第20話 その頃、領都では
その頃。
清水の迷宮で、フィンが骨笛を鳴らしていた頃。
第3層でリオが自分の足を見下ろし、サナがその足を止めていた頃。
領都プロンテラでは、別の足音が増えていた。
石畳を急ぐ靴音。
商人ギルドの廊下を行き来する革靴の音。
そして。
「紅肌の雫は、まだありますの?」
扇で口元を隠した婦人の、やけに穏やかな声だった。
穏やかな声ほど、商人には怖い。
プロンテラ商人ギルドの応接室で、灰髪の商人は静かに微笑んだ。
「現在、確認済み在庫はごく少数です」
「あるのですね」
「ごく少数です」
「欲しいのですけれど」
「欲しがる方が多くいらっしゃいます」
「では、わたくしが先でよろしいでしょう?」
「順番というものがございます」
「順番は、動かせるものではなくて?」
婦人は笑っている。
笑っているが、目は笑っていない。
灰髪の商人も笑っている。
もちろん、目は笑っていない。
部屋の隅に控えていた若い商人見習いは、盆を持つ手に力を入れていた。
茶器が鳴らないように。
この部屋で一番大きな音を出してはいけない。
それくらいは分かっていた。
「紅肌の雫は、治療薬ではございません」
灰髪の商人は、何度目か分からない説明を繰り返した。
「若返りでもありません。顔立ちが変わるわけでもありません。軽い肌荒れや手荒れ、疲れた顔色に、少し作用する程度です」
「聞いておりますわ」
「過度な期待はおすすめいたしません」
「でも、エリシアさんは変わったのでしょう?」
婦人が名前を出した瞬間、扉の向こうで誰かが小さく咳払いした。
たぶん、聞き耳を立てていた誰かだ。
灰髪の商人は、内心でため息をついた。
エリシアの名は、すでに商人ギルドの外へ出ている。
女たちの噂は早い。
早いというより、水路を使っているのではないかと思うほどだった。
「変わった、というより、整ったと言うべきでしょう」
「疲れていないように見えた、と」
「その表現が近いかと」
「それが欲しいのです」
婦人の声が、少しだけ低くなった。
「美人になる薬なら、怪しいと思います。若返る薬なら、怖いと思います。でも、疲れていないように見えるだけなら」
婦人は扇を閉じた。
「それは、明日の茶会に必要です」
灰髪の商人は、ほんの少しだけ目を細めた。
紅肌の雫は、奇跡を売る品ではない。
少し戻す品だ。
疲れていない自分へ。
荒れていない手へ。
くすんでいない顔色へ。
だからこそ、欲は深い。
「現在、商人ギルド内で使用確認と流通管理を行っております。正式販売まで、いま少しお待ちいただければ」
「お待ちしている間に、他の方が綺麗になってしまうのではなくて?」
「顔立ちは変わりません」
「そこではありません」
婦人はきっぱりと言った。
「女が見ているのは、顔立ちだけではありませんもの」
応接室から婦人が去った後、商人ギルドの奥の会議室では、エリシアが帳簿を閉じていた。
「今日だけで、問い合わせが十二件です」
商人ギルド長が眉間を押さえる。
「昨日より増えているな」
「昨日は八件でした」
「明日は?」
「さらに増えるかと」
「予想だけは控えめにしてほしいものだ」
「現実は控えめではありません」
エリシアは淡々と答えた。
「侍女、商家の奥方、劇場関係者、香油商、薬師組合、衣装屋。入口が増えています」
灰髪の商人が部屋へ戻ってくる。
「先ほどの方も、茶会前の使用を希望されていました」
ギルド長が低く唸る。
「茶会か」
「はい」
「そこに出せば、広がるな」
「出さなくても広がります」
エリシアが言う。
ギルド長は娘を見る。
「お前、楽しんでいないか」
「いいえ」
「少し楽しそうだぞ」
「商材として興味深いだけです」
「自分で使ったからではなく?」
「それもあります」
正直だった。
灰髪の商人が小さく笑う。
エリシアは空になった小瓶を机の上に置いた。
中身はもうない。
だが、瓶そのものも記録用として保管されている。
底には、すでに消えた水紋数字の跡がかすかに残っていた。
「効果は、もう薄れ始めています」
エリシアが言った。
会議室が少し静まる。
「昨日より、指先の乾きが戻っています。顔色も、完全に元通りではありませんが、最初の変化ほどではありません」
灰髪の商人が記録する。
「持続は?」
