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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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16/19

第16話 欲は足を持ってやって来る



 朝のルスカ村に、足音が増えた。


 村人の足音ではない。


 水桶を抱えた、いつもの足音でもない。


 革靴。


 鉄靴。


 荷馬車の車輪。


 安物の鎧が擦れる音。


 剣の鞘が腰に当たる音。


 領都プロンテラから来た冒険者たちだった。


 数は、最初に見えた時より多かった。


 道の向こうから一組。


 馬車の後ろから二組。


 さらに、冒険者ギルドの臨時職員を乗せた荷馬車が一台。


 ルスカ村の入口に立っていたオルド村長は、白い髭を撫でながら深く息を吐いた。


「……本当に来たか」


 隣にいたギルド職員が、記録板を抱え直す。


「本日より、暫定受付を清水の間に置きます。村内での宿泊、食事、荷物置きについては村長と相談しながら進めます」


「相談で済む数ならよいがな」


「済まないと思います」


「正直だな」


「嘘をつくと、後で受付が燃えます」


 オルド村長は目を細めた。


「燃やすなよ」


「努力します」


 その横を、若い冒険者たちが通っていく。


「ここがルスカ村か」


「小さいな」


「本当に大銀貨二枚の雫が出るのか?」


「清水の迷宮だろ。あの森の方か?」


「第2層は訓練向けって聞いたぞ」


「なら俺たちでもいけるだろ」


 村人たちが距離を取る。


 子どもたちは興味津々で見ているが、大人たちは不安そうだった。


 水汲みの列に、冒険者の列。


 村の道に、馬車。


 いつもの朝ではない。


 清水の迷宮は、静かにその足音を迎えた。






 黒い水膜の内側で、俺は思わず立ち上がった。


「来た!」


『来たわね』


「欲が足を持って来た!」


『言い方が気に入ったの?』


「気に入った! めちゃくちゃ気に入った! 外ではDPが入らない。でも、足でここまで来たら話は別!」


 清水の間に、冒険者たちが次々と入ってくる。


 水を見て驚く者。


 広くなった第1層を見て足を止める者。


 壁文字を読む者。


 読まずに進みかけて、カティアに睨まれる者。


 ギルド職員が仮受付の石台に記録板を置く。


 村人は水汲み場へ。


 冒険者は待機広間へ。


 商人の荷は取引区域へ。


 昨日広げた場所が、いきなり使われ始めていた。


「よかった……! 広げておいて本当によかった……!」


『昨日の貴方の経理は泣いていたけれどね』


「今日の俺が褒めてるから大丈夫!」


『経理は報われたのかしら』


「たぶん胃薬を要求してる!」


 表示が浮かぶ。


【第1層 新規来訪者増加を確認】


【生活欲、冒険欲、報酬欲、警戒、過信を検知】


【仮受付利用開始を確認】


【獲得DP:118】


【現在DP:629】


「よし!」


 俺は拳を握った。


「第1層だけで入った! 常駐と受付、やっぱ強い!」


『欲が散らばらず、迷宮内に留まり始めているわね』


「これこれ。これが欲しかった。水を汲んですぐ帰るだけじゃなくて、待つ、書く、準備する、迷う、欲しがる。全部ここで発生する」


『人間の停滞を喜ぶ迷宮主』


「言い方!」


『間違ってはいないでしょう?』


「間違ってないけど、もう少しこう、滞在価値とか言って!」


『滞在価値』


「急に商業施設っぽくなったな!」


 俺は水膜を見た。


 人が増えた。


 欲も増えた。


 だが、同時に危なさも増えた。


 紅肌の雫を目当てに来た目。


 第2層を舐めている足取り。


 第3層を、まだ見てもいないのに金額で測っている顔。


 全部、分かる。


