 石の端を軽く叩くように、薄い水スライムを剥がす。


 水スライムはぷるりと震え、細い水路へ逃げた。


「倒す必要はないな」


 クレスが言った。


「道を塞ぐ程度か」


 カティアは水路を見た。


「放っておくと、また別の石に広がる。時間を削る魔物だな」


 マイラが小さく言う。


「焦らせるため……」


「そうだろうな」


 カティアは舌打ちした。


「性格が悪い階層だ」


 フィンがぽつりと言った。


「迷宮に性格ってあるんですかね」


 カティアは即答した。


「ある。これは絶対にある」


 クレスも薄く笑った。


「同感だ」


 フィンは青い顔で奥を見た。


「迷宮さん、聞こえてたら少しだけ優しくしてください」


 返事はない。


 ただ、どこかで水音がこぽりと鳴った。


 フィンは真顔になった。


「今の返事じゃないですよね?」


「進むぞ」


 クレスが言った。


「話しかけて返事を待つな」


「はい!」






 黒い水膜の内側で、俺は水スライムの動きを見ていた。


「うまく効いてるな」


『強くはない。でも嫌でしょう?』


「うん。踏みたくないし、無視もできない。いい嫌さだ」


『いい嫌さ』


「褒め言葉だぞ」


『そう受け取っておくわ』


 表示がうっすら浮かぶ。


【第3層 初回進入を確認】


【入口音声遮断への警戒を獲得】


【水スライムによる足止めを確認】


【警戒、焦り、観察欲を獲得】


【現在DP:39】


「少し増えた!」


 思わず声が跳ねた。


 たったそれだけでも、今はありがたい。


 残DP26の数字は、想像以上に俺の心臓に悪かった。


『まだ薄いわね』


「初回進入だけだしな。踏破して、報酬を見てからが本番だ」


『投資回収の顔をしているわ』


「そりゃする! 俺の中の経理が、さっきから算盤を握りしめて震えてる!」


『けいり』


「数字を見て胃を痛める職業」


『人間は不思議な役割を作るのね』


「作りたくて作ってるわけじゃないと思うぞ」






 迷路の中盤で、四人は同じ場所に戻った。


 カティアの白石の印が、壁にあった。


 フィンがそれを見て、肩を落とす。


「戻ってますね」


「戻ってるな」


 カティアは不機嫌そうに言った。


 だが、焦ってはいない。


 マイラが周囲を見た。


「でも、さっきと水の流れが違う気がします」


「いい目だ」


 カティアが短く言う。


「通路は同じでも、水の流れが少し変わってる。藻が動いて、見える道を変えてるんだろ」


 フィンが藻の壁を見る。


 確かに、さっきより少し垂れ方が違う。


 水路を塞ぐ藻。


 開いたように見える隙間。


 行けそうに見えて、実は元の場所へ戻される道。


「藻に案内されてたってことですか」


「そうだ。藻に道案内を頼むな」


「頼んだ覚えはないんですけどね」


「見た目に頼った時点で頼んでんだよ」


「深い……」


「泥よりは浅い」


「それ、俺にだけ刺さる言い方では?」


 クレスは周囲の音を聞いていた。


 水音。


 反響。


 遠い泡の音。


 剣士としての耳で、一定の音を拾おうとしている。


「水音は罠だな」


「罠というより、目隠しだ」


 カティアが言った。


「音を追うと曲がる。流れじゃなく、藻の根元を見ろ。水が当たってる場所は、少しだけ藻が薄い」


 マイラが頷く。


「藻が薄い方が、本来の水路に近い?」


「たぶんな」


 カティアは自分の印の横に、今度は二本線を刻んだ。


「一度戻った場所には印を変える。次に見たら、同じ道を選ぶな」


 フィンが真剣に頷く。


「分かりました」


「返事だけなら犬でもできる」


「犬、優秀ですもんね」


「お前はまず犬に勝て」


「目標が急に犬!」


 クレスが少し笑った。


「進むぞ。時間を使いすぎると、帰りが難しくなる」


 その言葉で、空気が引き締まった。


 ここは訓練場ではない。


 戻る道も、いつまでも同じとは限らない。


 四人は改めて歩き出した。






 黒い水膜の内側で、ヴェルティアが赤い瞳を細めた。


『思ったより早く読み始めたわね』


「カティアがいるからな。あの人、藻の動きまで見てる」


『斥侯は厄介』


「何回でも言いたくなるな、それ」


『でも、良いわ。読み解かれる迷宮は、さらに深くできる』


「負けず嫌いだなあ」


『迷宮核だもの』


「その返し便利すぎる」


 俺は迷路の水音を聞いた。


 自分で作った階層なのに、外から見ていると不思議な感じがする。


 人間が迷う。


 人間が考える。


 人間が進む。


