第19話 帰ってきた者たちの名前
清水の間は、朝から人が多かった。
昨日より多い。
明らかに多い。
村人の水汲み。
訓練帰りの冒険者。
仮受付に並ぶ新顔。
木札の前で首を伸ばす者。
骨笛を買える場所を聞く者。
泥落とし水場で靴を洗う者。
そして、紅肌の雫の名を小声で確かめる者。
領都プロンテラから来た新規冒険者は、さらに増えていた。
EランクやDランク下位の若い冒険者たち。
見習い魔術師や治癒術師を連れた組。
商人から「雫を持ち帰れたら買う」と言われた者。
理由はばらばらだった。
だが、足は同じ場所へ向いていた。
清水の間。
その入口に、今日も木札が立っている。
第3層訓練記録。
一時間進行、一時間帰還。
一時間半進行、一時間半帰還。
二時間進行、二時間帰還。
三時間到達、帰還。
踏破、帰還。
そして、新しく小さな木札が一枚増えていた。
第3層用短音合図。
一回、停止。
二回、撤退。
三回、集合。
音と手振りを併用。
新顔の冒険者がそれを見て言った。
「なんだこれ。学校か?」
カティアが横から答える。
「墓場よりは親切だろ」
新顔は口を閉じた。
メリダが肩をすくめる。
「ようこそ、臆病者養成所へ」
「なんですか、それ」
フィンが聞く。
「生きて帰るための、ありがたい場所だよ」
「名前のわりに大事」
マイラが木札を見ながら言う。
「言い方はともかく、記録は増えてる。昨日より参加者も多い」
フィンは清水の間を見回した。
「本当に増えたな……」
「うん」
「俺たち、少しは先輩っぽく見えるかな」
マイラはフィンの靴を見る。
「靴が綺麗なら」
「判断基準が足元」
「この迷宮では大事」
「正論だ」
フィンは自分の靴を確認した。
今日は、まだ泥は少ない。
本人としては勝利だった。
黒い水膜の内側で、俺はその混雑を見ていた。
「増えたなあ」
『ええ。外で生まれた噂は、足を持ってここへ来たわね』
「ここに来たら、やっと迷宮の糧になる」
『そうよ』
表示が浮かんだ。
【第1層 新規冒険者の来訪増加を確認】
【報酬欲、警戒、挑戦欲、生活欲、商業期待を検知】
【獲得DP:188】
【現在DP:2518】
数字は増えた。
けれど、俺は水膜から目を離さなかった。
今日は数字より、人の流れの方が気になった。
清水の間が、ただの水場ではなくなっている。
受付がある。
記録がある。
訓練表がある。
見て学ぶ新顔がいる。
教える側に回り始めた冒険者がいる。
前世の感覚で言うなら、売り場に客が来るだけではない。
使い方の説明会まで始まっている。
「第3層、ちゃんと文化になってきたな」
『文化?』
「攻略文化。行って死ぬんじゃなくて、準備して、訓練して、記録して、また挑む。そういう流れ」
『迷宮の中で、人間が勝手に作法を作り始めたのね』
「いいね。俺、こういうの好きだ」
『人間任せでは?』
「人間が通う迷宮だからな。通う側が賢くなるのは大事」
『少しずつ迷宮主らしくなってきたわ』
「今のは素直に受け取る」
『高貴なる評価よ』
「やっぱり便利に使ってるな、それ」
仮受付では、クレスが参加者を分けていた。
「初参加者は第2層基礎から。第3層へ入る場合も、一時間進行、一時間帰還まで。昨日一時間半帰還を終えた者は、今日は二時間進行、二時間帰還を目標にする」
若い盾持ちが不満そうに言う。
「俺、Dランクなんですけど」
カティアが一瞥する。
「で?」
「Eランクと同じ訓練からですか?」
「第2層で転ばなけりゃ、すぐ進める」
「転ばなければ?」
「転ぶ前提で話してる自覚があるなら、少しは見込みがあるな」
盾持ちはむっとしたが、言い返さなかった。
その横で、メリダが新顔たちに骨笛を見せていた。
「一回で止まる。二回で戻る。三回で集まる。水音で声が崩れるから、長話は無駄」
見習い魔術師が聞く。
「魔法で音を大きくするのは?」
「試す価値はあるけど、最初から魔法頼みにするな。魔力切れしたら口も足も使えない、じゃ笑えないだろ」
「なるほど」
