第15話 赤い雫、領都へ届く
紅肌の雫を買い取った商人馬車は、その日のうちにルスカ村を出た。
小箱は幌の奥。
柔らかい布に包まれ、さらに木枠で固定されている。
中身は四本。
薄い赤の小瓶。
一本につき大銀貨二枚。
四本で大銀貨八枚。
ただの液体ではない。
迷宮を踏破した者だけが得られる報酬。
水紋数字で期限が示される、奇妙な品。
そして、顔色と肌の調子を少し整える雫。
灰髪の商人は、馬車の揺れに合わせて指先を組んでいた。
目は閉じている。
だが、眠ってはいない。
頭の中では、すでに売り先が並んでいた。
商家の妻。
貴族の侍女。
舞台に立つ女。
接客をする女。
高位冒険者。
そして、疲れを顔に出せない者たち。
病を治す薬ではない。
だからこそ、使える相手が広い。
怪我人だけではない。
弱った者だけではない。
健康な者も欲しがる。
それは商材として、とても強い。
護衛の男が、馬車の外を見ながら言った。
「本当に、あんな小瓶が大銀貨二枚になるんですかね」
灰髪の商人は目を開けた。
「大銀貨二枚で買ったのです」
「つまり、もっと高く売ると」
「もちろん」
「迷宮より商人の方が怖いですね」
「それは褒め言葉ですか?」
「半分くらいは」
「では、半分だけ受け取っておきましょう」
馬車は街道を進む。
ルスカ村の畑が遠ざかり、森が後ろに流れていく。
清水の迷宮では、いつもの水音が響いていた。
ぽたり。
ぽたり。
広くなった第1層で、村人たちが清水を汲む。
冒険者たちは待機広間で装備を確認する。
泥落とし水場では、フィンが靴の泥を落としながら、妙に真剣な顔をしていた。
「泥落としって、大事ですね」
カティアが横を通りながら言う。
「ようやく気づいたか、泥鼻」
「最近、俺の二つ名みたいになってません?」
「実績があるからな」
「不名誉な実績!」
その声を、黒い水膜の内側で俺は聞いていた。
紅肌の雫を積んだ馬車は、もうここにはない。
商人もいない。
外で何が起きているのかも、分からない。
「なあ、ヴェルティア」
『何?』
「あの商人、どこに向かったんだろうな」
『普通に考えれば、プロンテラでしょうね』
「プロンテラ?」
『侯爵領の領都よ』
「領都?」
俺は思わず聞き返した。
領都。
領都ってことは、領地の中心都市だ。
つまり、田舎の小さな村とは違う。
人が多い。
商人も多い。
冒険者も多い。
たぶん、面倒も多い。
「ちょっと待て。ここって侯爵領だったの!?」
『そうよ』
「初耳なんですけど!?」
『聞かれていないもの』
「またそれ! 出たよ、ヴェルちゃんの聞かれてないもの理論!」
『ヴェルちゃんと呼ばないで』
「今そこ!?」
『大事よ』
「俺にとっては、ここが侯爵領だったことの方が大事!」
『高貴なる私にとっては呼称も大事なの』
「分かった分かった。じゃあ、ヴェルティア様」
『急に距離を取られると、それはそれで気に入らないわね』
「難しいな、ヴェルちゃん!」
足元が、ぬちゃりと沈んだ。
「はい制裁来た!」
『当然でしょう』
俺は慌てて足を引き抜いた。
清水の迷宮、足元から教育してくる。
「で、そのプロンテラって大きいのか?」
『この辺りでは一番大きな街でしょうね。商人ギルド、冒険者ギルド、領主館、職人街、貴族の屋敷。人間の欲がよく混ざる場所よ』
「欲がよく混ざる場所」
『ええ』
「うわ、行ってみたいような、絶対面倒なような」
『貴方はここから出られないでしょう』
「そうだった!」
俺は黒い水膜を覗いた。
けれど、見えるのは清水の間だけだ。
水を汲む村人。
装備を整える冒険者。
泥を落とすフィン。
遠くの領都など見えない。