「十日前後で薄れ始める可能性があります。ただし、私一人の例です」
「使用直後だけの商品ではないが、永続でもない」
「はい」
ギルド長が指で机を叩いた。
「つまり、また欲しくなる」
「はい」
エリシアは頷いた。
「それが一番危険です」
「危険?」
「一度使うと、変化が分かります。分かるから、戻るのが嫌になる。治療薬ではないから油断する。贅沢品だから我慢できると思う。でも、鏡を見るたびに思い出す」
エリシアは少しだけ声を落とした。
「疲れていない自分を」
会議室に、その言葉が落ちた。
灰髪の商人は羽ペンを止めた。
以前、彼女が言った言葉だ。
そして、やはり強い。
ギルド長は腕を組んだ。
「売り文句にしたいな」
「しないでください」
エリシアが即答した。
「なぜだ」
「言葉が安くなります」
「商売とは、言葉に値をつけることだ」
「これは、先に品の値を上げるべきです」
ギルド長は黙った。
灰髪の商人が、少し楽しそうに目を細める。
「エリシア様は、出し惜しみを覚えましたね」
「商人の娘ですから」
「では、残り三本は?」
その問いに、会議室の空気が締まった。
最初に商人が持ち帰った四本。
一本はエリシアが使用した。
残り三本。
それが今、プロンテラで一番小さく、一番面倒な火種だった。
ギルド長は言う。
「一本は侯爵家周辺へ見せる。ただし、売らない」
「見せるだけですか」
「見せるだけだ。欲しがらせる」
エリシアは眉を寄せた。
「性格が悪いですね」
「商売だ」
「……便利に使える言葉ですね」
「お前も使うようになる」
「嫌です」
灰髪の商人が続ける。
「一本は商人ギルド内で保管。もう一本は、薬師組合と香油商への確認用にしますか?」
「使わせるな」
ギルド長が言った。
「見せるだけだ」
「全員が欲しがりますよ」
「だから見せるだけだ」
エリシアは小さくため息をついた。
「父様、紅肌の雫より性格に効く薬を探した方がいいのでは」
「売れるか?」
「たぶん売れません」
「では不要だ」
会議室に、少しだけ笑いが起きた。
だが、笑いの下で全員が理解していた。
次の入荷が必要だ。
紅肌の雫は、もう三本では足りない。
一方、プロンテラ冒険者ギルドでは、別の問題が起きていた。
「またルスカ村行きか」
受付係が、出立届の束を見て言った。
「今日だけで何組目だ?」
「八組目です」
「昨日より二組増えたな」
「このままだと、明日は十を超えます」
「予想するな。頭が痛くなる」
「現実は痛くなってから来ます」
どこか達観した声で、若い受付係が答えた。
受付の前では、若い冒険者たちが集まっていた。
「第2層は訓練向けなんだろ?」
「第3層は危ないらしいぞ」
「でも低ランクでも訓練すればいけるって聞いた」
「誰から?」
「酒場」
「酒場の話を信じるなよ」
「じゃあ受付で聞こうぜ」
受付係は頭を抱えた。
聞いてくるだけ、まだましだ。
勝手に行く者もいる。
紅肌の雫。
大銀貨二枚以上。
低ランクでも可能性あり。
死者あり。
訓練あり。
話が混ざっている。
しかも、都合よく混ざる。
冒険者ギルドの支部長は、奥の部屋で報告書を読んでいた。
そこには、ルスカ村へ派遣された臨時職員からの短い報告が並んでいる。
第1層、混雑増加。
第2層、訓練利用拡大。
第3層、一時間帰還訓練成立。
短音合図、試行中。
死者後も挑戦者減少せず。
むしろ増加。
支部長は目を閉じた。
「減ると思ったのが甘かったな」
職員が言う。
「死者が出たのに、ですか」
「冒険者は死の話で怖がるが、報酬の話で歩く」
「問題ですね」
「昔からそうだ」
支部長は報告書を机に置いた。
「ただ、今回は現場が訓練の形に持っていっている。そこは悪くない」
「クレスたちですね」
「ああ。カティアもいる。メリダというDランクも働いているらしい」
「臆病者講習、と書かれています」
職員が別紙を見ながら言った。
支部長は眉を上げる。
「何だ、それは」
「現地の俗称のようです」
「正式名にするなよ」
「しません」
支部長は少しだけ考えた。
「だが、考え方は悪くない。勇ましいだけの新人より、戻れる新人の方が使える」
「では、出立前の注意事項に入れますか」
「入れろ。第2層を訓練と見ること。第3層は戻る判断を学ぶ場所であること。短音合図を覚えること。単独進入は禁止ではないが、強く警告」
