第22話 足場は良いのに、心が滑る
この作品を手に取っていただいてありがとうございます。
ここからは1日2話更新に戻ります。
琥珀の門が開いてから、数日が過ぎた。
第4層。
琥珀の貯蔵庫。
その名前は、清水の間に来る冒険者たちの間で、あっという間に広まった。
ただし、誰でも入れるわけではない。
第3層を踏破し、帰還した者だけ。
その条件は、分かりやすかった。
第2層で足元を覚える。
第3層で帰る判断を覚える。
紅肌の雫を持ち帰る。
そして、Dランク仮認定を受ける。
その先にだけ、琥珀の門が開く。
だから、第3層訓練はさらに熱を帯びた。
新顔の冒険者たちは、第2層で泥に転びながらも、木札を見上げるようになった。
一時間帰還。
一時間半帰還。
二時間帰還。
三時間到達、帰還。
踏破、帰還。
そして、その横に新しく増えた木札。
第4層。
琥珀の貯蔵庫。
第3層踏破、帰還記録保持者のみ通行可能。
未踏破者は通行不可。
足場は安定。
魔法使用可。
初回突入、禁止ではないが強く警告。
「魔法使用可、だってよ」
「足場が安定してるなら、第2層より楽なんじゃないか?」
「そう言った奴から死ぬってカティアさんが言ってた」
「言いそう」
「実際言った」
清水の間の空気は、前よりも賑やかだった。
けれど、ただ浮ついているわけではない。
第3層を越えた者だけが、門を開ける。
それを見ているからだ。
数日の間に、第3層踏破者は少しだけ増えていた。
まだ多くはない。
だが、ゼロではない。
その中に、見習い魔術師のニーナがいた。
年は十六。
栗色の髪を肩で切りそろえた、小柄な魔術師だ。
緊張すると杖を両手で握りしめる癖がある。
第3層を越えた時も、紅肌の雫より先に帰り道を三回確認したらしい。
それを聞いたカティアは、
「臆病でよし」
とだけ言った。
ニーナはそれを褒め言葉として受け取るべきか迷っていた。
たぶん、褒め言葉でいい。
その朝。
仮受付の前に、第4層初偵察の参加者が並んでいた。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
そして、見習い魔術師ニーナ。
五人。
クレスは同行しない。
カティアも同行しない。
メリダも入らない。
ただし、三人とも琥珀の門の前で待機する。
中で助けには入れない。
入る条件は満たしていても、今日は入らない。
初偵察の目的は、若いDランク仮認定組が、自分たちで第4層の入口を確かめて帰ることだった。
クレスが静かに言う。
「今日の目的は攻略ではない。二時間探索して戻ることだ」
リオが頷く。
「琥珀の雫は狙わない」
「そうだ」
カティアが腕を組んだ。
「酒の匂いに釣られて奥へ行くな。足場が良いからって、気分まで軽くするな」
フィンが少し笑う。
「足場が良いのに怒られるんですね」
「足場が悪いと足が滑る。足場が良いと心が滑る」
フィンが黙った。
「今の、ちょっと名言っぽいですね」
「茶化すな」
「はい」
マイラは記録板を確認する。
「二時間探索。魔法使用時の反応。香りの影響。出現魔物。帰還時間。記録項目はこの四つに絞る」
サナが言う。
「記録しすぎないで」
「分かってる。帰るのが先」
ニーナは杖を握りしめていた。
指が白い。
クレスがその手を見る。
「ニーナ」
「は、はい!」
「魔法は使っていい。ただし、試したいから撃つな。必要だから撃て」
「はい」
カティアが続ける。
「あと、火は気をつけろ。酒の匂いがする場所で火を撃つんだ。何が起きるか分からねえ」
「ファイアボルトは、最小出力にします」
「出力を言葉で確認できるなら上等だ」
ニーナは少しだけ表情を明るくした。
フィンが横から親指を立てる。
「魔法、期待してる」
「余計に緊張します」
「ごめん」
マイラが短く言う。
「でも、期待はしてる」
「マイラさんまで」
ニーナは杖を抱え直した。
緊張はしている。
でも、逃げる様子はない。
黒い水膜の内側で、俺はその様子を食い入るように見ていた。
「来た」
『何が?』
「魔術師」
『見習いでしょう』
「それでも魔術師! 杖! 詠唱! 魔法名! 俺は待っていた!」
