第16話 欲は足を持ってやって来る
朝のルスカ村に、足音が増えた。
村人の足音ではない。
水桶を抱えた、いつもの足音でもない。
革靴。
鉄靴。
荷馬車の車輪。
安物の鎧が擦れる音。
剣の鞘が腰に当たる音。
領都プロンテラから来た冒険者たちだった。
数は、最初に見えた時より多かった。
道の向こうから一組。
馬車の後ろから二組。
さらに、冒険者ギルドの臨時職員を乗せた荷馬車が一台。
ルスカ村の入口に立っていたオルド村長は、白い髭を撫でながら深く息を吐いた。
「……本当に来たか」
隣にいたギルド職員が、記録板を抱え直す。
「本日より、暫定受付を清水の間に置きます。村内での宿泊、食事、荷物置きについては村長と相談しながら進めます」
「相談で済む数ならよいがな」
「済まないと思います」
「正直だな」
「嘘をつくと、後で受付が燃えます」
オルド村長は目を細めた。
「燃やすなよ」
「努力します」
その横を、若い冒険者たちが通っていく。
「ここがルスカ村か」
「小さいな」
「本当に大銀貨二枚の雫が出るのか?」
「清水の迷宮だろ。あの森の方か?」
「第2層は訓練向けって聞いたぞ」
「なら俺たちでもいけるだろ」
村人たちが距離を取る。
子どもたちは興味津々で見ているが、大人たちは不安そうだった。
水汲みの列に、冒険者の列。
村の道に、馬車。
いつもの朝ではない。
清水の迷宮は、静かにその足音を迎えた。
黒い水膜の内側で、俺は思わず立ち上がった。
「来た!」
『来たわね』
「欲が足を持って来た!」
『言い方が気に入ったの?』
「気に入った! めちゃくちゃ気に入った! 外ではDPが入らない。でも、足でここまで来たら話は別!」
清水の間に、冒険者たちが次々と入ってくる。
水を見て驚く者。
広くなった第1層を見て足を止める者。
壁文字を読む者。
読まずに進みかけて、カティアに睨まれる者。
ギルド職員が仮受付の石台に記録板を置く。
村人は水汲み場へ。
冒険者は待機広間へ。
商人の荷は取引区域へ。
昨日広げた場所が、いきなり使われ始めていた。
「よかった……! 広げておいて本当によかった……!」
『昨日の貴方の経理は泣いていたけれどね』
「今日の俺が褒めてるから大丈夫!」
『経理は報われたのかしら』
「たぶん胃薬を要求してる!」
表示が浮かぶ。
【第1層 新規来訪者増加を確認】
【生活欲、冒険欲、報酬欲、警戒、過信を検知】
【仮受付利用開始を確認】
【獲得DP:118】
【現在DP:629】
「よし!」
俺は拳を握った。
「第1層だけで入った! 常駐と受付、やっぱ強い!」
『欲が散らばらず、迷宮内に留まり始めているわね』
「これこれ。これが欲しかった。水を汲んですぐ帰るだけじゃなくて、待つ、書く、準備する、迷う、欲しがる。全部ここで発生する」
『人間の停滞を喜ぶ迷宮主』
「言い方!」
『間違ってはいないでしょう?』
「間違ってないけど、もう少しこう、滞在価値とか言って!」
『滞在価値』
「急に商業施設っぽくなったな!」
俺は水膜を見た。
人が増えた。
欲も増えた。
だが、同時に危なさも増えた。
紅肌の雫を目当てに来た目。
第2層を舐めている足取り。
第3層を、まだ見てもいないのに金額で測っている顔。
全部、分かる。
「さて、誰が最初に転ぶかな」
『楽しそうね』
「第2層で転ぶ分には、訓練だからな!」
『第3層で転ぶと?』
「帰ってこないかもしれない」
『ええ』
「そこだな。今日はそこが分かれ目だ」
清水の間は、朝から混んだ。
だが、昨日広げたおかげで、完全な混乱にはならなかった。
水汲みの村人たちは、水盤の前で順番を待つ。
冒険者たちは待機広間で武器や靴紐を確認する。
仮受付の前では、ギルド職員が名前、ランク、目的を記録していた。
「氏名」
「ガズ」
「ランク」
「E」
「目的」
「第3層。紅肌の雫」
ギルド職員は筆を止めた。
「第2層の踏破経験は?」
「ねえよ。でも第2層は訓練向けなんだろ?」
ガズと名乗った若い剣士は、笑いながら親指で自分の後ろを指した。
仲間は三人。
槍持ちのロット。
盾持ちのベレン。
見習い魔術師のリィナ。
全員、Eランク。
装備は新しすぎるほどではない。
だが、使い込まれてもいない。
