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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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18/24

第18話 琥珀は、まだ奥に



 清水の間に、木札が増えた。


 壁文字ではない。


 迷宮が出したものでもない。


 仮受付のギルド職員が、村の大工に頼んで作ってもらった手書きの木札だった。


 第3層訓練記録。


 一時間進行、一時間帰還。


 一時間半進行、一時間半帰還。


 二時間進行、二時間帰還。


 三時間到達、帰還。


 踏破、帰還。


 文字は少し不格好だ。


 板もきれいではない。


 だが、冒険者たちはその前で足を止めた。


「これ、階級みたいだな」


「一時間帰還済み、って書かれるのか?」


「踏破、帰還って最後にあるぞ」


「紅肌の雫を持ち帰ったら、そこか」


「持ち帰るまでが踏破、か」


 誰かがそう言った。


 その言葉に、周りの冒険者たちが少しだけ黙る。


 戻らなかった者の名前は、もう見た。


 だから、帰還という二文字が昨日より重くなっている。


 けれど、その木札は墓標ではなかった。


 次に目指す場所を示す、目印でもあった。


 次は一時間半。


 次は二時間。


 次は三時間。


 最奥へ。


 そして帰る。


 冒険者たちは、赤い雫だけでなく、その木札にも目を向け始めていた。


 カティアは木札を見上げ、腕を組む。


「字が多い」


 仮受付の職員が疲れた顔で言った。


「昨日より短くしました」


「まだ多い」


「これ以上短くすると、内容がなくなります」


「内容なんざ、帰れ、でいい」


 メリダが笑った。


「それだと全部の階層が一文字で済むね」


「分かりやすいだろ」


「臆病者向けには悪くない」


 フィンが木札を眺めながら言った。


「でも、目標が見えるのはいいですね。一時間帰ってきたら、次は一時間半って分かる」


 マイラが頷く。


「記録にも残しやすい」


 リオは木札の一番下を見ていた。


 踏破、帰還。


 その隣に、まだ誰の名前もない。


「ここに名前が載るのか」


 サナが隣で言った。


「載せるなら、帰ってから」


「分かってる」


「今は?」


「一時間半」


 リオは短く答えた。


 サナは頷く。


「うん」


 その返事は、昨日より少しだけ柔らかかった。






 黒い水膜の内側で、俺はその木札を見ていた。


「いいなあ……」


『また嬉しそうね』


「嬉しいよ。冒険者側が勝手に育成表を作った。うちの迷宮、研修施設感が出てきた」


『迷宮を研修施設扱いしないでちょうだい』


「第1層は生活、第2層は基礎訓練、第3層は応用訓練。もうだいぶ研修施設だろ」


『その研修施設、死ぬけれどね』


「そこは実地研修なので」


『便利な言葉ね』


「使えるものは使う」


 俺は木札の一番下を見た。


 踏破、帰還。


 まだ空白。


 そこに名前が並ぶようになれば、清水の迷宮は次へ進める。


 たぶん。


 いや、かなり確実に。


 俺は足元に浮かぶDP表示を見る。


【現在DP:1837】


 増えた。


 かなり増えた。


 第1層の滞在。


