第14話 赤い雫に値がつく
翌朝。
ルスカ村の入口に、馬車が来た。
一台ではない。
二台だった。
一台は冒険者ギルドの簡素な荷馬車。
もう一台は、幌つきの商人馬車。
車輪が土を踏む音に、村人たちが顔を出す。
畑の手を止める者。
水桶を抱えたまま立ち止まる者。
子どもは目を輝かせ、大人は不安そうに眉を寄せる。
「また人が来たぞ」
「今度は商人か?」
「あれ、ギルドの印じゃないか」
「清水の迷宮の件だろう」
ざわめきが、朝の村を走った。
クレスは清水の間の入口近くで馬車を迎えた。
カティアは少し離れた場所に立っている。
腕を組み、目つきは悪い。
フィンとマイラは、昨日確保した紅肌の雫を入れた小箱のそばにいた。
リオとサナたちは、第2層入口より手前で待機している。
今日は、勝手に動く者はいない。
少なくとも、今は。
馬車から降りてきたのは、昨日ラクト支部で紅肌の雫を見た灰髪の商人だった。
後ろには護衛らしい男が二人。
さらに、冒険者ギルドの職員が一人。
小さな机と記録板まで持ってきている。
フィンがそれを見て、小声で言った。
「机まで来ましたね」
カティアが鼻を鳴らす。
「値がつくと分かったら、商人は机ごと来る」
「机ごと」
「帳簿がないと安心して欲をかけねえんだよ」
「勉強になります」
「お前はまず泥で転ばない勉強をしろ」
「はい!」
灰髪の商人は、清水の間の入口で足を止めた。
壁文字を見る。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
商人の目が、少しだけ細くなる。
「なるほど。水の管理だけでなく、商いにも線を引いている」
カティアが言った。
「線を踏み越えた奴は、戻らねえぞ」
「聞いております」
商人は穏やかに頷いた。
「だからこそ、正式に伺いました。ギルド立ち会いのもと、適正に買い取らせていただきます」
「口だけなら安い」
「ええ。ですので、代金を持ってきました」
商人は懐から革袋を取り出した。
中で、硬い音が鳴る。
ちゃり。
その音に、周囲の冒険者たちの視線が一斉に動いた。
紅肌の雫を見る目とは違う。
今度は、はっきりと金額を見る目だった。
黒い水膜の内側で、俺は思わず前のめりになった。
「来た来た来た! 商人、ちゃんと代金持ってきた!」
『ずいぶん嬉しそうね』
「そりゃ嬉しいよ! ついに紅肌の雫が現金化されるんだぞ!」
『現金化』
「欲が形になる瞬間だ。ふわふわした憧れが、ちゃりんって鳴る。これは強い」
『硬貨の音で人間は動くのね』
「動く。めちゃくちゃ動く。前世でもレジの音は人間の祈祷音みたいなものだった」
『祈祷音?』
「売れてくれ、在庫減ってくれ、クレーム来るな、という祈りが詰まってる」
『やはり商売は呪術なのでは?』
「わりとそう!」
俺は清水の間を見た。
村人たち。
冒険者たち。
商人。
ギルド職員。
それぞれの視線が、小箱と革袋の間を行ったり来たりしている。
いい。
すごくいい。
水だけでは、ここまでの目にはならない。
水は命に近い。
紅肌の雫は、欲に近い。
そして硬貨は、欲を現実にする。
「ここから村が動くぞ」
『貴方、楽しそうね』
「楽しい。怖いけど楽しい。迷宮運営、やっと歯車が噛み合ってきた感じがする」
『歯車?』
「回るやつ」
『なら、回しなさい』
「はい、迷宮核様!」
清水の間の一角に、簡易の取引場が作られた。
といっても、机一つだ。
だが、その机一つがあるだけで空気が変わった。
水汲みの村人たちは、いつもより端へ寄せられている。
冒険者は、机の前に近づきすぎないようカティアに睨まれている。
商人は手袋をはめ、ギルド職員は記録板を構えた。
クレスが小箱を開ける。
中には、紅肌の雫が四本。
昨日、正規踏破で得たものだ。
薄い赤の液体が、朝の光を受けて静かに揺れる。
商人の目が、ほんの少しだけ熱を帯びた。
「拝見します」
「一本ずつだ」
カティアが言った。
