第13話 残る者だけ、残れ
朝の清水の間は、重かった。
水音は変わらない。
ぽたり。
ぽたり。
いつも通り、清い水は水盤へ落ちている。
だが、誰もその音をいつものようには聞けなかった。
治癒術師見習いの少女が、戻っていない。
昨日の夜、どこかで姿を消した。
そして第2層の入口には、細い靴跡が残っていた。
泥のつき方は浅い。
前衛の足ではない。
重い鎧の足でもない。
軽い靴。
小さな足。
それが、ぬかるみ回廊へ向かっていた。
カティアはその跡を見て、低く舌打ちした。
「あの馬鹿……」
クレスはすぐに判断した。
「確認に入る。俺とカティアで行く」
「私も行きます」
マイラが言った。
顔色は悪い。
それでも、目は逃げていなかった。
カティアが一瞬だけマイラを見る。
「足を引っ張るなら置いていく」
「引っ張りません」
「泣くなら外で泣け」
「泣きません」
マイラの声は震えていた。
けれど、折れてはいなかった。
フィンも一歩前に出た。
「俺も行きます」
「鼻の泥を増やしたいのか」
「増やしたくはないです。でも、昨日一緒に待機していたのに、気づけませんでした」
カティアはフィンを見た。
いつものように軽口で叩き返そうとして、やめた。
「……分かった。だが、勝手に走るな。見つけても叫ぶな。戻れと言ったら戻れ」
「はい」
クレスは新人たちへ向き直った。
「リオ、サナ。君たちは残れ」
リオが拳を握った。
「でも」
「残れ」
クレスの声は短かった。
「今、第3層に人数を増やせば、二次被害になる」
リオは歯を食いしばった。
サナは黙って頷いた。
「……分かりました」
オルド村長が静かに言った。
「村の者は近づけぬようにしておく」
「お願いします」
クレスたちは、第2層へ入った。
黒い水膜の内側で、俺はその背中を見ていた。
「確認に行くか」
『当然でしょう。外の人間には、まだ何が残っているかも分からないもの』
「何も残ってないけどな」
『ええ。迷宮が受け取った』
ヴェルティアの声は淡々としている。
冷たい。
でも、間違ってはいない。
俺は黒い水膜の向こうで、クレスたちが第2層を抜けていくのを見た。
昨日の夜、少女は一人でここを通った。
滑る石。
泥スライム。
苔鼠。
足元を見る訓練を、彼女は見ていた。
見ていたから、自分もいけると思った。
それが一番危ない。
「見ていたから分かる、か」
『人間はよく勘違いするわね』
「耳が痛い。俺も前世で何回かやった」
『死んだの?』
「仕事では死んだ」
『本当に死んだでしょう』
「それは別件!」
思わずツッコんだ。
少しだけ、胸の重さが軽くなる。
軽くした。
そうしないと、こっちまで藻に沈む。
「まあ、でも次だな」
『次?』
「同じ単独侵入が増えるのは困る。死ねばDPは濃い。でも、そんなのばっかり続いたら迷宮が荒れる。人が怖がって来なくなるか、逆に馬鹿だけが来る」
『どちらも効率が悪いわね』
「だろ? だから、死んだら終わりじゃない。運営改善だ」
『うんえいかいぜん』
「そう。死を無駄にしない、じゃなくて、死を次の仕組みに変える」
『随分と迷宮主らしい言い方になったわ』
「俺も成長してるからな。できれば胃以外で成長したいけど」
『胃の階層は?』
「増築中止!」
第2層は、朝の光が届かない。
湿った泥の匂いが、いつもより重く感じられた。
クレスを先頭に、カティア、マイラ、フィンが進む。
泥の上には、昨夜の細い足跡が残っていた。
途中で一度、深く乱れている。
転んだ跡だ。
小さな手の跡もある。
フィンがそれを見て、唇を結んだ。
「ここで転んだんですね」
「喋るな。見ろ」
カティアが短く言った。
フィンは頷いた。
足跡は、第3層へ向かっていた。
戻った跡はない。
第3層の入口に近づくにつれ、藻の匂いが強くなる。
クレスは足を止めた。
「ここから声は届きにくい。昨日と同じだ」
「分かってる」
カティアは白石を取り出し、壁に印をつけた。
「今日は探すのが目的だ。報酬に気を取られるな」
マイラが小さく頷く。
「はい」
フィンも頷いた。
「はい」
四人は第3層へ入った。
水音が、すぐに声を鈍らせる。
さらさら。
ちゃぷ。
こぽり。
藻の迷路は、昨日と同じように湿っていた。