 第2層の訓練。


 第3層の撤退判断。


 そして、死。


 全部が積み重なっている。


「なあ、ヴェルティア」


『何?』


「DP、けっこう溜まってきたよな」


『ええ。死にかけだった頃から見れば、かなり余裕があるわね』


「そろそろ第4層、いけるんじゃないか?」


 俺がそう言った瞬間、ヴェルティアの赤い光が少しだけ強くなった。


『作ることはできるわ』


「おっ」


『けれど、おすすめはしないわね』


「出た。高貴なるブレーキ」


『貴方に必要なものよ』


「うぐっ、否定できない」


 ヴェルティアは第3層の入口を見た。


『今、第3層を安定して越えられる者がどれだけいるの?』


「……少ない」


『紅肌の雫を持ち帰れる者は?』


「もっと少ない」


『なら、第4層を作っても、そこへ届く人間はほとんどいないわ』


「奥の棚に置いた高級商品」


『何?』


「客が売り場まで来られない店は潰れる」


『また店の話ね』


「でも分かりやすいだろ」


『分かりやすいのが腹立たしいわ』


 俺は腕を組んだ。


 第4層。


 作りたい。


 ものすごく作りたい。


 新しい階層。


 新しい報酬。


 新しい欲。


 迷宮主としては、目の前に大きなボタンがあったら押したい。


 押すなと言われるほど押したい。


 でも。


「今作っても、誰も届かなかったら意味ないな」


『ええ』


「第3層を安定して抜けられる冒険者を増やすのが先か」


『それが現実的ね』


「現実的……」


 俺は胸を押さえた。


「異世界に来ても現実が追ってくる」


『貴方、現実から逃げて迷宮主になったわけではないでしょう』


「死んだらなってた」


『結果として、もっと現実的な仕事をしているわね』


「迷宮運営、つらいな」


『楽しそうだけれど』


「楽しい」


 俺は即答した。


 そして、第3層の木札を見る。


「よし。第4層は保留」


『いい判断ね』


「ただし、構想だけはする」


『早いわね』


「夢は大事。次の報酬が見えてると、俺のやる気が保つ」


『では、何を置くつもり?』


「酒」


 ヴェルティアが少し黙った。


『酒?』


「酒。美容の次は酒だ」


『水、肌、酒。貴方の迷宮は、人間の欲を順番に煮詰めているの?』


「生活インフラ迷宮だからな」


『酒は生活インフラなの?』


「精神のインフラ」


『言い切ったわね』


「仕事終わり、冒険終わり、祝いの席、商談、贈り物、貴族の宴会。酒は強い。絶対に欲しがる」


『治癒ではなく、嗜好品』


「そう。命には必要ない。でも人間は、必要ないものにこそ金を出す」


『人間は愚かね』


「その愚かさで迷宮を育てるんだよ」


 ヴェルティアの光が、どこか満足そうに揺れた。


『悪くないわ』


「名前は決めてある」


『早いわね』


「琥珀の雫」


 俺は言った。


「薄い金色。香りがよくて、少量で満足できる高級酒。飲んだら喉から胸にふわっと温かくなる。でも回復薬じゃない。若返りでもない。ただ、ものすごく美味い酒」


『欲に直撃ね』


「だろ」


『ただし、まだ作らない』


「分かってる。第3層を安定して越える連中が出てからだ」


『目標は?』


「まずは、清水の迷宮に来る冒険者全員が、第3層を無謀に突っ込むんじゃなくて、安定して戻れるようになること。最終的には、第3層を抜けて紅肌の雫を持ち帰れる組を増やす」


