第24話 誰の祝福でもない水
白い法衣の男が、清水の前で足を止めた。
清水の間は、静かだった。
いつもなら、水を汲む村人の声がある。
装備を直す冒険者の声がある。
フィンの軽口も、カティアの低い叱り声もある。
だが今は、その全部が少しだけ小さくなっていた。
理由は分かりやすい。
教会の人間が来たからだ。
白い法衣の男は、三十前後に見えた。
旅装の上に簡素な法衣を羽織り、胸元には小さな聖印。
髪は淡い茶色で、目つきは穏やかだ。
だが、清水を見る目は油断していない。
その後ろには、若い助祭が一人。
こちらはまだ十代後半だろう。
緊張で背筋を伸ばしすぎて、逆に少しぎこちない。
オルド村長が、男の前で頭を下げた。
「エリオ神官様。こちらが、清水の迷宮です」
エリオと呼ばれた神官は、ゆっくり頷いた。
「案内に感謝します、オルド村長」
声は穏やかだった。
だが、清水の間にいる者たちの緊張はほどけない。
クレスが一歩前へ出る。
「私は冒険者ギルド所属、Bランクのクレスです。現在、この場の利用状況を仮記録しています」
「お噂は聞いています」
エリオ神官は、クレスにも丁寧に頭を下げた。
「私は巡回神官エリオ。こちらは助祭のトマです。今日は、この水について確認に参りました」
カティアが腕を組んだ。
「確認、ね」
声には警戒がある。
エリオ神官はそれを咎めなかった。
「当然、警戒されるでしょう。教会が来たとなれば、村の水場を取り上げるのではないかと不安に思われるのも自然です」
その言葉に、村人たちが少しざわついた。
エリオ神官は続ける。
「ですが、今日は奪いに来たわけではありません。まず、何が起きているのかを見に来ました」
助祭トマが緊張した声で言う。
「ルスカ村で、清水を飲んだ者の軽い不調が和らいだと報告がありました。泥汚れが落ちやすいとも。教会として、祝福水かどうか確認する必要があると判断されました」
カティアが目を細める。
「祝福水なら、教会のもんだって言うつもりか?」
トマがびくりと肩を跳ねさせた。
エリオ神官が静かに首を横に振る。
「それを決めるために来たのではありません。むしろ逆です。教会の祝福ではないものを、教会の名で囲い込むことはできません」
クレスがエリオ神官を見た。
オルド村長も、少しだけ息を吐く。
それでも緊張は残っていた。
教会は強い。
貴族ほどではなくとも、村にとっては十分に大きな存在だ。
水。
浄化。
不調の緩和。
その言葉が並べば、教会が関心を持つのは当然だった。
黒い水膜の内側で、俺は頭を抱えていた。
「来た……宗教方面、ついに来た……」
『遅いくらいよ』
隣のヴェルティアは落ち着いている。
黒いドレス姿で水膜の向こうを見ているその顔は、どこか楽しそうですらあった。
「楽しそうだな、ヴェルティア」
『人間が、清い水にどんな名前を貼りたがるのかを見るのは面白いわ』
「こっちは面白がってる場合じゃないんだけど。神殿化とかされたら困るぞ。水場の横に祭壇置かれて、祈りの列ができて、冒険者の導線がぐちゃぐちゃになる」
『発想が実務的ね』
「生活インフラ迷宮なので」
『便利な言葉ね』
「はいはい」
『はいは一回!』
「そこは今日も厳しい!」
『礼節よ』
足元は沈まなかった。
今日はまだ許されたらしい。
いや、分からない。
ヴェルティアの判定はたまに厳しい。
俺は水膜の向こうを見た。
「でも、あの神官、いきなり奪いに来た感じじゃないな」
『ええ。少なくとも、目は見ているわ』
「見ている?」
『自分の信じたい答えだけを見に来た者ではない、ということよ』
「ヴェルティア基準だと、かなり評価高くない?」
『まだ水面に足先を入れた程度ね』
「厳しい」
エリオ神官は、清水の前に膝をついた。
胸元の聖印に手を添える。
助祭トマも慌ててその横に膝をついた。
清水の間の視線が、二人に集まった。
エリオ神官は、短く祈りを唱えた。
教会で聞く祈りの言葉だ。
村人の何人かは、自然と頭を下げる。
だが、水は変わらなかった。
ぽたり。
ぽたり。
水音は、いつも通り。
水量も増えない。
光もしない。
聖印に反応するような輝きもない。
助祭トマが戸惑ったように水面を見る。
「……反応が、ありません」
エリオ神官は頷いた。
「教会式の祝福反応はない」
「祝福水ではない、ということでしょうか」
「少なくとも、教会が与えた祝福ではありません」
トマは少し困った顔をした。
その時、近くにいたミルが、小さな桶を抱えて進み出た。
ミルの母エナは、以前より顔色が良くなっている。
だが、まだ完全に丈夫になったわけではない。
ミルは少し緊張した顔で、清水を汲もうとした。
水は、普通に流れた。
ミルが桶を置くと、水はちょうどいい量で満ちていく。
こぼれかけた水は、以前と同じように桶の内側へ戻った。
トマが目を見開く。
「祈りには反応しないのに……」
エリオ神官は水の流れをじっと見ていた。
「必要には反応する」
短い言葉だった。
ミルは桶を抱えて、エリオ神官に頭を下げる。
「お母さんの分です」
「どうぞ。邪魔をしてすみません」
エリオ神官は場所を空けた。
ミルは少しほっとした顔で下がっていく。
その途中、足元の泥で滑りかけた助祭トマの袖が、清水の水盤に触れた。
