表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/17

第11話 紅肌の雫、試される



 清水の間に戻ってきた四本の小瓶は、思った以上に空気を変えた。


 薄い赤の液体。


 紅肌の雫。


 突破者一名につき、小瓶一つ。


 名前と数だけは分かった。


 だが、効果は分からない。


 薬なのか。


 毒なのか。


 飲むものなのか。


 塗るものなのか。


 それとも、ただ見た目が綺麗なだけの迷宮報酬なのか。


 村人たちは遠巻きに見ていた。


 新人冒険者たちも見ていた。


 特に、女たちの視線が少し違った。


 紅肌。


 その二文字が、妙に引っかかるのだろう。


 カティアはその視線を見て、露骨に顔をしかめた。


「見るな。見るだけならまだしも、顔がもう触りに行ってる」


 見習い魔術師が慌てて手を引っ込めた。


「触ってません!」


「今、心の指が伸びてた」


「心の指!?」


 フィンが小瓶から一歩下がる。


「カティアさん、顔だけじゃなく心の指まで見えるんですか」


「お前は鼻の泥だけ見せとけ」


「見せ物じゃないです!」


 クレスは四本の小瓶を布の上に並べた。


「まず確認する。売らない。配らない。勝手に使わない」


 その声は静かだったが、よく通った。


 ざわつきが少し収まる。


「この四本は、俺、カティア、フィン、マイラが第3層を踏破した報酬だ。だが、効果不明の迷宮産だ。扱いを誤れば危険もある」


 オルド村長が頷いた。


「村の者には触れさせん。必要なら、私が見張ろう」


「助かります」


 カティアが腕を組む。


「問題は、誰が試すかだな」


「試す前提なんですか」


 フィンが言うと、カティアは睨んだ。


「効果が分からないまま抱えてても、ただの赤い荷物だ」


「確かに」


「ただし、馬鹿みたいに一気飲みする奴は論外だ」


 フィンは少しだけ小瓶を見た。


「俺、今ちょっと疑われました?」


「ちょっとじゃねえ」


「全力で疑われてる!」


 マイラが小さく手を上げた。


「私が試します」


 清水の間が静かになった。


 フィンが真っ先に反応する。


「マイラ?」


「治癒魔法を使うから、体調や魔力の変化は見やすいと思う。それに、四本のうち一本は私の報酬だから」


 声は控えめだが、はっきりしていた。


 クレスが確認する。


「無理に引き受ける必要はない」


「無理ではありません。効果を確かめないままでは、次に誰かが勝手に使うかもしれません」


 カティアが少しだけ目を細めた。


「いい判断だ。気に入らねえくらい真面目だな」


「気に入らないんですか?」


「真面目すぎる奴は見てて胃に悪い」


「それは、すみません」


「謝るな。余計に胃に悪い」


 フィンが胸を押さえた。


「カティアさんにも胃ってあるんですね」


「お前はあたしを何だと思ってる」


「強めの斥侯」


「雑だな」


 クレスは少し考え、頷いた。


「分かった。ただし、ここでは飲まない。人が多すぎる。オルド村長、場所を借りられますか」


「私の家を使うといい。村の者は近づけんようにする」


 カティアが小瓶を布で包み直した。


「よし。見物人は解散だ。見世物じゃねえぞ」


 その一言に、村人たちは散り始めた。


 ただ、散り方が遅い。


 ちらり。


 ちらり。


 小瓶を見る。


 そして、マイラを見る。


 自分の頬に触る女が一人。


 手荒れを隠すように袖を引く女が一人。


 何気ないふりで、まだ聞き耳を立てている女が数人。


 カティアが低く言った。


「……面倒な匂いがしてきたな」


 クレスも小さく頷く。


「ああ。効果次第では、広がる」






 黒い水膜の内側で、俺は思わず手を握った。


「来たな……!」


『何が?』


「最初の使用者だよ! しかもマイラ。治癒役だから観察もできる。これはかなりいい流れ!」


『ずいぶん嬉しそうね』


「嬉しいけど怖い! ちゃんと効くか、効きすぎないか、変に疑われないか。今、感情が大渋滞してる!」


『大渋滞』


「俺の中の期待と不安が馬車事故を起こしてる」


『表現が騒がしいわね』


「残DP135だからな! ここで効果が伝わらないと、俺の胃に第4層ができる!」


『胃に階層を作るのはやめなさい』


「俺も作りたくない!」


 表示はまだ動かない。


 小瓶は外へ出た。


 名前も知られた。


 だが、効果はまだ知られていない。


 紅肌の雫の本番は、ここからだ。


『それにしても、人間の女たちの視線が変わったわね』


「名前だけで刺さってるな」


『紅肌、という響きだけで?』


「うん。肌、血色、赤み。そのあたりの言葉は強い。前世でも、売り場の棚でかなり戦ってた」


『棚が戦うの?』


「人間の欲を取り合う戦場だ」


『やはり売り場は迷宮ね』


「現代の売り場は、だいたい無音の魔境だぞ」


『興味深いわ』


「ヴェルティア、絶対ハマるタイプだな……」






 オルド村長の家は、清水の間から少し離れたところにあった。


 土壁の小さな家。


 中には粗末な机と椅子。


 炉には火が入っていない。