「あと、第3層で派手な魔法を撃つと、自分の位置も仲間の位置も分からなくなることがある。魔術師は火力より、周りを見る練習をしな」
見習い魔術師は真面目に頷いた。
リオがその様子を見て、小さく言う。
「メリダさん、先生みたいだな」
サナが答える。
「臆病者の先生」
「それ、かなり大事な先生だな」
「うん」
フィンは笛を確認していた。
マイラが横から聞く。
「音、昨日と同じ?」
「同じ。けど、今日は手振りを少し大きくする。水音が強くなったら、見えた方が早い」
「分かった。記録する」
「あと、後ろの人が真似してくれるようにしたい。前だけ鳴らしても、後ろが気づかなかったら意味ないし」
マイラは少しだけ目を細めた。
「いいね」
「思いつきだけど」
「使える思いつき」
「じゃあ採用で」
「うん。採用」
フィンは嬉しそうに笛を握った。
今日は泥ではなく、合図係として。
その顔は、少しだけ冒険者らしかった。
第2層は、朝から何度も足音を受け入れた。
新顔の冒険者たちは、予想通り転んだ。
盾持ちは泥スライムを押し返そうとして、盾ごと沈みかけた。
見習い魔術師は詠唱に気を取られて、滑る石床で足を取られた。
短槍持ちは苔鼠を追いかけ、カティアに襟首を掴まれた。
「追うな」
「でも、今なら」
「今なら転ぶ」
「はい」
そのたびに、待機組は笑いかける。
だが、笑う前に自分の足元を確認する者が増えていた。
次に転ぶのは自分かもしれない。
その程度には、第2層の泥は信用されていなかった。
フィンは合図を試す。
ピー。
一回、停止。
新顔たちの足が止まる。
ピー、ピー。
二回、撤退。
隊列が下がる。
ピー、ピー、ピー。
三回、集合。
散りかけた仲間が戻る。
音は軽い。
だが、効果はあった。
マイラは記録板に書き込む。
「第2層でも短音合図は有効。訓練初期の隊列維持に使える」
フィンが覗き込む。
「俺の名前、書く?」
「書かない」
「即答」
「案としては残す」
「それで十分です」
フィンは笑った。
その横で、リオとサナは第2層を落ち着いて進んでいた。
リオは苔鼠を追わない。
サナは足元とリオの動きを同時に見ている。
泥スライムを見たら、倒すより迂回する。
滑る石床では、一歩前に出る前に確認する。
派手さはない。
だが、昨日より明らかに安定していた。
クレスはそれを見て、静かに頷く。
「二時間に進める」
リオの顔が上がった。
「はい」
サナも頷いた。
「戻れるところまで」
「そうだ」
カティアが言う。
「進む気のある奴ほど、戻る準備をしろ」
メリダが笑う。
「臆病者の合格印だね」
「勝手に印を作るな」
「でも欲しいだろ?」
「少しな」
カティアが認めると、フィンが小さく吹き出した。
カティアに睨まれて、すぐ背筋を伸ばした。
黒い水膜の内側で、表示が浮かぶ。
【第2層 新規冒険者の基礎訓練を確認】
【恐怖、悔しさ、学習意欲、連携意識を獲得】
【獲得DP:224】
【現在DP:2742】
「うん、いい」
『静かね』
「今日は人間側が育ってるのを見る回だからな。数字はあとからついてくる」
『言い方だけは立派ね』
「中身も育成中です」
『自分で言うのね』
「自己申告制なので」
俺は第3層の入口を見る。
今日は、二時間。
そして、三時間。
そこまで帰れるか。
問題はそこだ。
第3層は何も変えていない。
声は届きにくい。
道は迷う。
欲は足を引く。
でも、人間側は少しずつ変わっている。
「さあ、どこまで行けるかな」
『楽しそうね』
「楽しい。でもちょっと怖い」
『その方がいいわ』
「だよな。怖さがないと、また足だけ前に出る」
『人間は足から欲を出すのね』
「リオでよく分かった」
二時間進行。
二時間帰還。
最初に挑んだのは、リオ、サナ、フィン、マイラ、メリダ組だった。
クレスとカティアは同行する。
だが、前に出ない。
指示も最低限。
見るだけに近い。
実際に判断するのは、若い側だった。
第3層は、今日も変わらない。
藻の匂い。
