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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第17話 戻るために進め



 翌朝。


 清水の間は、思ったより静かではなかった。


 昨日、二人が第3層で戻らなかった。


 その事実は、たしかに残っている。


 待機広間の端では、ガズとロットの名前が仮受付の記録板に小さく追記されていた。


 帰還せず。


 たったそれだけ。


 だが、冒険者たちは水汲み場の前で黙祷しているわけではない。


 水を飲む者がいる。


 靴紐を締め直す者がいる。


 昨日の話を小声で何度も聞き返す者がいる。


 そして、紅肌の雫の値段を思い出して、やはり第3層の入口を見る者がいる。


 怖い。


 でも欲しい。


 死にたくない。


 でも稼ぎたい。


 その感情が、清水の間に混ざっていた。


 カティアは待機広間の壁に背を預け、腕を組んでいた。


 目つきはいつも通り悪い。


 いや、いつもより少し悪い。


 クレスは仮受付の記録を確認している。


 表情は落ち着いている。


 だが、昨日第3層の入口で止まった時の硬さが、まだ少しだけ肩に残っていた。


 メリダは泥落とし水場のそばで、自分の靴裏を見ている。


 臆病者を自称するDランク冒険者は、昨日より少しだけ口数が少なかった。


 その三人だけが、空気の底に沈んだものを正確に見ていた。


 一方で、フィンは鼻の横についた泥を拭きながら、リオとサナに言っていた。


「第2層、昨日より滑る気がするんだよな」


 リオが真面目な顔で頷く。


「迷宮が変えたのか?」


 サナが即座に言う。


「フィンさんの足元が変わってないだけでは?」


「鋭い!」


 フィンは胸を押さえた。


「サナ、今日の一撃重い!」


 カティアが横から言った。


「泥より軽いだろ」


「カティアさんまで!」


 清水の間の空気が、少しだけ緩む。


 重いものは残っている。


 でも、沈みっぱなしではない。


 冒険者は、そういう生き物だった。






 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


「思ったより、沈んでないな」


『死に慣れている者もいる。死を見たばかりで、まだ実感が遅れている者もいる。欲が勝っている者もいるわ』


「人間、複雑だな」


『貴方も人間でしょう』


「だから面倒くさいって言ってるんだよ」


 俺は待機広間を見る。


 クレス、カティア、メリダの周りだけ、少し空気が重い。


 でも、若い冒険者たちは違う。


 怖がっている。


 けれど、目は第3層の方を見ている。


 あの先に紅肌の雫があると知っている。


 そして昨日、二人が死んだことも知っている。


 それでも、来る。


「いいな」


『死者が出た翌朝に、それを言うの?』


「言う。もちろん、気分がいいって意味じゃないぞ。死んでも全部が止まらない。これがいい」


『流れが残っている、ということね』


「そう。禁止して終わりじゃない。怖いから封鎖じゃない。どう進むか、どう戻るかを考える方向に行ける」


『第3層を閉じる気はないのね』


「ない。第3層は報酬の場所だ。でも、それだけじゃない。昨日ではっきりした」


 俺は黒い水膜に映る第3層の入口を見た。


 藻の匂い。


 水音。


 声の届きにくさ。


 戻る道を奪う迷路。


 あそこは、ただの宝箱置き場じゃない。


「第3層は、戻る判断を鍛える階層にできる」


『第2層は足元。第3層は判断』


「そう! 第2層で転んで、足元を見る。第3層で迷いかけて、戻る判断を覚える。これ、かなりいいぞ」


『報酬を餌にしながら、撤退を学ばせるのね』


「言い方!」


『合っているでしょう』


「合ってる! でも、もう少し優しく!」


『紅肌の雫を求めて来た人間に、帰り道を覚えさせる階層』


「それ! 今の採用!」


『高貴なる採用ね』


「採用する側が俺なのに、なんかヴェルティアが偉い!」


『私は高貴だもの』


「出た、万能理論!」






 仮受付の前で、クレスが手を上げた。


 冒険者たちの視線が集まる。


「昨日、第3層で二名が戻らなかった」


 騒がしかった清水の間が静まる。


 だが、クレスはそこで長く沈ませなかった。


「だから第3層を封鎖する、という話ではない」


 ざわり、と空気が動いた。


 リオが顔を上げる。


 サナも少し驚いたように瞬きをした。


 昨日の死を見た冒険者たちの中には、当然、第3層への挑戦が禁止されると思っていた者もいた。


