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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第23話 残して戻る者たち



 琥珀の貯蔵庫の初偵察から、清水の間の木札はまた増えた。


 第4層。


 二時間探索、帰還。


 第4層報酬、未取得。


 魔法有効。


 香り注意。


 その文字の前に、見習い魔術師たちが集まっていた。


「ウォーターバレットが効いたんだって」


「アイスランスで止めたらしいぞ」


「酔香蛾には風がいいって」


「火は?」


「棚の近くでは注意。香りの霧が出るらしい」


「魔法、使えるんだな……」


 今まで清水の迷宮で目立っていたのは、足腰の強さだった。


 第2層では転ばない足。


 第3層では戻る判断。


 だが第4層は違う。


 足場は安定している。


 通路は広い。


 天井も高い。


 魔法が使える。


 その情報は、魔術師たちの顔を明らかに変えた。


 泥で転ばない者だけが強いわけではない。


 藻の迷路で帰れる者だけが役に立つわけでもない。


 第4層では、杖を持つ者にも役目がある。


 その空気の中心に、ニーナがいた。


 本人は、あまり中心に立ちたそうではなかった。


 栗色の髪を少し乱し、杖を両手で抱え、仮受付の横で小さくなっている。


 だが、周りの見習い魔術師たちは放っておかない。


「ニーナ、エアブラストで粉を散らしたんだろ?」


「はい」


「ウィンドカッターも?」


「はい」


「すごいな」


「いえ、あの、必要だったので」


 ニーナは困った顔をした。


 フィンが横から助け舟を出す。


「必要な時に使えるのがすごいんですよ。俺なんか必要な時に笛を吹くだけです」


 マイラが言う。


「笛も必要」


「ありがとう、マイラ。今日は優しい」


「事実」


「優しさの温度が低い」


 サナが木札を見ていた。


「今日は三時間」


 リオが頷く。


「三時間探索、帰還。奥の報酬は狙わない」


 フィンが琥珀の門を見る。


「見えたら?」


 リオは少し黙った。


 それから言った。


「見えても、今日の目的じゃないなら戻る」


 サナが頷く。


「それでいい」


 ニーナも小さく頷いた。


「魔力が残っていても、戻ります」


 マイラが記録板を閉じる。


「今回は、香りが強い地点での反応を見る。魔法を使い切らない。火は棚付近で使わない。帰路印は二重にする」


 仮受付の職員が、その内容を木札の横へ書き足していた。


 第4層仮規則。


 香りが強くなったら停止。


 魔力半分で撤退判断。


 火魔法は棚付近注意。


 帰路印は二重。


 飲食は休憩地点のみ。


 不要物は持ち帰ること。


 最後の一文を見て、フィンが首を傾げた。


「不要物、持ち帰るんですか?」


 カティアが答える。


「当たり前だろ。迷宮に食い残しを撒くな」


「でも、第4層って長いですよね」


「だから食う場所を決めるんだよ」


 クレスが頷く。


「今日は三時間探索だ。長くなる。水と軽食は許可する。ただし、食べながら歩くな。休憩地点を決めて、そこで取る」


 マイラがすぐに記録する。


「第4層では休憩地点を仮設定。飲食時は周囲警戒。不要物は持ち帰り」


 リオが少し顔をしかめた。


「食べた後の包みとか、戻るまで持つのか」


 カティアが睨む。


「嫌なら食うな」


「持ちます」


 即答だった。






 黒い水膜の内側で、俺はその話を聞いていた。


「出たな、ゴミ問題」


『ごみ?』


「食べ終わった包み、空き袋、布切れ、折れた串、割れた瓶。冒険者が増えて長時間探索になると、絶対に出るやつ」


『迷宮内に捨てれば吸収されるわ』


「それはそうなんだけど、勝手にそこら中へ捨てられると見た目が悪い。清水の迷宮としては清潔感も大事」


『迷宮に清潔感を求めるのね』


「生活インフラ迷宮だからな!」


『便利な言葉ね』


「便利に使っていく」


 俺は清水の間の端を見た。


 第1層は、もう水汲み場だけではない。


 仮受付。


 休憩広間。


 木札。


 泥落とし場。


 そして、これからもっと冒険者が増える。


 食事もする。


 休憩もする。


 長く滞在する。