けれど、昨日とは違うものがあった。
細い足跡。
藻を乱した跡。
水スライムを踏んだような、水膜の不自然な広がり。
そして、途中から急に乱れた足取り。
マイラが息を呑んだ。
「……ここで、迷ったんですね」
クレスが手を上げ、全員を止める。
カティアがしゃがみ込み、床を見る。
足跡は、何度も同じ場所を回っていた。
行って、戻って、曲がって、また戻る。
迷路に誘導された者の足跡だった。
そして、さらに奥。
水路のそばで、足跡が途切れていた。
そこから先は、何もない。
血の跡もない。
布切れもない。
鞄もない。
杖もない。
包帯もない。
靴すら残っていない。
ただ、濡れた石床と、ゆっくり揺れる藻だけがあった。
カティアの表情が険しくなる。
「……持ち物まで、きれいに消えてやがる」
フィンの喉が動いた。
「全部、ですか」
「ああ。死体だけじゃねえ。身につけてたものも、持ってたものも、まとめて食われたんだろうな」
マイラは言葉を失った。
クレスは足跡が途切れた場所を静かに見つめた。
「戻った跡はない」
カティアが頷く。
「これ以上、証拠は要らねえな」
「奥は?」
フィンが聞く。
クレスは水音の奥を見た。
「これ以上は無理に追わない。痕跡は十分だ」
カティアも頷く。
「死んだ場所を探して、こっちが迷ったら笑えねえ」
「戻る」
クレスが言った。
その声に、マイラは小さく息を吐いた。
「……はい」
帰り道、誰も軽口を言わなかった。
水音だけが四人の後ろを追ってきた。
黒い水膜の内側で、表示が静かに浮かんだ。
【第3層 死亡痕跡確認を検知】
【畏怖、悔恨、警戒、規律意識を獲得】
【獲得DP:72】
【現在DP:595】
数字が増えた。
それを見て、俺は一度だけ黙った。
昨日の死が、今もこうして迷宮に流れ込んでいる。
正直、気分はよくない。
よくないけど、そこで止まっても誰も戻らない。
俺は両手で自分の頬を軽く叩いた。
ぱん。
「よし。受け取った。で、次に回す」
『切り替えるのね』
「切り替える。気分悪いままでも、前に進む。ここで湿っぽく沈んだら、俺まで藻になる」
『藻にはならないと思うけれど』
「気分の話!」
俺は表示を見た。
「怖がって、警戒して、規律を意識する。これは今後につながる。単独で死んだだけより、こっちの方が運営的には大事だ」
『運営的』
「そう。俺はもう沈まない。受け取ったなら、次に回す」
『切り替えが早くなったわね』
「早くした。暗くなるのは性に合わないしな」
『貴方らしいわ』
「でしょ?」
『少しだけ』
「少しだけが多いな、最近!」
清水の間に戻ると、全員がこちらを見た。
クレスたちは、何も持っていなかった。
包帯も、鞄も、杖も、遺品と呼べるものは何一つない。
それだけで、誰もが理解した。
残っていない。
戻らない。
戻れない。
リオが拳を握った。
サナは唇を噛んだ。
オルド村長は目を閉じ、短く祈るように頭を下げた。
マイラはクレスの空の手から目を離せなかった。
カティアが大きく息を吸った。
「よく聞け」
清水の間にいた冒険者たちが、全員そちらを向く。
「昨日、治癒術師見習いが一人死んだ」
そこで、カティアは一度言葉を切った。
舌打ちしそうになって、やめた。
視線が一瞬だけ、足跡の残る第2層入口へ向く。
「……あいつは、馬鹿だった。けど、馬鹿で片づけりゃ済む話でもねえ」
清水の間が静まり返る。
「紅肌の雫が欲しかった。大銀貨二枚がちらついた。自分なら行けると思った。そう思う気持ちは、たぶんここにいる何人かにもある」
リオが目を伏せる。
サナも拳を握った。
「だから言う。欲しいと思うな、とは言わねえ。金が欲しいのも、雫が欲しいのも、冒険者なら当たり前だ」
カティアの声が少し荒くなる。
「だが、欲に負けて、仲間にも告げず、見張りをすり抜けて、勝手に第3層へ入る奴は冒険者でも何でもねえ。ただの迷子志願者だ」
フィンが目を伏せた。
マイラも小さく拳を握る。
「冒険者をやってりゃ、死は隣にいる。新人ひとりが死んだくらいで怖気づくなら、冒険者は辞めろ。それは恥じゃねえ。向いてねえ仕事から降りるのは、利口な判断だ」
カティアは第3層の奥を指さした。