水音。
声の鈍り。
細くなった道。
行けそうに見える奥。
一時間地点までは、昨日と同じだった。
リオは足を止める。
サナが確認する。
フィンが笛を鳴らす。
マイラが時間と印を記録する。
メリダが後ろから帰路を確認する。
一時間半地点。
昨日到達した場所。
そこを越える時、リオは息を吐いた。
「ここから先か」
サナが言う。
「足」
リオは自分の足を見る。
まだ前に出ていない。
「大丈夫」
「なら進む」
フィンが手を上げる。
ピー。
停止。
全員が一度止まる。
「ここから合図、大きめにする」
フィンが言った。
マイラが頷く。
「記録する。音が鈍ったら手振り優先」
水音が強くなる。
声の輪郭が崩れる。
フィンの笛も、少し水に包まれたように丸くなる。
だが、手振りは見えた。
停止。
撤退確認。
集合。
短い合図が、隊列をほどけさせない。
二時間地点。
クレスが時計代わりの砂筒を確認した。
「二時間」
リオは奥を見た。
赤いものは見えない。
宝箱も見えない。
ただ、水音がある。
藻がある。
帰り道がある。
「戻ります」
リオは自分から言った。
サナは何も言わず、少しだけ頷いた。
カティアの口元がわずかに動く。
「ようやく足より口が先に動いたな」
リオは少し笑った。
「まだ悔しいですけど」
メリダが言う。
「悔しいまま帰れるなら上等」
帰り道は厳しかった。
新顔はいない。
それでも、一度だけマイラが印を見落としかけた。
フィンが手を上げる。
ピー。
停止。
「マイラ、左。印あった」
「見落としてた。助かった」
「今の俺、記録していいよ」
「記録には残す。調子に乗ったことも」
「そこは削って」
全員が少し笑う。
だが、隊列は崩れなかった。
そして帰る。
二時間進んで。
二時間戻った。
清水の間へ戻った時、待機組が小さくどよめいた。
「二時間、戻ったぞ」
「紅肌は?」
「なし」
「でも二時間か」
「次は三時間か……」
木札に名前が増える。
二時間進行、二時間帰還。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
メリダ組。
その名前を、新規冒険者たちが見ていた。
遠い目標ではなくなっている。
階段のように見え始めていた。
その日から数日。
第3層訓練は、清水の間の日常に組み込まれていった。
一時間帰還を達成する者が増えた。
一時間半帰還に進む者も増えた。
二時間帰還で疲れ切る者もいた。
新規冒険者の中には、途中で諦める者もいた。
逆に、第2層の基礎からやり直す者もいた。
骨笛は村で簡単に作られるようになった。
子どもたちは冒険者の真似をして笛を吹き、オルド村長に怒られた。
宿のない村では、納屋の一角が簡易休憩所になり始めた。
食事を出す家も出た。
泥落とし用の布を売る者も出た。
清水の間に来る足は、少しずつ増え続けた。
迷宮を甘くしたわけではない。
だが、人間側の準備は増えていった。
そして、三時間到達、帰還の日が来た。
三時間進行。
三時間帰還。
この日は、クレスとカティアが同行した。
ただし、判断はリオたちに任せる。
メリダも同行した。
臆病者の目は、こういう時に一番役に立つ。
第3層の奥は、これまでよりさらに水音が強かった。
声は短くないと崩れる。
笛の音も、少し遠くなる。
壁印を見落とせば、帰り道が簡単に分からなくなる。
二時間半地点で、赤い光が見えた。
今度は、はっきりと。
水音の奥。
藻の隙間。
薄く赤い光。
リオの足が止まる。
サナは、袖を掴まなかった。
代わりに、リオの足を見た。
リオは、自分で足元を見ていた。
「……見えた」
サナが言う。
「うん」
「進む?」
リオは赤い光を見た。
欲しい。
そこにある。
たぶん、紅肌の雫へ続く道だ。
だが、今日は三時間到達、帰還。
踏破ではない。
「戻る」
リオは言った。
声は震えていた。
悔しさで。
でも、足は戻る方を向いた。
クレスは何も言わなかった。
カティアも言わなかった。