 なら、ゴミを放置させるわけにはいかない。


「ヴェルティア。不要物投入口、作れる?」


『作れるわ』


「場所は第1層と、第4層入口近く。それと第4層内の休憩地点にも小さいやつ」


『入れたものは吸収してDP化ね』


「そう。ゴミ回収、清潔維持、DP取得。一石三鳥」


『貴方、今とても俗っぽい顔をしているわ』


「エコでクリーンな迷宮運営です」


『言い方で綺麗にしようとしているだけね』


「はいはい」


『はいは一回!』


「早い! 今日も判定が早い!」


『礼節よ』


 俺は手を上げた。


「分かりました。一回でいきます」


 表示が浮かぶ。


【第1層設備追加案】


【不要物投入口】


【設置箇所:清水の間、琥珀水紋門付近、第4層休憩地点予定地】


【投入物:迷宮内不要物、食べ残し、破損小物、布片、空容器など】


【効果:吸収・分解・DP変換】


【注意:投入物は返却不可】


【必要DP:90】


「安い!」


『ただの穴ではないけれど、高度な罠でもないわ』


「よし、作ろう」


【DPを90消費します】


【現在DP:2014】


【消費後DP:1924】


【不要物投入口 設置開始】


 清水の間の隅で、壁が静かにくぼんだ。






 最初にそれに気づいたのは、仮受付の職員だった。


「……また増えました」


 疲れた声だった。


 もう慣れてきている。


 慣れたくないが、慣れてきている。


 清水の間の壁に、新しいくぼみができていた。


 丸い穴ではない。


 腰の高さにある、石の口のような投入口。


 その上に、水紋文字が浮かぶ。


 不要物はこちらへ。


 迷宮内に捨てるな。


 入れたものは返らない。


 冒険者たちが集まる。


「なんだこれ」


「ゴミ入れか?」


「迷宮にゴミ箱?」


「便利じゃないか」


 フィンが近づく。


「本当に入れていいんですかね」


 カティアが近くにあった折れた木片を拾った。


「試すか」


 投入口へ入れる。


 木片は、音もなく消えた。


 水紋文字が一瞬だけ揺れる。


 返却不可。


 フィンが目を丸くする。


「消えた」


 マイラが記録する。


「不要物投入口。投入物は消失。返却不可」


 リオが少し考え込む。


「便利だな」


 サナが言う。


「便利すぎる」


 クレスが投入口を見る。


「迷宮が吸収している可能性が高い」


 仮受付の職員が顔を上げる。


「吸収……ということは」


 カティアが腕を組む。


「これ、迷宮を育てる手助けになるんじゃねえのか」


 空気が、ほんの少し止まった。


 便利だ。


 とても便利だ。


 食べ残しも、破れた袋も、折れた木片も、迷宮の中に捨てずに済む。


 清水の間が汚れない。


 長時間探索の後も、ゴミを持ったまま村へ戻らなくていい。


 だが、入れたものは迷宮が吸収する。


 もしかしたら、迷宮の力になる。


 冒険者たちは顔を見合わせた。


 フィンが小さく言う。


「助かるけど、なんか……」


 マイラが続ける。


「餌をあげている感じがする」


「言い方!」


 リオが苦笑する。


「でも、散らかすよりはいい」


 サナが頷く。


「捨てるなら、ここ」


 クレスも言う。


「迷宮が吸収する可能性は記録する。ただし、清潔維持と安全確保を優先する。不要物を通路に捨てることは禁止だ」


 カティアが冒険者たちを睨む。


「迷宮を育てるのが嫌なら、そもそも迷宮で飯を食うな。食うなら捨て方を守れ」


 それで決まった。


 便利さは、少し怖い。


 だが、使わないほど不便でもない。


 清水の迷宮は、そういうものになりつつあった。






 黒い水膜の内側で、俺は両手を合わせた。


「ありがたい」


『祈っているの?』


「ゴミからDPが入る世界に感謝してる」


『だいぶ俗っぽい祈りね』


「でも大事だぞ。冒険者が増えればゴミも増える。ゴミを放置させず、迷宮が吸収する。清潔。便利。成長。完璧」


『人間側は少し複雑そうだったけれど』


「それも含めていい。便利だけど怖い。助かるけど、迷宮を育ててるかもしれない。その感覚、大事」


『生活インフラと迷宮の怖さが同居するわけね』


「そう。それが清水の迷宮」


『自分で言うと少し得意げね』


「得意です」


 ヴェルティアは少しだけ笑ったように見えた。