「さて、誰が最初に転ぶかな」


『楽しそうね』


「第2層で転ぶ分には、訓練だからな!」


『第3層で転ぶと?』


「帰ってこないかもしれない」


『ええ』


「そこだな。今日はそこが分かれ目だ」






 清水の間は、朝から混んだ。


 だが、昨日広げたおかげで、完全な混乱にはならなかった。


 水汲みの村人たちは、水盤の前で順番を待つ。


 冒険者たちは待機広間で武器や靴紐を確認する。


 仮受付の前では、ギルド職員が名前、ランク、目的を記録していた。


「氏名」


「ガズ」


「ランク」


「E」


「目的」


「第3層。紅肌の雫」


 ギルド職員は筆を止めた。


「第2層の踏破経験は?」


「ねえよ。でも第2層は訓練向けなんだろ?」


 ガズと名乗った若い剣士は、笑いながら親指で自分の後ろを指した。


 仲間は三人。


 槍持ちのロット。


 盾持ちのベレン。


 見習い魔術師のリィナ。


 全員、Eランク。


 装備は新しすぎるほどではない。


 だが、使い込まれてもいない。


 自信だけが、やけに前へ出ていた。


 ギルド職員が淡々と言う。


「第3層への挑戦は、第2層を安定して抜けられることが前提です。Eランクは複数人、経験者または上位者同行を強く推奨します」


「複数人だろ。四人いる」


「経験者か上位者は?」


「必要なら第2層を見てから考える」


 カティアが横から口を挟んだ。


「その考え方がもう滑ってる」


 ガズが振り返る。


「誰だよ」


「Cランク斥侯、カティア」


 ガズの表情が少し変わった。


 だが、すぐに笑う。


「Cランクなら、案内してくれるのか?」


「金を積まれても嫌だね。第2層を舐めてる奴を案内すると、靴より先に脳みそが泥に沈む」


 ロットがむっとする。


「第2層は訓練用なんだろ?」


「訓練用だ。だから油断した奴を転ばせる」


「転ぶくらいなら」


「転んだ後に起き上がれない奴が死ぬ」


 空気が少し固くなった。


 そこへ、別の声が入った。


「受付、済ませてから騒ぎな」


 年季の入った革鎧の女が、待機広間の端に立っていた。


 短く切った髪。


 左頬に傷。


 Dランク冒険者、メリダ。


 彼女は自分の靴紐を結び直しながら、ガズたちを見る。


「ここで強がっても、泥は聞いちゃくれないよ」


 ガズが眉を寄せる。


「あんたも行くのか」


「行く。だが、第2層を見て帰るかもしれない」


「それでDランク?」


「Dランクだからだよ。Eランクでそれが分からないなら、まず泥に教わるといい」


 リィナが小さく言った。


「慎重なんですね」


 メリダは肩をすくめる。


「臆病って言いな。臆病な奴ほど、帰ってから飯を食える」


 カティアが口の端を少しだけ上げた。


「そっちの方がまだ見込みがある」


 ガズは不満そうだったが、受付を済ませた。


 クレスは少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。


 表情は穏やかだ。


 だが、目は笑っていなかった。






 その後、第2層にはいくつもの足が入った。


 まずはメリダの組。


 メリダは仲間を二人連れていた。


 若い魔術師と、槍持ちの男。


 彼女は入口で足を止め、泥の匂いを確かめる。


「浅い泥に見える場所ほど疑え。水音のする方へすぐ行くな。苔鼠は足首、泥スライムは靴裏。怖くなったら戻る。戻る判断を馬鹿にした奴から沈む」


 若い魔術師が頷く。


「はい」


「返事が綺麗すぎる。転ぶぞ」


「返事で転ぶんですか」


「気持ちが前に出すぎると足が遅れる」


 メリダはそう言って、一歩目を踏み出した。


 遅い。


 だが、確実だった。


 彼女たちは入口から少し進み、泥スライムを見つけると距離を取った。


 苔鼠が走れば、無理に追わない。


 滑る石床の前で、槍持ちが棒で軽く叩く。