「怖いなら帰れ。帰る奴を笑うな。残るなら足元を見ろ。欲しいなら順番を守れ。金が欲しいなら、生きて戻ってから数えろ」
そして、少し乱暴に髪をかいた。
「……くそ。あたしは説教が嫌いなんだよ。だが、同じ死に方をもう一回見せられるのはもっと嫌いだ」
その一言で、カティアの声が少しだけ人間に戻った。
完璧な訓示ではなかった。
怒っていた。
苛立っていた。
悔しさも混じっていた。
それでも、言わなければならないから言っている。
クレスが静かに引き取った。
「今日から暫定で決める。第3層への単独進入は禁止。Eランクは必ず複数人。第2層を安定して抜けられない者は、第3層に入らない。経験者か、上位者の同行を強く勧める。無断で入った者は、ギルドに報告する」
リオが口を開いた。
「それでも、入る奴は」
「死ぬ」
カティアは即答した。
「そして、死んでも迷宮は謝らねえ。骨も荷物も返ってくると思うな」
清水の間が静まる。
クレスは新人たちを見た。
「昨日の死を理由に帰る者は、今ここで言っていい。責めない。残る者は、第2層からやり直す」
リオはしばらく黙った。
それから、顔を上げた。
「残ります」
サナも続ける。
「私も残ります」
フィンが少しだけ笑った。
「俺も残ります。まだ泥にも藻にも勝ってないので」
カティアが鼻を鳴らす。
「お前はまず鼻に勝て」
「そこから!?」
少しだけ、空気が緩んだ。
ほんの少し。
でも、その少しが必要だった。
クレスは頷く。
「では、今日は第2層訓練のみ。第3層には入らない」
「待て」
カティアが言った。
クレスが振り返る。
「商人が来るんだろ」
「ああ」
「紅肌の雫を見せるなら、管理できる本数が要る。今あるのは少ない。勝手に取りに行く馬鹿を減らすためにも、こっちで数本押さえておくべきだ」
クレスは少し考えた。
「正規踏破か」
「そうだ。馬鹿の後始末とは別だ。仕事として潜る」
マイラが顔を上げた。
「私も行きます」
カティアは眉を寄せた。
「無理するな」
「無理ではありません。記録が必要です」
「さっき死んだばかりだぞ」
「だからです」
マイラの声は静かだった。
「危険を知らない人が勝手に入るくらいなら、正しい入り方の記録を残した方がいいです」
カティアはしばらくマイラを見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「本当に真面目で胃に悪いな」
「すみません」
「謝るな。行くぞ」
フィンが手を上げた。
「俺も、ですよね」
「当たり前だ。昨日踏破した奴が怖がって逃げたら、新人が余計にびびる」
「責任重大!」
「転ぶなよ」
「それは保証できません!」
「保証しろ」
クレスは四人を見る。
「俺、カティア、フィン、マイラで入る。目的は正規踏破と紅肌の雫の確保。無理はしない」
リオが口を開いた。
「見学は」
「第2層入口まで」
クレスが言った。
「そこから先は入るな。今日は見ることも訓練だ」
リオは悔しそうに頷いた。
黒い水膜の内側で、俺は思わず手を叩いた。
「いい! それだよ、それ!」
『何が?』
「正規ルートで取りに来る。この流れが欲しかった!」
『嬉しそうね』
「嬉しいよ! 単独死で終わったらただの事故だけど、そこからルールを作って、正規踏破に戻す。これなら迷宮運営が回る!」
『人間を壊すのではなく、流れを作る』
「そうそう! 死んだら終わり、じゃなくて、死んだから仕組みが増える。これが運営!」
『冷たいわね』
「冷たいけど、必要。あと、長く稼ぐにはこっちの方がいい」
『本音が出たわね』
「出すよ! 俺はもう隠さない! 迷宮主だもの!」
『言い切ったわね』
「言い切る練習中!」
俺は第3層の奥を見た。
藻の迷路は、昨夜の死を飲み込んだ。
だが、今日は正しい手順で人が入る。
同じ場所。
同じ報酬。
違うのは、入り方だ。
「ヴェルティア」
『何?』
「第3層、少しだけ戻り道の癖を安定させられるか?」
『助けるの?』
「違う。正規踏破の再現性を上げる。経験者が印をつけて、複数で進めば戻れる。でも単独で焦れば迷う。その差をはっきりさせたい」
『なるほど。仕組みとしての難度調整ね』
「そう。完全ランダムすぎると、上手いやつでも事故る。かといって簡単すぎると舐められる」