「つまり、紅肌の雫がプロンテラに行って、そこで誰かが欲しがっても、こっちには分からない」
『ええ』
「DPも入らない」
『当然よ。迷宮が受け取れるのは、迷宮の内側で生まれた欲だけ。外でどれほど騒ぎになっても、それは外のこと』
「そこは大事だな。外で噂が燃えるたびにDPが入ったら、俺の中の経理が泡を吹く」
『貴方の中の経理はよく倒れるわね』
「前世の名残です!」
俺は清水の間の入口を見た。
「じゃあ、答え合わせは人が来てからか」
『ええ。外の欲は、足を持ってここへ来る』
「うわ、いい言い方するなあ」
『高貴なる表現よ』
「便利!」
『便利扱いしないでちょうだい』
外は見えない。
でも、想像はできる。
商人が値をつける。
誰かが使う。
誰かが欲しがる。
誰かがルスカ村への道を調べる。
その足音が、いつここへ届くか。
清水の迷宮は、それを待つしかない。
「広げておいてよかったかもな、第1層」
『早くもそう思う?』
「思う。領都から人が来るなら、前の狭さだと絶対詰まってた」
『人が来ると決まったわけではないわ』
「来るだろ。紅肌の雫だぞ。大銀貨二枚だぞ。領都の人間が黙ってると思う?」
『思わないわね』
「だよな!」
俺は笑った。
見えないからこそ、怖い。
でも、見えないからこそ、少し楽しい。
扉の向こうで何かが育っている感じがする。
前世なら嫌な予感で胃薬を探す場面だ。
今は違う。
胃薬はない。
その代わり、迷宮がある。
夕方。
商人馬車は石畳の道へ入った。
侯爵領の領都、プロンテラ。
高い外壁。
馬車が行き交う門。
商人、職人、冒険者、旅人。
ルスカ村とは比べ物にならない人の流れ。
物が集まり、金額が動き、噂が形を変えて広がる場所。
紅肌の雫は、ついに領都へ入った。
その夜。
プロンテラ商人ギルドの一室に、数人の商人が集まっていた。
机の上には、小箱。
その中に紅肌の雫が四本。
灰髪の商人は、ルスカ村での取引記録を置いた。
「清水の迷宮、第3層踏破報酬。名称は紅肌の雫。突破者一名につき小瓶一つ。確認済み効果は、血色改善、軽い肌荒れや手荒れの緩和、疲れた顔色の回復。治療薬ではありません」
商人ギルドの幹部たちは、順に小瓶を見た。
誰も不用意に触れない。
それだけで、ただの珍品ではないと分かっている。
年配の商人が聞いた。
「数字は?」
灰髪の商人が一本を持ち上げ、瓶底に魔力を流す。
水紋数字が浮かんだ。
十八。
「本日確認時点で十八。取得時は二十。翌日十九。そして本日十八。日数に連動して減ると見てよいでしょう」
「期限付きか」
「はい。長期保管には向きません」
別の商人が笑った。
「悪くない。買った者がすぐ使う」
「売り急ぐ理由にもなる」
「流通量を絞れる」
「そして、次が欲しくなる」
商人たちの目が、静かに熱を帯びる。
そこへ、一人の若い女性が入ってきた。
商人ギルド長の娘、エリシアだった。
年は二十代前半。
帳簿仕事を任されることも多く、夜遅くまで数字を追うため、目元に疲れが出ている。
顔立ちは整っている。
だが最近は、肌の乾きと寝不足の色が隠せなくなっていた。
「お呼びでしょうか、父様」
ギルド長は小瓶を見た。
「試用者が必要だ」
エリシアは小瓶を見る。
「私に、ですか?」
「お前は記録が取れる。自分の体調も言葉にできる。何より、効果が分かりやすい」
「つまり、疲れて見えると」
「商売のためだ」
「父様、今の言い方は最低です」
「事実は時に失礼だ」
部屋の商人たちが小さく笑った。
エリシアはむっとした顔をしたが、小瓶から目を離せない。
薄い赤の液体。
紅肌の雫。
名称だけで、指先が引かれる。
「危険は?」
エリシアが聞いた。
灰髪の商人が答える。
