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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第21話 琥珀の貯蔵庫



 清水の間は、まだ熱を持っていた。


 紅肌の雫。


 四本。


 低ランク冒険者だけで、第3層を踏破して持ち帰った。


 その事実は、木札に書かれている。


 踏破、帰還。


 リオ。


 サナ。


 フィン。


 マイラ。


 その四つの名前の前に、朝から冒険者たちが集まっていた。


「本当にEランクだけで持ち帰ったのか」


「クレスもカティアも同行してないんだろ?」


「三時間訓練してからの踏破だって聞いたぞ」


「じゃあ、俺たちも訓練すれば……」


「まず第2層で転ばなくなってからだろ」


「そこからかよ」


「そこからだよ」


 ざわめきは、昨日までと違っていた。


 ただの噂ではない。


 ただの欲でもない。


 目標になっていた。


 木札の一番下に名前が載る。


 紅肌の雫を持ち帰る。


 そして、生きて戻る。


 新顔の冒険者たちの目に、欲だけでなく順番が見え始めていた。


 仮受付の前では、クレスがギルド職員と話していた。


 カティアは腕を組んで壁に背を預けている。


 メリダは木札の前で、にやにやと四人の名前を見上げていた。


「出世したねえ」


 フィンが少し照れたように頬をかく。


「まだ出世ってほどじゃないですよ」


 メリダは首を横に振った。


「いや、これは出世だよ。死なずに帰ってきた出世だ」


 マイラは記録板を抱えたまま言う。


「記録上は、まだEランク」


「記録は遅れてついてくるもんだよ」


 メリダが言った。


 その時、クレスが仮受付の前へ出た。


 清水の間のざわめきが、少しずつ静まる。


「昨日の第3層踏破について、ギルド仮受付として確認した」


 クレスの声は、静かだった。


 だが、待機広間の端まで届いた。


「リオ、サナ、フィン、マイラ。四名は、クレス、カティア、メリダの同行なしで第3層を踏破。紅肌の雫を取得し、全員で帰還した」


 リオが少しだけ背筋を伸ばす。


 サナは表情を変えない。


 フィンは明らかに緊張していた。


 マイラは記録板を握る手に力を入れている。


 クレスは続けた。


「この結果をもって、四名を現地仮認定としてDランク昇格扱いとする。正式登録はラクト支部、およびプロンテラ側の処理を待つが、清水の迷宮における実技評価としては、Eランクを越えたものと判断する」


 一瞬、清水の間が止まった。


 次の瞬間、声が弾けた。


「Dランク!」


「上がったのか!」


「第3層突破で昇格かよ!」


「すげえ!」


「フィンがDランク!?」


「そこ驚くところ!?」


 フィンが思わず声を上げた。


 マイラが横で小さく笑う。


「おめでとう、Dランク」


「マイラもだろ!」


「うん。少し不思議」


 リオは自分の手を見ていた。


 昨日、紅肌の雫を握った手だ。


「Dランク……」


 サナが言う。


「帰ってきたから」


「そうだな」


「雫を取ったからじゃない」


「帰ってきたから、だな」


 リオは頷いた。


 その顔は、昨日より少しだけ大人びていた。


 カティアが全員を見回す。


「勘違いするなよ」


 歓声が少し静まる。


「第3層を突破したら自動で偉くなるわけじゃねえ。紅肌の雫を持って帰ったから偉いわけでもねえ。戻る判断、隊列、合図、印、体力、欲の制御。そいつらを全部やって、帰ってきたからD扱いだ」