 最近、彼女の表情が分かるようになってきた気がする。


 気のせいではないと思いたい。






 第4層三時間探索は、昼前に始まった。


 参加者は前回と同じ。


 リオ。


 サナ。


 フィン。


 マイラ。


 ニーナ。


 ただし、装備は少し変わっている。


 布印は二重。


 水袋。


 軽食。


 小さな不要物袋。


 ニーナは杖の先に布を巻いていた。


 火魔法を撃つ時、杖先の向きを自分で確認するためらしい。


 フィンは骨笛を胸元で確認する。


「一回停止、二回撤退、三回集合。香りが強くなったら、俺が迷っても誰か止めてください」


 サナが言う。


「迷ったら止める」


「頼もしいけど怖い」


 リオが琥珀の門を見る。


「行こう」


 水紋が開いた。


 五人は琥珀の貯蔵庫へ入った。






 第4層は、前と同じようで、前とは違った。


 足場は相変わらず良い。


 通路は広い。


 魔法は撃てる。


 だが、前回の記録がある分、五人の目は少し違っていた。


 リオは歩きやすさに浮かれない。


 サナは全員の足と顔を見る。


 フィンは香りが強くなるたび、笛に指をかける。


 マイラは記録を絞る。


 ニーナは杖を構える前に、必ず棚と仲間の位置を見る。


 三十分地点。


 琥珀スライムが二体出た。


 ニーナはすぐに撃たなかった。


「右は水、左は氷で止めます」


 宣言してから杖を振る。


「ウォーターバレット」


 右のスライムが弾かれる。


「アイスランス」


 左のスライムが床に縫い止められる。


 リオとサナがそれぞれ追撃する。


 フィンは後方を見て、樽棚の影から出かけた小さな鼠を見つけた。


「右後ろ、鼠!」


 樽齧り鼠が布印へ走る。


 ニーナは火を撃たない。


「アイスバインド」


 床の薄氷が鼠の足を鈍らせる。


 フィンが短剣の柄で叩く。


 消える。


 マイラが短く記録する。


「対応速度、前回より早い」


 ニーナは少しだけ笑った。


「火を撃たない練習、できました」


 リオが頷く。


「それ、かなり大事だな」


 ニーナは照れたように杖を抱え直した。






 黒い水膜の内側で、俺は頷いていた。


「いいな。ちゃんと学んでる」


『火を撃たなかったわね』


「偉い。ファイアボルト撃ちたいだろうに」


『貴方なら撃ちたいの?』


「撃ちたい」


『でしょうね』


「でも撃たないのが成長。ニーナは偉い」


『魔法を見たいと言っていたわりに、撃たないことも褒めるのね』


「魔法は見たい。でも判断も見たい」


『欲張りね』


「迷宮主なので」


 ヴェルティアは琥珀の門の奥を見ていた。


 昨日の試飲の記憶が残っているのか、少しだけ視線が柔らかい。


 俺は言う。


「ヴェルちゃん、今日は奥の報酬に届かないかもよ」


『分かっているわ』


「残念?」


『第4層が成長しているなら、それでいいわ』


「本音は?」


『高貴なる沈黙よ』


「便利だな、それ」


『足元』


「ごめんなさい」


 沈んだ。






 一時間半地点。


 前回、引き返した分かれ道に着いた。


 左は樽棚が多い道。


 右は広くて明るい道。


 前回よりも、香りの違いが分かる。


 右の方が、明らかに甘い。


 リオは右を見た。


 フィンも右を見た。


 ニーナも、ほんの少しだけ目を奪われた。


 サナが言う。


「確認」


 全員が足を止めた。


 フィンが笛を一回鳴らす。


 ピー。


 停止。


 マイラが記録板を見る。


「右は香りが強い。通路は広い。進みやすそうに見える。危険感覚が下がる可能性あり」


 リオが言う。


「今日は右へ入る。ただし、二十分進んだら一度停止」


 サナが頷く。


「合図が遅れたら戻る」


「分かった」


 ニーナは杖を握り直す。


「魔力は七割残っています」


 マイラが聞く。


「気分は?」


 ニーナは少し考えた。


「……少し、試したいです」


「何を?」


「広い場所で、もう少し強い魔法を」


 口にした瞬間、ニーナ自身がはっとした。


「今の、危ないですね」


 サナが頷く。


「危ない」


 フィンが苦笑する。


「でも言えたから大丈夫そう」


 リオが言う。


「言えなかったら危なかったな」