『全員、ね』


「全員と言っても、挑む気がある連中だな。来た冒険者が全員、最低限の戻る判断を持つ。それができたら、第4層だ」


『遠いわよ』


「大丈夫大丈夫。なんとかする」


『根拠は?』


「訓練表ができた」


『人間頼みね』


「迷宮は人を通わせるものだからな」


 ヴェルティアは少しだけ黙った。


 それから、静かに言った。


『今のは、少しだけ迷宮主らしかったわ』


「少しだけか」


『高貴なる少しよ』


「便利に使いすぎだろ、その高貴」






 仮受付の前では、クレスが今日の参加者を分けていた。


「第3層訓練は、今日は二組に分ける」


 冒険者たちが集まる。


 リオとサナ。


 フィンとマイラ。


 メリダの組。


 それ以外にも、昨日から様子を見ていたEランクとDランク下位の冒険者たち。


 怖がっている者。


 悔しそうな者。


 紅肌の雫の名に目を光らせる者。


 どれも、ここに来た理由だった。


 クレスは記録板を見ながら言う。


「第一組は、一時間半進行、一時間半帰還。第二組は、第2層基礎訓練と、一時間進行、一時間帰還。初参加者は第二組だ」


 若い冒険者が不満そうに言った。


「俺たち、第3層に来たんですけど」


 カティアが即座に言う。


「来たな。帰る準備は?」


「いや、それは」


「ないなら第二組だ」


「でも」


「嫌なら好きに行け。止めねえ。死体も拾わねえ。装備も戻らねえ。記録には残す」


 若い冒険者は口を閉じた。


 メリダが苦笑する。


「今日も優しいねえ」


「優しいだろ。生きてるうちに言ってる」


 クレスは続けた。


「挑戦は禁止しない。だが、訓練を受けた者と受けていない者では、帰還率が変わる。自分の命で試す必要はない」


 その言葉に、何人かが頷いた。


 フィンは少し考え込んでいた。


 いつもの軽口がない。


 マイラが横から聞く。


「どうしたの?」


「いや、第3層って声が届きにくいじゃん」


「うん」


「長い指示が無理なら、短い合図を決めた方がいいかなって」


 マイラが目を瞬かせる。


「合図?」


「例えば、笛を一回なら停止。二回なら戻る。三回なら集合。声が水音で崩れても、短い音なら意味が残るかもしれない」


 マイラはすぐに記録板へ書いた。


「短音合図。停止、撤退、集合」


「採用早い」


「いい案」


 フィンは少し照れた。


「泥以外でも役に立てた、かな」


 カティアが横から言う。


「やっと鼻から上を使ったか」


「褒めてます?」


「半分な」


「半分でも嬉しいです」


 クレスも頷いた。


「試す価値はある。ただし、笛が必ず届くとは限らない。合図は補助だ。最終的には目視と隊列で判断する」


「はい」


 フィンの顔が明るくなる。


 リオが言った。


「俺たちも覚えます」


 サナが頷く。


「一回停止、二回撤退、三回集合」


 メリダが笑った。


「臆病者としては、二回を一番覚えたいね」


「撤退ばっかりじゃないですか」


 リオが言う。


「撤退できる奴が、一番長く挑戦できる」


 メリダはそう返した。


 リオは反論しなかった。






 黒い水膜の内側で、俺は目を輝かせた。


「フィンが有能なこと言った」


『失礼ね』


「いや、だって泥担当みたいになってたから」


『貴方もそう扱っていたでしょう』


「反省しています」


『軽いわね』


「でも本当にいい案だ。短音合図。声が崩れる第3層で、人間側が対策を考えた。迷宮は変わってない。でも攻略方法が育ってる」


『望んでいた流れでしょう』


「そう。迷宮側が難易度を下げるんじゃない。人間側が賢くなる。これがいい」


 表示が浮かぶ。


【第1層 攻略合図の考案を確認】


【学習意欲、警戒、帰還意識、挑戦欲を検知】


【獲得DP:104】


【現在DP:1941】


 数字は増えた。


 でも、俺はすぐには騒がなかった。


 フィンが考えた小さな合図。


 それが、第3層を少しだけ人間の手に引き寄せた。


 迷宮を変えたわけじゃない。


 人間が変わろうとしている。


「……こういう増え方、いいな」


『静かに喜ぶのね』


「たまにはな」


『続くかしら』