「ルスカ村で一名使用済み。強い副作用は確認されていません。ただし、確認例は一件です」
「味は?」
「少し甘く、すぐ消えるとのこと」
「効果は?」
「即時に軽い血色変化。翌朝の方が明確」
エリシアは少し考えた。
そして、椅子に座った。
「分かりました。使います」
ギルド長が頷く。
「一口ずつ」
「分かっています」
灰髪の商人が小瓶を開けた。
強い匂いはない。
エリシアは小瓶を受け取り、まず少しだけ口に含んだ。
静かに飲み込む。
「……冷たい」
部屋の全員が見守る。
「甘さは薄いです。薬草の苦みはありません。飲みにくくはないですね」
残りを飲む。
しばらく、何も起きない。
エリシアは自分の手を見る。
「魔力の乱れはありません。気分も悪くないです」
それから、指先を見た。
帳簿をめくり続けて乾いていた指先。
そこに、少しだけ色が戻っている。
「……手が、少し温かい」
灰髪の商人が記録する。
「痛みは?」
「ありません」
「眠気は?」
「ありません」
「体力が増えた感じは?」
「ありません」
「顔は?」
エリシアがじろりと睨む。
「父様。女性に向かってその聞き方は減点です」
「記録だ」
「記録なら、もっと配慮してください」
ギルド長は咳払いした。
「顔色は、どうだ」
部屋にいた女性書記が近づき、エリシアの顔を見た。
「頬に少し赤みが出ています。唇の色も、先ほどより自然です」
エリシアは自分の頬に触れた。
「少し、楽です。でも、まだ分かりません」
灰髪の商人は頷いた。
「本番は明朝でしょう」
エリシアは空になった小瓶を見た。
「これが、本当に清水の迷宮から?」
「はい」
「ルスカ村の、あの小さな村から?」
「はい」
エリシアは小さく息を吐いた。
「……明日、騒ぎになりますね」
灰髪の商人は、静かに笑った。
「だから今夜、記録を取っているのです」
翌朝。
プロンテラ商人ギルドは、早い時間からざわついた。
理由は簡単だった。
エリシアの顔色が、明らかに違ったからだ。
劇的に美人になったわけではない。
年齢が若返ったわけでもない。
顔立ちが変わったわけでもない。
ただ、昨日まで目元に乗っていた疲れが薄い。
頬に自然な赤みがある。
唇の色が少し明るい。
乾いていた指先が、いくらか落ち着いている。
そして何より、本人が鏡の前からなかなか動かなかった。
女性書記が小さく言う。
「エリシア様、そろそろ記録を」
「分かっています」
「鏡、三回目です」
「記録のためです」
「四回目です」
「確認は大切です」
女性書記は少しだけ笑った。
「欲しくなりますね、これ」
エリシアは鏡の中の自分を見たまま言った。
「ええ。危険です。とても」
「危険?」
「綺麗になった、ではないのです。戻った、に近い。だから余計に欲しくなる」
エリシアは振り返った。
「疲れていない自分を、思い出してしまう」
その一言は、商人たちの会議室に落ちた。
灰髪の商人は目を細める。
「良い表現です」
「売り文句にしないでください」
「検討します」
「しないでください」
「検討します」
「する気ですね」
ギルド長が咳払いした。
「効果確認を続ける。体調は?」
「良好です。眠りも深かったように感じます。ただし、体力が増えたわけではありません。魔力も変わりません」
「手荒れは」
「軽くなっています。でも完全には治っていません」
「顔色は」
「見ての通りです」
エリシアは少し照れたように頬に触れた。
その仕草を見て、女性書記たちの目が変わった。
一人ではない。
二人、三人。
視線が小瓶の箱へ向かう。
残り三本。
灰髪の商人は、その視線を見逃さなかった。
「残りは販売候補です。試用はできません」