 ニーナは小さく息を吐いた。


「はい」


 五人は右へ進んだ。






 右の通路は、確かに進みやすかった。


 床は平ら。


 棚の間隔も広い。


 魔法の射線も通る。


 けれど、香りが濃い。


 胸の奥が温かくなるような感覚がある。


 悪い気分ではない。


 むしろ、良い。


 それが危なかった。


 二十分。


 停止するはずだった。


 だが、誰もすぐには笛を鳴らさなかった。


 数歩。


 ほんの数歩だけ、進んだ。


 サナが足を止めた。


「今、全員遅い」


 短い一言だった。


 だが、その場の空気が締まった。


 フィンが笛を握りしめる。


「……俺、鳴らすの遅れました」


 マイラが息を吐く。


「私も記録を見るのが遅れた」


 リオが奥を見ていた目を戻す。


「俺も、止まることを忘れかけた」


 ニーナは杖を見下ろす。


「私も、次の敵が出たら何を撃とうか考えていました」


 サナは全員を見た。


「戻る?」


 リオは迷った。


 奥には、薄い琥珀色の光が見える。


 宝箱ではないかもしれない。


 でも、何かがあるように見えた。


 見えるから、進みたくなる。


 リオは拳を握る。


「まだ戻らない。ただし、ここから十分だけ。十分で何もなければ戻る」


 マイラが記録する。


「香気濃度上昇地点。停止判断が遅れる。十分制限」


 フィンが笛を持ち直す。


「次、俺が鳴らします」


 ニーナも頷く。


「魔法は必要な時だけ」


 サナは短く言った。


「見てる」


 それが一番頼もしかった。






 十分後。


 奥の琥珀色の光は、少しだけ近づいた。


 けれど、正体はまだ分からなかった。


 通路の先に、低い棚が並ぶ部屋がある。


 その奥で、琥珀色の滴が落ちている。


 宝箱ではない。


 だが、何かの目印に見えた。


 リオの顔に悔しさが浮かぶ。


「戻る」


 今回は、自分から言った。


 フィンがすぐに笛を二回鳴らす。


 ピー、ピー。


 撤退確認。


 ニーナは杖を下げる。


「魔力は残っています。でも、判断が遅れています」


 マイラが頷く。


「撤退理由として十分」


 サナが言う。


「帰れるうちに帰る」


 五人は戻り始めた。


 香りは、帰り道でも足に絡む。


 もう少し見たかった。


 もう少し進みたかった。


 あと十分なら。


 その感情が、何度も浮かぶ。


 そのたびに、フィンが笛に触れる。


 サナが全員を見る。


 マイラが時間を見る。


 ニーナが杖を下げたまま歩く。


 リオは前だけではなく、後ろも見る。


 帰る。


 戻る。


 持ち帰るのは報酬ではない。


 情報だ。






 途中、酔香蛾が二体現れた。


 ニーナは慌てなかった。


「エアブラスト」


 粉を散らす。


「ウィンドカッター」


 一体を落とす。


 もう一体は高く逃げる。


 フィンが笛を一回鳴らす。


 停止。


 リオは追わない。


 サナも追わない。


 ニーナも撃ち足さない。


 蛾は奥へ逃げた。


 フィンが言う。


「追わないんですね」


 リオが答える。


「帰る途中だ」


 マイラが短く記録する。


「帰還中は討伐より隊列維持」


 ニーナが小さく頷いた。


「撃てそうでした。でも、撃たなくていい場面でした」


 サナが見る。


「それでいい」


 ニーナは少しだけ笑った。


 前回より、確実に判断が早くなっていた。






 琥珀の門から五人が戻った時、清水の間はすぐに静まった。


 誰も、小瓶を持っていない。


 第4層の報酬はない。


 だが、五人の顔は、前回より深かった。


 疲労だけではない。


 何かを見て、戻ってきた顔だった。


 クレスが聞く。


「三時間探索、帰還。負傷は?」


 マイラが答える。


「負傷なし。軽い疲労。香りの強い地点で判断遅延あり。第4層報酬には未到達」


 カティアが目を細める。


「判断遅延?」


 フィンが正直に言った。


「笛を鳴らすのが遅れました」


 ニーナも続ける。


「私も、魔法を撃つことを先に考えていました」


 リオが言う。


「俺も、止まる予定を忘れかけました」


 サナが短く言う。


「全員遅かった」


 カティアは黙って聞いていた。


 それから言う。