 進んで、戻る。


 戻って、また進む。


 派手さはない。


 だが、見ているカティアは一度だけ頷いた。


「悪くねえ」


 クレスも言った。


「戻る判断が早い」


「臆病者だからね」


 メリダは第2層から戻ってくると、靴を泥落とし水場で丁寧に洗った。


 待機広間にいたEランクたちが、どこか拍子抜けしたように見る。


「第2層だけで戻るのか」


 ガズが言った。


 メリダは水で泥を落としながら答えた。


「今日はな」


「もったいねえ。紅肌の雫を取りに来たんじゃないのか」


「取りに来たよ。死にに来たんじゃない」


 その一言に、若い冒険者たちの何人かが黙った。


 ガズは笑った。


「俺たちは行くぞ。第2層を抜けたら、そのまま第3層だ」


 クレスが近づいた。


「第2層を一度抜けただけで、第3層へ進むことは勧めない」


「でも禁止じゃないんだろ」


 クレスは静かにガズを見た。


「禁止ではない。だが、死ぬ可能性は高い」


「なら死ななきゃいい」


 ロットが笑った。


 ベレンは少し不安そうだった。


 リィナは杖を握り直している。


 クレスは一歩前へ出た。


「第3層は、声が外へ届きにくい。迷えば助けを呼べない。昨日も死者が出ている」


「聞いたよ。単独だったんだろ」


「それだけが理由ではない」


「俺たちは四人いる」


「四人いれば迷わないわけではない」


「でも、四人で突破した奴らがいるんだろ」


 クレスは答えなかった。


 代わりに、腰の剣に手を置く。


 脅しではない。


 ただ、いつでも動けるように。


「ガズ。ここで引き返す判断ができるなら、次がある」


「説教はいい」


 ガズは仲間を振り返った。


「行くぞ。まず第2層だ」


 カティアが低く言った。


「馬鹿は泥に沈め。第3層には行くな」


「行けたら考えるよ」


「その返事をする奴は、大体考えねえ」


 ガズたちは笑いながら第2層へ入った。


 その背中が泥の回廊に消える。


 声も、足音も、やがて水音と泥の音に紛れて分からなくなった。


 クレスは入口に立ったまま、しばらく奥を見ていた。


 カティアが横に並ぶ。


「嫌な入り方だな」


「ああ」


「追うか?」


「今追えば、ただの過干渉になる。第2層は訓練層だ。自分たちで戻る判断をする場所でもある」


「戻る判断ができる顔じゃなかったけどな」


「だから見ている」


 クレスは短く答えた。


 待機広間では、他の冒険者たちがざわついている。


 ガズたちの態度を笑う者。


 心配する者。


 自分たちも行けるのではないかと目を輝かせる者。


 メリダは壁際で腕を組み、じっと第2層入口を見ていた。


「戻るなら、そろそろ一度戻る」


 カティアが言った。


「普通ならな」


 クレスは頷く。


 だが、ガズたちは戻ってこなかった。






 ガズたちは、第2層で何度も転んだ。


 泥スライムに足を取られ、苔鼠に足首を狙われ、滑る石床で盾持ちのベレンが派手に転んだ。


「くそっ、こんなもんかよ!」


 ガズは泥を吐き捨てるように言った。


 ロットが槍で苔鼠を追い払いながら笑う。


「でも進めてる!」


「だろ!」


 リィナは息を切らしながら、弱い風の魔法を使った。


「ウィンド!」


 風が泥の表面を揺らし、一瞬だけ足場が見える。


 ベレンが盾で泥スライムを押しのける。


 危なっかしい。


 雑だ。


 何度も足を取られた。


 だが、四人は進んだ。


 進めてしまった。


 やがて、湿った泥の匂いが薄れ、代わりに青く生臭い藻の匂いが混じり始める。


 第2層の終わり。


 第3層の入口。


 そこにたどり着いた時、ガズは泥だらけの顔で笑った。


「抜けたぞ」


 ロットも息を荒げながら笑う。


「第2層、抜けたな」


 ベレンは膝に手をついていた。


「一回、戻ろう。報告して、準備してからでも」


