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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第12話 赤い雫と、届かない声



 紅肌の雫の翌朝効果が確認されたあと、清水の間は明らかに変わった。


 水音は同じだ。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清い水は、いつも通り水盤へ落ちている。


 けれど、人の目は水だけを見ていなかった。


 マイラを見る。


 マイラの頬を見る。


 マイラの手を見る。


 それから、クレスが布で包んだ小瓶を見る。


 紅肌の雫。


 薄い赤の液体。


 若返るわけではない。


 顔が変わるわけでもない。


 病が治るわけでもない。


 ただ、顔色が少しよくなる。


 疲れた印象が少し戻る。


 手荒れが少し落ち着く。


 その程度。


 だが、その程度が人の目を変えていた。


 治癒術師見習いの少女は、清水の間の隅で小さく自分の手を握っていた。


 昨日、思わず言ってしまった。


 私も、ちょっと欲しいです。


 その言葉が、ずっと胸の奥で熱を持っている。


 カティアが全体を見回した。


「今日は第3層に入れねえ」


 リオが顔を上げる。


「全員ですか?」


「全員だ。調査でも訓練でも入れねえ」


「でも、紅肌の雫は……」


「欲しそうな顔をするな」


「顔だけで止められた!」


 カティアは腕を組み、ぬかるみ回廊の入口を睨んだ。


「第3層は昨日開いたばかりだ。報酬の効果もまだ一日分しか見てねえ。調子に乗って入るには早い」


 サナが静かに頷いた。


「分かりました」


「いいか。欲しいと思うのは勝手だ。だが、欲しいと思った瞬間に足元が見えなくなる奴は、迷宮に向いてねえ」


 カティアの視線が、治癒術師見習いの少女を一瞬だけかすめた。


 少女はびくりと肩を震わせる。


 カティアは何も言わなかった。


 ただ、その目は見逃していなかった。


 クレスは布で包んだ小瓶を一つ手に取った。


「俺はラクト支部へ報告に戻る。紅肌の雫を一本持っていく」


「一人で行くのか?」


 オルド村長が聞く。


「はい。早い方がいい。残りはカティアに預けます」


「面倒な役を押しつけやがって」


 カティアはそう言いながら、残り二本を受け取った。


 マイラの分は使用済み。


 一本はクレスが持つ。


 残りはカティアが管理する。


 フィンが自分の手元を見て、少し寂しそうに言った。


「俺の報酬、俺の手元に一瞬もありませんね」


「お前に持たせると転ぶ」


「否定しきれない!」


「なら黙れ」


「はい!」


 クレスは清水の間の奥へ目を向けた。


 第3層は静かだった。


 昨日、紅肌の雫を吐き出した迷宮は、何も言わない。


 水音だけが響いている。


「今日中に戻る」


 クレスはそう言って、ラクト支部へ向かった。






 黒い水膜の内側で、俺は清水の間を見ていた。


「動き始めたな」


『ええ。効果が知られ、次は価値が測られる』


「ここからが怖いんだよなあ……」


『嬉しそうにも見えるわよ』


「嬉しいし怖い! 美容欲だけでも濃かったのに、そこに値段がついたら人間の目は変わるぞ」


『値段というものは、そこまで人間を変えるの?』


「変える。ふわっと欲しいものが、“いくらになるもの”って分かった瞬間に、欲は急に現実になる」


『現実になる』


「夢が財布に変わるんだよ」


『妙な変化ね』


「人間社会ではよくある」


 俺は治癒術師見習いの少女を見た。


 彼女は自分の手を隠すように握っている。