「自信はない」


『でしょうね』






 第2層での基礎訓練は、昨日より少しだけ形になっていた。


 第一組は、もう泥の癖を少し覚えている。


 第二組は、最初から転んだ。


 特に領都から来たばかりの若い盾持ちは、泥スライムを盾で押そうとして、盾ごと足を取られた。


「うわっ!」


 泥が跳ねる。


 周囲が少し笑いかけたが、カティアの目で止まった。


「笑う暇があるなら足元を見ろ」


 若い冒険者たちは一斉に足元を見た。


 メリダが小さく笑う。


「いい教育だね」


「死ぬより安い」


 カティアが答える。


 フィンは笛を首に下げていた。


 村の子どもが使うような、小さな骨笛だ。


 鳴らすと、高く短い音が出る。


 ピー。


「一回、停止」


 フィンが言う。


 ピー、ピー。


「二回、撤退」


 ピー、ピー、ピー。


「三回、集合」


 リオが頷く。


「分かりやすい」


 サナは少し考えてから言った。


「聞こえなくても、鳴らす動作を見るだけで合図になる」


 フィンが目を開く。


「それだ。音だけじゃなくて動作も合図にすればいい」


 マイラがまた記録する。


「音と動作を併用」


「俺、今日けっこう役に立ってない?」


 フィンが嬉しそうに言った。


 カティアが短く言う。


「調子に乗るな」


「はい!」


 だが、カティアはその後に小さく付け加えた。


「悪くねえ」


 フィンは明らかに嬉しそうだった。


 その直後、滑る石床で片足を取られた。


「うおっ!」


 サナが袖を掴む。


「調子に乗りましたね」


「はい!」


 リオが笑った。


 笑いが生まれる。


 でも、足元は見ている。


 それが昨日までとは違った。






 第3層。


 第一組は一時間半進行を目指した。


 クレス。


 カティア。


 メリダ。


 フィン。


 マイラ。


 リオ。


 サナ。


 それに、前日一時間帰還を終えたDランク下位の槍使いが一人。


 隊列は短く。


 声は少なく。


 合図は簡単に。


 十五分ごとに確認。


 三十分地点で壁印。


 四十五分地点で水音の強まり。


 一時間地点で、昨日と同じ撤退判断の場所を通過した。


 リオは奥を見た。


 昨日、赤いものが見えた気がした方角。


 今日は見えない。


 見えないのに、見ようとしてしまう。


 サナが言った。


「足」


 リオは自分の足を見た。


 半歩、前に出かけていた。


「……またか」


「昨日より早く気づいた」


「進歩してる?」


「してる」


 リオは少し笑った。


「じゃあ、戻らないで進めるな」


 クレスが頷く。


「足を止められるなら、進める」


 その言葉に、リオの顔が引き締まった。


 彼らは進んだ。


 水音が増える。


 声がさらに届きにくくなる。


 フィンが笛を一回鳴らした。


 ピー。


 停止。


 音は少し鈍ったが、届いた。


 全員が止まる。


 フィンは手も上げていた。


 サナが頷く。


「動作も見える」


 マイラが記録する。


「一時間十五分地点。短音合図、有効。ただし水音でやや鈍る。動作併用は有効」


 フィンは小さく拳を握った。


「よし」


 カティアが横目で見る。


「今日は泥以外で役に立ってるな」


「その言い方でも嬉しいです」


 メリダが笑う。


「若いねえ」


「若いです!」


「返事がいいと転ぶぞ」


「それ、昨日も聞いたやつ!」


 空気が軽くなる。


 だが、気は抜けていない。


 一時間半地点。


 クレスが手を上げた。


「ここまで」


 奥には、まだ道が続いている。


 薄く赤いものは見えない。


 宝箱も見えない。


 紅肌の雫には、まだ届かない。


 だが、昨日より深い。


 確実に深い。


 リオは悔しそうに奥を見た。


「まだ、行けそうです」


 カティアが口を開きかける。


 その前に、リオは壁印を見た。


 次に仲間の顔を見た。


 そして言った。


「でも、戻ります」


 サナが小さく頷いた。


 クレスの表情が少しだけ緩む。


「いい判断だ」


 リオは息を吐いた。