 立ち会うのは、クレス、カティア、フィン、マイラ、オルド村長。


 念のため、治癒術師見習いも呼ばれていた。


 ただし、部屋の隅で待機だ。


 彼女は小さな鞄を抱え、緊張した顔でマイラを見ている。


 治癒役としての興味と、一人の女としての興味が、まだうまく分かれていない顔だった。


 カティアが釘を刺す。


「余計なことはするな。魔法も、触診も、瓶を覗き込むのも、指示が出てからだ」


「はい!」


「返事が大きい。緊張しすぎだ」


「はい……」


「小さい。普通にしろ」


「難しいです……」


 フィンが同情したように頷いた。


「分かる。カティアさんの指示、ちょうどいい場所が見つからない」


「お前も黙れ」


「はい!」


 マイラは小瓶を手に取った。


 薄い赤の液体が、瓶の中で静かに揺れる。


 瓶底に魔力を流すと、水紋数字が浮かんだ。


 二十。


 昨日と同じ数字だ。


「変化なし、ですね」


 クレスが言う。


「記録しておこう。使用前、数字は二十」


 オルド村長が木板に刻む。


 クレスがマイラを見る。


「少しずつでいい」


「はい」


 マイラは蓋を開けた。


 強い匂いはない。


 薬草の苦みもない。


 ほんの少しだけ、清水に赤い果実を沈めたような、薄い香りがした。


 カティアが眉を寄せる。


「変な匂いはしねえな」


 マイラは一口飲んだ。


 全員が見守る。


 マイラは目を閉じ、ゆっくり飲み込んだ。


「……冷たい」


 フィンが前のめりになる。


「味は?」


「少し甘い、です。でも、すぐ消えます」


「苦くない?」


「苦くない」


「辛くは?」


「辛くもない」


 カティアがフィンの襟を掴んだ。


「質問責めにするな。飲んだ本人よりお前が慌ててどうする」


「すみません!」


 マイラは残りを飲み干した。


 小瓶は空になった。


 しばらく、何も起きなかった。


 部屋に沈黙が落ちる。


 フィンが小声で言う。


「……爆発はしませんね」


「する報酬だったら悪質すぎるだろ」


 カティアが言った。


 マイラは自分の胸元に手を当てる。


「魔力の乱れはありません。気分も悪くないです」


 治癒術師見習いが恐る恐る聞く。


「痛みや熱は?」


「ありません」


「脈は乱れていません。顔色は……」


 治癒術師見習いはそこで言葉を切った。


 さっきまで観察者の顔だった目が、少しだけ揺れる。


「少し、よくなっている気がします」


 カティアがすぐに反応した。


「どこだ」


「頬と唇です。血色が戻ったように見えます。でも、回復魔法で傷が塞がる時とは違います」


 マイラが自分の手を見た。


「……あれ?」


 指先。


 昨日の第3層で少し荒れていた皮膚が、ほんのわずかに落ち着いていた。


 完全に治ったわけではない。


 傷が消えたわけでもない。


 ただ、乾いた赤みが少し引き、皮膚の色が柔らかく見える。


 マイラは頬に触れた。


「少し、温かいです」


 フィンがまじまじと見る。


「顔色、よくなった?」


 マイラは少し照れたように視線を逸らした。


「自分では分かりません」


 カティアが顔を近づけた。


 遠慮がない。


「頬に少し赤みが出たな。唇も、さっきより色がある」


「そ、そんなに見ないでください」


「確認だ」


「近いです」


「確認だ」


 カティアは一度身を引き、改めてマイラの顔を見た。


「顔立ちが変わったわけじゃねえ。そこはそのままだ。ただ、疲れて見えてたところが少し戻ってる」


 クレスが静かに頷く。


「記録としては、その表現が近いな。変化したというより、本来の調子に近づいた」


 フィンも勢いよく頷いた。


「そうです! マイラが別人になったとかじゃなくて、いつものマイラが少し元気そうというか!」


 マイラが少し眉を寄せる。


「それは褒めてる?」


「褒めてます! かなり褒めてます!」


「なら、ありがとう」


 マイラは少しだけ笑った。


 フィンはほっと息を吐く。


 カティアが吹き出した。


「泥鼻、今のは第2層なら転んでたな」


「危なかったです。言葉のぬかるみでした」


「少しは学んだな」


 オルド村長は木板に記録を刻みながら、ゆっくり言った。


「劇的な変化ではない。だが、確かに顔色は良くなったように見える」


 治癒術師見習いも頷いた。


「回復魔法とは違います。傷を治す感じではないです。でも、弱っていたところが少し整ったような……」


 彼女はそこで、自分の手の甲をちらりと見た。


 小さな荒れ。


 水仕事と薬草の処理でできた、細かな乾き。


 すぐに袖で隠したが、カティアは見逃さなかった。


「今、自分の手を見たな」


「み、見てません」


「見た。顔が欲しいって言ってた」


「顔、そんなに喋りますか!?」


「喋る奴は喋る」


 治癒術師見習いは耳まで赤くなった。


 マイラは自分の手を見つめた。


「体が軽くなったわけではありません。でも、鏡があれば見たい、かもしれません」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 鏡。