 顔は伏せている。


 だが、視線だけが時々、カティアの持つ小瓶へ向かう。


「……あの子、危ないな」


『欲が濃いわね』


「分かるのか?」


『ええ。羨望、焦り、自己嫌悪、期待。細く絡まっている』


「やめておけって言ってやりたいところだけど」


『言わないのでしょう?』


「言えないし、言わない。第1層なら止める。第2層なら戻る練習もできる。でも第3層は、欲を持って入る場所だ」


『ええ』


「警告は外の人間がしてる。危険も見せた。あとは本人の判断だ」


 言いながら、胸の奥に嫌な重さが残った。


 日本人としての俺は、やっぱり見ているだけというのが得意じゃない。


 でも、ここで迷宮が手取り足取り助けたら、第3層を作った意味がない。


 ヴェルティアを砕けさせない。


 俺も消えない。


 そのために人を呼ぶ。


 欲を集める。


 必要なら、飲み込む。


「……割り切るしかないな」


『軽く言わないのね』


「今日は軽く言えない。けど、結論は変えない」


『それでいいわ』


 ヴェルティアの声は静かだった。


『ここは迷宮よ』






 ラクト支部では、紅肌の雫の報告に支部長が眉を寄せた。


 机の上には、クレスが持ち込んだ小瓶。


 薄い赤の液体が、窓から差し込む光でわずかに揺れている。


 支部長はクレスの報告を最後まで聞いた。


 第3層、藻の迷路。


 入口からの声が届きにくいこと。


 突破者一名につき小瓶一つ。


 宝箱の底に浮かんだ文字。


 紅肌の雫。


 マイラが使用したこと。


 即時効果と翌朝効果。


 水紋数字が二十から十九へ減ったこと。


 支部長はしばらく黙った。


「治療薬ではないのだな」


「はい。少なくとも、回復魔法やポーションとは違います」


「傷を塞がない。病を治さない。体力や魔力も増えない」


「その通りです」


「だが、顔色と肌の調子は変わる」


「はい」


 支部長は椅子にもたれた。


「……厄介だな」


 その言葉に、同席していた商人ギルドの男が目を細めた。


 ラクト支部に出入りしている鑑定役の商人だった。


 灰色の髪を後ろで束ね、指には細い銀の指輪をつけている。


 冒険者の武具を見る目とは違う。


 売れるものを見る目をしていた。


「支部長。拝見しても?」


「触れるだけだ。開けるな」


「もちろんです」


 商人は小瓶を手に取り、光にかざした。


 底に魔力を流す。


 水面の波紋のような数字が、ゆらりと浮かんだ。


 十九。


「なるほど。これは面白い」


 クレスが聞く。


「価値はありますか」


「あります」


 商人は即答した。


 支部長が眉を上げる。


「治療薬ではないぞ」


「ええ。ですが、それは欠点であると同時に売り方を変えられる強みです」


「強み?」


「治療薬は必要な者が買います。怪我人、病人、冒険者、兵士。需要は明確ですが、用途も限られる。ですがこれは違う」


「違う?」


「健康な者も欲しがる。働く女、商家の妻、貴族の侍女、接客をする者、舞台に立つ者、そして冒険者。顔色が悪い、疲れて見える、手が荒れている。そういう小さな悩みは、どこにでもある」


 クレスは黙って聞いた。


「初級ポーションは銀貨五枚でしたね」


 商人が言う。


 支部長が頷く。


「このあたりでは、その程度だ」


「紅肌の雫は、効能が限定されます。治療薬ではない。若返りでもない。そこは値を抑える理由になります」


「なら安いのか?」


「いいえ」


 商人は薄く笑った。


「希少性、美容需要、迷宮踏破報酬という物語性。加えて、有効期限らしき数字がある。長期保管できないなら、流通量は自然に絞られる。出回りすぎない品は、欲を冷ましにくい」