 カティアが舌打ち混じりに言う。


「禁止したところで、行く馬鹿は行く。なら、行き方を叩き込む方がまだマシだ」


 メリダが肩をすくめる。


「死にたくない奴には、いい話だね」


「死にたい奴にも聞かせるんだよ」


 カティアが返す。


「聞く耳が残ってるうちにな」


 仮受付のギルド職員が、記録板を抱え直した。


「では、ギルドとしては本日より、第3層挑戦前の確認を強化します。挑戦禁止ではありません。ただし、第2層での基礎確認、撤退合図、隊列、戻る判断の練習を推奨します」


 若い冒険者の一人が言った。


「推奨ってことは、やらなくてもいいのか?」


 その瞬間、カティアの目がぎらりと光った。


「やらなくてもいいぞ」


 若い冒険者は少し安心した顔をした。


 カティアは続けた。


「その代わり、死んでも泣き言は聞かねえ。死体も装備も戻らねえ。昨日見ただろ」


 若い冒険者は黙った。


 周囲も黙った。


 クレスが静かに言う。


「第3層は、紅肌の雫を取りに行く場所であると同時に、戻る判断を試される場所だ。奥へ進む力より、戻る理由を見つける力が必要になる」


 メリダがぽつりと言った。


「宝を取りに行く場所じゃない。帰る理由を探しに行く場所だね」


 その一言に、待機広間の空気が変わった。


 派手な言葉ではない。


 でも、妙に残る言葉だった。


 フィンが小さく繰り返す。


「帰る理由を探しに行く場所……」


 カティアがフィンを見る。


「お前はまず泥から帰ってこい」


「そこから!」


「基礎は大事だ」


 少しだけ笑いが起きた。


 その軽さが、場を沈ませすぎない。


 クレスは参加者たちを見回した。


「今日は第3層を踏破しない」


 リオが少しだけ目を見開く。


「入口だけ見るんですか?」


「違う。入口で怖がって終わるなら、昨日の教訓にならない。第3層に入り、慎重に一時間進む。そして、必ず戻る」


 待機広間がざわついた。


「一時間も進むのに、戻るんですか?」


 サナが聞いた。


 クレスは頷く。


「普通に踏破を狙うなら、第3層は片道だけで三時間前後は見ておくべきだ。慣れていない者が慎重に進めば、さらにかかる」


「三時間……」


 フィンが小さく呟いた。


「俺、十回くらい転べますね」


 カティアが即答する。


「転ぶな」


「はい!」


 クレスは続けた。


「十五分ごとに声の届き方、隊列、壁印、体力、帰り道を確認する。一時間経ったら、どれだけ行けそうでも戻る。紅肌の雫は狙わない」


 リオが拳を握った。


「でも、途中で宝箱が見えたら?」


 カティアが鼻で笑う。


「その発想がもう餌にかかってる」


 リオは顔を赤くした。


 メリダが助け舟のように言う。


「見えたら、なおさら戻る。見えた宝箱を見送れるかどうかも訓練だよ」


「見えてるのに?」


「見えてるからだよ。欲しいものが見えた時に足を止められない奴は、迷宮にとって食べやすい」


 リオは黙った。


 サナが真面目に頷く。


「今日は、取らない訓練」


「そうだ」


 クレスが言う。


「今日は、進むためではなく、戻るために進む」


 フィンが小さく手を上げた。


「つまり、帰宅訓練ですね」


「言い方は軽いが、合っている」


 クレスが答えた。


 カティアが鼻を鳴らす。


「帰宅できねえ奴は冒険者じゃなくて落とし物だ」


「落とし物扱い!」


「しかも迷宮は拾ったら返さねえ」


 その一言で、何人かが黙った。


 昨日のことを思い出したのだろう。


 だが、クレスは重くしすぎなかった。


「だから戻る練習をする」


 リオが手を上げた。


「参加します」


 サナも頷く。


「私も」


 フィンが少し胸を張った。


「俺も行きます。帰宅訓練なら得意になりたいです」


 マイラが記録板を抱える。


「私は記録に入ります」


 メリダは腰に手を当てた。


「私も行くよ。臆病者枠が一人は必要だろ」


 カティアが鼻で笑った。


「臆病者が多い方が、たぶん今日は安全だ」


「いいね。褒め言葉として受け取るよ」


「半分はな」


「半分あれば上等」


 清水の間に、少しずつ前向きなざわめきが戻ってきた。


 死者が出た。


 それでも、行く。


 ただし、昨日と同じ行き方ではない。






 黒い水膜の内側で、俺は思わず手を叩いた。


「いい! すごくいい!」


『嬉しそうね』


「嬉しいよ! 第3層の価値が増えた! 紅肌の雫だけじゃない。撤退判断の訓練場所になった!」


『報酬階層であり、訓練階層でもある』


「そう! 第2層は基礎訓練。第3層は応用訓練。しかも報酬あり!」