 若い冒険者が息を呑む。


 カティアは続けた。


「死んだら昇格も報酬もねえ。木札に名前が残る前に、迷宮に名前を食われるだけだ」


 フィンが小さく言った。


「表現が怖い」


 マイラが答える。


「でも正しい」


「そこが一番怖い」


 クレスが頷く。


「今後、清水の迷宮においては、第3層の踏破、帰還をDランク昇格審査の実技相当として扱うよう、ギルドへ正式に報告する」


 仮受付の職員が、急いで記録している。


 メリダが口元を緩めた。


「つまり、臆病者講習を受けて帰ってきたら、出世の道が見えるわけだ」


 新顔の冒険者たちが、木札を見た。


 一時間帰還。


 一時間半帰還。


 二時間帰還。


 三時間到達、帰還。


 踏破、帰還。


 それはもう、ただの記録ではなかった。


 Dランクへの道筋でもあった。


 誰かが小さく言う。


「俺も、第2層からやる」


 別の誰かが答える。


「俺も」


「骨笛、買ってくる」


「まず転ばない練習だな」


 清水の間の熱が、少し変わった。


 無謀な熱ではない。


 訓練へ向かう熱だった。






 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


「おお……Dランク」


『昇格扱いになったわね』


「第3層突破が、ランクアップの実技試験になった」


『人間の組織が、迷宮の結果を評価基準にしたわけね』


「すごいな。うちの迷宮、資格試験会場になった」


『言い方』


「でも近いだろ。第2層で基礎訓練。第3層で実技試験。合格したらDランク」


『貴方、最初は第3層からが迷宮の本番だと言っていたわね』


「言ってた」


 俺は第3層の入口を見る。


 最初、第3層からは死の領域にするつもりだった。


 第1層は生活。


 第2層は訓練。


 第3層からは、本物の迷宮。


 危険。


 報酬。


 欲。


 死。


 それでいいと思っていた。


 でも、人間側が違う使い方を始めた。


 第3層を、ただの死の階層にしなかった。


 帰る判断を学ぶ場所にした。


 紅肌の雫を目指すための、実技試験にした。


 そして今、それがDランク昇格の条件になろうとしている。


「冒険者側で、うまく訓練所にしてくれたんだな」


『ええ』


「じゃあ、使わせてもらおう」


『何を?』


「第3層までを、正式に特訓階層として活かす」


 俺は手を叩いた。


「第1層で準備する。第2層で足元を鍛える。第3層で帰る判断を鍛える。そこを突破したやつだけが、第4層に行ける」


『第4層を、ただ奥に繋げないのね』


「繋げない」


 俺は即答した。


「第3層を抜けた勢いで、そのまま第4層に突っ込まれたら困る。疲れてるし、欲も強くなってる。せっかく帰る判断を覚えたのに、次の階層で台無しになる」


『では、入口を分ける?』


「分ける。第2層入口とは別。清水の間に、新しい導線を作る」


『誰でも入れるの?』


「入れない。第3層を踏破して帰還した記録がある者だけ」


 ヴェルティアの赤い光が揺れる。


『入場制限ね』


「そう。第4層は、ご褒美の次の試験だ。第3層を越えた人間だけが挑める場所にする」


『迷宮らしくなってきたわね』


「だろ」


『少し腹立たしいくらいに』


「褒め方が独特!」


 俺は足元に表示を呼び出す。


【現在DP:3782】


 第3層突破で大きく増えたDP。