「値をつけるなら」


「現時点の確認済み効果で、大銀貨二枚」


 部屋の空気が変わった。


 クレスは目を細めた。


「大銀貨二枚」


「はい。買い取りでその程度。売値は相手次第で上がります」


 支部長が低く唸る。


「初級ポーション四本分以上か」


「治療薬として見れば高い。美容品として見れば、まだ安いと見る者もいるでしょう」


 クレスは小瓶を見た。


 薄い赤の液体。


 昨日まで、ただの未知の報酬だったもの。


 今、値段がついた。


 大銀貨二枚。


 それは、Eランク冒険者にとって軽い金ではない。


 数日どころか、しばらくの生活を変える額だ。


 商人は続けた。


「問題は供給です。誰が取りに行けるのか。どれほど危険なのか。一本ごとに数字が減るのか。効果は何日続くのか。そこが分かれば、もっと正確に値を出せます」


「商人を村に向かわせる気か」


 支部長が聞く。


 商人は微笑んだ。


「向かわない理由がありません」


「迷宮だぞ」


「だから護衛を雇います」


「早いな」


「商売は遅れた者から損をします」


 クレスは静かに言った。


「第3層は新人だけで入る場所ではありません。紅肌の雫は、欲だけで取りに行けば死にます」


 商人はクレスを見た。


「なら、危険を越えられる者の取り分が生まれます」


 その声は穏やかだった。


「命を救う薬ではない。けれど、命を張って取りに行く者は出る。商いとは、そういう矛盾にも値札をつけるものです」


 その言葉は、静かだった。


 だが、冷たかった。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。


【紅肌の雫 市場価値認識を確認】


【買い取り価格の提示を確認】


【商業欲、希少価値認識、利益欲、警戒を獲得】


【獲得DP:84】


【現在DP:357】


「うわ、来た!」


 俺は思わず立ち上がった。


「大銀貨二枚! 値段ついた! しかもDPも入った!」


『商人の欲は濃いわね』


「濃い! すごい濃い! 美容欲とは違う濃さだな!」


『使いたい欲ではなく、売りたい欲ね』


「そうそう。これが商売の匂いか……!」


 俺は表示を見ながら、喜びと嫌な予感が同時に湧くのを感じた。


 現在DP357。


 第3層生成前を超えた。


 投資回収としては、かなりいい。


 だが、値段がついた。


 大銀貨二枚。


 それはつまり、紅肌の雫が「欲しいもの」から「稼げるもの」に変わったということだ。


「……ここから危ないな」


『ええ。金額は欲を鋭くするわ』


「使いたい奴、売りたい奴、独り占めしたい奴。全部来る」


『望んでいたのでしょう?』


「望んでた。望んでたけど、実際に動き出すと怖いな」


『嬉しそうでもあるわ』


「それも否定できない。最悪だな、俺」


『迷宮主らしくなっているわ』


「それ褒め言葉として受け取っていいのか?」


『評価よ』


「便利だな、それ」


 俺は清水の間へ意識を戻した。


 村に残っている者たちは、まだ大銀貨二枚という値段を知らない。


 だが、噂は必ず戻る。


 クレスが戻る。


 商人も来る。


 そして、値段は人を変える。


「……あの治癒術師見習いの子、聞いたらまずいかもな」


『もう聞く前から揺れているわ』


「だよなあ」


 俺は、黒い水膜に映る少女を見た。


 彼女はまだ清水の間の端にいた。


 カティアの視線を避けるように、静かに立っている。


 でも、心はもう立ち止まっていなかった。






 クレスが村へ戻ったのは、夕方だった。


 彼は支部長への報告を終え、商人ギルドの鑑定役が翌日以降に村へ向かう可能性を伝えた。


 もちろん、清水の間で大声で話したわけではない。


 オルド村長の家で、カティア、マイラ、フィン、サナ、リオだけを呼んで伝えた。


 だが、人の耳は壁より薄い。


 大事な話ほど、どこからか滲む。


「買い取り価格の目安が出た」


 クレスが言った。


 カティアは腕を組む。