メリダが小さく笑っただけだった。
「いい欲張り方だね」
三時間地点。
そこで彼らは印を残した。
赤い光を見た。
そして戻った。
帰りは長かった。
本当に長かった。
疲労で足が重くなる。
笛を吹く腕も重くなる。
マイラの記録板を持つ手が震える。
フィンの笛が一度だけ遅れた。
サナがそれを見て手を上げた。
停止。
全員が止まる。
フィンが息を整えた。
「助かった」
「次、二回」
サナが言う。
フィンは頷き、笛を二回鳴らした。
撤退確認。
隊列が戻る。
リオが先を急ぎかける。
自分で止まる。
マイラが印を確認する。
メリダが後ろを見る。
クレスとカティアは最後まで前に出なかった。
支えるだけ。
見守るだけ。
そして、三時間進んだ者たちは、三時間かけて帰ってきた。
清水の間に戻った時、リオはその場に座り込んだ。
「戻った……」
サナも膝に手をついた。
「戻れた」
フィンは笛を握ったまま、壁にもたれた。
「三時間、長い……」
マイラは息を切らしながらも、記録板に文字を書いた。
三時間到達。
帰還。
その文字を見た仮受付の職員が、すぐに木札へ名前を入れた。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
メリダ組。
そして、同行確認としてクレス、カティア。
待機広間に、静かな歓声が広がった。
派手ではない。
だが、確かな歓声だった。
クレスは木札を見た。
それから、リオたちを見る。
「次は、俺とカティアは同行しない」
空気が止まった。
リオが顔を上げる。
「え」
カティアが腕を組む。
「三時間行って、帰ってきた。次はお前らだけで踏破を狙え」
サナが息を呑む。
フィンは笛を握り直した。
マイラは記録板を見る。
リオは、少しだけ笑った。
怖がっている。
それでも、笑った。
「やります」
クレスは頷いた。
「無理なら戻れ。紅肌の雫より、帰還を優先しろ」
「はい」
カティアが言う。
「死体になったら、説教もできねえからな」
「生きて戻ります」
リオの声は、昨日より少しだけ低くなっていた。
黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。
【第3層 三時間到達・帰還を確認】
【恐怖、悔しさ、帰還意識、連携意識、踏破欲を獲得】
【獲得DP:356】
【現在DP:3098】
俺は表示を見て、ゆっくり息を吐いた。
三時間。
戻った。
紅肌の雫には、まだ届いていない。
でも、赤い光を見て戻った。
これは大きい。
「ヴェルティア」
『何?』
「次、いけるかもしれない」
『ええ。届くかもしれないわね』
「クレスとカティア抜きで」
『本当の意味で、低ランク冒険者たちの踏破になるわ』
「いいな」
俺は水膜を見る。
疲れ切って座り込むリオ。
笛を握るフィン。
記録板を抱えるマイラ。
静かに立っているサナ。
この四人が、次に行く。
助ける高ランクなしで。
自分たちの判断で。
「いいぞ。かなりいい」
『第4層のことを考えている顔ね』
「考えてる。でも、まだ見届けてからだ」
『少し我慢を覚えたのね』
「成長しています」
『自己申告制?』
「そうです」
翌日。
清水の間には、さらに人が集まっていた。
新規冒険者たちも、昨日の三時間帰還の記録を見ている。
「今日、踏破狙うらしいぞ」
「クレス抜きで?」
「カティアも抜きだって」
「大丈夫なのか?」
「三時間帰ってきた組だろ」
「紅肌の雫、出るかな」
「出たらまた値が動くぞ」
仮受付の周囲はざわついていた。
だが、挑む四人は静かだった。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
メリダは同行しない。
クレスも行かない。
カティアも行かない。
代わりに、クレスは第2層入口まで見送りに来た。
「今日の目的は、踏破と帰還だ」
リオが頷く。
「はい」
「宝箱に届いても、帰れないなら失敗だ」
「分かっています」