 顔。


 肌。


 紅肌の雫。


 カティアが舌打ちした。


「これは面倒だな」


 クレスも静かに頷いた。


「ああ。価値が出る」






 黒い水膜の内側で、青白い表示が跳ねるように浮かんだ。


【紅肌の雫 外部使用を確認】


【紅肌の雫 即時効果認識を確認】


【血色改善、軽微な肌荒れ緩和を確認】


【警戒、安堵、驚き、羨望、美容欲を獲得】


【獲得DP:46】


【現在DP:181】


「おおおっ!」


 俺は思わず声を上げた。


「入った! 美容欲、入った!」


『随分と跳ねたわね』


「即時効果で46DP! 悪くない! いや、かなりいい! よし、よしよし!」


『貴方、数字を見ると本当に分かりやすいわ』


「数字は裏切らない時だけ好き!」


『裏切る時もあるの?』


「ある! 前世の給料日直後の引き落としとか!」


『よく分からないけれど、悲惨そうね』


「悲惨だぞ。通帳に精神を削られる」


『人間社会、やはり迷宮では?』


「だいたい迷宮!」


 俺はマイラを見た。


 顔立ちは変わっていない。


 美人になったわけでもない。


 若返ったわけでもない。


 ただ、疲れた印象が少し薄れ、頬と唇に自然な色が戻っている。


 手荒れも、少し落ち着いた。


 その程度。


 でも、その程度が強い。


「いいな……」


『効きすぎてはいないわね』


「うん。そこがいい。万能じゃない。治療でもない。でも、見た人間が“自分も”って思うくらいには分かる」


『人間は、本当にその程度で欲しがるのね』


「その程度、じゃないんだよ。本人にとっては、朝に鏡を見る気分が変わるくらいのことだからな」


『鏡を見る気分』


「そこに金を払う人間は多い」


『不思議ね』


「不思議だけど、強いぞ」


 ヴェルティアは赤い瞳を細めた。


『では、翌朝が楽しみね』


「そう。翌朝が本番だ」






 その日は、紅肌の雫について村全体へ広く話すことは避けられた。


 避けられた。


 はずだった。


 だが、人間の口は水より細い隙間から漏れる。


 マイラが少し顔色を良くした。


 手荒れが落ち着いた。


 赤い小瓶を飲んだ。


 紅肌の雫という名前だった。


 そんな断片が、夕方には村の中をふわふわ漂い始めていた。


 誰も大声では言わない。


 だが、小声は水路より速い。


「見た?」


「マイラさん、少し顔色よくなってた」


「薬なの?」


「紅肌って名前らしいよ」


「肌に効くのかね」


「分からないって」


「でも、見た感じ……」


「四本あるんだって」


「四本?」


「突破者一人に一本だって」


 そして、人は自分の顔に触る。


 頬に触る。


 手の甲を見る。


 唇を押さえる。


 昨日まで清水だけを見ていた目が、赤い小瓶を探し始めた。






 夜。


 オルド村長の家で、もう一度小瓶が確認された。


 残っている三本。


 クレスの一本。


 カティアの一本。


 フィンの一本。


 そして、空になったマイラの小瓶。


 空瓶の底に魔力を流しても、水紋数字は浮かばなかった。


 マイラが記録する。


「空になると数字は出ません」


「当然といえば当然か」


 クレスが頷く。


 カティアは残り三本を見た。


「問題は、残りだな」


「一本はギルド報告用に持ち帰る」


 クレスが言った。


「効果、数字、取得条件、危険性。全部報告する必要がある」


「一本は保管だ。今日みたいに、すぐ使っていいものじゃねえ」


 カティアが続ける。


 フィンが自分の小瓶を見た。


「俺のは?」