自信だけが、やけに前へ出ていた。
ギルド職員が淡々と言う。
「第3層への挑戦は、第2層を安定して抜けられることが前提です。Eランクは複数人、経験者または上位者同行を強く推奨します」
「複数人だろ。四人いる」
「経験者か上位者は?」
「必要なら第2層を見てから考える」
カティアが横から口を挟んだ。
「その考え方がもう滑ってる」
ガズが振り返る。
「誰だよ」
「Cランク斥侯、カティア」
ガズの表情が少し変わった。
だが、すぐに笑う。
「Cランクなら、案内してくれるのか?」
「金を積まれても嫌だね。第2層を舐めてる奴を案内すると、靴より先に脳みそが泥に沈む」
ロットがむっとする。
「第2層は訓練用なんだろ?」
「訓練用だ。だから油断した奴を転ばせる」
「転ぶくらいなら」
「転んだ後に起き上がれない奴が死ぬ」
空気が少し固くなった。
そこへ、別の声が入った。
「受付、済ませてから騒ぎな」
年季の入った革鎧の女が、待機広間の端に立っていた。
短く切った髪。
左頬に傷。
Dランク冒険者、メリダ。
彼女は自分の靴紐を結び直しながら、ガズたちを見る。
「ここで強がっても、泥は聞いちゃくれないよ」
ガズが眉を寄せる。
「あんたも行くのか」
「行く。だが、第2層を見て帰るかもしれない」
「それでDランク?」
「Dランクだからだよ。Eランクでそれが分からないなら、まず泥に教わるといい」
リィナが小さく言った。
「慎重なんですね」
メリダは肩をすくめる。
「臆病って言いな。臆病な奴ほど、帰ってから飯を食える」
カティアが口の端を少しだけ上げた。
「そっちの方がまだ見込みがある」
ガズは不満そうだったが、受付を済ませた。
クレスは少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
表情は穏やかだ。
だが、目は笑っていなかった。
その後、第2層にはいくつもの足が入った。
まずはメリダの組。
メリダは仲間を二人連れていた。
若い魔術師と、槍持ちの男。
彼女は入口で足を止め、泥の匂いを確かめる。
「浅い泥に見える場所ほど疑え。水音のする方へすぐ行くな。苔鼠は足首、泥スライムは靴裏。怖くなったら戻る。戻る判断を馬鹿にした奴から沈む」
若い魔術師が頷く。
「はい」
「返事が綺麗すぎる。転ぶぞ」
「返事で転ぶんですか」
「気持ちが前に出すぎると足が遅れる」
メリダはそう言って、一歩目を踏み出した。
遅い。
だが、確実だった。
彼女たちは入口から少し進み、泥スライムを見つけると距離を取った。
苔鼠が走れば、無理に追わない。
滑る石床の前で、槍持ちが棒で軽く叩く。
進んで、戻る。
戻って、また進む。
派手さはない。
だが、見ているカティアは一度だけ頷いた。
「悪くねえ」
クレスも言った。
「戻る判断が早い」
「臆病者だからね」
メリダは第2層から戻ってくると、靴を泥落とし水場で丁寧に洗った。
待機広間にいたEランクたちが、どこか拍子抜けしたように見る。
「第2層だけで戻るのか」
ガズが言った。
メリダは水で泥を落としながら答えた。
「今日はな」
「もったいねえ。紅肌の雫を取りに来たんじゃないのか」
「取りに来たよ。死にに来たんじゃない」
その一言に、若い冒険者たちの何人かが黙った。
ガズは笑った。
「俺たちは行くぞ。第2層を抜けたら、そのまま第3層だ」
クレスが近づいた。
「第2層を一度抜けただけで、第3層へ進むことは勧めない」
「でも禁止じゃないんだろ」
クレスは静かにガズを見た。
「禁止ではない。だが、死ぬ可能性は高い」
「なら死ななきゃいい」
ロットが笑った。
ベレンは少し不安そうだった。
リィナは杖を握り直している。
クレスは一歩前へ出た。
「第3層は、声が外へ届きにくい。迷えば助けを呼べない。昨日も死者が出ている」
「聞いたよ。単独だったんだろ」
「それだけが理由ではない」
「俺たちは四人いる」
「四人いれば迷わないわけではない」
「でも、四人で突破した奴らがいるんだろ」
クレスは答えなかった。
代わりに、腰の剣に手を置く。
脅しではない。
ただ、いつでも動けるように。
「ガズ。ここで引き返す判断ができるなら、次がある」
「説教はいい」
ガズは仲間を振り返った。