『欲を消さずに、慎重さを混ぜるのね』


「それそれ。欲だけだと死ぬ。慎重だけだと挑まない。欲と慎重を混ぜて、何度も来てもらう!」


『人間の欲を配合しているみたいね』


「迷宮ブレンド!」


『安っぽいわ』


「言ってから俺も思った!」


 表示が浮かぶ。


【第1層 冒険者たちの第3層訓練計画を確認】


【警戒、挑戦欲、学習意欲、報酬欲、規律認識を検知】


【獲得DP:146】


【現在DP:1403】


「よし! 訓練計画だけでも入る!」


『迷宮内で欲と意志が生まれているからね』


「第1層、完全に会議室として機能してる!」


『生活区域、待機区域、受付、そして会議室』


「うちの第1層、出世が早い!」


『過労では?』


「やめて、前世に刺さる!」


『刺しているのよ』


「わざとだった!」






 第3層訓練に入る前に、クレスは参加者を絞った。


 クレス。


 カティア。


 メリダ。


 フィン。


 マイラ。


 リオ。


 サナ。


 そして仮受付のギルド職員が一人、第2層入口まで同行する。


 ほかの冒険者たちは待機。


 見学は第2層入口まで。


 それ以上は入らない。


 禁止ではなく、まず見て覚えろという扱いだった。


 カティアは待機組へ向かって言った。


「見学も訓練だ。笑った奴から泥に突っ込む」


 誰も笑わなかった。


 フィンが小さく言う。


「俺、笑われる側の代表だったんですね」


「今さら気づいたのか」


「気づきたくなかったです」


 メリダが笑った。


「泥に愛された男は強いよ」


「その肩書き、なんか嫌です!」


 クレスは全員に短い縄を配った。


「今日は深く結ばない。腕に軽く通すだけだ。引っ張り合うためではなく、距離を意識するために使う」


 リオが縄を見た。


「縛るわけじゃないんですね」


「縛ると、誰かが転んだ時に全員が転ぶ。今日は間隔を見る」


 サナが頷く。


「声が届きにくくなるなら、距離が大事になる」


「そうだ」


 マイラは記録板に書く。


「声、距離、印、撤退合図、時間」


 カティアが白石を数本取り出す。


「壁印は大きく、少なく、迷わない位置につける。細かすぎる印は逆に迷う」


 メリダも自分の白石を出した。


「臆病者の印は、帰りに見つけやすいところにつける」


 フィンが感心する。


「臆病者の知恵、便利ですね」


「便利だろ。長生きのおまけだよ」


 リオとサナは真剣に聞いていた。


 昨日までなら、紅肌の雫を取れるかどうかだけに意識が向いていたかもしれない。


 だが、今日は違う。


 ガズとロットが戻らなかった。


 その事実が、彼らの足元に影を落としている。


 重すぎない。


 でも、消えない。


 それくらいでいい。






 第2層は、もう何度か通った場所だった。


 フィンとマイラにとっては、泥で何度も教えられた場所。


 リオとサナにとっては、まだ緊張する場所。


 メリダにとっては、確認すべき場所。


 クレスとカティアにとっては、昨日の足跡が残る場所。


 泥スライムが浅い泥に広がる。


 苔鼠が壁際を走る。


 滑る石床が、薄く光る。


 フィンは石床の前で足を止めた。


「ここ、滑るやつです」


 カティアが言う。


「やっと鼻以外で覚えたか」


「鼻も覚えてます」


「誇るな」


 リオが剣の柄に手をかける。


 クレスがそれを見て言った。


「抜かない」


「え?」


「敵を見る前に、まず足場を見る」


 リオは手を止めた。


 サナが横で低く言う。


「足場」


 泥スライムが動く。


 サナは剣を抜かず、足を引いた。


 クレスが頷く。


「それでいい。第2層では、倒すより転ばないことを優先する」


 メリダが笑う。


「倒せる敵より、転ばせる床の方が厄介だよ」


「本当にそうですね」


 リオは少し悔しそうだった。


 だが、従った。


 彼らは進んだ。


 途中で一度、リオが苔鼠を追いかけようとして、サナに袖を掴まれた。


「追わない」


「分かってる」


「今、追おうとした」


「ちょっとだけ」


「そのちょっとで迷う」


 リオは口を閉じた。


 フィンが小声で言う。


「サナ、今日も鋭い」


 マイラが真面目に頷く。


「記録に残します」


「残さなくていいです!」


 そうして、彼らは第2層を抜けた。


 派手な戦果はない。


 討伐数も少ない。


 だが、戻る判断と足元の確認は、昨日より明らかに良くなっていた。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かぶ。