「勝手に開けるな。飲むな。匂いを嗅ぐな。余計なことをしたら、その手ごと机に縫いつける」
商人はにこりと笑った。
「では、手は大事に使います」
「口も大事にしろ」
「商人から口を取ったら、ただの荷物持ちです」
「荷物持ちの方が信用できる時もある」
「手厳しい」
商人は笑ったまま、小瓶を一本手に取った。
底に魔力を流す。
水紋数字が浮かぶ。
十八。
昨日、取得時に二十だったものが、一日ごとに減っている。
商人は目を細めた。
「十八。やはり、日数の可能性が高い」
マイラが記録板を見ながら言った。
「取得時は二十。翌日十九。本日十八です」
「開封していないものも減る」
商人は頷く。
「なら、有効期限でしょう。保存によって変わるかは未確認ですが、少なくとも時間制限がある」
ギルド職員が記録する。
クレスが言った。
「効果は確認済み。ただし、治療薬ではない」
「承知しています」
商人は一本目を机に置き、次の瓶を確認する。
同じく十八。
三本目も十八。
四本目も十八。
「全て同じ。状態もよい」
カティアが腕を組む。
「で、値は?」
商人は革袋を机に置いた。
「昨日提示した通り、一本につき大銀貨二枚。四本で大銀貨八枚」
その瞬間、清水の間の空気が跳ねた。
大銀貨八枚。
誰かが息を呑んだ。
リオの目が見開かれる。
サナは小瓶から視線を外せない。
村人の女たちは、小さく口元を押さえた。
男たちは、ようやく紅肌の雫を見る目を変えた。
肌だの血色だのではなく、金額として見た。
フィンは固まっていた。
「大銀貨、八枚……」
カティアが横目で見る。
「お前、今頭の中で転んだな」
「転びました。硬貨の山で滑りました」
「なら起きろ」
「はい」
クレスは商人を見た。
「条件は?」
「買い取り後の販売先は、商人ギルド側で選定します。ただし、清水の迷宮の規則に反する大量持ち出しや破壊行為を誘発する宣伝はしない。冒険者ギルドにも情報を共有する。次回以降の買い取りは、ギルド立ち会いを基本とする」
「転売禁止の壁文字は?」
マイラが聞いた。
商人は微笑んだ。
「転売の解釈が重要ですね。水のような生活利用品を勝手に運び出して売ることは明確に禁じられている。一方、迷宮踏破報酬として正式に得た品を、ギルド立ち会いで売買する。これは戦利品取引に近い」
カティアが目を細めた。
「都合のいい読み方じゃねえのか」
「都合だけで商売はできません。ですが、都合を読めない商人も長くは残れません」
「やっぱり気に入らねえな」
「嫌われても、取引が成立するなら上々です」
クレスは少し考えた。
「迷宮が拒むなら、取引は成立しない」
全員が壁を見る。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
青白い文字は、何も変わらない。
水音も止まらない。
小瓶も沈まない。
商人は静かに言った。
「少なくとも、今は拒まれていないようです」
カティアは舌打ちした。
「調子に乗るなよ」
「もちろん。調子に乗るのは、二度目の取引が終わってからにします」
「おい」
「冗談です」
「冗談に聞こえねえ」
「商人の冗談は、半分ほど見積もりです」
カティアは本気で嫌そうな顔をした。
商人は大銀貨を机に並べた。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
六枚。
七枚。
八枚。
硬貨の音が、清水の間に響いた。
ちゃり。
ちゃり。
ちゃり。
その音は、水音とは違う。
命ではない。
けれど、人の心を強く引く音だった。
黒い水膜の内側で、表示が一気に浮かんだ。
【紅肌の雫 正式売却を確認】
【買い取り価格 大銀貨二枚を確定認識】
【商業欲、利益欲、羨望、冒険欲、美容欲、所有欲を獲得】
【獲得DP:168】
【現在DP:835】
「よっしゃあ!」
俺は思わず拳を突き上げた。
「売れた! ちゃんと売れた! 大銀貨八枚! DPも入った!」
『本当に数字に弱いわね』
「弱いんじゃない! 数字に正直なんだ!」