「いくらだ」


「大銀貨二枚」


 フィンが固まった。


「……え?」


 リオも目を見開く。


「大銀貨、二枚?」


 サナの表情が変わった。


 マイラは自分の手を見る。


 紅肌の雫は、彼女にとってもうただの報酬ではない。


 自分が飲んだ一本に、値段がついた。


 クレスは続けた。


「現時点の確認済み効果での暫定評価だ。正式な価格ではない」


 カティアが舌打ちする。


「十分だ。馬鹿が走るには十分すぎる」


「だから、今夜から見張りを強める」


 クレスは全員を見る。


「第3層への無断侵入は禁止。特に単独行動は厳禁だ」


 フィンが真剣に頷いた。


「分かりました」


 リオも頷く。


「はい」


 サナは少し黙ってから言った。


「……分かっています。けれど、この額を聞けば、行きたくなる者は出ます」


「だから止める」


 カティアが短く言った。


「欲しがるのはいい。だが、死にに行くな」


 その言葉は、家の外にいた数人の耳にも届いた。


 治癒術師見習いの少女も、その中にいた。


 大銀貨二枚。


 その言葉が、彼女の中に落ちた。


 重く。


 熱く。


 怖いほど、はっきりと。


 それだけあれば、装備を整えられる。


 薬草を買える。


 古びた鞄を替えられる。


 家へ仕送りもできる。


 けれど、それだけではなかった。


 使えば、自分の手も少し変わるかもしれない。


 この荒れた指先が。


 疲れて見える顔が。


 少しだけ、マイラのように。


 治癒術師として、私は後ろで見ているだけだった。


 マイラさんは使った。


 変わった。


 私は見ていた。


 見ていただけだった。


 少女は自分の指先を握った。


 爪の横が、少し荒れていた。


 薬草を刻み、水仕事をし、怪我人の処置をする手。


 誰かを治す手。


 けれど、自分の手を見るたびに、少しだけ惨めになる手。


 大銀貨二枚。


 紅肌の雫。


 藻の迷路。


 声が届きにくい。


 新人だけでは危険。


 その言葉は聞こえていた。


 聞こえていたのに、別の言葉が勝った。


 私だって。


 欲しい。






 黒い水膜の内側で、俺は目を閉じた。


「……濃くなった」


『ええ。とても濃いわ』


「この感じ、もう止まらないか?」


『止めるのは外の人間の役目でしょう』


「そうだな」


 俺は清水の間を見た。


 カティアは明らかに警戒している。


 クレスも見張りを強めるつもりだ。


 だが、欲は見張りの隙間を探す。


 人が眠る時間を探す。


 自分だけは大丈夫だと思う理由を探す。


「来るな」


『来るわ』


「だよな」


『貴方も分かっているでしょう』


「分かってる」


 俺は息を吐いた。


「来たら、迷宮は止めない」


『ええ』


「第1層で水を汲むなら客。第2層で戻る練習をするなら訓練者。でも第3層へ欲を持って単独で入るなら……」


『挑戦者ね』


「そうだな。挑戦者だ」


 そして、挑戦には失敗がある。


 俺はそれを、黙って見届けるしかなかった。






 その夜。


 ルスカ村は静かだった。


 清水の間にも、最低限の見張りはいた。


 カティアは一度、第2層入口まで確認してから、村の外縁へ回った。


 クレスはオルド村長と見張りの配置を話している。


 フィンは眠気と戦いながら、水場近くで座っていた。


 マイラは記録板を抱えたまま、壁にもたれて目を閉じている。


 全員が警戒していた。


 だが、全員が同時に全てを見られるわけではない。


 治癒術師見習いの少女は、静かに動いた。


 足音を殺す。


 杖は持たない。


 音が鳴るから。


 腰に小さな鞄だけ。


 包帯と、簡単な薬草と、小さなナイフ。


 第1層を抜ける。


 水音が聞こえる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 まるで何も見ていないように、清水は流れている。