「禁止にはしないのですね」
「禁止にすると、隠れて行く」
「でしょうね」
「なら、行く前に少しでも臆病にしておけ」
職員は頷いた。
その時、酒場側から大きな声が聞こえた。
「俺は第3層で一発当てる!」
支部長は黙った。
職員も黙った。
少しして、別の冒険者の声がした。
「まず第2層で転ばなくなってから言え!」
支部長は小さく息を吐いた。
「少しは効いているらしい」
「はい」
「それでも転ぶ奴は転ぶ」
「はい」
「記録しておけ」
プロンテラ冒険者ギルドの掲示板に、新しい紙が貼られた。
清水の迷宮へ向かう者へ。
第2層で足元を見ろ。
第3層で帰り道を見ろ。
紅肌の雫は、帰った者だけが売れる。
その文面を見た冒険者たちが、少しだけ静かになった。
ほんの少しだけ。
領主館では、文官レナードが机の上の紙束を見下ろしていた。
銀縁の眼鏡。
細い指。
整った文字。
そして、明らかに増えた書類。
清水の迷宮に関する暫定整理。
その見出しの下に、何枚もの追記が挟まれている。
清水による村生活の改善。
軽微な浄化作用。
低ランク冒険者訓練。
第3層報酬、紅肌の雫。
商人ギルドの反応。
冒険者流入。
死者。
臨時受付。
骨笛合図。
臆病者講習。
レナードは、最後の項目で手を止めた。
「臆病者講習」
隣の若い文官が気まずそうに言う。
「現地でそう呼ばれているようです」
「正式文書に書く言葉ではないな」
「削りますか」
「いや、残す」
「残すのですか」
「現場の本質を妙に言い当てている」
レナードは眼鏡を押し上げた。
「冒険者というものは、勇敢さを売りにする。だが、低ランクに必要なのは、まず臆病さだ。誰が言い始めたかは知らんが、悪くない」
「では正式名称は」
「第3層帰還判断訓練」
「硬いですね」
「文書とは硬いものだ」
「臆病者講習の方が広まりそうです」
「分かっている。だから腹立たしい」
若い文官は黙って笑いをこらえた。
レナードは別紙を取り上げる。
商人ギルドからの問い合わせ。
冒険者ギルドからの注意喚起。
薬師組合からの確認希望。
侯爵家侍女頭からの非公式照会。
ルスカ村への人流増加に伴う食糧、宿泊、治安上の懸念。
水利案件。
商業案件。
治安案件。
迷宮案件。
「また増水している」
レナードが呟いた。
若い文官が聞く。
「水ですか」
「問題だ。最初は清水だけだった。今は冒険者、商人、貴族、薬師、村の食糧まで流れてきた」
「止めますか」
「止められるなら、とっくに止めている」
レナードは羽ペンを取り、次の見出しを書く。
ルスカ村周辺の暫定管理案。
「まず、村に正式な連絡役を置く必要がある。冒険者ギルドだけに任せると、商人が勝手に値をつける。商人ギルドだけに任せると、冒険者が死ぬ。村だけに任せると、村長の胃が死ぬ」
「胃、ですか」
「比喩だ」
「たぶん本当に痛めています」
「それも報告に入れるな」
若い文官は頷いた。
レナードはさらに書く。
侯爵家への報告要旨。
清水の迷宮は、討伐対象として即断すべきではない。
生活資源、訓練資源、希少報酬の三要素を持つ。
危険性あり。
死亡例あり。
ただし、管理と訓練により低ランク冒険者育成の場として機能し始めている。
紅肌の雫は、領都経済および貴族周辺に影響を及ぼす可能性あり。
レナードはそこで筆を止めた。
「可能性あり、では弱いな」
「では?」
「すでに影響を及ぼしている」
若い文官が小さく頷く。
「侍女頭から問い合わせが来ていますからね」
「侍女頭は、侯爵家の耳だ。耳が動いたなら、いずれ目も動く」
「侯爵閣下ですか」
「まだ早い。だが、遠くはない」
レナードは書類をまとめた。
「正式な調査員を出す準備をする。軍ではない。文官と、冒険者ギルド、商人ギルドの合同確認だ」
「ルスカ村へ?」
「そうだ」
「いつ出しますか」
「次の紅肌の雫が届いたら」
若い文官が眉を上げる。
「届くと思いますか」
レナードは窓の外を見る。
プロンテラの街路には、冒険者の姿が増えている。
荷物を背負い、ルスカ村方面の門へ向かう者。
戻ってきた者から話を聞く者。
商人ギルドへ向かう者。
流れは、もうできていた。
「届くだろう」
レナードは言った。
「人は報酬に向かって歩く」