『同じでは?』
「違う! たぶん!」
DP835。
いい。
かなりいい。
第3層に250使って胃を冷やしていた頃が嘘のようだ。
紅肌の雫は、きちんと利益を生む。
水で人を呼び、第2層で訓練させ、第3層で報酬を出す。
ようやく流れができた。
「これは来るぞ」
『人が?』
「人も商売も厄介事も、まとめて来る!」
『嬉しそうね』
「嬉しい! 厄介事は嫌だけど、来ないと迷宮は育たない!」
『割り切りが早くなったわ』
「成長です!」
『少し騒がしい成長ね』
「俺の成長はだいたい音が鳴る!」
俺は清水の間を見た。
大銀貨の音を聞いた冒険者たちの顔。
村人たちのざわめき。
女たちが紅肌の雫を見る目。
男たちが大銀貨を見る目。
商人が次の利益を計算する目。
全部、迷宮に流れ込んでくる。
濃い。
濃すぎる。
「ヴェルティア」
『何?』
「第1層、狭い。かなり狭い」
『ええ。水汲み、冒険者、商人。混ざりすぎね』
「ここ、このままだと揉める。水汲みの列と、冒険者の待機と、取引机が同じ空間にあるのは危ない」
『拡張する?』
「する。今回は大きく広げる」
『大きく?』
「うん。これから人が増える。冒険者も商人もギルド職員も来る。なら、一時的な広さじゃ足りない。常駐しやすい形にする」
『常駐』
「そう。人が迷宮内に長くいるほど、生活欲も警戒も期待も不満も流れ続ける。継続DPの土台にしたい」
『ようやく迷宮主らしい計算をするようになったわね』
「計算してるよ! けっこう真面目に!」
『褒めたつもりよ』
「分かりにくいな!」
俺は表示を見た。
現在DP835。
半分くらい使える。
痛い。
かなり痛い。
でも、ここは使いどころだ。
「DPを大きく使う。第1層をちゃんと生活区域にする。水汲み、待機、取引、受付、休憩、荷物置き、見張り、泥落とし。人が長くいても破綻しにくい場所にする」
『他には?』
「清水に軽い浄化効果をつけたい」
『浄化効果?』
「うん。病気を治す薬じゃなくていい。風邪の引き始めとか、疲れで弱った体とか、腹の調子が少し悪いとか、そういう軽い不調を整える程度」
『治療薬ではなく、生活を支える水ね』
「そう。ミルのお母さん、エナさんも弱ってただろ。最初に水を飲んで少し落ち着いた。あれを、ちゃんと第1層の特徴として伸ばしたい」
『それを強くしすぎると、薬師や治療院と揉めるわよ』
「分かってる。だから軽く。清潔な水と、体の濁りを少し流す程度。重い病気、怪我、毒、呪いは無理」
『妥当ね』
「よし。やろう」
【第1層 生活区域を大規模拡張します】
【常駐利用に適した区域分けを実行】
【清水に軽微な浄化効果を付与】
【重病、外傷、毒、呪いへの治療効果は対象外】
【DPを420消費しました】
【現在DP:415】
「ぐっ……!」
『顔が歪んだわよ』
「半分持っていかれた! 分かってたけど、数字で見ると心臓にくる!」
『でも必要なのでしょう?』
「必要! これは必要経費! 俺の中の経理が震えながら承認印を押してる!」
『忙しい経理ね』
「今、泣きながら押した!」
清水の間が、静かに揺れた。
外側でも、その変化はすぐに分かった。
最初に気づいたのは、ミルだった。
「あれ?」
水桶を抱えたまま、入口の近くで足を止める。
さっきまで、清水の間は人で詰まりかけていた。
水を汲みに来た村人。
待機する冒険者。
机を置こうとする商人。
記録板を抱えたギルド職員。
誰もが少しずつ遠慮しながら、少しずつ邪魔だった。
その窮屈さが、ふいにほどけた。
ごご、と低い音が石の奥から響く。
ミルの足元で、石床の継ぎ目が淡く光った。
「村長!」
ミルが叫ぶ。
オルド村長が振り返るより早く、清水の間の壁がゆっくり遠ざかった。
押し広げられるのではない。
まるで洞窟そのものが息を吸うように、空間が膨らんでいく。
村人たちは驚いて後ずさった。
冒険者たちは武器へ手を伸ばしかけた。
カティアが鋭く言う。
「抜くな! 変化を見ろ!」
クレスも周囲を制した。