【第2層 基礎訓練通過を確認】


【警戒、学習意欲、悔しさ、小達成感を獲得】


【獲得DP:92】


【現在DP:1495】


「いいね、いいね」


『大きな獲得ではないけれど、濁りが少ないわ』


「こういうのが積み上がるのがいい。死のDPは濃いけど、訓練DPは長く続く」


『訓練DP』


「言いやすい」


『安っぽいわ』


「また言われた!」


 俺は第3層入口を見る。


 ここからだ。


 昨日、二人が帰ってこなかった場所。


 今日は、踏破ではない。


 一時間進んで、必ず戻る。


「頼むぞ、みんな。いや、頼むってのも変だけど」


『何を願っているの?』


「死なずに怖がって帰ってこい」


『迷宮主の願いとしては変ね』


「うちは生活インフラ迷宮なので!」


『便利な言葉ね』


「便利は正義!」






 第3層の入口に、全員が立った。


 藻の匂いがする。


 水音が響く。


 昨日より、誰もがその音を意識していた。


 クレスが言う。


「ここから一時間だ。踏破は狙わない。十五分ごとに止まる」


 カティアが続ける。


「行けそう、まだ行ける、もったいない。その三つが出たら、一回口を閉じて帰り道を見ろ」


 メリダが笑う。


「臆病者のおすすめは、足が軽いうちに帰ることだね。足が重くなってから帰ろうとすると、迷宮が急に広くなる」


 フィンが小さく手を上げる。


「俺、もうちょっと足が重いです」


「まだ入ってもいないだろ」


 カティアが睨む。


「緊張で重いです!」


「それは悪くねえ」


「褒められた!」


「調子に乗るな。足が軽くなるぞ」


「難しい!」


 リオが少し笑った。


 サナも口元を緩めた。


 重さが、少しだけ薄まる。


 クレスが先頭に立った。


 次にカティア。


 メリダ。


 リオ。


 サナ。


 フィン。


 マイラ。


 縄は軽く腕に通しているだけ。


 引くためではなく、距離を忘れないため。


 水音の中へ、彼らは入った。






 十五分。


 最初の確認点。


 入口の光は、もう小さくなっていた。


 藻の壁はゆっくり揺れ、水音が声の輪郭を丸くする。


 クレスが手を上げる。


「止まる」


 全員が止まった。


 マイラが後方から声を出す。


「聞こえますか」


 クレスが振り返る。


「聞こえる。ただし、少し鈍い」


 フィンが言う。


「なんか、声が水に包まれる感じがします」


「いい表現です」


 マイラが書き込む。


「え、今の記録されるんですか?」


「されます」


「ちょっと嬉しい!」


 カティアが白石で壁に印をつける。


 大きく、斜めに。


 帰る方向が分かるように。


「細かい印はいらねえ。帰る時に見えなきゃ意味がない」


 メリダも印を確認する。


「臆病者的には、もう少し高い位置でもいい」


 カティアは少し考え、印を上へ伸ばした。


「採用」


「ありがたいね」


 リオが奥を見る。


「まだ行けそうです」


 クレスがすぐに言う。


「その感覚を覚えろ。行けそうと思った時に、まず印を見る」


 リオは壁印を見た。


「見えます」


「なら進む」


 サナが小さく言う。


「見えなくなったら戻る」


「そうだ」


 彼らはさらに奥へ進んだ。






 三十分。


 水音は明らかに強くなっていた。


 藻の壁が時々揺れ、通れそうに見えた道が細くなる。


 そのたびに、リオの足が少し前へ出かけた。


 だが、サナが袖を掴む。


「待つ」


「分かってる」


「今、分かってない足だった」


「足に出るの、やめたい」


「訓練」


 フィンが感心したように言う。


「サナ、足の通訳者みたいですね」


「嬉しくないです」