数日が過ぎた。
プロンテラでは、紅肌の雫の残り三本は売られなかった。
見せられた。
語られた。
噂に混ぜられた。
その方が、値が上がった。
商人ギルドでは、エリシアが何度も同じ説明をした。
美人になる薬ではありません。
若返りではありません。
治療薬でもありません。
疲れた顔色や軽い肌荒れを、少し整えるものです。
そう説明するたびに、相手の目はむしろ熱くなった。
派手な奇跡より、少しの実感の方が売れることがある。
エリシアは、それを身をもって知った。
冒険者ギルドでは、ルスカ村行きの人数がさらに増えた。
ただし、少しだけ変化もあった。
酒場で大口を叩く者の横で、骨笛を買ってから行く者が増えた。
第2層訓練の話を聞く者が増えた。
臆病者講習という妙な言葉が、笑いながらも広まった。
笑われる言葉は、覚えられやすい。
領主館では、レナードの机の紙束がさらに厚くなった。
彼はそれを見て、低く呟いた。
「やはり増水している」
若い文官は、もう聞き返さなかった。
慣れたのだ。
そして、その日の夕方。
商人ギルドに、一人の使いが駆け込んできた。
ルスカ村方面からの伝令だった。
灰髪の商人は、すぐに応接ではなく奥の会議室へ通した。
ギルド長。
エリシア。
数名の幹部。
全員が揃う。
伝令は息を整え、紙を差し出した。
「清水の迷宮、第3層にて、低ランク冒険者四名による踏破、帰還を確認」
部屋の空気が変わった。
伝令は続ける。
「紅肌の雫、四本持ち帰り。売却先は現地確認中。訓練表には、踏破、帰還の記録が追加されたとのこと」
エリシアの指が、机の上で止まった。
灰髪の商人の目が鋭くなる。
ギルド長は短く言った。
「四本か」
「はい」
「低ランクだけで?」
「報告では、そのように」
「クレスは?」
「同行なし。カティアも同行なし。事前訓練後の踏破とのことです」
会議室の商人たちは、顔を見合わせた。
紅肌の雫が追加で出た。
それだけではない。
低ランクでも、訓練すれば届く。
つまり、次がある。
さらに次もある。
一本限りの奇跡ではない。
流通の可能性が生まれた。
エリシアは小さく呟いた。
「……これで、待っている方々が黙っていませんね」
ギルド長は眉間を押さえる。
「黙らせる必要はない」
「では?」
「並ばせる」
灰髪の商人が静かに笑った。
「値も、上がりますね」
エリシアはため息をついた。
「また言葉を選ぶ仕事が増えます」
「商人の娘だろう」
「逃げ場のない言葉ですね」
その時、会議室の扉が叩かれた。
若い職員が顔を出す。
「失礼します。冒険者ギルドから確認の使いが来ています。それから、領主館の文官様からも、清水の迷宮について追加報告を求める連絡が」
ギルド長は天井を見た。
灰髪の商人は笑った。
エリシアは空の小瓶を見た。
そして、静かに言った。
「水は、低いところへ流れるのでしたね」
実際、領主館の文官レナードは、その頃まったく同じような顔で、新しい報告書を受け取っていた。
「四本、持ち帰ったか」
若い文官が頷く。
「はい。低ランク冒険者四名による踏破、帰還とのことです」
「……育ったな」
「冒険者が、ですか?」
「問題がだ」
レナードは羽ペンを取った。
「これで清水の迷宮は、一時の珍事ではなくなった。継続して資源を生む迷宮だ」
「正式調査ですか」
「準備を進めろ」
レナードは書類の見出しを変えた。
清水の迷宮に関する暫定整理。
その下に、新しい一行を書き加える。
低ランク冒険者による第3層踏破、帰還を確認。
レナードはしばらくその文字を見ていた。
「紅肌の雫だけで、これだ」
「はい」
「もし、次の報酬が出たらどうなる」
若い文官は答えられなかった。
レナードも、答えを期待していなかった。
プロンテラの夕鐘が鳴る。
石畳の街に、商人の足音と冒険者の声が重なる。
まだ誰も知らない。
清水の迷宮の奥で、次の欲が琥珀色に揺れ始めていることを。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
迷宮の外でも、水は静かに広がっていました。
次に届くのは、赤だけではないかもしれません。
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