 少女は壁文字を見た。


 転売禁止。


 大量持ち出し禁止。


 破壊行為禁止。


 自分は転売目的ではない。


 大量に持ち出すつもりもない。


 壊すつもりもない。


 ただ、自分の分が欲しいだけ。


 だから、大丈夫。


 そう、自分に言い聞かせた。


 第2層へ入る。


 ぬかるみ回廊。


 ここは見たことがある。


 入口訓練で、何度も見た。


 滑る石。


 泥スライム。


 苔鼠。


 浅い泥。


 彼女は慎重に進んだ。


 治癒術師だから、前衛ではない。


 でも、見ていた。


 マイラがどう歩いたか。


 カティアが何を注意したか。


 フィンがどこで転びかけたか。


 見ていたから、分かる。


 分かるはず。


 泥に足を取られ、一度膝をついた。


 息を殺す。


 誰にも聞こえないように。


 戻ろうか。


 そう思った。


 だが、頭の中で大銀貨二枚が光った。


 紅肌の雫。


 少女は立ち上がった。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。


【第2層 単独進入を確認】


【焦燥、期待、自己正当化を検知】


 俺は唇を噛んだ。


「来たか」


『来たわね』


「第2層で戻るなら、まだ訓練で済む」


『戻らないわ』


「……だよな」


 少女は進む。


 迷宮は止めない。


 泥は、いつも通り滑る。


 苔鼠は、いつも通り足元を狙う。


 水スライムは、いつも通りぬめる。


 特別に強くはしない。


 特別に弱くもしない。


 迷宮は、ただ迷宮としてそこにある。


 少女は第2層を抜けた。


 第3層の入口へ立つ。


 青く湿った藻の匂い。


 水音。


 声を吸う、奥の暗さ。


「一本だけ……」


 少女は小さく呟いた。


 その声は、第3層の入口で水に溶けた。


 そして、彼女は藻の迷路へ足を踏み入れた。






 第3層は、昼間より静かだった。


 水音だけが響いている。


 さらさら。


 ちゃぷ。


 こぽり。


 少女は壁に手を当てながら進んだ。


 藻が指に触れる。


 ぬるりとした感触に、肩が跳ねる。


 戻る?


 いや。


 まだ入口から少ししか来ていない。


 もう少しだけ。


 もう少し進めば、宝箱があるかもしれない。


 四人が行けたなら、自分も。


 自分だって冒険者だ。


 治癒術師だ。


 誰かの後ろにいるだけではない。


 足元で、水スライムが薄く広がっていた。


 少女は気づかず踏んだ。


「ひっ」


 足首が取られる。


 転ぶ。


 手をついた先に藻が絡む。


 水が跳ねる。


 小さなナイフが鞄から落ち、石の上を滑って水路へ消えた。


「待って、待って……!」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 少女は立ち上がり、進んだ。


 戻る道は。


 どちらだったか。


 水音が左右から響く。


 藻が揺れる。


 さっき通った場所に見える。


 でも違う。


 壁に印はない。


 カティアなら印をつけた。


 クレスなら足を止めた。


 マイラなら魔力を見た。


 フィンなら、たぶん叫んだ。


 自分は何をしているのだろう。


 少女の息が荒くなる。


「戻らなきゃ」


 その言葉が、ようやく出た。


 遅かった。


 足元の石がぬめる。


 水スライムが、逃げ道のように見えた通路を塞ぐ。


 藻が垂れ、視界を切る。


 少女は振り返る。


 そこにあったはずの道は、緑の壁に変わっていた。


「誰か……!」


 声は水に沈んだ。


 第3層の外には届かない。


 強い恐怖だけが、迷宮の奥へ流れ込む。






 黒い水膜の内側で、俺はそれを見ていた。


 拳を握る。


 助けるか?