「全員、その場で待機!」
水音が変わった。
ぽたり、ぽたり、だけではない。
さらさらと横へ流れる音が混ざる。
中央の水盤がゆっくり広がり、左右に浅い水受けが生まれた。
ミルが抱えていた桶を、思わず落としそうになる。
「水汲み場が……増えた」
これまで一人ずつ順番を待っていた場所に、三人が並べるだけの余裕ができていた。
水盤の周りには低い石の段差ができ、桶を置きやすい高さに整っていく。
床に浅い溝が走り、こぼれた水が自然に外へ流れていく。
いつも腰を曲げて待っていた老人が、壁際に現れた石の腰掛けを見て目を丸くした。
「座って待てるのか……」
子どもを抱いた女が、ほっとしたように息を吐く。
「これなら、押されずに済むね」
その反対側では、冒険者たちの足元が乾いた広い石床へ変わっていった。
リオが慌てて一歩下がる。
そこに、荷物を置ける低い石台がせり上がった。
サナが見下ろす。
「装備を置ける……」
フィンは自分の泥だらけの靴を見た。
第2層側の壁際に、浅い水路が伸びていく。
靴を乗せられる段差。
道具を流せる石台。
清水とは違う、少し濁った水が流れる場所。
壁に青白い文字が浮かぶ。
泥落とし水。
飲用不可。
第2層、第3層から戻った者は、水汲み区域へ入る前に泥を落とすこと。
フィンは感動したように言った。
「俺のための場所みたいです」
カティアが即座に返す。
「お前のためじゃねえ。お前みたいなのが水場を汚さないためだ」
「だいたい俺のためですね!」
「前向きに受け取るな」
入口側では、さっき商人が置いた机の下の床だけが平らに整い、周囲より少し高くなった。
ギルド職員が記録板を抱えたまま、ぽかんとする。
その隣に、小さな受付台のような石の台が生まれた。
職員は思わず手で触れた。
「……ここで利用者記録を取れということか」
商人は、取引机の周囲に人が溜まっても水汲み場を塞がないことを確認し、目を輝かせた。
「素晴らしい」
カティアが睨む。
「商人が喜ぶと不安になるな」
「便利なものを便利だと言っただけです」
「そのあとに値をつける顔をしてる」
「顔ではなく、頭で考えています」
「もっと悪いわ」
水盤の上にも、新しい文字が浮かんだ。
清水。
飲用可。
軽い不調を整える。
重い病、傷、毒、呪いには効かない。
村人たちが、その文字を見上げた。
「軽い不調を……」
「整える?」
「薬じゃないのか」
「でも、ミルの母さんも少し楽になったって……」
その名前が出た時、入口の方から小さな声がした。
「お母さん」
ミルだった。
その隣に、痩せた女性が立っていた。
エナ。
ミルの母だ。
まだ完全に元気ではない。
頬はこけている。
足取りも弱い。
けれど、初めて水を飲んだ日よりは、ずっとしっかり立っていた。
エナは広がった清水の間を見て、驚いたように息を呑んだ。
「ここが……」
ミルがエナの手を引く。
「お母さん、座って。お水、汲むから」
オルド村長が近づく。
「無理をするな、エナ」
「はい。でも、今日は自分の足で来たかったんです」
エナは石の腰掛けに座った。
ミルが水盤から清水を汲み、小さな椀に注ぐ。
清水は以前よりも澄んで見えた。
ただ透明なだけではない。
水面に、淡い光が薄く揺れている。
エナは両手で椀を受け取った。
一口飲む。
ゆっくり喉が動く。
その場にいた村人たちは、息を潜めた。
エナは目を閉じた。
長い息を吐く。
「……胸が、軽い」
ミルが顔を上げる。
「お母さん?」
「熱が下がるとか、そういうのとは違うけど……体の中の重さが、少し流れたみたい」
エナはもう一口飲んだ。
乾いていた唇に、少しだけ色が戻る。
こわばっていた肩が、ほんの少し緩む。
病が治ったわけではない。
痩せた体が戻ったわけでもない。
けれど、咳をしそうになる直前の苦しさが、少し和らいでいる。
エナはミルの頭を撫でた。
「今日は、帰ったら少し眠れそう」
ミルの目に、ぱっと光が宿った。
「ほんと?」
「ええ。ほんの少しだけど、楽よ」