 ここから、第4層を作る。


 しかも、前世のウイスキー再現。


 高い。


 けれど、やる。


「ヴェルティア。第4層、作ろう」


『ええ』


「名前は、琥珀の貯蔵庫」


『酒蔵ではなく?』


「貯蔵庫の方が迷宮っぽい。奥に溜め込んでいる感じがある」


『欲を溜める場所ね』


「いい響きだ」


『褒めていないわ』


「俺は褒め言葉として受け取った」


 表示が展開する。


【第4層生成案】


【階層名:琥珀の貯蔵庫】


【階層構造:迷路型貯蔵庫】


【直進最短踏破想定:約3時間】


【探索・迷走時想定:約8時間】


【階層性質:琥珀香、貯蔵棚、樽影、反響水音、判断鈍化】


【足場性質:安定】


【魔法使用想定:可】


【報酬:琥珀の雫】


【保存性:有効期限なし】


【入場条件:第3層踏破・帰還記録保持者】


【専用導線:清水の間・琥珀水紋門】


【通常出現:琥珀スライム、酔香蛾、樽齧り鼠】


【前世概念再現:必要DP 1480】


【入場制御・専用導線追加:必要DP 260】


【魔法干渉環境調整:必要DP 180】


【品質確認用試飲雫:必要DP 40】


【合計必要DP:1960】


 俺は表示をじっと見た。


「足場性質、安定。ここ大事だな」


『第2層は足場。第3層は帰還判断。第4層でも足場を悪くする必要はないわね』


「そう。第4層からは、魔術師にちゃんと仕事をしてもらいたい」


『魔術師に?』


「見たいんだよ、魔法!」


 俺は思わず声が弾んだ。


「せっかく異世界にいるんだぞ? ウィンドカッター、ウォーターバレット、アイスランス、ファイアボルト。そういうのを、ちゃんと見たい!」


『貴方の趣味では?』


「趣味です!」


『言い切ったわね』


「でも、運営的にも意味はある。今まで足元、泥、撤退、帰還判断だっただろ。大事だよ。ものすごく大事。でも、魔術師がいるパーティにもちゃんと見せ場が欲しい」


『魔術師の見せ場』


「風で酔香蛾の粉を散らす。水で琥珀スライムを押し流す。氷で足を止める。火で牽制する。魔法があるだけで、編成が変わる。パーティの組み方が変わる」


『後から理屈を足しているわね』


「足してる。でも本音は魔法が見たい!」


『正直ね』


「異世界に来て魔法を見ないなんて、焼き魚に塩を振らないようなものだ!」


『例えが急に庶民ね』


「大事なことは庶民感覚に宿る!」


 ヴェルティアは呆れたように、けれどどこか楽しそうに光を揺らした。


『火は危なくないの?』


「そこは調整する。酒の貯蔵庫でファイアボルトを撃った瞬間に大爆発、はさすがに困る」


『貴方にしては冷静ね』


「見たいのは魔法であって、全滅じゃないからな」


『当然よ』


「ただし、樽に当てすぎると香りの霧が出て判断が鈍る。火は使える。でも雑に撃つと不利になる。それくらいがいい」


『魔術師にも判断を求めるのね』


「そう。第4層は、魔法を使える。でも調子に乗ると迷う。酒の香りで気が大きくなって、魔法も雑になる。そこを耐える」


『第3層の帰還判断の次は、魔法と欲の制御』


「うん。第3層までで育った連中に、次の課題を出す」


 表示の中で、モンスター名が淡く光った。


 琥珀スライム。


 酔香蛾。


 樽齧り鼠。


「通常敵は、判断を鈍らせるやつ中心。酔香蛾の粉は、ウィンドカッターや風の魔法で散らせる。琥珀スライムは物理でも倒せるけど、ウォーターバレットやアイスランスが有効。樽齧り鼠は素早いから、足止め系が欲しくなる」