 その考えは、当然浮かんだ。


 でも、すぐに首を振った。


 ここは第3層だ。


 報酬を置いた場所だ。


 欲を持って、単独で、警告を越えた。


 それを毎回助けるなら、ここは迷宮じゃなくなる。


「……よし」


『よし、なの?』


「よしって言わないと、こっちがぶれる」


 俺は息を吐いた。


「第1層は助ける場所。第2層は鍛える場所。第3層は、欲を試す場所。そこを俺が間違えたら、この迷宮のルールが全部ぐにゃぐにゃになる」


『ええ』


「日本人としては、まあ、胃にくる。そこは正直にくる。だけど俺も死にたくないし、ヴェルティアも砕けさせない。迷宮を育てるって決めたなら、ここで止まるのは違う」


『迷宮主らしいわ』


「だろ? ちょっとずつ板についてきた。胃は削れてるけどな!」


『削れた胃も糧になるのかしら』


「ならない! 俺の胃は非売品!」


 軽口を叩いた。


 叩かないと、重さに足を取られそうだった。


 でも、目は逸らさない。


 少女は藻の迷路の奥で、さらに道を間違えた。


 恐怖が濃くなる。


 後悔が混じる。


 欲が、焦げたような匂いに変わる。


 大銀貨二枚。


 紅肌の雫。


 少しだけ違う自分。


 その言葉が、最後には助けてに変わった。


 だが、外には届かなかった。


 水音が一度だけ大きく跳ねた。


 藻の奥で、小さな魔力がほどける。


 少女の感情が、細い糸のように迷宮へ流れ込んだ。


 恐怖。


 後悔。


 焦り。


 そして最後まで残っていた、小さな欲。


 俺は、目を逸らさなかった。


「……来たものは、受け取る」


『ええ』


「迷宮だからな」


『ええ。迷宮だからよ』






 翌朝。


 最初に違和感に気づいたのはマイラだった。


「……治癒術師見習いの子は?」


 清水の間にいた新人たちが顔を見合わせる。


 リオが周囲を見る。


「さっきから見てない」


 サナの顔が強張った。


「昨夜は?」


「途中までは、いた」


 フィンが立ち上がった。


「まさか」


 その声に、カティアが顔を上げた。


 一瞬で目が変わる。


「全員、動くな」


 清水の間が凍った。


 カティアは第2層入口へ向かった。


 クレスもすぐに続く。


 床に、小さな泥跡があった。


 軽い足跡。


 前衛のものではない。


 細い靴底。


 泥はまだ乾ききっていない。


 カティアが低く言った。


「あの馬鹿……」


 クレスの顔が険しくなる。


「第3層か」


「たぶんな」


 マイラが青ざめた。


「私のせいですか」


 カティアはすぐには答えなかった。


 泥跡を見る。


 第2層の奥を見る。


 それから、マイラの顔を見た。


「……違う」


 その声は、低かった。


「欲しがったのは本人だ。踏み込んだのも本人だ。お前の顔色がよくなったせいじゃねえ」


 マイラは唇を噛む。


 クレスは奥を見た。


「探しに行く。だが、新人はここに残れ」


 リオが一歩出る。


「俺も」


「残れ」


 クレスの声が鋭かった。


「二次被害を出すな」


 リオは動けなくなった。


 サナが拳を握る。


 清水の間の奥から、湿った藻の匂いが流れてきた。


 そして、黒い水膜の内側では、青白い表示が静かに浮かんでいた。


【第3層 単独侵入者死亡】


【欲望、恐怖、後悔、焦燥を獲得】


【生命力を獲得】


【獲得DP:214】


【第3層 水スライム再配置、藻の迷路修復、紅肌の雫補充準備にDPを48消費】


【現在DP:523】


 俺は、その数字を見た。


 増えた。


 大きく増えた。


 さすがに、一瞬だけ黙った。


 でも、次の瞬間には頬を叩いた。


 ぱん、と乾いた音が黒い水膜の内側に響く。


「よし。受け取った!」


『切り替えが早いわね』


「早くする! ここで沈んでも、あの子は戻らないし、迷宮も止まらない!」


 俺は表示を見据えた。


「これは事故じゃない。警告を聞いて、値段を聞いて、危険を知った上で、単独で第3層に入った結果だ。なら、迷宮は迷宮として受け取る」


『ええ』


「もちろん覚えてはおく。最初に紅肌の雫で死んだ子だ。そこは忘れない。でも、ここで俺がしょげて運営止めたら、それこそ何のために第3層を作ったんだって話になる」


『迷宮主としては、正しい判断ね』


「だろ。俺、今けっこう迷宮主してる」


『少しだけね』


「少しだけかよ!」


 俺はわざと声を明るくした。


 重さは残っている。


 でも、それを抱えたまま前へ進む。


 清水の迷宮は、優しい水場だけでは終わらない。


 第3層は報酬を出す。


 欲を呼ぶ。


 そして、越えてきた者だけを通す。


「大丈夫大丈夫。なんとかする」


『根拠は?』


「今から作る!」


『本当に貴方らしいわね』


「そういうことで!」


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清い水の奥で、赤い雫はもう、ただの報酬ではなくなっていた。


 誰かが欲しがり、誰かが踏み越え、誰かが戻れなくなる。


 それでも迷宮は開いている。


 清水の迷宮は、また一つ深くなった。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


届かなかった声と、欲しかった一本。


清水の迷宮は、また少し深くなりました。


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