 メリダが笑った。


「いい才能だよ。仲間の足を見られる奴は、長生きする」


 クレスは二つ目の確認点で止まった。


「声」


 マイラが後ろから言う。


「聞こえますか」


「聞こえるが、言葉が崩れる」


 マイラは記録板に書く。


「三十分地点。水音増加。声の輪郭が崩れる。後方指示は短く」


 カティアが言う。


「長い叫びは無駄だな。戻れ、止まれ、右、左。それくらいにしろ」


 フィンが頷く。


「腹減った、は?」


「黙れ」


「はい」


 少し笑いが起きる。


 その直後、水路から水スライムが薄く広がった。


 リオが剣に手をかける。


 クレスが言う。


「抜かない」


 リオは止まった。


 サナが足元を見る。


「迂回できます」


 メリダが頷く。


「倒すより早い」


 彼らは水スライムを避けた。


 戦わない。


 倒さない。


 進みすぎない。


 ただ、戻るために確認する。


 その地味な判断が、第3層では重かった。






 黒い水膜の内側で、俺は前のめりになっていた。


「いい。すごくいい」


『踏破していないのに楽しそうね』


「踏破してないからいいんだよ! 今日は戻る練習だから!」


『戻るだけで欲が動くのね』


「動く。怖い、行けそう、戻る、悔しい、次はもう少し。これ全部流れになる」


『第3層が、冒険者を少しずつ育てる』


「そう! 殺すだけじゃない。育てて、怖がらせて、また来させる」


『必要なら殺す』


「そこは変えない。迷宮だからな。でも、基本は戻ってほしい。戻った奴はまた来る」


『貴方、本当に迷宮主になってきたわね』


「だろ?」


『少しだけ』


「そこは大きく!」


『小さく積み上げるのが今の方針でしょう?』


「うまいこと言われた!」


 表示が浮かぶ。


【第3層 撤退判断訓練を確認】


【恐怖、警戒、帰還意識、挑戦欲、学習意欲を獲得】


【獲得DP:188】


【現在DP:1683】


「入った!」


 俺は小さくガッツポーズした。


「第3層、踏破しなくてもDP入る! 訓練階層として機能してる!」


『迷宮内で恐怖と判断が発生しているから当然よ』


「いいぞ。第3層、かなり使えるぞ」


『紅肌の雫だけではない階層になったわね』


「昨日の死を、今日の訓練に変えた。よし、かなりいい」


『切り替えが早いわね』


「早くした! 沈んでる暇があったら、床を見る!」


『それは冒険者側の教訓では?』


「迷宮主にも効く!」






 四十五分。


 疲労が出始めた。


 敵を倒していない。


 派手な戦いもしていない。


 だが、水音と藻の匂い、見えにくい帰り道、声の届きにくさが、じわじわ体力を削っていた。


 フィンが額の汗を拭う。


「戦ってないのに疲れますね」


 メリダが言う。


「迷う場所は、歩くだけで削られる」


 マイラが記録する。


「精神疲労、四十五分地点で明確」


 リオが奥を見た。


 水音の向こうに、何か赤いものが見えた気がした。


「今、何か」


 リオの右足が、半歩だけ前へ出ていた。


 自分でも気づかないうちに。


 その足を見て、リオの喉が小さく鳴った。


「……俺、今、進もうとしてた」


 サナが即座に袖を掴む。


「見ない」


「でも」


「見えたものを追う訓練じゃない」


 リオは唇を噛んだ。


 視線だけが、まだ奥へ引っ張られている。


 だが、足は止まっている。


 止められている。


 リオはゆっくり息を吐き、自分の足元を見た。


「……止まる」


 カティアが言う。


「見えたなら戻る理由だ」


「見えたのに?」


「見えたからだ。迷宮は欲しいものを見せる」


 リオは悔しそうに目を伏せた。


「……戻る理由」