『欲を試すには、理不尽より納得できる危険の方が長く続くわね』
「それ! さすがヴェルティア、話が早い!」
『高貴なる理解力よ』
「便利!」
『褒め方が雑ね』
【第3層 藻の迷路 踏破経験者用の痕跡残存を微調整】
【壁印の残存率を上昇】
【水音反響の変動幅をわずかに調整】
【単独侵入時の焦燥反応による誤誘導は維持】
【DPを18消費しました】
【現在DP:577】
「よし。必要経費!」
『数字が減ったのに明るいのね』
「使い道がはっきりしてる出費はまだ耐えられる!」
『貴方の中の経理は忙しそうね』
「今、腕まくりしてる」
正規踏破は、前回より静かに進んだ。
クレスが前を見る。
カティアが壁印を確認する。
フィンが足元を見る。
マイラが水音と魔力の流れを記録する。
誰も急がない。
誰も一人で前に出ない。
昨日、細い足跡が消えた場所では、全員が一度足を止めた。
そこには、もう何もなかった。
持ち物もない。
痕跡も薄れている。
ただ、藻が静かに揺れていた。
マイラは目を伏せた。
フィンも黙った。
カティアは何も言わず、壁に新しい印を刻んだ。
白い線が一本。
濡れた石に残る。
その音だけが、妙にはっきり響いた。
クレスが静かに言う。
「進む」
それだけだった。
藻の壁が揺れる。
水スライムが石の上に薄く広がる。
昨日と同じ危険。
だが、四人は見ていた。
止まった。
確認した。
進んだ。
最初の分岐で、フィンが半歩前に出かけた。
その瞬間、ぬるりとした石の光に気づき、自分で足を止める。
「……ここ、滑ります」
カティアが横目で見る。
「分かってるなら言え」
「はい。右の石、薄く水スライムが乗ってます」
クレスが剣先で軽く石を叩く。
水スライムがぷるりと震え、水路へ逃げた。
マイラが記録する。
「見えている時は対処可能。ただし、焦ると踏む」
「まさに昨日のあれだな」
フィンが小さく言った。
カティアは何も返さなかった。
ただ、次の壁に印をつけた。
次の分岐では、水音が左から聞こえた。
だが、カティアは右を見た。
「音に釣られるな。藻の根元を見ろ」
フィンが藻を見る。
マイラも見る。
水が当たっている藻は、わずかに薄い。
左ではなく、正面奥。
クレスが頷く。
「こちらだ」
リオやサナがいたら、たぶん水音を追っただろう。
昨日の少女も、そうしたかもしれない。
フィンは喉の奥で息を止めていた。
怖くないわけではない。
足元を見るたび、昨日戻らなかった少女の足跡を思い出す。
それでも、彼は笑おうとした。
「藻って、意外と嘘つきですね」
カティアが短く言う。
「嘘つきは藻じゃねえ。見たいものだけ見る目だ」
「今日のカティアさん、刺し方が鋭いです」
「刺さったなら覚えろ」
「はい」
迷路の中盤で、一度同じ場所に戻った。
カティアがすぐに気づく。
「戻ったな」
フィンが小さく言う。
「でも、昨日より分かります」
「なぜだ」
「印がある。あと、水音に釣られると戻されるって分かってるから」
「少しは賢くなったな」
「少し!」
「大きくはねえ」
「そこは言わなくていいです!」
マイラが小さく笑った。
クレスもわずかに表情を緩める。
重さは残っている。
怖さも残っている。
だが、足は止まっていない。
四人は最奥へたどり着いた。
小さな部屋。
宝箱。
カティアが周囲を確認する。
「罠らしい罠はなし。だが油断するな」
クレスが蓋を開ける。
中には、小瓶が四本。
薄い赤の液体が、静かに揺れていた。
宝箱の底に文字が浮かぶ。
紅肌の雫。
突破者一名につき、小瓶一つ。
フィンが小さく息を吐いた。
「……出ましたね」
マイラは記録板に書き込む。
「正規踏破、四名。報酬四本」
カティアは小瓶を一本ずつ布に包んだ。
「これが金になる。だから馬鹿が死ぬ」
フィンは少しだけ顔を曇らせた。
カティアは続ける。
「だが、正しく取れば持ち帰れる。そこを間違えるな」
「はい」
クレスは宝箱が消えるのを確認した。
「戻るぞ。売るのはまだだ。商人が来てからだ」
四人は再び戻り始めた。
帰り道でも、誰も急がなかった。
小瓶は重かった。
それは金の重さであり、欲の重さであり、昨日戻らなかった少女の重さでもあった。
黒い水膜の内側で、表示が浮かぶ。