『貴方、完全に観客ね』
「迷宮主兼観客だ!」
『胸を張るところではないわ』
「いや、大事だぞ。第2層は泥、第3層は藻と帰還判断。もちろん大事。でも魔法が見たい。俺は魔法が見たい!」
『そこまで言うなら、よく見ておきなさい』
「見る。めちゃくちゃ見る」
ヴェルティアは、どこか楽しそうに赤い光を揺らした。
昨日の琥珀の雫の試飲以降、琥珀の門を見る時のヴェルティアは少しだけ態度が違う。
あの時、彼女は小さな杯をやけに真剣に見ていた。
口では確認作業と言っていたが、あれはたぶん、ただの確認ではない。
俺は横目で見る。
「ヴェルちゃん、琥珀の門の方をよく見るよな」
『その呼び方は外で禁止と言ったでしょう』
「ここ内側」
『内側でも高貴ではないわ』
「じゃあ、ヴェルティアさん」
『急に距離を取るのも不快ね』
「面倒くさい!」
『高貴なる繊細さよ』
「ただのわがままでは?」
『足元』
「ごめんなさい」
俺の足元が、ぬちゃりと少し沈んだ。
やっぱり言い過ぎはよくない。
でも、今日のヴェルティアは少し機嫌がいい。
琥珀の雫の話が近いからかもしれない。
いや、絶対そうだ。
リオが琥珀の水紋門へ手を伸ばした。
水紋が広がる。
琥珀色の光が、清水の間の壁に丸い入口を作る。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
ニーナ。
五人が順に入った。
門の向こうは、清水の間とはまるで違った。
石床は乾いている。
足場は平らで、歩きやすい。
左右には、古い貯蔵棚のようなものが並んでいる。
樽に似た丸い影。
瓶の形をした石のくぼみ。
天井は高く、魔法を撃ってもすぐ壁にぶつかるような狭さではない。
奥から、ぽたり、ぽたりと琥珀色の滴が落ちる音がした。
そして、空気に香りがある。
甘い。
重い。
木のようで、蜜のようで、少し煙のような香り。
リオが小さく息を吸った。
「……歩きやすいな」
サナが即座に言う。
「その感想、危ない」
「早いな」
「足場が良いと、油断する」
フィンが石床を踏む。
「第2層の泥が恋しいとは言わないけど、これはこれで怖いですね」
マイラが記録する。
「足場は安定。歩行負担は低い。ただし香りによる気分の変化あり。リオ、第一声で油断気味」
「俺の名前で記録された」
「必要な記録」
ニーナは杖を抱えて、通路の広さを見ていた。
「ここなら、魔法の射線が通ります」
フィンが聞く。
「射線?」
「仲間に当てずに撃てる線です。第2層みたいに足元が崩れる場所だと、撃つ前に自分が崩れます」
「なるほど」
リオが前を見る。
「今日は二時間」
サナが頷く。
「二時間で戻る」
フィンが骨笛を確認する。
「一回停止、二回撤退、三回集合。第4層でも同じでいく」
マイラが言う。
「ただし、香りで反応が遅れる可能性あり」
ニーナが小さく息を吐いた。
「魔法、必要な時だけ」
「うん」
五人は進み始めた。
黒い水膜の内側で、俺は思わず身を乗り出していた。
「いい。めちゃくちゃいい」
『何が?』
「足場が良いから、魔術師がちゃんと前を見てる。第2層だったら詠唱前に転んでた」
『転ぶ前提なのね』
「だって第2層だし」
『貴方が作ったのよ』
「はい」
『はいは一回!』
「それ、俺にも適用されるの!?」
『当然よ』
「厳しい!」
ヴェルティアは少し得意げだった。
いや、酔っていないはずなのに、まだ少し柔らかい。
琥珀の雫、恐るべし。
最初の遭遇は、三十分ほど進んだ先だった。
棚の影から、淡い琥珀色のものがぬるりと出てきた。
丸い。
透けている。
中に、細かな泡のような光が浮いている。
琥珀スライム。
泥スライムよりも小さい。
だが、床に溶けるように広がり、じわじわと通路を塞いでいく。
リオが剣に手をかけた。
「斬るか?」
ニーナが一歩前へ出る。
「試してもいいですか」
リオがサナを見る。
サナが周囲を見る。
フィンが後方を見る。
マイラが短く言う。
「射線、空いてる」
リオが頷いた。
「頼む」
ニーナが杖を構えた。
小さく息を吸う。
「ウォーターバレット」