『魔術師への仕事を用意するのね』


「うん。魔法を見たいから」


『そこに戻るのね』


「大事だからな」


「じゃあ、生成開始」


 水膜の奥で、青白い文字が揺れた。


【DPを1960消費します】


【現在DP:3782】


【消費後DP:1822】


【第4層 琥珀の貯蔵庫 生成開始】


 清水の迷宮が、低く鳴った。






 清水の間で、最初に変化に気づいたのはサナだった。


「……壁」


 サナの短い声に、リオが振り返る。


「壁?」


 第2層入口とは反対側。


 これまで何もなかった清水の間の奥。


 そこの壁に、薄い琥珀色の水紋が浮かび始めていた。


 水面の波紋に似た模様。


 けれど色は、清水ではない。


 赤でもない。


 琥珀色。


 金色と茶色の間で、ゆっくり揺れている。


 冒険者たちがざわめいた。


「なんだ、あれ」


「新しい壁文字か?」


「入口か?」


「第4層か?」


 フィンが笛を握ったまま、目を丸くする。


「え、俺たち、何か開けた?」


 マイラがすぐ記録板を開く。


「第3層踏破後に発生。第2層入口とは別位置。色は琥珀。形状は門に近い」


「記録が早い」


「こういう時ほど記録」


 クレスが門へ近づく。


 カティアも横に並んだ。


 クレスは手を伸ばさず、まず観察する。


「第2層入口とは違うな」


「ああ。匂いも違う」


 カティアが鼻を鳴らした。


「何か、甘いというか、木の樽みたいな匂いがする」


 メリダが眉を上げる。


「酒場みたいな匂いだね」


 その言葉に、周囲がざわついた。


「酒?」


「酒の階層?」


「迷宮に酒?」


「紅肌の次は酒なのか?」


 新顔の冒険者たちの目が、一気に変わった。


 紅肌の雫とは違う種類の欲が、空気に混ざる。


 男も女も関係ない。


 冒険者も商人も、反応する欲。


 酒。


 それに、見習い魔術師たちの目も変わっていた。


 門の奥から、風が抜ける。


 広い通路。


 高い天井。


 薄暗い樽棚。


 足場は、泥でも藻でもない。


 魔法を撃てる空間が、そこにあるように見えた。


 見習い魔術師の一人が、息を呑む。


「……あそこなら、魔法を使えるかもしれない」


 別の魔術師が頷いた。


「通路が広い。天井も高そうだ」


 フィンが門を見て、ごくりと喉を鳴らした。


「これ、入れるんですかね」


 リオも門を見る。


 目に好奇心がある。


 足が少しだけ前に出た。


 サナが、その足を見た。


「今日は入らない」


 リオは自分の足を見て、すぐ下げた。


「分かってる」


 カティアが横から言う。


「分かってるなら口に出せ」


 リオは門を見たまま言った。


「今日は入らない」


 クレスが頷く。


「そうだ。第3層を踏破した直後だ。疲労が残っている。新しい階層へ入る状態ではない」


 新顔の冒険者が声を上げた。


「でも、入口だけなら」


 カティアが振り向いた。


「入口だけ、で死んだ奴を何人も見てる」


 その一言で、新顔は黙った。


 メリダが琥珀の水紋門を眺める。


「入れるかどうかも分からないね」


 フィンが首を傾げる。


「どういうことです?」


「迷宮が、第3層を越えた者だけに開いた可能性がある。試せば分かる」


 カティアが近くにいた新顔のEランク冒険者を顎で示す。


「触ってみろ」


「え、俺ですか?」


「嫌ならいい」


「いや、やります」


 新顔の冒険者が、恐る恐る琥珀の水紋門へ手を伸ばした。


 手は、壁に触れた。


 ただの壁だった。


「……硬いです」


 次に、リオが手を伸ばす。


 水紋がゆっくり広がった。


 琥珀色の門の奥に、薄暗い通路が見えた。


 整った石床。


 高い天井。


 左右に並ぶ貯蔵棚。


 樽の影。


 遠くで落ちる琥珀色の滴。


 そして、鼻先をくすぐる、甘く重い香り。


 リオは息を止めた。


 すぐに手を引く。


 門は閉じた。


 清水の間が静まり返った。


 クレスが低く言う。


「第3層踏破者だけに反応する」


 マイラが記録する。


「入場条件あり。第3層踏破、帰還記録保持者に反応」


 フィンが手を伸ばす。


 門が開きかける。