「それに気づいて戻ったなら、今日は勝ちだ」


 リオが驚いたように顔を上げる。


「報酬なしでもですか」


「報酬を持って死ぬより、手ぶらで戻る方がましだ」


 クレスも頷く。


「次は踏破を狙える。ただし、香りの強い地点では必ず停止確認を入れる。合図役を一人に任せすぎるな」


 マイラが記録する。


「停止確認、複数化」


 ニーナが小さく言う。


「魔力は残して戻る。撃てるから撃たない、も必要」


 カティアが頷く。


「分かってるならいい。魔術師はこれから必要になる。だからこそ、調子に乗るな」


 ニーナは深く頭を下げた。


「はい」


 木札に、新しい記録が加えられた。


 第4層。


 三時間探索、帰還。


 第4層報酬、未取得。


 香り強化地点あり。


 停止判断遅延。


 魔法有効。


 帰還成功。


 冒険者たちは、その文字を見た。


 第4層の報酬には、まだ届かない。


 だが、近づいている。


 それは誰の目にも分かった。






 黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。


【第4層 三時間探索・帰還を確認】


【香気濃度上昇地点への到達を確認】


【停止判断遅延を確認】


【琥珀の雫 到達圏内】


【恐怖、好奇心、魔法行使欲、帰還意識、判断抑制、報酬欲を獲得】


【獲得DP:426】


【現在DP:2350】


「いい。かなりいい」


『琥珀の雫には届かなかったわね』


「でも到達圏内って出た。次は狙える」


『嬉しそうね』


「嬉しい。魔法も見られた。判断の遅れも出た。戻れた。第4層、ちゃんと階層として機能してる」


『琥珀の雫も近いわ』


 ヴェルティアの声が、ほんの少しだけ柔らかい。


 俺は横目で見る。


「ヴェルちゃん、そわそわしてる?」


『していないわ』


「琥珀の雫、楽しみ?」


『報酬の流通を確認したいだけよ』


「飲みたい?」


『確認よ』


「はいはい」


『はいは一回!』


「そこは絶対に逃さないな!」


『礼節よ』


 俺は笑った。


 ヴェルティアも、少しだけ口元を緩めた。


 たぶん。


 いや、これはもう笑っている。






 第4層から戻ったあと、リオたちは休憩広間で水を飲んだ。


 清水は、相変わらず澄んでいた。


 飲むと、喉の奥がすっと通る。


 疲れが消えるわけではない。


 傷が塞がるわけでもない。


 けれど、体の重さが少しだけ軽くなる。


 軽い不調がほどけるような、そんな水だった。


 フィンが水を飲み、息を吐く。


「第4層のあとに飲むと、めちゃくちゃありがたいですね」


 マイラが頷く。


「香りが残っていた感じが薄れる」


 ニーナも水を飲んだ。


「頭が少し戻る感じがします」


 リオは木札を見る。


 第4層。


 三時間探索、帰還。


 その下に、第3層の記録がある。


 踏破、帰還。


 紅肌の雫。


「なあ」


 リオが言った。


「第3層、行かないか」


 フィンが瞬きをする。


「今からですか?」


「今日は無理だ。明日か、明後日」


 サナがリオを見る。


「紅肌?」


「ああ」


 リオは正直に頷いた。


「第4層に行くにも金がいる。装備も、布印も、食料も、魔道具も。Dランク扱いになったからって、金が増えるわけじゃない」


 フィンが遠い目をした。


「骨笛も予備が欲しいです」


「そこも金か」


「地味に」


 マイラは少し黙った。


 それから、記録板を抱え直す。


「売る分とは別に、一本だけ……自分で使ってみたい」


 声は小さかった。


 だが、周りには聞こえた。


 フィンが何か言いかける。


 サナがフィンを見る。


 フィンは口を閉じた。


 正解だった。


 ニーナがさらに小さな声で言う。


「私も、少し……気になります」


 マイラは少しだけ頬を赤くした。


「効果の確認。自分の体で」


 フィンが慎重に言葉を選ぶ。


「確認、大事ですね」


 マイラがフィンを見る。


「今、気を使った?」


「使いました」


「よし」


「よしなんだ」


 リオが笑った。


「じゃあ、第3層にも行こう。紅肌の雫を取りに。売る分と、使う分」


 サナが頷く。


「第3層は油断しない」


「もちろん」


 ニーナが言う。