カティアがサナを見る。
「リオの足、見とけ」
「見ます」
リオが少し苦笑する。
「信用が足にない」
「前科が多い」
サナが即答した。
フィンは笛を確認した。
「一回停止、二回撤退、三回集合。手振り併用」
マイラが記録板を閉じる。
「記録は最小限。帰り優先」
フィンが少し驚く。
「マイラが記録を減らすなんて」
「生きて帰らないと記録を残せない」
「正論」
メリダが腕を組んで言った。
「臆病者から最後に一つ」
四人が見る。
「欲しいものが見えたら、自分の足を見る。仲間の顔を見る。それでも行くなら、行きな」
リオは頷いた。
「はい」
クレスは静かに言った。
「行ってこい」
その言葉で、四人は第2層へ入った。
第2層は、もう越えられる。
油断しなければ。
泥スライムを避ける。
苔鼠を追わない。
滑る石床を見る。
合図で止まる。
隊列を崩さない。
リオは前に出すぎない。
サナは横と足元を見る。
フィンは合図を出す。
マイラは時間と印だけを見る。
余計なことはしない。
余計な欲も出さない。
彼らは第2層を抜けた。
第3層へ入る。
水音が増える。
藻が揺れる。
声が鈍る。
一時間。
問題なし。
一時間半。
笛、手振り、有効。
二時間。
疲労あり。
撤退確認。
二時間半。
赤い光。
リオの足が止まる。
サナが見る。
フィンも見る。
マイラも見る。
リオは自分の足を見た。
前に出ていない。
「進む」
リオが言った。
サナが頷く。
「進める」
フィンが笛を一回鳴らす。
停止。
全員で確認する。
マイラが短く言う。
「帰路印、確認。時間、余裕あり。体力、ぎりぎりではない」
「なら、進む」
リオの声は震えていなかった。
三時間。
赤い光が、はっきり見えた。
藻の奥に、小さな宝箱があった。
木ではない。
石でもない。
水を固めたような、半透明の箱。
その底に、赤い水紋文字が浮かんでいた。
紅肌の雫。
リオは息を止めた。
フィンが小さく言う。
「本当にあった」
マイラは記録板を出しかけ、止めた。
今は記録より周囲だ。
サナは宝箱ではなく、帰り道を見ていた。
「開けるなら、すぐ。長く見ない」
リオが頷く。
宝箱に手を伸ばす。
蓋は、抵抗なく開いた。
中には、小瓶が四つ。
薄い赤の雫。
瓶の底には、水紋数字。
二十。
階層突破者一人につき、小瓶一つ。
フィンが喉を鳴らした。
「四つ」
マイラが短く言う。
「人数分」
リオは小瓶を一つ取った。
サナが一つ。
フィンが一つ。
マイラが一つ。
その瞬間、宝箱の底の赤い文字が静かに消えた。
リオは小瓶を握った。
「戻る」
誰も反対しなかった。
紅肌の雫を手に入れた。
だからこそ、戻る。
ここからが本番だった。
帰り道は長い。
疲労はある。
手には報酬がある。
見てしまう。
握ってしまう。
失いたくなくなる。
だから焦る。
その焦りを、サナが最初に止めた。
「速い」
リオの足が止まる。
「ごめん」
フィンが笛を二回鳴らす。
撤退確認。
マイラが壁印を見る。
「印、右。次、狭い道」
サナが後方を見る。
「水スライム」
「戦わない」
リオが答える。
迂回する。
戻る。
止まる。
確認する。
また戻る。
小瓶が四つ。
欲が四つ。
焦りが四つ。
でも、足は戻る。
水音が薄くなる。
藻の匂いが遠ざかる。
第2層の泥の匂いが戻る。
フィンが笑いそうになり、笛を握り直した。
「笑うのは戻ってから」
マイラが言う。
「うん。戻ってから笑う」
リオは最後の壁印を見た。
第3層入口が見えた。
そして、四人は第3層を出た。
清水の間で待っていた冒険者たちは、一瞬、声を失った。
リオが小瓶を持っている。
サナも。
フィンも。
マイラも。
薄い赤の小瓶。
紅肌の雫。
四本。
次の瞬間、待機広間が沸いた。
「持って帰ったぞ!」
「四本!」
「低ランクだけでか!?」
「クレス抜きだぞ!」
「カティアもいなかった!」
歓声。
驚き。
嫉妬。
羨望。
報酬欲。
再挑戦欲。
清水の間が大きく揺れた。