 フィンは慌てて手を引いた。


「うわ、開く!」


 サナも触れる。


 門は静かに揺れる。


 マイラも触れる。


 同じように、琥珀色の奥が見える。


 カティアが腕を組んだ。


「面白いな。迷宮の方が、お前らをD扱いしてるみたいだ」


 フィンは自分の手を見る。


「本当に、次へ行けるようになったんだ」


 クレスが言う。


「だからこそ、今日は入らない」


「はい」


 四人は揃って答えた。


 新顔の冒険者たちは、その光景を見ていた。


 第3層を越えた者だけが、第4層の門を開ける。


 それは、どんな説明よりも分かりやすかった。


 第2層で鍛えろ。


 第3層を越えろ。


 そうすれば、次の欲へ進める。


 清水の間の熱が、また一段変わった。






 黒い水膜の内側で、俺は門の反応を見ていた。


「よし。入場制限、機能してる」


『第3層突破者だけに反応しているわね』


「これなら、第3層までの訓練が無駄にならない。新人がいきなり酒に釣られて突っ込むこともない」


『酒に釣られる前提なのね』


「絶対釣られるだろ」


『否定はしないわ』


「第3層までは特訓階層。第4層からは、その先の欲。うん、いい導線になった」


『満足そうね』


「満足してる。めちゃくちゃしてる」


 表示が浮かぶ。


【第4層 琥珀の貯蔵庫 生成中】


【入場条件設定完了】


【琥珀水紋門 清水の間に設置完了】


【第3層踏破・帰還記録保持者のみ通行可能】


【足場安定化 完了】


【魔法干渉環境 調整完了】


【通常出現:琥珀スライム、酔香蛾、樽齧り鼠】


【琥珀の雫 報酬設計中】


【有効期限:なし】


 俺は頷いた。


「有効期限なし。ここ大事」


『紅肌の雫とは違うわね』


「紅肌は鮮度がある。琥珀は熟成と保存。酒はむしろ置いておけるのが価値だ」


『前世の知識ね』


「あと憧れ」


『憧れで作る酒』


「いいじゃん。夢がある」


『品質確認は行うのでしょう?』


「もちろん」


 俺がそう答えた瞬間、表示が切り替わった。


【報酬品質確認用:試飲雫を生成します】


【外部持ち出し不可】


【迷宮主および迷宮核による確認のみ可能】


【試飲雫 生成】


 黒い水膜の前に、小さな杯が二つ現れた。


 透明な杯。


 中には、琥珀色の液体がほんの少し。


 揺れるだけで、香りが立つ。


 木。


 蜜。


 煙。


 乾いた果実。


 前世で高いウイスキーの説明文にありそうな香りが、俺の鼻をくすぐった。


「うわ……」


『……』


 ヴェルティアが、黙った。


 いや、黙り方が違った。


 いつもの高貴なる沈黙ではない。


 明らかに、見ている。


 杯を。


 めちゃくちゃ見ている。


「ヴェルティア?」


『何かしら』


「酒、好き?」


『高貴なる迷宮核は、嗜好に支配されないわ』


「質問に答えてないな」


『確認作業よ』


「確認作業なら仕方ないな」


『仕方ないわ』


 ヴェルティアは、いつもより少しだけ早く杯を取った。


 ほんの少し。


 本当に、ほんの少しだけ口をつける。


 赤い瞳が、ぴたりと止まった。


『……』


「どう?」


『……悪くないわ』


「その間は絶対うまいやつだろ」


『悪くないと言ったの』


「はいはい」


『はいは一回!』


「そこは酔ってても言うんだな」


『礼節の問題よ』


 俺も杯を取った。


 口に含む。


 熱いわけではない。


 でも、喉から胸に、ゆっくり温かさが広がる。


 香りが遅れて鼻に抜ける。


 甘い。


 苦い。


 少し煙い。


 飲み込んだあとに、もう一度欲しくなる。


「うわ、これ前世でちゃんと飲みたかったやつだ」


『貴方の前世は、これを知らないの?』


「高い酒とは縁が薄かった」


『では想像で作ったの?』


「憧れとDPで作りました」


『不思議と腹立たしいわね』


「味は?」


『……もう一口』


「やっぱ好きじゃん」


『品質確認よ』


「高貴なる品質確認」


『そうよ』


 ヴェルティアは二口目を飲んだ。


 そして、少しだけ目元が緩んだ。


 珍しい。


 かなり珍しい。


 黒い髪が肩から流れ、赤い瞳がいつもより柔らかい。


 俺は思わず見てしまった。