「お前に持たせると、転んだ拍子に割りそうだな」


「信頼がない!」


「ある。転ぶ信頼がある」


「悲しい信頼!」


 クレスは少し笑った。


「一時的に俺が預かる。いいか?」


「もちろんです。俺も、持って歩く自信がありません」


「そこは正直なんだな」


 カティアが呆れる。


「第3層で学びました。欲は重いって」


「よし。少しは学んだな」


 オルド村長は腕を組み、深く息を吐いた。


「これは、村だけで扱える物ではないかもしれん」


「ええ」


 クレスは頷いた。


「明日、ギルドへ報告します。商人に見せるかどうかは、その後です」


 カティアの目が鋭くなる。


「商人に見せたら、すぐ値をつけるぞ」


「分かっている」


「女連中に知られたら、もっと面倒だ」


「すでに半分知られている」


「最悪だな」


「最悪ではない。だが、早い」


 カティアは頭をかいた。


「こういうのは、剣や魔石より面倒なんだよ。欲しがる奴の幅が広い」


 治癒術師見習いは、記録板を見ていた。


 そこには、マイラの変化が淡々と記されている。


 頬の血色。


 唇の色。


 手荒れの軽減。


 体力、魔力に大きな変化なし。


 彼女はその文字を見つめ、無意識に自分の指先を撫でた。


 マイラは少し小さな声で言った。


「私も……飲む前より、鏡を見たいと思っています」


 部屋が少し静かになった。


 その一言は、効果の説明よりも分かりやすかった。


 紅肌の雫は、命を救う薬ではない。


 だが、人の気持ちを動かす。


 それは、十分に危険な価値だった。






 翌朝。


 水紋数字は、十九になっていた。


 クレスの小瓶も。


 カティアの小瓶も。


 フィンの小瓶も。


 瓶底に魔力を流すと、水面の波紋のような数字がゆらりと浮かぶ。


 昨日は二十。


 今日は十九。


 マイラは木板に記録した。


「日数、でしょうか」


 クレスは頷く。


「可能性が高い。取得からの日数か、有効期限か。まだ断定はしない」


 カティアが小瓶を見ながら言う。


「二十から減るなら、放っておくと価値が落ちるかもしれねえな」


「そうだな」


「ますます面倒だ」


 そこへ、フィンが入ってきた。


 そして、マイラを見て固まった。


「……え」


 マイラが首を傾げる。


「何?」


「いや、その……昨日より、顔色がいい」


 マイラは頬に触れた。


 自分でも分かっているらしい。


 少し落ち着かない顔をしている。


 唇に自然な色がある。


 頬にも、うっすら赤みがある。


 目元の疲れが、昨日より軽い。


 別人ではない。


 顔立ちはそのままだ。


 ただ、昨日までより少し健康そうに見える。


 少しだけ、明るく見える。


 カティアが確認する。


「寝つきは?」


「いつもより深く眠れた気がします。でも、睡眠薬のような感じではないです」


「肌の痛みは?」


「手の荒れが少し落ち着いています。完全に治ってはいません」


「体力は?」


「増えてはいません」


「魔力は?」


「変わりません」


「顔だけ都合よく盛ったわけでもねえな」


「言い方」


 マイラが少し困った顔をする。


 治癒術師見習いも、昨日の記録板とマイラの顔を見比べていた。


「回復というより、疲れた部分が整った感じです。治癒魔法ではこういう出方はしません」


 彼女はそこで、ぽつりと続けた。


「……だから、少し怖いです。欲しくなるのが、分かるので」


 カティアはその一言を聞き、眉を上げた。


「分かってるなら、まだマシだ」


 フィンが慌てて言った。