杖の先に水が集まり、弾丸のように放たれた。
透明な水弾が琥珀スライムを打ち抜く。
琥珀スライムは、ぷるんと震えて後ろへ弾かれた。
完全には倒れない。
けれど、進路は開いた。
ニーナが続ける。
「アイスランス」
今度は氷の槍が短く伸び、琥珀スライムの一部を床に縫い止めた。
スライムが動きを止める。
リオが踏み込む。
一撃。
琥珀スライムは、ぱしゃりと崩れて消えた。
フィンが目を輝かせた。
「すごい」
ニーナは肩で息をしながら言う。
「倒したのはリオさんです」
「止めたのはニーナ」
サナが言った。
ニーナは少しだけ目を丸くする。
マイラが記録する。
「琥珀スライム。水魔法で押し戻し可能。氷魔法で足止め可能。物理追撃で討伐」
フィンが笛を軽く掲げる。
「魔法、いいですね」
「はい」
ニーナは小さく笑った。
その笑顔は、さっきより少しだけ冒険者らしかった。
黒い水膜の内側で、俺は両手を握りしめていた。
「出た! ウォーターバレット! アイスランス!」
『声が大きいわ』
「だって魔法だぞ! 水弾! 氷槍! これだよ、これ!」
『琥珀スライムが試験台みたいになっているわね』
「いいんだよ。魔術師が活躍した。最高」
『迷宮主として?』
「異世界を見たい男として!」
『言い切ったわね』
「運営的にも良い。琥珀スライムは物理だけでも倒せる。でも魔法があれば楽になる。これなら魔術師を連れてくる理由ができる」
『後から理屈を足しているわね』
「足してる。でも魔法が見たいのが先!」
『正直でよろしい』
「そこはありがたく受け取ります」
一時間地点。
五人は、琥珀色の水路が走る広めの通路に出た。
水路と言っても、水ではない。
とろりとした琥珀色の液体が、細く流れている。
触れるな、と壁に水紋文字が浮かんでいた。
リオが少し身を乗り出す。
サナがすぐ言う。
「近い」
「見ただけだ」
「見ただけの時ほど近い」
「分かった」
リオは下がった。
フィンが周囲を見る。
「香り、強くなってません?」
マイラが頷く。
「強い。少し呼吸が深くなる」
ニーナが自分の胸に手を当てる。
「緊張が少し薄いです。良いことみたいに感じるけど、たぶん危ないです」
サナが短く言う。
「楽しい?」
ニーナは少し迷った。
「……少し」
「じゃあ危ない」
リオが頷く。
「第4層、足場が良いのに変な感じだな」
マイラが記録する。
「歩行負担が少ないため、危険感覚が下がる。香りで気分が緩む。第3層とは別方向に判断が鈍る」
フィンが骨笛を吹いた。
ピー。
停止。
全員が一度止まる。
フィンが言う。
「一時間地点。帰路確認」
全員で振り返る。
印を見る。
通路を見る。
香りに流されていないか確認する。
リオが小さく息を吐いた。
「よし。進む」
サナが頷く。
「進める」
その時、天井近くの暗がりから、ふわりと何かが舞った。
蛾だった。
ただし、普通の蛾ではない。
羽が琥珀色に透けている。
羽ばたくたびに、細かな粉が落ちる。
甘い香りが一気に濃くなった。
酔香蛾。
ニーナが顔をこわばらせる。
「粉です」
マイラが口元を布で押さえる。
「吸い込みすぎないで」
リオが剣を構える。
「斬れるか?」
「高い」
サナが言う。
フィンがニーナを見る。
「風、いける?」
ニーナは一度だけ頷いた。
杖を上げる。
「エアブラスト」
短い風が、通路を抜けた。
粉がまとめて押し流される。
酔香蛾が姿勢を崩す。
そこへニーナが続けた。
「ウィンドカッター」
薄い風の刃が飛び、酔香蛾の羽を切った。
蛾が落ちる。
リオが踏み込み、剣の腹で叩き落とす。
酔香蛾は、琥珀色の粉を少し散らして消えた。
フィンが思わず言う。
「風、便利!」
ニーナは少し頬を赤くした。
「粉を散らすだけなら、火より安全です」
マイラが記録する。
「酔香蛾。香りの粉で判断鈍化。エアブラストで粉を散らせる。ウィンドカッターで撃墜可能」
サナがニーナを見る。
「助かった」
ニーナは杖を抱え直した。
「はい」
その返事は、さっきより少しだけ強かった。
黒い水膜の内側で、俺は軽く震えていた。
「風魔法……!」