「ヴェルティア、顔ゆるんでる」


『ゆるんでいないわ』


「めっちゃゆるんでる」


『高貴なる余韻よ』


「便利だな、高貴」


『便利ではないわ』


 そう言いながら、ヴェルティアの体がふらりと揺れた。


「おっと」


 俺は慌てて支えた。


 ヴェルティアの体が、すぽんと腕の中に収まる。


 近い。


 黒い髪から、琥珀の香りがした。


『……貴方』


「はい」


『この酒、悪くないわ』


「さっき聞いた」


『悪くないわ』


「二回目」


『だから、もう少し確認が必要ね』


「駄目です。試飲で酔う迷宮核、聞いたことない」


『私は酔っていないわ』


「今、俺に体重預けてます」


『高貴なる休憩よ』


「ただの酔っ払いの言い訳!」


 ヴェルティアが、俺の服の袖をつまんだ。


 ほんの少し。


 でも、離さない。


『……大地』


「何?」


『琥珀の雫は、良い報酬よ』


 声が少しだけ柔らかかった。


 ふざける余裕が、一瞬だけ消える。


 俺はヴェルティアを支えながら、第4層の表示を見た。


「そうだな」


『人間は欲しがるわ』


「うん」


『商人も、貴族も、冒険者も』


「うん」


『でも、届くには訓練がいる』


「そこがいい」


 ヴェルティアは薄く笑った。


『貴方、本当に迷宮主になってきたわね』


「今それ言う? 酔った状態で?」


『酔っていないわ』


「はいはい」


『はいは一回!』


「酔ってる時だけ妙に庶民的な注意してくるな!」


『高貴なる礼節よ』


『もう一口』


「だめ」


『高貴なる命令よ』


「高貴なる却下です」


『貴方、偉くなったわね』


「迷宮主なので」


 ヴェルティアは少しだけ不満そうに目を細めた。


 そのまま、俺の袖をつまんだまま離さない。


 俺は、空になった杯を見た。


 普通の琥珀の雫で、これだ。


 この味で、ヴェルティアがここまで分かりやすく反応する。


 なら。


「なあ、ヴェルティア」


『何?』


「激レア枠、作ろうか」


『激れあ?』


「本当にたまにしか出ないやつ。会えたら嬉しい。倒せたらもっと嬉しい。第4層に何度も行きたくなるやつ」


『報酬は?』


「琥珀の雫より、さらにうまい酒」


 ヴェルティアの赤い瞳が、ほんの少しだけ動いた。


 見逃さなかった。


 絶対に反応した。


「名前は、紅琥珀の雫」


『紅琥珀……』


「赤みを帯びた琥珀色の酒。小瓶一口分、二十五ミリリットル。治療効果も強化効果もなし。ただ、琥珀の雫よりさらにうまい」


『……品質確認は?』


「まだなし」


『なぜ?』


「激レア報酬だから。第4層がちゃんと機能して、誰かがそのモンスターを倒して、初めて手に入った時のお祝いにする」


『品質確認が必要ではなくて?』


「お祝いまで我慢」


『……高貴なる保留ね』


「ただ飲みたいだけだろ」


『確認よ』


「はいはい。お祝いまで保留」


『はいは一回!』


「そこは譲らないんだな」


『礼節よ』


 ヴェルティアは、少しだけ不満そうに沈黙した。


 けれど、袖は離さなかった。


 これは、絶対に覚えておく顔だ。


 俺も覚えておく。


 紅琥珀の雫は、第4層がちゃんと動き始めた時のお祝い。


 その方が、絶対にうまい。


 表示が新しく浮かんだ。


【追加設計案】


【激レア出現:紅琥珀スライム】


【出現率:極低】


【性質:小型、低耐久、即時逃走】


【討伐時報酬:紅琥珀の雫】


【紅琥珀の雫:小瓶一口分 25ml】


【効果:なし】


【品質:琥珀の雫より上位の酒】


【追加必要DP:120】


「これでいく」


『すぐ逃げるのね』


「逃げる。だから見つけたら嬉しいし、逃げられたら悔しい。冒険者はまた来る」


『人間の悔しさまで報酬にするのね』


「迷宮なので」


『良い性格になってきたわ』


「褒め言葉として受け取っておく」


 俺は表示に触れた。


【DPを120消費します】


【現在DP:1822】


【消費後DP:1702】


【激レア出現:紅琥珀スライム 追加完了】


【激レア報酬:紅琥珀の雫 追加完了】


 俺は息を吐いた。


「よし。これで、第4層には普通の報酬と、夢の一口がある」


『夢の一口』