「悔しいです」


「持ち帰れ」


「はい」


 彼らは戻った。


 帰り道は、やはり簡単ではなかった。


 行きよりも疲れている。


 印を見落としかける。


 水音に意識を持っていかれる。


 フィンの笛が二回鳴った。


 ピー、ピー。


 撤退確認。


 全員が止まり、隊列を整える。


 それだけで、崩れかけた流れが戻る。


 マイラが小さく言った。


「合図、かなり有効」


 フィンは嬉しそうにした。


 そして足元を見てから喜んだ。


「今、足元見てから喜びました!」


 カティアが言う。


「ようやく学んだか」


「はい!」


 メリダが笑う。


「泥以外でも成長するもんだね」


 フィンは胸を張った。


「今日は泥以外の日です!」


 その直後、靴に藻が絡んだ。


「うわっ、藻!」


 カティアが即座に言う。


「泥から藻に出世したな」


「出世したくなかった!」


 笑いが起きる。


 その笑いの中で、全員が藻を見た。


 足元を見た。


 戻る道を見た。


 笑いながら、気は抜かない。


 それが、この迷宮で生きるための形になり始めていた。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。


【第3層 一時間半進行・帰還訓練を確認】


【恐怖、集中、帰還意識、再挑戦欲、連携意識を獲得】


【獲得DP:216】


【現在DP:2157】


「一時間半、帰ってきた」


『まだ踏破ではないわ』


「分かってる。でも昨日より進んだ。しかも戻った。これが大事だ」


『合図も機能したわね』


「フィン、やるじゃん。泥だけじゃなかった」


『だから失礼だと言っているでしょう』


「本当に反省しています」


『軽いわ』


「でも嬉しいんだよ。第3層を変えなくても、人間側が工夫して進んでる。これ、すごくいい」


『貴方が望んだ形ね』


「うん。迷宮は甘くしない。でも、学ぶ余地はある。最高だ」


『次は二時間かしら』


「だな。二時間進んで帰れる組が増えたら、三時間。そこから踏破、帰還」


『第4層は?』


「まだ待つ」


 俺は即答した。


 言ってから、自分で少し驚いた。


 昨日の俺なら、DPが溜まっただけで作りたくなっていたかもしれない。


 でも今は違う。


「第4層は、3層を安定して越えられる冒険者が増えてからだ」


『本当に待てるの?』


「待てる。いや、ちょっと作りたい。かなり作りたい。でも待つ」


『正直ね』


「琥珀の雫は、ちゃんと届く場所に置きたいからな」


『酒が待っていると知れば、人間はもっと欲しがるわよ』


「まだ言わない」


『なぜ?』


「今言ったら、また無謀に突っ込む奴が出る」


『理解しているのね』


「昨日と今日で学んだ」


『少しは迷宮主らしくなったわ』


「そこは大きく育てていきたいところです」


『自分で言うのね』


「自己申告制です」






 清水の間へ戻った第一組を、待機組が迎えた。


「一時間半どうだった?」


「宝箱は?」


「紅肌の雫、見えた?」


 リオは首を横に振った。


「届かない」


 落胆の声がいくつか出る。


 だが、リオは続けた。


「でも、昨日より深く進んで戻れた」


 サナが言う。


「一時間半でも、帰りはかなり疲れる」


 フィンが笛を見せた。


「短い合図は使えそうです。音だけじゃなくて、動作もセットで」


 若い冒険者たちが少し身を乗り出した。


「笛?」


「どこで買える?」


「俺も欲しい」


 村の子どもが、その声を聞いて走っていった。


 たぶん、村の誰かに骨笛のことを伝えに行くのだろう。


 オルド村長がそれを見て、少しだけ目を細めた。


「笛か」


 仮受付の職員がすぐに記録した。


「第3層用短音合図。停止一回、撤退二回、集合三回。音と動作を併用」


 カティアが覗き込む。


「今のは長くてもいい」


「いいんですか?」


「これは馬鹿に読ませる前に、教える側が覚えるやつだ」


「なるほど」


 メリダが言う。


「臆病者向け講習ができそうだね」


「勝手に商売にするなよ」


 カティアが睨む。


「するなら正式にやるよ」


 メリダは笑った。