 そのたびに、階層が意味を持つ。


 ただ生成しただけの構造が、冒険者に踏まれて迷宮になっていく。


「……いいな」


『何が?』


「作った場所が使われてる感じ」


『貴方、時々変なところで嬉しそうね』


「水場が使われた時もそうだったけどさ。場所って、使われて初めて完成するんだよ」


『迷宮も?』


「たぶん。人が来て、迷って、怖がって、欲しがって、やっと迷宮になる」


『なら、もっと来てもらわないとね』


「うん。残DPのためにも」


『急に現実的ね』


「そこは切実!」






 さらに進んだ先で、通路が広がった。


 小さな水場がある。


 藻の壁が途切れ、石造りの低い扉が見えた。


 扉というより、石の枠だ。


 その奥に、小さな部屋。


 カティアが手を上げる。


「止まれ」


 全員が止まる。


 クレスが低く聞く。


「罠か」


「分からねえ。分からねえから止まる」


 カティアは床を見た。


 ぬめり。


 水の流れ。


 藻の切れ方。


 壁の水滴。


 それから、部屋の中央を見た。


 宝箱があった。


 小さい。


 派手な装飾はない。


 水に濡れた木箱のように見える。


 だが、腐っていない。


 そこだけが、妙に新しい。


 フィンが小声で言った。


「宝箱……ですよね?」


「たぶんな」


 カティアは目を細める。


「近づくな。まず周りを見ろ」


 リオたちがいれば、間違いなく前のめりになっていただろう。


 だが、ここにいる四人は動かなかった。


 クレスは部屋の入口を確認し、剣先で床を軽く叩く。


 マイラは魔力の流れを見るように、杖を胸元で握った。


「強い魔力はありません。でも、箱の中に小さな反応があります」


「魔物は?」


「箱そのものからは感じません」


 カティアは水路の端に小石を投げた。


 水スライムは動かない。


 藻も動かない。


「……よし。クレス、横に立て。フィンは入口を見ろ。マイラは箱じゃなく床を見ろ」


「箱じゃなく床?」


「宝箱を見たやつは、足元を忘れる」


 フィンが深く頷いた。


「それ、今の俺にかなり刺さりました」


「刺さったなら忘れるな」


「はい」


 カティアは慎重に近づき、箱の蓋に触れた。


 一拍置く。


 何も起きない。


 ゆっくり開ける。


 中には、小瓶が四本入っていた。


 薄い赤の液体。


 光を受けると、ほんの少しだけ揺れる。


 水でも血でもない。


 果実酒にも見えない。


 そして宝箱の底に、短い文字が浮かんでいた。


 紅肌の雫。


 突破者一名につき、小瓶一つ。


 それだけだった。


「……紅肌の雫」


 マイラが読み上げる。


 フィンが首を傾げた。


「こうはだ、ですかね」


 カティアは箱の中を見た。


「四本。人数分か」


 クレスも頷く。


「俺たち四人が踏破者として認識された、と見るべきだな」


「効果の説明は?」


 何も出ない。


 宝箱の底に出ているのは、名前と報酬数だけ。


 ただ、小瓶が四本あるだけだ。


 カティアはそのうち一本を持ち上げた。


「飲み物か、薬か、毒か。名前だけじゃ分からねえな」


 マイラも一本を受け取り、慎重に観察した。


「微かに魔力があります。でも、攻撃的ではありません」


「開けるなよ」


 カティアが言う。


「分かっています」


 マイラは瓶底を見た。


 そこで眉を動かす。


「……今、少し魔力を吸われました」


 クレスとカティアの視線が集まる。


 マイラは瓶底を光にかざした。


 薄い赤い液体の底。


 そこに、水面の波紋のような模様がゆらりと浮かんだ。


 丸い輪が重なり、数字の形になる。


 二十。


 だが、刻まれているのではない。


 水の揺れが、その一瞬だけ数字になっている。


「数字?」


 フィンが覗き込む。


「二十、に見えますね」


「ほかの瓶も同じか?」


 クレスが聞いた。


 カティアは別の一本を手に取り、魔力を流すように目を細めた。


「……こっちも二十だな」


 クレスも一本を確認する。


「同じだ」


 フィンが最後の一本を見ようとして、カティアに睨まれた。


「落とすなよ」


「落としません!」


「顔が少し危ない」


「顔は落としません!」


 フィンは慎重に瓶底を見た。


「俺のも二十です」


「意味は?」


 クレスが聞く。


 マイラは首を横に振った。


「分かりません。ただ、魔力を流した時だけ見えるようです」


 カティアは腕を組んだ。


「日数か、回数か、量か。今は決めつけるな」


「はい」