 クレスが頷く。


「覚えたな」


 リオは奥を見るのをやめ、壁印を見た。


「はい」


 その顔に、悔しさが残る。


 でも、足は止まっていた。


 第3層は、それでいい。






 一時間。


 クレスが手を上げた。


「ここまで」


 リオが反射的に奥を見た。


 サナも見た。


 フィンは息を吐いた。


 マイラは記録板に時間を書いた。


 メリダはすぐに帰り道を確認した。


 カティアは全員の顔を見た。


「進みたい奴」


 リオが小さく手を上げかけた。


 途中で止めた。


「……進みたいです」


 カティアが頷く。


「正直でよろしい。じゃあ戻るぞ」


「はい」


 フィンが笑った。


「進みたいから戻るって、変な感じですね」


 メリダが答える。


「冒険者としては、かなり正しいよ」


 クレスは静かに言った。


「戻る。ここからが訓練だ」


 その言葉通りだった。


 帰り道は、行きより簡単ではなかった。


 印が見えるか。


 声が届くか。


 疲れた足で滑らないか。


 水スライムを避けられるか。


 藻の揺れに惑わされないか。


 行きに見た場所が、帰りには少し違って見える。


 フィンが一度、曲がる場所を間違えかけた。


「こっちじゃ」


 カティアが襟首を掴む。


「逆だ」


「帰宅訓練、難しい!」


「だから訓練してんだよ」


 リオは壁印を何度も見た。


 サナは後ろを確認した。


 マイラは記録を取りすぎて足元を見落としかけ、フィンに肩を引かれた。


「マイラ、足元!」


「ありがとうございます」


「記録係を助けた! 今の俺、かなり冒険者っぽい!」


 カティアが言う。


「調子に乗るな。あと泥ついてる」


「冒険者っぽさ、泥付き!」


「安いな」


 笑いが少しだけ戻る。


 だが、全員の目は真剣だった。


 やがて、第3層の入口が見えた。


 水音が少し薄くなる。


 藻の匂いが遠ざかる。


 第2層側の泥の匂いが戻ってくる。


 リオが大きく息を吐いた。


「戻った……」


 サナも頷く。


「戻れた」


 フィンは壁に手をついた。


「一時間進んで、帰ってくるだけでこんなに疲れるんですか」


 メリダが靴の藻を落としながら言った。


「帰ってくるだけ、が一番大事なんだよ」


 クレスは全員を見た。


「今日の訓練はここまでだ」


 リオが悔しそうに言う。


「紅肌の雫には、全然届いてない」


「そうだ」


「でも、次はもう少し進める気がします」


「そのために戻った」


 リオはその言葉を聞いて、ようやく頷いた。


「はい」


 サナが言う。


「次も、戻れるところまで」


「そうだ」


 クレスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「進む距離より、戻れる距離を伸ばせ」






 清水の間へ戻ると、待機していた冒険者たちが一斉に見た。


「どうだった?」


「紅肌の雫は?」


「宝箱あったか?」


 リオは首を横に振った。


「取ってない」


 ざわめきが広がる。


 サナが続ける。


「今日は一時間進んで戻っただけ」


 若い冒険者の一人が鼻で笑いかけた。


 その瞬間、カティアが睨んだ。


 笑いは引っ込んだ。


 リオは少しだけ顔を赤くしながら言った。


「でも、分かった。第3層は、行けそうと思った時が危ない」


 フィンも頷く。


「声が届かなくなるの、思ったより怖いです。あと、帰り道が行きと違って見えるの、けっこう嫌です」


 マイラは記録板を抱え、仮受付の職員へ説明した。


「十五分地点で声が鈍り、三十分地点で後方指示が崩れ始めます。四十五分地点で精神疲労が明確になり、一時間地点で撤退。帰路では印の見落とし、方向錯誤が起きました」