「死体拾いより、講習料の方が健全だろ」


「それは否定しねえ」


 クレスは木札の前に立った。


 そして、第一組の欄に記録を入れる。


 一時間半進行、一時間半帰還。


 リオ。


 サナ。


 フィン。


 マイラ。


 メリダ組。


 その名が並んだ。


 小さなことだ。


 紅肌の雫はない。


 宝箱もない。


 金もまだ動いていない。


 でも、冒険者たちはそれを見ていた。


 自分たちも、次はあそこへ。


 そういう目だった。


 クレスが静かに言う。


「目標は、清水の迷宮に挑む冒険者全員が、第3層を安定して帰還できるようになることだ」


 待機広間が静まる。


「全員が踏破できる必要は、すぐにはない。だが、挑むなら戻る力を持て。戻る力がない者は、紅肌の雫に届く前に迷宮に飲まれる」


 カティアが言う。


「要するに、欲しけりゃ帰り道を覚えろ」


 メリダが続ける。


「臆病者から言わせてもらえば、帰り道を覚えた奴だけが、何度でも欲張れる」


 リオは木札を見ていた。


 サナも見ていた。


 フィンは笛を握っていた。


 マイラは記録板に、新しい欄を作っていた。


 安定帰還。


 その文字が、清水の間に増えた。






 黒い水膜の内側で、俺はそれを見ていた。


「全員が、第3層を安定して帰還できるようにする」


『大きく出たわね』


「大きいけど、いい目標だ。紅肌の雫を取りに行ける人間が増えれば、流通も増える。第4層に届く人間も増える。迷宮も育つ」


『人間も育つ』


「そう。人間も育つ。迷宮も育つ。水も流れる。泥も踏まれる。藻も嫌われる」


『藻だけ扱いが悪いわね』


「だって絡むし」


『役目を果たしているわ』


「そうでした」


 表示が浮かぶ。


【第1層 安定帰還目標の共有を確認】


【規律認識、挑戦欲、学習意欲、報酬欲、帰還意識を獲得】


【獲得DP:173】


【現在DP:2330】


 数字は、また増えた。


 けれど今度は、数字よりも木札の方が大きく見えた。


 安定帰還。


 その文字があるだけで、冒険者たちの目線が少し変わっている。


「第4層はまだ作らない。でも、道は見えた」


『琥珀の雫は、まだ奥ね』


「うん。琥珀はまだ奥。まずは紅肌の雫を、ちゃんと持って帰れる冒険者を増やす」


『焦らないのね』


「焦るけど、焦らない」


『矛盾しているわ』


「人間なので」


『便利な言葉ね』


「今日はこれでいく」


 俺は黒い水膜の向こうを見た。


 笛を握るフィン。


 記録板に新しい欄を作るマイラ。


 木札の前で立ち止まるリオとサナ。


 清水の迷宮は、少しずつ形を変えている。


 迷宮そのものを甘くしたわけではない。


 第3層の怖さも、そのままだ。


 声は届きにくい。


 道は迷う。


 欲は足を引く。


 戻れない者は戻らない。


 それでも、人間は覚える。


 合図を作る。


 印を残す。


 隊列を見る。


 足を止める。


 帰ってくる。


「いいな」


『何が?』


「通わせる迷宮って感じがしてきた」


『最初に貴方が言ったことね』


「やっと形になってきた」


『まだ入口よ』


「分かってる。でも入口が大事」


 俺は第3層の奥を見た。


 そのさらに先に、まだ存在しない第4層を思い浮かべる。


 琥珀の雫。


 いつか、そこに置く。


 でも、今ではない。


 酒は逃げない。


 逃げるのは、準備のない冒険者の命だ。


「まずは帰る足を育てよう」


『ええ』


「第4層は、そのあとだ」


 水音が響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 第1層では、水が人を迎える。


 第2層では、泥が足を鍛える。


 第3層では、藻と水音が帰り道を問う。


 そして、まだ見ぬ第4層には。


 いつか、琥珀色の欲が満ちる。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


琥珀の雫は、まだ奥にあります。


まずは、帰ってくるための足から。


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