「ここまで来て戻るのか?」


 ガズが振り返る。


「第3層はすぐそこだ。紅肌の雫はその先だろ」


 リィナは杖を握ったまま、藻の入口を見た。


「でも、声が届きにくいって……」


「四人いる」


 ガズは言い切った。


「単独じゃない。俺たちは四人だ」


 ロットが槍を担ぎ直す。


「入口だけ見ようぜ。行けそうなら進む。無理なら戻る」


 ベレンは明らかに迷っていた。


 リィナも足が止まっている。


 だが、ガズとロットはもう進み始めていた。


 藻の匂いが濃くなる。


 水音が増える。


 ベレンが叫ぶ。


「待て、ガズ!」


 その声は、第3層の入口で少しだけ鈍った。


 ガズは振り返らなかった。


 ロットも続いた。


 二人は藻の迷路へ入った。


 ベレンは入口で止まった。


 リィナも止まった。


 その一歩が、生死を分けた。






 黒い水膜の内側で、俺は頬を引きつらせた。


「うわあ、行った」


『二人は止まったわね』


「ベレンとリィナは止まった。けど、ガズとロットは行った」


『第2層を抜けたことで、過信が強まった』


「成功体験の味が最悪の方向に濃い!」


 表示が浮かぶ。


【第2層 新規冒険者組の踏破を確認】


【過信、恐怖、悔しさ、達成感を獲得】


【獲得DP:96】


【現在DP:725】


「第2層踏破分は入った。でもこれ、全然喜びきれないやつ!」


『第3層へ向かったものね』


「止まった二人はまだ戻れる。問題は奥の二人だな……」


 藻の迷路に入ったガズとロットの姿は、水膜の中で揺れていた。


 外からの声はもう届かない。


 本人たちも、たぶんまだ分かっていない。


 第2層を抜けた勢いで入る場所ではない。


 ここは、欲を試す場所だ。






 清水の間では、クレスが動いた。


「遅い」


 その一言で、カティアの顔が変わる。


「行くぞ」


「俺も」


 メリダが立ち上がった。


 クレスは頷く。


「カティア、メリダ、俺で確認に入る。フィン、マイラ、入口を見ていてくれ。リオとサナは動くな」


 フィンが頷く。


「はい」


 マイラは記録板を抱え直した。


「分かりました」


 クレスたちは第2層へ入った。


 泥の跡は派手だった。


 転んだ跡。


 盾をついた跡。


 槍を滑らせた跡。


 魔法で泥を散らした跡。


 それらを追って進む。


 カティアが顔をしかめる。


「雑だな」


 メリダも頷く。


「でも進めてる。そこが一番まずい」


 クレスは足を止めない。


 第2層の奥へ進む。


 そして、第3層入口の手前で、ベレンとリィナを見つけた。


 二人は座り込んでいた。


 顔は真っ青だった。


 リィナは杖を抱えたまま震えている。


 ベレンは第3層の入口を見つめていた。


「ガズとロットは」


 クレスが聞く。


 ベレンは唇を震わせた。


「入った……止めたけど、入った……」


 カティアが低く吐き捨てた。


「馬鹿野郎が」


 クレスは第3層入口へ近づいた。


 水音が強くなる。


 藻が揺れる。


 奥から、ほんの一瞬だけ声が聞こえた。


「こっちじゃ」


 そこで、途切れた。


 次に聞こえたのは、何かが水に沈む音だった。


 ちゃぷん。


 それだけ。


 クレスは拳を握った。


 革手袋の下で、指が白くなるほど力が入っていた。


 足は、半歩だけ前へ出ていた。


 助けに行く動きだった。


 だが、そこで止まった。


 クレスは第3層の奥を見たまま、ゆっくり息を吐く。


 その顔には怒りもあった。


 悔しさもあった。


 それでも、足はそれ以上進まなかった。


「……奥だ」


 クレスは低く言った。


「もう、届かない」


 カティアが横で言う。


「分かってるなら戻れ」


 メリダも縄を握ったまま、唇を噛む。


「今入ったら、助ける側が増える」