「行くぞ。まず第2層だ」
カティアが低く言った。
「馬鹿は泥に沈め。第3層には行くな」
「行けたら考えるよ」
「その返事をする奴は、大体考えねえ」
ガズたちは笑いながら第2層へ入った。
その背中が泥の回廊に消える。
声も、足音も、やがて水音と泥の音に紛れて分からなくなった。
クレスは入口に立ったまま、しばらく奥を見ていた。
カティアが横に並ぶ。
「嫌な入り方だな」
「ああ」
「追うか?」
「今追えば、ただの過干渉になる。第2層は訓練層だ。自分たちで戻る判断をする場所でもある」
「戻る判断ができる顔じゃなかったけどな」
「だから見ている」
クレスは短く答えた。
待機広間では、他の冒険者たちがざわついている。
ガズたちの態度を笑う者。
心配する者。
自分たちも行けるのではないかと目を輝かせる者。
メリダは壁際で腕を組み、じっと第2層入口を見ていた。
「戻るなら、そろそろ一度戻る」
カティアが言った。
「普通ならな」
クレスは頷く。
だが、ガズたちは戻ってこなかった。
ガズたちは、第2層で何度も転んだ。
泥スライムに足を取られ、苔鼠に足首を狙われ、滑る石床で盾持ちのベレンが派手に転んだ。
「くそっ、こんなもんかよ!」
ガズは泥を吐き捨てるように言った。
ロットが槍で苔鼠を追い払いながら笑う。
「でも進めてる!」
「だろ!」
リィナは息を切らしながら、弱い風の魔法を使った。
「ウィンド!」
風が泥の表面を揺らし、一瞬だけ足場が見える。
ベレンが盾で泥スライムを押しのける。
危なっかしい。
雑だ。
何度も足を取られた。
だが、四人は進んだ。
進めてしまった。
やがて、湿った泥の匂いが薄れ、代わりに青く生臭い藻の匂いが混じり始める。
第2層の終わり。
第3層の入口。
そこにたどり着いた時、ガズは泥だらけの顔で笑った。
「抜けたぞ」
ロットも息を荒げながら笑う。
「第2層、抜けたな」
ベレンは膝に手をついていた。
「一回、戻ろう。報告して、準備してからでも」
「ここまで来て戻るのか?」
ガズが振り返る。
「第3層はすぐそこだ。紅肌の雫はその先だろ」
リィナは杖を握ったまま、藻の入口を見た。
「でも、声が届きにくいって……」
「四人いる」
ガズは言い切った。
「単独じゃない。俺たちは四人だ」
ロットが槍を担ぎ直す。
「入口だけ見ようぜ。行けそうなら進む。無理なら戻る」
ベレンは明らかに迷っていた。
リィナも足が止まっている。
だが、ガズとロットはもう進み始めていた。
藻の匂いが濃くなる。
水音が増える。
ベレンが叫ぶ。
「待て、ガズ!」
その声は、第3層の入口で少しだけ鈍った。
ガズは振り返らなかった。
ロットも続いた。
二人は藻の迷路へ入った。
ベレンは入口で止まった。
リィナも止まった。
その一歩が、生死を分けた。
黒い水膜の内側で、俺は頬を引きつらせた。
「うわあ、行った」
『二人は止まったわね』
「ベレンとリィナは止まった。けど、ガズとロットは行った」
『第2層を抜けたことで、過信が強まった』
「成功体験の味が最悪の方向に濃い!」
表示が浮かぶ。
【第2層 新規冒険者組の踏破を確認】
【過信、恐怖、悔しさ、達成感を獲得】
【獲得DP:96】
【現在DP:725】
「第2層踏破分は入った。でもこれ、全然喜びきれないやつ!」
『第3層へ向かったものね』
「止まった二人はまだ戻れる。問題は奥の二人だな……」
藻の迷路に入ったガズとロットの姿は、水膜の中で揺れていた。
外からの声はもう届かない。
本人たちも、たぶんまだ分かっていない。
第2層を抜けた勢いで入る場所ではない。
ここは、欲を試す場所だ。
清水の間では、クレスが動いた。
「遅い」
その一言で、カティアの顔が変わる。
「行くぞ」
「俺も」
メリダが立ち上がった。
クレスは頷く。
「カティア、メリダ、俺で確認に入る。フィン、マイラ、入口を見ていてくれ。リオとサナは動くな」
フィンが頷く。
「はい」
マイラは記録板を抱え直した。
「分かりました」
クレスたちは第2層へ入った。
泥の跡は派手だった。
転んだ跡。
盾をついた跡。
槍を滑らせた跡。
魔法で泥を散らした跡。
それらを追って進む。
カティアが顔をしかめる。
「雑だな」