『感動しすぎでは?』
「エアブラストで粉を散らして、ウィンドカッターで落とした! ちゃんと役割がある! 魔法に意味がある!」
『良かったわね』
「良かった!」
『今の顔、かなり子どもっぽいわよ』
「異世界魔法を見た男は、だいたい子どもに戻るんだよ」
『勝手な理屈ね』
「でも楽しい」
『それは見れば分かるわ』
「ヴェルちゃん、酒飲んでから優しくない?」
『その呼び方をやめなさい』
「やめたらもう一口欲しい顔もやめる?」
『……何のことかしら』
「今、間があった」
『足元』
「ごめんなさい」
ぬちゃり。
足元が少し沈んだ。
俺は反省した。
少しだけ。
一時間半地点。
通路は二つに分かれていた。
左は、樽棚が多い道。
右は、広くて明るい道。
明るい方は進みやすそうに見える。
だが、香りは右の方が強い。
リオは右を見た。
フィンも右を見た。
ニーナも少しだけ右を見た。
サナが言う。
「見やすい道ほど、怪しい」
リオが苦笑する。
「だよな」
マイラが記録板を見る。
「二時間探索なら、ここで右に入ると帰還時間がずれる可能性がある」
フィンが骨笛を二回鳴らした。
ピー、ピー。
撤退確認。
リオが頷く。
「今日はここで戻り始める」
ニーナが少しだけ驚いた顔をした。
「まだ、魔力は残っています」
カティアがいれば、たぶんそこで何か言った。
だが、ここにはいない。
だから、サナが言った。
「残っているから戻れる」
ニーナは言葉を止めた。
少しして、頷く。
「……はい。戻ります」
リオが言う。
「魔力が残ってるうちに帰る。体力が残ってるうちに帰る。気分が良いうちに帰る」
フィンが笑いかける。
「最後の、変ですね」
マイラが短く言う。
「でも正しい。楽しいまま奥へ行くのが危ない」
ニーナは琥珀色の通路を見た。
広い。
撃てる。
試せる。
もっと魔法を使えそう。
その気持ちが、自分の中にあると分かった。
「……第4層、怖いです」
サナが頷く。
「足じゃなくて、頭が危ない」
ニーナは小さく息を吐いた。
「戻ります」
それで決まった。
帰り道。
彼らは、行きよりも慎重だった。
香りは、戻る時にも残っている。
むしろ、報酬を得ていない分だけ、もう少し進めば何かあったかもしれない、という気持ちが残る。
それが足を鈍らせる。
途中、棚の下から小さな影が走った。
樽齧り鼠。
琥珀色の前歯を持つ、小さな鼠だった。
フィンが声を上げる。
「速い!」
樽齧り鼠は、壁に残した布印へ走る。
サナが気づいた。
「印!」
ニーナが杖を向ける。
しかし、ファイアボルトを撃つには棚が近い。
ニーナは一瞬迷った。
その一瞬で、マイラが言う。
「火は危険」
ニーナは頷く。
「アイスバインド」
床に薄い氷が走り、樽齧り鼠の足元を固めた。
完全には止まらない。
だが、動きが鈍る。
フィンが踏み込み、短剣の柄で叩いた。
樽齧り鼠は、きゅっと鳴いて消えた。
布印は無事だった。
フィンが息を吐く。
「危なかった」
ニーナも息を吐いた。
「ファイアボルト、撃てると思いました。でも、撃たなくてよかったです」
マイラが記録する。
「樽齧り鼠。帰路印を狙う。火魔法は棚付近では要注意。アイスバインドで足止め有効」
サナがニーナを見る。
「それを今日覚えたなら、来た意味がある」
ニーナは少しだけ笑った。
「はい」
彼らは戻った。
二時間探索。
報酬なし。
けれど、情報は持ち帰る。
琥珀スライム。
酔香蛾。
樽齧り鼠。
魔法が有効。
火は慎重に。
香りは気分を緩める。
足場が良いからこそ、判断が滑る。
その全部を抱えて、五人は琥珀の門を出た。
清水の間で待っていた者たちは、一斉に振り向いた。
「戻った!」
「どうだった!?」
「琥珀の雫は?」
「酒は?」
「魔法使ったのか?」
フィンが手を上げた。
「落ち着いてください。めちゃくちゃ聞かれると、何から言えばいいか分からないです」
カティアが言う。
「まず、生きて戻った。それ以外は後でいい」
クレスが五人を見る。
「二時間探索、帰還。負傷は?」
マイラが答える。
「軽い疲労のみ。治療不要です」
ニーナが小さく言う。