女性書記の一人が、ぼそっと言った。
「大銀貨二枚……」
別の女がすぐに言う。
「買い取りが二枚なら、売値はもっと上でしょう」
「でも、欲しい」
「分かる」
「手が荒れている時に、これを見せられるのはずるい」
ギルド長は低く唸った。
「これは、想定以上に広がるな」
灰髪の商人は頷く。
「はい。特に、女たちの間では」
エリシアが訂正する。
「女たち、だけではありません。疲れて見えることを嫌う者は全員です」
「なるほど」
「商談前の商人も、舞台に立つ者も、貴族に会う侍女も、婚約の場に出る令嬢も。顔色を整えたい人間は多い」
灰髪の商人は笑った。
「やはり、あなたに試してもらって正解でした」
「その言い方は腹が立ちます」
「事実です」
「父様と同じことを言わないでください」
その時、扉が叩かれた。
商人ギルドの若い職員が顔を出す。
「失礼します。東区の香油商から面会希望が来ています。あと、薬師組合の者も。それから……」
「それから?」
「侯爵家に出入りする侍女の方が、紅肌の雫について確認したいと」
部屋の空気が、一段変わった。
灰髪の商人は、静かに手を組む。
「早いですね」
ギルド長が言った。
「誰が漏らした」
全員が少しだけ目を逸らした。
エリシアが鏡をそっと伏せる。
「父様。女の噂に犯人を探しても無駄です」
女性書記が頷く。
「はい。無駄です」
別の女性書記も頷く。
「水より速いです」
灰髪の商人は小さく笑った。
「では、流れを止めるより、流れる先を選びましょう」
ギルド長は眉を寄せた。
「貴族周辺に出すのか」
「いえ。まだ早い。まずは情報だけです。残り三本を安売りする必要はありません」
エリシアが言う。
「でも、見せれば欲しがります」
「見せない商売もあります」
灰髪の商人は小箱を閉じた。
「今は、あると知らせるだけで十分です」
その判断は、商人らしく冷静だった。
だが、もう遅かった。
紅肌の雫の名は、商人ギルドの扉を越えようとしていた。
清水の迷宮では、まだ何も起きていなかった。
朝の水汲みが終わり、冒険者たちは第2層の入口近くで準備をしている。
マイラは記録板を抱え、クレスと何かを確認している。
カティアはリオとサナの足元を見ていた。
「靴紐」
「え?」
「緩い」
リオが慌ててしゃがむ。
「すみません」
「第2層でほどけたら転ぶ。第3層でほどけたら死ぬと思え」
「はい」
サナは自分の靴を見直した。
フィンも見直した。
カティアが言う。
「お前は何回見ても泥がつくから意味がねえな」
「泥に好かれてるんですかね」
「振られろ」
「泥に失恋する日が来るとは」
俺は黒い水膜の内側で笑った。
プロンテラは見えない。
紅肌の雫がどうなったかも分からない。
DP表示もない。
清水の迷宮は、外の熱をまだ知らない。
ただ、いつものように水を流し、泥を踏ませ、足元を見せている。
「静かだな」
『嵐の前かもしれないわね』
「やめてよ、ヴェルちゃん。そういうのだいたい当たるんだから」
『だから、その呼び方は』
「おっと」
足元が、ぬちゃりと沈みかけた。
俺は慌てて片足を上げる。
「危ない! 今のは愛称テストだから!」
『不合格よ』
「採点が厳しい!」
『当然でしょう』
俺は笑った。
何も見えないからこそ、待つしかない。
そして待つ時間は、少しだけ楽しかった。
怖い。
でも、わくわくもする。
この感じ、前世の新商品発売前に少し似ている。
売れるか。
荒れるか。
クレームが来るか。
全部まとめて胃に来るやつだ。
「プロンテラかあ……」
『気になる?』
「そりゃ気になるよ。領都だぞ。侯爵領だぞ。俺、今さら自分の迷宮がどこの行政区にあるか知ったんだぞ」