「私は第4層のためにも、資金が欲しいです。魔力回復薬も、安くないので」


 フィンが頷く。


「現実的!」


「現実です」


 冒険は、欲だけでは続かない。


 金がいる。


 装備がいる。


 食料がいる。


 そして、ほんの少し、自分のための報酬も欲しい。


 紅肌の雫は、再び彼らの目標になった。






 その話を聞いていた周りの冒険者たちも、少しざわついた。


「第4層行ける奴らでも、第3層に戻るのか」


「紅肌の雫、まだ売れるしな」


「自分で使うって手もあるのか」


「そりゃあるだろ」


「でも、一本売れば大銀貨だぞ」


「だから迷うんだろ」


 仮受付の職員は、その会話も記録していた。


 第4層開放後も、第3層報酬の需要は低下せず。


 紅肌の雫は、資金源および自己使用目的として継続需要あり。


 カティアがそれを覗き込む。


「相変わらず字が硬い」


「記録ですから」


「まあ、内容は合ってる」


 クレスは静かに言う。


「第3層が訓練と収入源になる。第4層が次の挑戦になる。悪くない流れだ」


 メリダが笑った。


「臆病者講習を受けて、紅肌を稼いで、酒っぽい報酬を目指す。冒険者って分かりやすいねえ」


 カティアが言う。


「分かりやすい欲ほど事故る。忘れるなよ」


 その言葉に、周りの冒険者たちは真面目に頷いた。






 黒い水膜の内側で、俺はうんうんと頷いていた。


「いいな。第4層に行ったあと、第3層にも戻る」


『なぜ嬉しそうなの?』


「通う理由が増えたから。第4層だけじゃない。紅肌の雫もまだ欲しい。金も欲しい。自分でも使いたい。第3層が死なない」


『階層が役割を持つのね』


「そう。第1層は生活と休憩。第2層は基礎訓練。第3層は収入と昇格と美容。第4層は酒と魔法と欲の制御」


『美容、混ぜ方が雑では?』


「でも合ってるだろ」


『否定はしないわ』


「女性陣が自分用に欲しがるの、すごく自然だしな。売るだけじゃない。使いたい。これがいい」


『人間は、自分に返ってくる報酬に弱いわ』


「そりゃそうだ」


 俺は清水の間を見る。


 紅肌の雫を欲しがる冒険者。


 第4層の酒っぽい報酬を目指す冒険者。


 水を汲む村人。


 食事をする者。


 不要物投入口を恐る恐る使う者。


 迷宮が、ただの穴ではなくなっていく。


 人が通う場所になっていく。


 そして、人が通えば、必ず別のものも来る。


 商人。


 冒険者。


 文官。


 そして。






 夕方。


 清水の間の空気が、少し変わった。


 冒険者の声が一瞬だけ小さくなる。


 村人たちが入口の方を見る。


 白い法衣を着た男が、清水の間へ入ってきた。


 年は三十前後。


 派手な装飾はない。


 だが、胸元には小さな聖印が下がっている。


 旅装の上に法衣を羽織った、巡回神官のような姿だった。


 彼の後ろには、若い助祭らしき少年が一人。


 少年は少し緊張した顔で、清水の湧く場所を見ていた。


 カティアの目が細くなる。


 クレスも静かに立ち上がった。


 オルド村長が慌てて前に出る。


「神官様、こちらへ」


 白い法衣の男は、清水の前で足を止めた。


 水面を見る。


 周囲を見る。


 冒険者たちの木札を見る。


 そして、静かに言った。


「この水について、確認したいことがあります」


 清水の間が、静かになった。






 黒い水膜の内側で、俺は固まった。


「……来た」


『来たわね』


「宗教方面」


『遅いくらいよ』


「いや、来なくてもよかったけど!?」


『軽い浄化作用のある清水よ。教会が無視する方が不自然だわ』


「分かる。分かるけど、面倒な匂いがする」


『琥珀とは違う香りね』


「うまいこと言ってる場合じゃない!」


 白い法衣の男は、清水を見つめている。


 敵意はない。


 けれど、ただの見物でもない。


 確認。


 その言葉が、やけに重く聞こえた。


 清水の迷宮に、また新しい足音が入ってきた。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


琥珀の奥へ進む足は、紅肌の雫にも戻っていきました。


そして今度は、白い法衣の足音です。


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