「魔力は半分以上残っています」
カティアが眉を上げる。
「それで戻れたなら上出来だ」
ニーナは少し驚いた。
「魔力を使い切らなくても、いいんですか」
「使い切るまで戦うな。空になってから気づく奴は、帰り道で荷物になる」
ニーナは深く頷いた。
仮受付の職員が記録板を用意する。
マイラは自分の記録を渡した。
「第4層初偵察。二時間探索、帰還。足場安定。香りによる判断鈍化あり。魔法使用有効。火魔法は棚付近では要注意。琥珀の雫には未到達」
クレスが頷く。
「十分だ」
リオが少し悔しそうに言う。
「報酬なしでもですか」
「報酬なしで戻れたから、次がある」
リオは黙った。
それから、頷いた。
「はい」
サナが琥珀の門を見た。
「第4層は、楽じゃない」
フィンも頷く。
「足元は楽なのに、気分が変になります」
ニーナが言う。
「魔法を使えるのが嬉しくて、少し進みたくなりました」
その言葉に、見習い魔術師たちがざわついた。
クレスが彼らを見る。
「魔術師は次から重要になる。だが、魔法が使えることと、進んでいいことは別だ」
カティアが続ける。
「撃てるなら、撃つ前に周りを見ろ。行けそうなら、帰りの分を残せ。気分が良い時ほど、判断を他人に預けるな」
木札に、新しい記録が加えられた。
第4層。
二時間探索、帰還。
リオ。
サナ。
フィン。
マイラ。
ニーナ。
琥珀の雫、未取得。
魔法有効。
香り注意。
新顔の冒険者たちは、その文字を見た。
第4層は、報酬の部屋ではない。
次の訓練場でもある。
それが、少しだけ伝わった。
黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。
【第4層 二時間探索・帰還を確認】
【琥珀スライム討伐】
【酔香蛾討伐】
【樽齧り鼠討伐】
【魔法使用記録を確認】
【恐怖、好奇心、魔法行使欲、帰還意識、判断抑制を獲得】
【獲得DP:312】
【現在DP:2014】
「いい……」
『満足そうね』
「満足してる。魔法を見られた。しかもちゃんと帰ってきた」
『琥珀の雫には届かなかったけれど』
「今日は届かなくていい。むしろ届かなくていい。第4層は、足場が良いぶん心が滑るって分かった。それだけで大収穫」
『魔術師も機能したわね』
「ニーナ、良かったな。水、氷、風、ちゃんと使い分けてた。あれは見てて楽しい」
『嬉しそう』
「嬉しい」
『今度は素直ね』
「魔法が見られたからな」
ヴェルティアは琥珀の門を見ていた。
その横顔は、どこか満足そうだった。
俺は少し笑う。
「ヴェルちゃん、琥珀の雫に届かなくて残念?」
『その呼び方』
「残念?」
『……第4層が機能したことは喜ばしいわ』
「質問に答えてないな」
『高貴なる沈黙よ』
「便利!」
『足元』
「はいはい」
『はいは一回!』
「本当に厳しい!」
俺の足元が、少しだけ沈んだ。
でも、ヴェルティアの口元も少しだけ緩んでいた。
琥珀の雫は、まだ誰も持ち帰っていない。
紅琥珀スライムも、まだ出ていない。
けれど、第4層は動き始めた。
魔法が放たれた。
冒険者たちは香りに惑いかけ、それでも戻った。
最初の偵察としては、十分すぎる。
「次だな」
『ええ』
「次はもっと深く行く。魔法の使い方も増える。香りへの対策も考える。そうやって、琥珀の雫に近づく」
『そして、いつか紅琥珀の雫も』
「お祝いまで保留」
『……覚えているわ』
「忘れそうにないな」
『忘れさせないわ』
「怖いって」
水音が響く。
第1層では、清水が人を迎える。
第2層では、泥が足を鍛える。
第3層では、藻と水音が帰り道を問う。
第4層では、琥珀の香りが心を滑らせる。
足場は良い。
道も広い。
魔法も使える。
だからこそ、帰る判断が試される。
清水の迷宮は、また少しだけ人間の欲を覚えた。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
足場が良くても、心は滑る。
琥珀の雫は、まだ奥です。
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