メリダも頷く。
「でも進めてる。そこが一番まずい」
クレスは足を止めない。
第2層の奥へ進む。
そして、第3層入口の手前で、ベレンとリィナを見つけた。
二人は座り込んでいた。
顔は真っ青だった。
リィナは杖を抱えたまま震えている。
ベレンは第3層の入口を見つめていた。
「ガズとロットは」
クレスが聞く。
ベレンは唇を震わせた。
「入った……止めたけど、入った……」
カティアが低く吐き捨てた。
「馬鹿野郎が」
クレスは第3層入口へ近づいた。
水音が強くなる。
藻が揺れる。
奥から、ほんの一瞬だけ声が聞こえた。
「こっちじゃ」
そこで、途切れた。
次に聞こえたのは、何かが水に沈む音だった。
ちゃぷん。
それだけ。
クレスは拳を握った。
革手袋の下で、指が白くなるほど力が入っていた。
足は、半歩だけ前へ出ていた。
助けに行く動きだった。
だが、そこで止まった。
クレスは第3層の奥を見たまま、ゆっくり息を吐く。
その顔には怒りもあった。
悔しさもあった。
それでも、足はそれ以上進まなかった。
「……奥だ」
クレスは低く言った。
「もう、届かない」
カティアが横で言う。
「分かってるなら戻れ」
メリダも縄を握ったまま、唇を噛む。
「今入ったら、助ける側が増える」
クレスは一度だけ目を閉じた。
まぶたを開いた時、迷いは消えていた。
そして、ベレンとリィナへ向き直る。
「戻る」
リィナが泣きそうな声を出した。
「でも、ガズたちが」
「戻る」
クレスの声は静かだった。
だが、動かせない重さがあった。
「これ以上、死者を増やさない」
その判断は、冷たく見えた。
けれど、必要だった。
黒い水膜の内側では、表示が静かに現れていた。
【第3層 無謀進入者2名死亡】
【欲望、過信、恐怖、後悔、生命力を獲得】
【所持品、装備品を吸収】
【獲得DP:412】
【第3層 藻の迷路修復、水スライム再配置にDPを64消費】
【現在DP:1073】
俺は、その表示を見た。
来た。
大きく来た。
でも、さすがに一瞬だけ息を止めた。
二人。
第2層を抜けて、そのまま第3層へ行った二人。
止められても行った。
戻れと言われても行った。
そして、戻らなかった。
「……よし」
『受け取るのね』
「受け取る」
俺は頬を軽く叩いた。
ぱん。
「警告はあった。受付もあった。第2層で泥も食らった。クレスも事前に止めた。カティアも止めた。それでも行った」
『ええ』
「なら、第3層は第3層として受け取る。ここで俺が沈んでも、あいつらは戻らない」
『迷宮主らしいわ』
「だろ。だいぶ板についてきた。嫌な板だけどな!」
『嫌なの?』
「そりゃ嫌な部分もある! でも、必要な板なら踏む!」
俺は水膜を見る。
クレスたちは第2層奥で、生き残った二人を連れ戻そうとしている。
ベレンとリィナは生きている。
ガズとロットは戻らない。
クレスは、奥まで追わなかった。
追えなかったのではない。
追わない判断をした。
「……クレス、止まったな」
『ええ。あそこで踏み込めば、彼も危なかったでしょうね』
「戻れる線を守った。すごいな」
俺はそれ以上、茶化さなかった。
クレスの姿は、静かに強かった。
清水の間は、凍っていた。
ガズとロットは戻らない。
ベレンは泥だらけのまま座り込み、両手で顔を覆っている。
リィナは杖を抱えて震えていた。
クレスは第3層の入口から目を離さなかった。
息を整え、ゆっくりと言う。
「二人は、戻らない」
その言葉だけで、十分だった。
仮受付にいたギルド職員が顔を白くする。
メリダは黙って縄をほどいた。
カティアはガズたちが消えた入口を睨みつけ、低く言った。
「だから言っただろうが」
誰も返事をしない。
カティアは振り返り、待機広間の冒険者たちへ怒鳴った。
「見たな!」
全員が肩を震わせた。
「第2層を抜けたからって、第3層に入れるわけじゃねえ! 泥で転んで帰ってこれた奴が、藻で戻れると思うな!」
リオとサナも黙って聞いている。
フィンは唇を結んでいた。
マイラは記録板を握りしめる。
クレスはベレンとリィナの前に膝をついた。
「立てるか」
ベレンは首を横に振った。
「俺……俺、止まれって」
「止まった。だから生きている」
クレスの声は静かだった。