 クレスは四本の小瓶をそれぞれ布で包んだ。


「持ち帰る。ここで使わない」


「当たり前だ」


 カティアは宝箱の中をもう一度確認した。


 空。


 他に何もない。


 すると、宝箱は水に溶けるように薄くなり、消えた。


 フィンが目を丸くする。


「消えた……」


 カティアが舌打ちした。


「持ち帰るものを持ったら、長居するなってことだろうな」


 クレスは頷いた。


「戻るぞ」


「帰りも迷路ですかね」


 フィンが少し青い顔で言う。


 カティアは短く笑った。


「帰りだけ親切な迷宮があると思うか?」


「ないですね!」


「いい返事だ。泣きながら歩け」


「まだ泣いてません!」


「じゃあ歩け」






 黒い水膜の内側で、表示が走った。


【第3層 藻の迷路 初回踏破を確認】


【踏破者数:4名】


【踏破報酬 紅肌の雫を4本生成】


【紅肌の雫 外部取得を確認】


【水紋数字表示への接触を確認】


【迷い、警戒、達成感、報酬欲、未知への警戒を獲得】


【獲得DP:128】


【第3層 水スライム再配置、藻の迷路微調整、宝箱再形成準備にDPを32消費】


【現在DP:135】


「戻った!」


 俺は思わず声を上げた。


 現在DP135。


 まだ第3層生成前には遠い。


 でも、26から135。


 かなり戻った。


 胃の第3層が少し浅くなった気がする。


「よしよしよし……! いいぞ、初回踏破!」


『嬉しそうね』


「嬉しいよ! だって残DP26だったんだぞ!? あの数字、もはや心細いを通り越して寒かったからな!」


『迷宮主が数字に震えてどうするの』


「震えるよ! 数字は怖いんだよ! 前世でも今世でも!」


『初回踏破は濃いわね』


「報酬まで取ったからな。しかも四本」


『突破者一名につき小瓶一つ。貴方が決めたのでしょう』


「うん。一本だけだと、パーティ内で揉めそうだしな」


『揉めた感情も悪くはないわよ』


「悪くはなくても、初回から取り合いさせるのは違う。まずは報酬の魅力を外へ出す。争いは、その後で勝手に生える」


『勝手に生える』


「人間の欲は雑草より強い」


『よく分かっているじゃない』


「前世で見てきたからな」


 俺は四本の小瓶を見た。


 薄い赤の液体。


 紅肌の雫。


 まだ名前しか知られていない。


 効果も、期限も、価値も、何も分かっていない。


 でも、人間は未知の報酬を持ち帰った。


 誰かが試せる。


 誰かが比べられる。


 誰かが欲しがる。


 それだけで、次の欲が生まれる。


「効果が知られたら……」


『もっと濃くなるでしょうね』


「よし。投資回収の芽が出てきた」


『言い方が急に商人ね』


「今の俺は迷宮主兼、残DPに怯える経営者だ」


『高貴さがないわ』


「高貴さより残高が大事な時もあるんだよ」


 ヴェルティアは小さく笑った。


『なら、もっと人間に欲しがらせなさい』


「そうする。けど、まだ効果は知られてない。ここからだな」


『誰が最初に使うかしら』


「そこだよな」


 俺は小瓶を布で包むクレスたちを見た。


 四本ある。


 この違いは大きい。


 一本だけなら、保管で終わるかもしれない。


 だが四本あれば、誰かが試す理由が生まれる。


 清水の迷宮が初めて渡した、欲の報酬。


 薄い赤の雫は、人間の手の中で静かに揺れていた。






 帰り道は、行きより静かだった。


 宝を持っている。


 未知の小瓶を持っている。


 しかも、迷路の奥から戻らなければならない。


 その事実が、全員の口数を減らしていた。


 フィンでさえ、余計な軽口を半分くらい飲み込んでいる。


 半分は出ていた。


「帰り道って、なんで行きより足元が怖いんですかね」


 カティアが即答する。


「欲が荷物に増えたからだ」


「欲って重いんですね」


「重いぞ。金より足を引っ張る」


「今日のカティアさん、言葉が刺さります」


「刺さったまま歩け」


「はい」


 マイラは布に包まれた小瓶を見ないようにしていた。


 見れば気になる。


 気になれば、足元がおろそかになる。


 それが分かっているから、あえて見ない。


 クレスは先頭で剣を抜かずに進んだ。


 必要以上に魔物を刺激しない。


 カティアは最後尾ではなく、少し横にずれた位置を歩く。


 足跡を確認し、藻の垂れ方を見て、戻る道を探る。


 一度、別の水路へ誘われかけた。


 だが、マイラが先に気づいた。


「水音が、行きと違います」


 カティアが足を止める。


「どこが違う」