 仮受付の職員は必死に書き込む。


 カティアが横から言う。


「長すぎる。受付に貼るなら短くしろ」


「またですか」


「第3層。一時間進んだら戻れ。行けそうと思ったら戻れ。これでいい」


 メリダが笑った。


「いいね。臆病者にも分かりやすい」


「馬鹿にも分かる」


 カティアが言う。


 フィンが小声で言った。


「馬鹿に分かるかは、まだ検証が必要ですね」


 カティアがフィンを見る。


「お前で検証するか?」


「俺、被験者ですか!?」


 少し笑いが起きた。


 昨日よりも、清水の間は前へ進んでいた。


 死者を忘れたわけではない。


 だが、死者だけに足を止めてもいない。


 クレスは仮受付の記録を見ながら言った。


「今日の訓練は有効だった。明日以降、第3層挑戦者には、まず一時間進行、一時間帰還の訓練を勧める」


 ギルド職員が頷く。


「義務ではなく、推奨ですね」


「ああ。禁止ではない。ただし、推奨を無視した者の結果も記録する」


 カティアが笑う。


「記録される馬鹿が減るといいな」


 メリダが言う。


「減らなくても、読む奴は増えるさ」


 リオは第3層の入口を見た。


「次は、もう少し進みたい」


 サナが言う。


「戻れるところまで」


「うん。戻れるところまで」


 その言葉は、昨日とは違った。


 進みたい。


 でも、戻りたい。


 その両方がある。


 冒険者としては、それでいいのだろう。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。


【第3層 撤退判断訓練の成立を確認】


【恐怖、悔しさ、規律認識、再挑戦欲を獲得】


【獲得DP:154】


【現在DP:1837】


「よし!」


 俺は声を上げた。


「第3層、撤退判断訓練として成立!」


『随分と嬉しそうね』


「嬉しいよ! 昨日の死がただの失敗で終わらなかった。次の仕組みになった」


『第1層は生活。第2層は基礎。第3層は判断』


「うん。かなり形になってきた」


『そして紅肌の雫は、その先にある』


「そう。欲しいなら進め。でも、戻れない奴には渡さない。いいなあ、第3層、性格が悪くていい」


『迷宮らしい褒め言葉ね』


「褒めてる! めちゃくちゃ褒めてる!」


 俺は水膜の向こうで、リオとサナが第3層入口を見ているのを見た。


 怖い。


 悔しい。


 でも、また来る。


 そういう顔だった。


「何度でも来たいと思わせる。必要なら殺す。でも、基本は戻らせる」


『貴方の方針ね』


「うん。やっと言葉になってきた気がする」


『遅いわね』


「迷宮主初心者なので!」


『便利な言葉ね』


「便利な言葉は使い倒す!」


 ヴェルティアの赤い光が、少しだけ柔らかく揺れた。


『でも、悪くないわ』


「褒めた?」


『評価よ』


「はい、知ってた!」


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 第1層では水が流れ。


 第2層では泥が足元を教え。


 第3層では、藻と水音が帰る判断を問いかける。


 清水の迷宮は、ただ報酬を置く場所ではなくなり始めていた。


 人が来る。


 怖がる。


 戻る。


 悔しがる。


 また来る。


 その足音が、迷宮を育てていく。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


今日は、紅肌の雫には届きませんでした。


けれど、帰る足は少しだけ強くなりました。


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