その言葉に、村人たちの空気が変わった。
紅肌の雫とは違う。
大銀貨とも違う。
清水。
生活の水。
体を少し整える水。
老人が自分の腰に手を当てる。
子どもを抱いた女が、水盤を見る。
畑仕事で疲れた男が、喉を鳴らす。
清水の価値が、もう一段変わった。
商人もそれを見ていた。
目が、すっと細くなる。
カティアが即座に睨んだ。
「おい。水は転売禁止だぞ」
「分かっております」
「なら、その計算してる目をやめろ」
「目までは止められません。手は止めています」
「口は回ってるな」
「商人ですので」
「本当に面倒くさいな、お前」
「よく言われます」
フィンが広がった清水の間を見て、しみじみと言った。
「すごいですね。水汲み場っていうより、小さな拠点みたいです」
カティアが肩をすくめる。
「仕事を背負う場所は、勝手に広くなるんだよ」
「場所も働くんですね」
「働かせる奴が増えればな」
「じゃあ、ここも大変ですね」
「大変なのは現場だ。揉めたら走るのは、だいたい現場だからな」
黒い水膜の内側で、俺は胸を押さえた。
「刺さった!」
『何が?』
「大変なのは現場! 前世の俺に刺さった!」
『貴方、刺さる言葉が多いわね』
「刺さる人生だったからな!」
『明るく言うことではないわ』
「暗く言うと本当に沈むから!」
俺は清水の間を見た。
広い。
かなり広くなった。
村人が水を汲む場所がある。
冒険者が装備を整える場所がある。
商人が取引をする場所がある。
ギルド職員が記録を取れる場所がある。
泥を落としてから戻る流れもできた。
これなら、人が常駐できる。
水を汲む村人と、装備を整える冒険者と、記録を取るギルド職員と、値をつける商人が同じ空間にいても、ぎりぎりぶつからない。
そして、清水の浄化効果。
軽い不調を整える水。
これは強い。
派手ではない。
でも、毎日使われる。
継続的にDPを生む。
「よし」
『満足?』
「かなり満足。DP420は痛いけど、これは土台だ。赤字じゃない。設備投資!」
『また商人みたいな言葉を』
「迷宮運営だからな。設備投資は大事!」
『高貴さからどんどん離れていくわね』
「でもヴェルティア、コアの光、ちょっと強くなってない?」
『……気のせいよ』
「ほんとに?」
『高貴なる気のせいよ』
「便利すぎるだろ、その言い回し」
表示が浮かぶ。
【第1層 生活区域拡張を確認】
【清水の軽微な浄化効果 外部使用を確認】
【エナの軽度不調緩和を確認】
【生活欲、安堵、信頼、畏れ、商業的関心を獲得】
【獲得DP:96】
【現在DP:511】
「戻った!」
俺は拳を握った。
「少し戻った! よし、いいぞ清水! 生活欲、安定してる!」
『紅肌の雫ほど派手ではないけれど、長く続く流れね』
「そうそう。紅肌の雫は火種。清水は水路。どっちもいる」
『水路に火種。変な迷宮ね』
「生活インフラ迷宮なので!」
『もう好きに言いなさい』
「許可が出た!」
『出していないわ』
外側では、広がった清水の間を前に、話し合いが始まっていた。
オルド村長は、ギルド職員、商人、クレス、カティアを前にして腕を組んでいる。
「水汲みの場所は村人優先だ。冒険者や商人が邪魔をするなら、村として抗議する」
ギルド職員が頷く。
「利用者記録の際に、区域の説明を徹底します」
商人も続けた。
「取引は指定された机で行いましょう。荷物も荷物置き場からはみ出さないようにします」
カティアが睨む。
「守れよ」
「守ります。守った方が継続的に商いできますから」
「本音が出たな」
「隠しても仕方ありません」
クレスは清水の水盤を見た。
「清水に軽い浄化効果があるなら、利用希望者はさらに増える」
「病人を連れてくる者も出るだろうな」
オルド村長が言った。
「ただし、重い病には効かぬと書いてある。過度な期待は禁物だ」
マイラが記録板を見ながら言う。
「効果は、疲労や軽い不調を整える程度。治療薬とは別物として扱うべきです」
フィンが水盤を見た。