 クレスは一度だけ目を閉じた。


 まぶたを開いた時、迷いは消えていた。


 そして、ベレンとリィナへ向き直る。


「戻る」


 リィナが泣きそうな声を出した。


「でも、ガズたちが」


「戻る」


 クレスの声は静かだった。


 だが、動かせない重さがあった。


「これ以上、死者を増やさない」


 その判断は、冷たく見えた。


 けれど、必要だった。






 黒い水膜の内側では、表示が静かに現れていた。


【第3層 無謀進入者2名死亡】


【欲望、過信、恐怖、後悔、生命力を獲得】


【所持品、装備品を吸収】


【獲得DP:412】


【第3層 藻の迷路修復、水スライム再配置にDPを64消費】


【現在DP:1073】


 俺は、その表示を見た。


 来た。


 大きく来た。


 でも、さすがに一瞬だけ息を止めた。


 二人。


 第2層を抜けて、そのまま第3層へ行った二人。


 止められても行った。


 戻れと言われても行った。


 そして、戻らなかった。


「……よし」


『受け取るのね』


「受け取る」


 俺は頬を軽く叩いた。


 ぱん。


「警告はあった。受付もあった。第2層で泥も食らった。クレスも事前に止めた。カティアも止めた。それでも行った」


『ええ』


「なら、第3層は第3層として受け取る。ここで俺が沈んでも、あいつらは戻らない」


『迷宮主らしいわ』


「だろ。だいぶ板についてきた。嫌な板だけどな!」


『嫌なの?』


「そりゃ嫌な部分もある! でも、必要な板なら踏む!」


 俺は水膜を見る。


 クレスたちは第2層奥で、生き残った二人を連れ戻そうとしている。


 ベレンとリィナは生きている。


 ガズとロットは戻らない。


 クレスは、奥まで追わなかった。


 追えなかったのではない。


 追わない判断をした。


「……クレス、止まったな」


『ええ。あそこで踏み込めば、彼も危なかったでしょうね』


「戻れる線を守った。すごいな」


 俺はそれ以上、茶化さなかった。


 クレスの姿は、静かに強かった。






 清水の間は、凍っていた。


 ガズとロットは戻らない。


 ベレンは泥だらけのまま座り込み、両手で顔を覆っている。


 リィナは杖を抱えて震えていた。


 クレスは第3層の入口から目を離さなかった。


 息を整え、ゆっくりと言う。


「二人は、戻らない」


 その言葉だけで、十分だった。


 仮受付にいたギルド職員が顔を白くする。


 メリダは黙って縄をほどいた。


 カティアはガズたちが消えた入口を睨みつけ、低く言った。


「だから言っただろうが」


 誰も返事をしない。


 カティアは振り返り、待機広間の冒険者たちへ怒鳴った。


「見たな!」


 全員が肩を震わせた。


「第2層を抜けたからって、第3層に入れるわけじゃねえ! 泥で転んで帰ってこれた奴が、藻で戻れると思うな!」


 リオとサナも黙って聞いている。


 フィンは唇を結んでいた。


 マイラは記録板を握りしめる。


 クレスはベレンとリィナの前に膝をついた。


「立てるか」


 ベレンは首を横に振った。


「俺……俺、止まれって」


「止まった。だから生きている」


 クレスの声は静かだった。


 リィナが泣きながら言う。


「ガズが、行くって……ロットも……私、止められなくて」


「君は入口で止まった」


「でも」


「止まったことを、まず覚えろ」


 リィナは息を呑んだ。


 クレスは続ける。


「次に、止める声を持て。仲間が死にに行く時、足を止めるだけでは足りないことがある」


 厳しい言葉だった。


 だが、責めているだけではなかった。


 リィナは涙をぬぐいながら頷いた。


「はい……」


 メリダはその様子を見て、小さく息を吐いた。


「第2層だけで帰るつもりだったけど、正解だったな」


 若い魔術師が震えた声で言う。