リィナが泣きながら言う。
「ガズが、行くって……ロットも……私、止められなくて」
「君は入口で止まった」
「でも」
「止まったことを、まず覚えろ」
リィナは息を呑んだ。
クレスは続ける。
「次に、止める声を持て。仲間が死にに行く時、足を止めるだけでは足りないことがある」
厳しい言葉だった。
だが、責めているだけではなかった。
リィナは涙をぬぐいながら頷いた。
「はい……」
メリダはその様子を見て、小さく息を吐いた。
「第2層だけで帰るつもりだったけど、正解だったな」
若い魔術師が震えた声で言う。
「メリダさん」
「見たろ。欲張るなら、まず帰り道を覚えろ」
その言葉は、待機広間に静かに広がった。
仮受付の職員は、すぐに記録板へ新しい文言を書き足した。
第3層挑戦は、仮受付で再確認必須。
第2層一度踏破のみでの第3層挑戦は非推奨。
同行経験者なしのEランク挑戦は強く警告。
カティアがそれを見て言う。
「もっと短くしろ」
「え?」
「馬鹿は長い文章を読まねえ」
職員は一瞬固まった。
それから書き直す。
第3層。
油断すれば死ぬ。
単独、勢い、初回突破直後の挑戦は禁止ではないが、強く警告。
死体も装備も戻らない。
カティアは頷いた。
「それでいい」
フィンが小さく言った。
「分かりやすいですね」
「分かりやすく書いても、読まない奴は死ぬ」
「厳しい」
「今、二人死んだ直後だ。甘く言う方が嘘だろ」
清水の間に、水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
いつもと同じ音だ。
だが、今日は違って聞こえた。
黒い水膜の内側で、俺は表示を見ていた。
【第1層 来訪者の畏怖、警戒、規律認識を検知】
【獲得DP:184】
【現在DP:1257】
「……増えたな」
『ええ。死だけではないわ。見た者の畏れ、警戒、規律への理解も流れた』
「うん」
俺は水膜の向こうを見る。
冒険者たちは静かになっている。
さっきまで大銀貨二枚の話をしていた連中も、今は第3層の入口を見て黙っている。
「悪くない」
『悪くない?』
「死んだのは二人。重い。でも、あそこで全員死ぬよりいい。生き残った二人がいる。見た奴らがいる。受付も変わる。次の無駄死には減る」
『無駄死にを減らしたいの?』
「継続して来てほしいからな。死にまくるだけの迷宮にしたいわけじゃない。怖いけど戻れる。欲しいけど準備がいる。そういう流れが欲しい」
『迷宮主らしい計算ね』
「計算です。かなり現場寄りの計算です」
『第3層はどうする?』
「変えない」
俺は即答した。
「第3層は、欲を試す場所。第2層を力技で抜けただけの奴を通すほど甘くない。それでいい」
『ええ』
「ただ、第1層の受付と、外側の説明はもっと必要だな。あいつら、文字を読まない」
『人間は文字があっても読まないのね』
「読む人は読む。読まない人は足で読む。今日の二人は、足で読んで帰ってこなかった」
『厳しい言い方ね』
「厳しく言う。ここは迷宮だからな」
俺は息を吐いた。
重さはある。
でも、沈まない。
第16話の今日、清水の迷宮ははっきり変わった。
水を汲む場所。
訓練する場所。
報酬を狙う場所。
そして、死ぬ場所。
その全部が、同じ迷宮の中にあると、来た者たちに刻まれた。
「大丈夫大丈夫。なんとかする」
『今回は根拠があるの?』
「ある。第1層は広げた。第2層は機能した。第3層は舐めた奴を飲んだ。受付も変わった」
『ずいぶん物騒な根拠ね』
「迷宮なので!」
『便利な言葉ね』
「俺もそう思う!」
水音が響く。
ぽたり。
ぽたり。
清水の間には、まだ人がいる。
村人も、冒険者も、ギルド職員も。
彼らは今日、紅肌の雫の値段だけではなく、第3層の値段も見た。
大銀貨二枚。
そして、命二つ。
欲は足を持って来た。
だが、帰る足を持てるかどうかは、別の話だった。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
欲は、ちゃんと足を持って来ました。
けれど戻る足まで残るとは限りません。
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