「そう。会えるかどうか分からない。倒せるかどうかも分からない。でも、一度聞いたら忘れられない」


『紅琥珀の雫』


「うん」


『……お祝いまで保留』


「そう。お祝いまで保留」


『覚えておきなさい』


「怖いって、その言い方」


 ヴェルティアは答えなかった。


 ただ、俺の袖をつまんだまま、少しだけ口元を緩めていた。






 清水の間では、琥珀の水紋門の前に木札が追加されていた。


 仮受付の職員が、震える手で書いたものだ。


 第4層。


 琥珀の貯蔵庫。


 第3層踏破、帰還記録保持者のみ通行可能。


 未踏破者は通行不可。


 足場は安定。


 魔法使用可。


 初回突入、禁止ではないが強く警告。


 カティアがそれを見て言った。


「長い」


 仮受付の職員は疲れた顔で答える。


「今回は長くても必要です」


「まあな」


 カティアは珍しく認めた。


 クレスも頷く。


「今日は誰も入らない。まずは第4層の存在と条件を記録する」


 新顔冒険者たちは、門を見ていた。


 リオたちを見る。


 また門を見る。


 自分たちの手では開かなかった門。


 第3層突破者だけに開いた門。


 それは、分かりやすい目標だった。


 フィンが小さく言う。


「Dランクになって、第4層の入口も開いた……」


 マイラが言う。


「でも、今日は入らない」


「うん」


 リオも頷く。


「今日は入らない」


 サナが足元を見る。


「帰るまでが、今日」


 リオは笑った。


「だな」


 メリダが満足そうに腕を組む。


「いいねえ。臆病者教育の成果が出てる」


 カティアが言う。


「調子に乗るなよ、Dランクども」


 フィンが少しだけ背筋を伸ばした。


「Dランクども……」


 マイラが小さく笑う。


「嬉しそう」


「ちょっとだけ」


「私も、ちょっとだけ」


 リオとサナも顔を見合わせた。


 新しい門は開いた。


 でも、今日は入らない。


 その判断ができるから、彼らはDランクになったのだ。






 黒い水膜の内側で、最後の表示が浮かんだ。


【第4層 琥珀の貯蔵庫 生成完了】


【報酬:琥珀の雫】


【有効期限:なし】


【通常出現:琥珀スライム、酔香蛾、樽齧り鼠】


【激レア出現:紅琥珀スライム】


【激レア報酬:紅琥珀の雫】


【入場条件:第3層踏破・帰還記録保持者】


【初回到達者を待機中】


【現在DP:1702】


 俺は表示を見た。


 それから、腕の中でまだ少しふわふわしているヴェルティアを見た。


「完成したな」


『ええ』


「第4層、琥珀の貯蔵庫」


『良い名ね』


「ヴェルティアが素直に褒めた」


『評価よ』


「いつものやつか」


『……もう一口』


「戻った! 酔っ払いに戻った!」


『酔っていないわ』


「はいはい」


『はいは一回!』


「最後までそこは強いな!」


『礼節は酔わないわ』


 俺は琥珀の水紋門を見る。


 第3層までが、冒険者を育てる場所になった。


 人間側がそう使ってくれた。


 なら、それを利用する。


 育った足だけを、次へ進ませる。


 第4層は、そのための場所だ。


 琥珀の貯蔵庫。


 迷わなければ三時間。


 迷えば八時間。


 足場は悪くない。


 魔法も使える。


 けれど、香りに浸りすぎれば判断が鈍る。


 欲に溺れれば、帰り道を失う。


 そして、運が良ければ、紅琥珀スライムに会える。


 すぐ逃げる激レア。


 倒せば、琥珀の雫よりさらにうまい紅琥珀の雫。


 でも、それはまだ誰も知らない。


「よし」


『何?』


「次の欲は置いた」


 俺は笑った。


「あとは、届く足と、魔法を使いこなす頭が育つのを待つだけだ」


 水音が響く。


 清水の音。


 泥の音。


 藻の音。


 そして奥で、琥珀色の滴が落ちる音。


 清水の迷宮は、また一つ深くなった。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


帰る足を持つ者だけに、琥珀の門は開きました。


次は、酔わずに、惑わずに、魔法を放てるか。


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