「それでも、すごいですよ。毎日飲めるなら、かなり助かる人が多そうです」
カティアが言う。
「だから揉めるんだよ。助かるものは取り合いになる」
リオが泥落とし水場を見ていた。
「第2層の訓練後に泥を落とせるのは助かります」
サナも頷く。
「水汲みの人たちに迷惑をかけずに済みます」
「そういうところを見ろ」
カティアが言った。
「迷宮は敵かもしれねえ。でも、使い方を間違えなけりゃ便利でもある。便利だからって舐めたら死ぬ。そこを忘れるな」
リオとサナは同時に頷いた。
「はい」
商人は新しい取引区域へ目を向けた。
「ここなら、買い取り机を定期的に置けますね」
ギルド職員が首を横に振る。
「常設はまだ早い。まずは出張受付です。利用者の記録、注意事項の確認、第3層挑戦者の把握。そこからです」
「では、商人ギルドとしては定期訪問の形で」
「それも支部長と相談です」
フィンがぽつりと言った。
「なんか、本当に村が忙しくなりそうですね」
カティアが答える。
「忙しくなる。飯も寝床も足りなくなる。鍛冶屋も修理屋も欲しくなる。薬草も売れる。馬の世話も必要になる」
「うわ、やることいっぱい」
「だから勝手に死ぬな。手が足りねえんだよ」
「理由が現実的!」
「現実が一番強いんだよ」
クレスは広がった清水の間を見渡した。
昨日まで、水場と呼ぶべき場所だった。
今は違う。
小さな拠点。
人が滞在し、記録し、売買し、準備し、戻ってくる場所。
第1層は、本当に生活区域になり始めていた。
黒い水膜の内側で、俺は腕を組んだ。
「いい流れだ」
『満足そうね』
「満足。紅肌の雫が売れた。清水の価値も上がった。第1層も広がった。村もギルドも商人も動き始めた」
『ずいぶん大きく動いたわね』
「DPも動いたけどな! 心臓に悪い!」
『現在DP511。まだ十分あるわ』
「でも第4層も考えないといけないし、生活区域はまだ足りなくなる。冒険者が増えたら、簡易宿泊とか食事提供も考えないと」
『迷宮なのに宿屋を考えるの?』
「常駐してもらうためには必要。人が留まればDPが流れ続ける。水だけ汲んで帰られるより、ずっといい」
『貴方、だいぶ欲深くなったわね』
「迷宮主ですから!」
『開き直ったわね』
「開き直りも運営スキル!」
ヴェルティアは呆れたように笑った。
たぶん。
少なくとも、赤い光は少し柔らかかった。
「次は第4層だな」
『何を置くの?』
「冒険者や商人が増えるなら、疲れを癒やすものか、嗜好品が強い。命に必要じゃないのに欲しくなるもの」
『紅肌の雫と同じね』
「方向は違うけどな。紅肌は見た目。次は気分とか、嗜好とか、そういう欲を狙いたい」
『人間は面倒ね』
「面倒だからDPになる」
『良い答えね』
「褒めた?」
『評価よ』
「はい出た!」
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
だが、もう水音だけではない。
硬貨の音。
帳簿に走る筆の音。
泥を落とす水音。
村人の安堵。
冒険者の緊張。
商人の計算。
清水の迷宮は、水場から拠点へ変わり始めていた。
そして、人が留まれば、欲も留まる。
俺は黒い水膜の向こうを見ながら、笑った。
「大丈夫大丈夫。なんとかなるって!」
『根拠は?』
「清水と紅肌と、DP511!」
『俗っぽい根拠ね』
「現場だからな!」
『本当に高貴さから遠いわね』
「生活インフラ迷宮なので!」
水音が、広がった第1層に響いていた。
清い水は、今日も流れる。
赤い雫は、値をつけられた。
硬貨の音は、人を呼ぶ。
そして迷宮は、人が留まる場所へと形を変えていく。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
水音に、硬貨の音が混ざり始めました。
清水の間は、もうただの水場ではいられません。
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