「メリダさん」


「見たろ。欲張るなら、まず帰り道を覚えろ」


 その言葉は、待機広間に静かに広がった。


 仮受付の職員は、すぐに記録板へ新しい文言を書き足した。


 第3層挑戦は、仮受付で再確認必須。


 第2層一度踏破のみでの第3層挑戦は非推奨。


 同行経験者なしのEランク挑戦は強く警告。


 カティアがそれを見て言う。


「もっと短くしろ」


「え?」


「馬鹿は長い文章を読まねえ」


 職員は一瞬固まった。


 それから書き直す。


 第3層。


 油断すれば死ぬ。


 単独、勢い、初回突破直後の挑戦は禁止ではないが、強く警告。


 死体も装備も戻らない。


 カティアは頷いた。


「それでいい」


 フィンが小さく言った。


「分かりやすいですね」


「分かりやすく書いても、読まない奴は死ぬ」


「厳しい」


「今、二人死んだ直後だ。甘く言う方が嘘だろ」


 清水の間に、水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 いつもと同じ音だ。


 だが、今日は違って聞こえた。






 黒い水膜の内側で、俺は表示を見ていた。


【第1層 来訪者の畏怖、警戒、規律認識を検知】


【獲得DP:184】


【現在DP:1257】


「……増えたな」


『ええ。死だけではないわ。見た者の畏れ、警戒、規律への理解も流れた』


「うん」


 俺は水膜の向こうを見る。


 冒険者たちは静かになっている。


 さっきまで大銀貨二枚の話をしていた連中も、今は第3層の入口を見て黙っている。


「悪くない」


『悪くない?』


「死んだのは二人。重い。でも、あそこで全員死ぬよりいい。生き残った二人がいる。見た奴らがいる。受付も変わる。次の無駄死には減る」


『無駄死にを減らしたいの?』


「継続して来てほしいからな。死にまくるだけの迷宮にしたいわけじゃない。怖いけど戻れる。欲しいけど準備がいる。そういう流れが欲しい」


『迷宮主らしい計算ね』


「計算です。かなり現場寄りの計算です」


『第3層はどうする?』


「変えない」


 俺は即答した。


「第3層は、欲を試す場所。第2層を力技で抜けただけの奴を通すほど甘くない。それでいい」


『ええ』


「ただ、第1層の受付と、外側の説明はもっと必要だな。あいつら、文字を読まない」


『人間は文字があっても読まないのね』


「読む人は読む。読まない人は足で読む。今日の二人は、足で読んで帰ってこなかった」


『厳しい言い方ね』


「厳しく言う。ここは迷宮だからな」


 俺は息を吐いた。


 重さはある。


 でも、沈まない。


 第16話の今日、清水の迷宮ははっきり変わった。


 水を汲む場所。


 訓練する場所。


 報酬を狙う場所。


 そして、死ぬ場所。


 その全部が、同じ迷宮の中にあると、来た者たちに刻まれた。


「大丈夫大丈夫。なんとかする」


『今回は根拠があるの?』


「ある。第1層は広げた。第2層は機能した。第3層は舐めた奴を飲んだ。受付も変わった」


『ずいぶん物騒な根拠ね』


「迷宮なので!」


『便利な言葉ね』


「俺もそう思う!」


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水の間には、まだ人がいる。


 村人も、冒険者も、ギルド職員も。


 彼らは今日、紅肌の雫の値段だけではなく、第3層の値段も見た。


 大銀貨二枚。


 そして、命二つ。


 欲は足を持って来た。


 だが、帰る足を持てるかどうかは、別の話だった。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


欲は、ちゃんと足を持って来ました。


けれど戻る足まで残るとは限りません。


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