「低いです。さっき通ったところは、もう少し高い音でした」


 カティアは藻を見た。


 それから、壁の印を探す。


 ない。


「正解だ。こっちは違う」


 フィンがマイラを見た。


「すごいな」


「たまたま」


「たまたまでも助かった」


 マイラは少しだけ頬を緩めた。


 クレスが静かに言う。


「全員が一つずつ見る。それで戻れる」


 フィンは頷いた。


「俺は何を見れば」


 カティアが言った。


「鼻の泥」


「まだ言います!?」


「冗談だ。足元を見ろ」


「はい!」


 そうして四人は、少しずつ戻った。


 焦らず。


 走らず。


 小瓶に気を取られすぎず。


 水音と藻と石を見ながら。


 やがて、ぬかるみ回廊の泥の匂いが戻ってきた。


 入口の気配が近づく。


 外の声が、少しずつ形を取り戻す。


 リオたちのざわめき。


 村人たちの声。


 清水の間の水音。


 フィンが息を吐いた。


「戻った……」


 カティアが言う。


「まだ第2層だ。気を抜くな」


「はい!」


 だが、その返事には安堵が混じっていた。






 清水の間に四人が戻った瞬間、空気が揺れた。


 リオが駆け寄りかけて、カティアに睨まれて止まる。


 サナは一歩だけ前に出て、すぐに足を止めた。


 見習い魔術師は、小瓶の包みに目を奪われている。


 治癒術師見習いも同じだった。


 オルド村長が静かに聞いた。


「奥は、どうでしたか」


 クレスは短く答える。


「迷路でした。第2層より判断が難しい」


 カティアが続ける。


「新人だけで入る場所じゃねえ。特に、入口から声が届きにくい。中に入ったら、外の指示は当てにならないと思え」


 その言葉に、新人たちの顔が引き締まる。


 リオが小さく息を呑んだ。


「声が……」


「届かねえわけじゃない。だが、使い物にならねえ。水に沈んだみたいにぼやける」


 サナは奥を見た。


「外から助けを呼ぶのも難しい、ということですね」


「そう思え」


 クレスは布包みを開いた。


 薄い赤の小瓶が四本、並んだ。


 清水の間にいた者たちの視線が、そこへ集まった。


「踏破報酬と思われる」


 クレスが言った。


「名前は、紅肌の雫。突破者一名につき、小瓶一つ」


 ざわ、と小さな声が広がった。


「こうはだ……?」


「薬か?」


「赤い水?」


「四本も出るのか」


「飲むのか?」


 マイラが瓶底を示す。


「魔力を流すと、数字のような水紋が浮かびます。四本とも、今は二十に見えました。意味はまだ分かりません」


 見習い魔術師が目を輝かせた。


「見てもいいですか?」


 カティアが即座に言う。


「触るな」


「見るだけです!」


「見るだけって言う奴はだいたい手が出る」


「手は出しません!」


「顔が出そうだ」


「顔も駄目なんですか!?」


 フィンが小さく笑った。


「仲間が増えた」


「増えてねえよ、泥鼻」


 カティアは小瓶をクレスへ戻した。


「ここで開けるな。飲むな。舐めるな。肌に塗るな。匂いも嗅ぐな」


 フィンが首を傾げる。


「最後の方、誰かやりそうでした?」


 カティアは周囲を見た。


 何人かが目を逸らした。


「やりそうな顔が五人いた」


「増えてる……」


 オルド村長は小瓶を見つめていた。


 その横で、村の女が一人、思わず呟いた。


「紅肌……肌に関係あるのかしら」


 その声は小さかった。


 だが、清水の間にいた何人かの女たちが反応した。


 肌。


 紅。


 薄い赤の雫。


 効果は分からない。


 安全かどうかも分からない。


 けれど、名前が欲をつついた。


 冒険者の戦利品を見る目とは少し違う。


 もっと生活に近く、鏡に近く、誰かに顔を見られる時の欲。


 マイラも、小瓶を見た。


「……これ、飲むものなのでしょうか」


 答えは、まだ誰にも分からなかった。


 だが、紅肌の雫は確かに迷宮の外へ出た。


 四本の小瓶として。


 清水の迷宮が初めて渡した、欲の報酬だった。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


第3層「藻の迷路」の初回調査が行われ、踏破報酬として「紅肌の雫」が外へ出ました。


紅肌の雫は、階層突破者一名につき小瓶一つ。


まだ効果は分かっていません。


けれど、名前と色だけで、人の欲は少しずつ動き始めています。


次話では、この紅肌の雫の正体と価値が明らかになっていきます。


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