『行政区?』
「人間が面倒な書類を作るための地図区分」
『嫌な説明ね』
「前世由来です」
俺は清水の間の入口を見た。
「来るなら、早めに来てほしいような、来てほしくないような」
『どちらなの?』
「両方!」
『欲張りね』
「迷宮主なので!」
『便利な言葉にしているわね』
「はい!」
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
清水の迷宮は、外の騒ぎを知らない。
ただ、その足音を待っていた。
同じ頃。
プロンテラ冒険者ギルドでは、別のざわめきが起きていた。
「一本、大銀貨二枚だってよ」
「買い取りで?」
「買い取りで」
「四人で行けば四本か?」
「らしいな」
「Eランクでも行けるのか?」
「第2層は訓練向けって話だろ」
「じゃあ第3層も、まあ何とかなるんじゃねえの」
「馬鹿。死者が出たって聞いたぞ」
「単独で入った奴だろ。俺たちは組むから平気だ」
雑な会話が、ギルドの酒場に転がっていた。
正確な情報ではない。
都合のいい情報だけが残っている。
大銀貨二枚。
第3層。
紅肌の雫。
低ランクでも可能性あり。
死者は出たが、単独だった。
その断片が、若い冒険者たちの頭の中で勝手につながっていく。
受付の女性が声を張った。
「清水の迷宮、第3層への単独進入は禁止です! Eランクは必ず複数人、経験者または上位者同行推奨です! 第2層を安定して抜けられない者は、第3層へ入らないこと!」
しかし、冒険者たちの耳に一番残るのは、やはり金額だった。
大銀貨二枚。
一本で。
大銀貨二枚。
片手剣を背負った若い男が、にやりと笑った。
「行くか、ルスカ村」
隣の槍持ちが頷く。
「四人集めようぜ」
「治癒役は?」
「声かける」
「斥侯は?」
「第2層が訓練向けなら、いなくても何とかなるだろ」
近くにいたDランク冒険者が、その言葉に鼻で笑った。
「お前ら、死ぬぞ」
「じゃあ、あんたが一緒に来てくれます?」
「報酬次第だ」
その一言で、また人が集まる。
その騒ぎの少し外側で、年季の入った革鎧の女が杯を置いた。
年は三十を少し過ぎた頃。
短く切った髪に、傷の残る左頬。
腰には細剣。
胸元の札はDランク。
隣にいた若い魔術師が聞いた。
「メリダさん、行かないんですか? 大銀貨二枚ですよ」
メリダと呼ばれた女は、片眉だけを上げた。
「行くよ」
「行くんですか」
「金になるなら行く。ただし、あんたらみたいな耳だけで走る連中とは組まない」
若い魔術師が口を尖らせる。
「耳だけって」
「聞いた話の中で、一番甘い部分だけ拾ってるだろ。大銀貨二枚。四人で四本。Eランクでも行けそう。その三つだけだ」
「死者が出た話も聞いてます」
「聞いてるだけだ。考えてない」
メリダは机を指で叩いた。
「第2層が訓練向けってことは、第2層で足元を見る力を試されるってことだ。第3層で死者が出たってことは、そこから先は別物だ。しかも単独進入禁止なんてわざわざ言われてる。つまり、単独で死ぬ仕掛けがある」
若い魔術師は黙った。
「斥侯なしで行けると思うなら、入り口で帰ってこい。治癒役は保険であって、道案内じゃない。あと、大銀貨二枚の報酬は、帰ってから数えるものだ。死んだら計算する指も残らない」
「……行くなら、どうします?」
「明日、ギルドの正式な注意書きを読む。できれば先に行った連中の報告を聞く。案内役がいるなら雇う。いなけりゃ第2層だけ見て帰る」
「慎重ですね」
「臆病って言いな」
メリダは杯を持ち上げた。
「臆病な奴ほど、財布を開く手が長く残る」
近くで聞いていた若い冒険者が笑った。