カティアは腕を組んだまま、口元だけで笑った。
「戻ってきやがった」
クレスは静かに頷いた。
「踏破、帰還だ」
メリダが拍手をした。
「臆病者教育、成功だね」
リオは疲れ切った顔で笑った。
「怖かったです」
カティアが言う。
「それでいい」
サナは小瓶を見ずに、まず自分の足元を見た。
そして、ようやく小瓶を見る。
「戻れた」
フィンは笛を握ったまま言った。
「これ、俺たちだけじゃ無理だったな」
マイラが頷く。
「第2層。訓練。合図。記録。全部必要だった」
仮受付の職員が木札の前に走る。
震える手で、文字を書いた。
踏破、帰還。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
清水の間に、その名前が並んだ。
新規冒険者たちは、それを見た。
無謀に突っ込めば死ぬ。
訓練すれば、届く。
そして、持ち帰れる。
第3層の攻略法は、この日、形になった。
黒い水膜の内側で、表示が次々に浮かんだ。
【第3層 低ランク冒険者のみでの踏破を確認】
【紅肌の雫 四本生成】
【踏破者四名の帰還を確認】
【恐怖、達成感、報酬欲、規律認識、連携意識、再挑戦欲を獲得】
【獲得DP:684】
【現在DP:3782】
俺は、声を出さなかった。
しばらく、ただ見ていた。
小瓶を握る四人。
木札に書かれた名前。
それを見上げる新規冒険者たち。
清水の間のざわめき。
第3層は、越えられる場所になった。
簡単になったわけではない。
迷宮が甘くしたわけでもない。
人間が、帰る方法を覚えた。
「……よし」
『決めるの?』
「決める」
俺はヴェルティアを見た。
「第4層を作る」
ヴェルティアの赤い光が、静かに揺れた。
『今なら、届く者が出始めるでしょうね』
「うん。第3層を越えて帰ってくる道ができた。なら、その先に次の欲を置ける」
『琥珀の雫ね』
「そう。酒だ」
『異世界の酒にするの?』
「どうせなら、俺の世界のウイスキーにしたい」
『ういすきー?』
「前世の酒。琥珀色で、香りが強くて、少しずつ飲むやつ。高いやつは本当に高い。俺はそんなに高いの飲んだことないけど」
『飲んだことが少ないものを作るの?』
「そこはイメージで」
『不安ね』
「大丈夫。美味い酒への憧れはある」
『憧れで迷宮報酬を作るのね』
「人間は憧れにも金を出す」
ヴェルティアは少し黙った。
それから、静かに言う。
『前世の概念を再現するなら、普通の酒よりDPを使うわよ。こちらの世界にある酒を真似る方が軽い』
「いくらくらい違う?」
目の前に表示が浮かんだ。
【第4層生成案】
【階層属性:琥珀酒蔵】
【報酬設計:琥珀の雫】
【現地酒生成:必要DP 820】
【前世概念再現:必要DP 1480】
【前世概念再現補正により、香味・熟成感・瓶詰め構造に追加DPが必要です】
俺は数字を見た。
「高いな」
『ええ』
「でも、酒って高いものだよな」
『そうなの?』
「高い酒は、値段が高いことにも意味がある」
『人間は本当に面倒ね』
「だから売れる」
俺は清水の間を見る。
紅肌の雫を持ち帰った四人。
それを羨ましそうに見る冒険者たち。
木札の一番下に並んだ名前。
ここまで来た。
なら、次だ。
「作ろう」
『本気?』
「本気。琥珀の雫は、俺の世界のウイスキーを目指す」
『DPを大きく使うわよ』
「いいじゃん」
俺は笑った。
「高い酒って、そういうもんだろ」
表示が青白く揺れる。
【第4層生成準備を開始します】
【報酬設計:琥珀の雫】
【前世概念再現補正を適用します】
【必要DP:1480】
清水の迷宮の奥で、まだ見ぬ琥珀色の水音が、かすかに鳴った気がした。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
紅肌の雫は、帰る足で持ち帰られました。
次は、まだ見ぬ琥珀の奥へ。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