「いや、でも、すごい自然です! いつものマイラなんですけど、なんか元気そうというか!」


「それは褒めてる?」


「褒めてます!」


「なら、ありがとう」


 マイラは少しだけ笑った。


 その笑顔に、部屋の空気がまた変わる。


 治癒術師見習いが、ぽつりと言った。


「……私も、ちょっと欲しいです」


 全員の視線が向いた。


 彼女は慌てて口を押さえた。


「あっ、す、すみません! 今のは、その、記録としてではなく、個人的な……」


 カティアが深く息を吐いた。


「ほら見ろ。始まった」


 クレスは小瓶を布で包んだ。


「まだ配らない。まだ売らない。まずギルドへ報告する」


 治癒術師見習いは真っ赤になって頷いた。


「はい……」


 だが、その目はまだ小瓶を見ていた。


 欲しい。


 自分も試したい。


 そういう目だった。


 部屋の外でも、同じことが起きていた。


 朝の水汲みに来た女たちが、マイラを見た。


 一人が頬に触れる。


 一人が手の甲を見る。


 一人が小さく呟く。


「……あれ、欲しいね」


 その声は、清水の間の水音に紛れるほど小さかった。


 だが、欲はもう生まれていた。






 黒い水膜の内側で、表示が一気に浮かんだ。


【紅肌の雫 翌朝効果認識を確認】


【血色改善、くすみ緩和、軽微な肌荒れ緩和を確認】


【水紋数字の減少確認を検知】


【美容欲、羨望、所有欲、商業予兆を獲得】


【獲得DP:92】


【現在DP:273】


「来た!」


 俺は立ち上がった。


「来た来た来た! 美容欲、所有欲、商業予兆! これだよ、これ!」


『随分と嬉しそうね』


「嬉しいよ! 初回投資250DPの芽が、ようやく緑になってきた!」


『藻の迷路だけに?』


「ヴェルティアが冗談を言った!?」


 ヴェルティアは、ほんの一瞬だけ黙った。


 赤い瞳が、すっと横へ流れる。


『……表示を見なさい。増えているわ』


「今、流した! 絶対流した! 高貴なる藻ジョークを流した!」


『沈めるわよ』


「ごめんなさい!」


 足元が少し沈みかけたので、俺は素直に黙った。


 だが、口元は緩んでしまう。


 DP273。


 第3層生成前の276に、ほぼ戻った。


 しかも、まだ商人は来ていない。


 まだ本格的な買い取りも始まっていない。


 まだ女たちが「欲しい」と本気で動き出してもいない。


 それでこの数字だ。


「……これ、思ったより燃えるぞ」


『ええ。人間の欲は、静かなものほどよく広がるわ』


「怖いな」


『嬉しそうに言っているわよ』


「嬉しいし、怖い。両方ある」


『迷宮主らしいわね』


「そうか?」


『ええ。欲を見て喜び、欲が暴れる未来を見て警戒する。少しは板についてきたわ』


「褒めてる?」


『評価よ』


「今日はそれでも嬉しい」


 俺は清水の間を見た。


 女たちがマイラを見る。


 小瓶を見る。


 自分の頬に触れる。


 男たちはまだ、価値を測りかねている。


 だが、女たちの目はもう変わっていた。


 紅肌の雫。


 それは、剣でも魔石でもない。


 命を救う万能薬でもない。


 でも、人間の生活に近い場所で、確かに欲を灯した。


 水音が響く。


 清い水の音。


 その奥で、薄い赤の雫が、静かに火種になっていた。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


紅肌の雫は、ただの報酬ではありませんでした。


水音の奥で、小さな赤い欲が灯り始めます。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