「それ、格好いいこと言ってるつもりですか?」
「違う。年寄りの生存報告だよ」
「まだ年寄りって歳じゃないでしょ」
「迷宮の前では、昨日始めた奴より一日長く生きてたら年寄りだ」
その言葉に、少しだけ場の熱が冷めた。
けれど、完全には消えない。
紅肌の雫。
大銀貨二枚。
その数字は、若い冒険者たちの足を確かにルスカ村へ向けていた。
ギルドの奥では、支部長が報告書を読んでいた。
眉間に深い皺が寄る。
「まずいな」
職員が聞く。
「止めますか?」
「完全には止められん。止めすぎれば、無断で行く。だから受付を置く。ルスカ村に臨時の人員を送る」
「仮支部ですか」
「仮支部という名にするには早い。だが、実質そうなる」
支部長は報告書を机に置いた。
「清水の迷宮は、もう村の水場ではない。低ランク冒険者を集める餌になった」
「餌、ですか」
「そうだ。しかも美味そうに見える餌だ」
職員は黙った。
その表現は悪い。
だが、正しい。
その日の夕方。
領都プロンテラの領主館にも、清水の迷宮の報告が届いた。
最初に読んだのは、侯爵本人ではない。
領主館の文官だった。
細い銀縁の眼鏡をかけた男で、机の上には税、道路、治安、水利、商業許可の書類が積まれている。
彼は最初、清水の迷宮という件名を軽く見た。
辺境村の新しい迷宮。
清い水。
生活利用。
冒険者訓練。
その程度なら、冒険者ギルドの管理で済む。
だが、読み進めるにつれて、眉が動いた。
清水に軽微な浄化効果。
村人の生活利用増加。
第2層は低ランク冒険者の訓練に利用可能。
第3層踏破報酬、紅肌の雫。
買い取り価格、一本大銀貨二枚。
領都商人ギルドが反応。
冒険者流入の兆候。
死者一名。
単独進入による死亡。
文官は、そこで報告書を一度机に置いた。
「……水利、商業、治安、迷宮資源。全部混ざっているではないか」
別の文官が顔を上げる。
「厄介ですか」
「厄介だ」
銀縁眼鏡の文官は、報告書をもう一度見る。
「だが、放置する方がもっと厄介だ」
「侯爵閣下に上げますか」
「当然だ。だが、その前に概要を整理する。冒険者ギルド、商人ギルド、ルスカ村、すべて勝手に動き始めている」
「小さな村の迷宮では?」
「もう違う」
文官は報告書を閉じた。
「清水の迷宮。これは村の水場ではない。侯爵領の案件だ」
それから、机の端に置かれていた別の書類の束を見て、薄くため息をついた。
「まったく。水の案件は、いつも机の上で増水する」
「増水、ですか」
「そうだ。最初は一枚の報告書だ。気づけば橋、井戸、税、商人、冒険者、死者まで流れてくる」
文官は眼鏡を押し上げた。
「水は低い方へ流れる。問題は、忙しい者の机にも流れる。私はそれが嫌いだ」
「嫌いなのに、処理するのですね」
「処理しなければ、もっと嫌いな形で戻ってくる」
彼は新しい紙を取り出し、見出しを書いた。
清水の迷宮に関する暫定整理。
その文字は、細く、整っていて、妙に冷静だった。
窓の外では、領都プロンテラの夕鐘が鳴っていた。
その音に混じって、街のどこかで女たちが紅肌の雫の名を囁き、冒険者たちがルスカ村への道を尋ね始めている。
赤い雫は、領都に火をつけた。
だが、その火がどれほど大きくなったのかを、清水の迷宮はまだ知らない。
知るのは、火にあぶられた者たちが、実際にその入口へ立った時だけだった。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
赤い雫は、領都にも届きました。
けれど迷宮が知るのは、足音が戻ってきた時だけです。
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