【第3層 正規踏破を確認】
【踏破者数:4名】
【踏破報酬 紅肌の雫を4本生成】
【警戒、規律、達成感、報酬欲、管理意識を獲得】
【獲得DP:126】
【第3層 水スライム再配置、藻の迷路修復、紅肌の雫補充準備にDPを36消費】
【現在DP:667】
「よし!」
俺は声を上げた。
「正規踏破でちゃんと戻った! 雫も四本追加! DPも黒字!」
『数字で元気になる男ね』
「なる! だってこれはいい数字だぞ。死のDPじゃない。ちゃんと挑んで、怖がって、戻って、報酬を持ち帰った数字だ」
『こちらの方が好み?』
「好みというか、長く続く。死ぬ奴だけで稼ぐと、迷宮が荒れる。でも、正規踏破で稼げるなら運営になる」
『運営』
「そう。清水の迷宮、ようやく商売の形が見えてきた!」
『迷宮よ』
「生活インフラ迷宮です!」
『まだ言うのね』
「看板だからな!」
俺は黒い水膜を見た。
四本の紅肌の雫。
これで手元の本数は増えた。
商人に見せられる。
売れる。
値段が本物になる。
人が来る。
村も動く。
ギルドも動く。
そして迷宮は深くなる。
「次は売却だな」
『ええ。人間が、赤い雫に銀を積むところを見るのね』
「楽しみだなあ。怖いけど」
『また両方なのね』
「両方! 欲が動く時は、だいたいそう!」
清水の間へ四人が戻ると、空気が少し動いた。
恐怖だけではない。
安堵。
驚き。
そして、やはり欲。
紅肌の雫が四本、布の上に並べられた。
クレスは全員に見えるように置いた。
「正規手順で踏破した。報酬は四本」
リオが息を呑む。
「本当に、人数分……」
サナは小瓶を見つめた。
「危険を越えれば、得られる。でも、単独では戻れない」
「そうだ」
クレスは頷く。
「今日の結果をギルドへ追加報告する。明日以降、商人が来る可能性が高い」
オルド村長が重く頷いた。
「村も備えねばならんな」
「はい。水汲みの者と冒険者、商人が混ざれば混乱します」
カティアが言う。
「飯、寝床、荷物置き、見張り。全部足りなくなるぞ」
フィンが小さく言った。
「急に村が忙しくなりますね」
「忙しくなる前にルールを決めるんだよ。後から決めると揉める」
カティアは新人たちを見た。
「お前らもだ。残るなら第2層から叩き直す。紅肌の雫が欲しいなら、まず泥で転べ。話はそれからだ」
リオは真剣に頷いた。
「はい」
サナも頷く。
「分かりました」
マイラは静かに記録板を閉じた。
「正しい手順で、戻る」
その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。
クレスは布に包んだ紅肌の雫を持ち上げる。
「売却はまだしない。商人が来てから、ギルド立ち会いで扱う」
誰かが小さく息を吐いた。
欲はある。
でも、今日の清水の間には、昨日より少しだけ規律があった。
死は消えない。
だが、死だけで止まる者ばかりではない。
怖がりながら。
欲しがりながら。
それでも、人は次の手順を作る。
黒い水膜の内側で、俺は腕を組んだ。
「いい流れだ」
『満足そうね』
「満足。怖がった。ルールを作った。正規踏破した。報酬を確保した。次は商人。完璧じゃないけど、かなりいい」
『死者が出た翌日とは思えないほど進むのね』
「止まっても戻らないからな。なら進める。明るく、とは言わないけど、前向きにはいく」
『貴方らしいわ』
「だろ?」
『ええ。少し騒がしいけれど』
「そこは標準装備!」
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
清い水は、今日も流れる。
その奥で、赤い小瓶が布に包まれている。
欲が値を持ち、死がルールを生み、冒険者がまた一歩進む。
清水の迷宮は、悲鳴だけでは育たない。
恐怖。
欲。
規律。
そして、戻ってくる足音。
その全部を飲み込みながら、次の客を待っていた。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
戻らなかった足跡のあとに、戻ってくる足音が続きました。
赤い雫は、次に銀の音を呼びます。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