「あっ」
トマが慌てて袖を上げる。
旅の泥で汚れていた白い布が、水に濡れた部分だけ少し明るくなっていた。
完全に新品のようになったわけではない。
だが、泥汚れは薄く落ちている。
トマは息を呑んだ。
「清めの力は、あります」
エリオ神官は頷く。
「ええ。あります」
「では、やはり祝福では」
「決めつけてはいけません」
エリオ神官の声は穏やかだったが、少しだけ強くなった。
「清める力があることと、それが教会の祝福であることは同じではありません」
トマは口を閉じた。
エリオ神官は清水を見る。
「この水は、我々の祈りで増えません。我々の聖印に従いません。ですが、困っている者には流れる。汚れには働く。軽い不調を和らげることもあるのでしょう」
オルド村長が低く言う。
「では、この水は何なのでしょう」
「迷宮の水です」
エリオ神官は、静かに答えた。
「少なくとも、今ここで私が言えるのはそれだけです」
清水の間に、小さなざわめきが戻った。
教会の水ではない。
神官がそう言った。
その意味は大きかった。
黒い水膜の内側で、俺は思わず拳を握った。
「よし! 分かってくれた!」
『人間にしては、早かったわね』
「ヴェルティア、本当に基準が高いな」
『祈って反応しなかった時点で、自分たちのものではないと判断した。悪くはないわ』
「かなり良識派だろ、あの神官」
『現場に来る者としては有能ね。上が同じとは限らないけれど』
「やめて。その一言で胃が重くなる」
『迷宮主に胃があるの?』
「気分的な胃がある」
『面倒な構造ね』
俺はエリオ神官を見る。
敵意はない。
だが、見ている。
水だけではない。
木札。
仮受付。
冒険者の動き。
不要物投入口。
全部を見ている。
「ただの聖職者じゃないな」
『記録する目ね』
「その目、こっちは怖いんだけど」
『見られる迷宮になったということよ』
「喜んでいいのか困るやつ!」
その時、エリオ神官の視線が、清水の間の隅で止まった。
不要物投入口だ。
助祭トマも、それに気づいた。
「エリオ神官。あれは……?」
石の口のような投入口。
その上には短い水紋文字。
不要物はこちらへ。
迷宮内に捨てるな。
入れたものは返らない。
トマが少し顔をこわばらせる。
「穢れを受け入れる場所、でしょうか」
黒い水膜の内側で、俺は即座に言った。
「ゴミ箱です」
当然、外には届かない。
エリオ神官は投入口へ近づいた。
フィンがちょうど、食べ終わった軽食の包みを持っていた。
「あの、これ入れていいやつですか?」
マイラが言う。
「不要物。返却不可」
「そうだった」
フィンは少し迷ってから、包みを投入口に入れた。
包みは音もなく消えた。
トマが息を呑む。
「消えました」
カティアが横から言う。
「便利だろ。便利すぎて気持ち悪いが」
「気持ち悪い、ですか」
「迷宮が食ってるかもしれねえんだぞ。気持ち悪いだろ」
トマは言葉に詰まった。
エリオ神官は投入口を見つめる。
「清める水と、不要物を呑む口が同じ迷宮の中にある」
その言葉に、周囲が少し静かになった。
「これは、聖地と呼ぶにはあまりに迷宮です」
エリオ神官はそう言った。
否定ではない。
侮蔑でもない。
ただ、見たままの判断だった。
清い水がある。
困った者を助ける。
軽い清めもある。
だが同時に、不要物を呑み込む。
冒険者を試す。
報酬で欲を誘う。
人の判断を測る。
ここは、教会の庭ではない。
迷宮だ。
黒い水膜の内側で、俺はゆっくり息を吐いた。
「そう、それ。そこを分かってくれるの、助かる」
『清いだけの場所ではないもの』
「うん。聖地扱いされたら困る。ここは助けるけど、試す。水は出すけど、全部を許すわけじゃない」
『人間が迷宮を管理するのではない』
「迷宮が人間を選ぶ」
俺がそう言うと、ヴェルティアは少しだけ満足そうに頷いた。
『忘れていないようね』
「忘れないよ」
『ならいいわ』
水膜の向こうでは、エリオ神官が今度は木札を見ていた。
第2層の記録。
第3層の記録。
紅肌の雫。
第4層の記録。
酒っぽい報酬、未取得。
魔法有効。
香り注意。
教会の人間が見るには、なかなか混沌としている木札だ。
エリオ神官は、紅肌の雫の記録の前で足を止めた。
「こちらが、噂に聞いた赤い雫ですね」
仮受付の職員が頷く。
「はい。第3層の踏破報酬です」
「病を治すものですか」
その問いに、マイラが一歩前へ出た。
「違います」
即答だった。
エリオ神官はマイラを見る。
「あなたは?」
「マイラ。冒険者です。治癒魔法を使います。紅肌の雫の記録もしています」
「説明を聞いても?」
「はい」
マイラは記録板を開いた。
「紅肌の雫は、病の治療薬ではありません。重傷も治しません。呪いも解きません。若返りもしません」
周囲の冒険者たちが少しだけ苦笑する。
何度も聞かされている説明だ。
マイラは続けた。
「効果は、顔色、唇の血色、軽い肌荒れ、手指の乾燥、疲れた印象の改善。本人の状態を少し整えるものです。取得後、時間経過で効果が弱まります」
エリオ神官は真剣に聞いていた。
「教会治療の代替ではない」
「はい」
「病人に飲ませて、治ると宣伝してはいけない」
「はい」
マイラははっきり頷いた。
「ただ、疲れた顔や荒れた肌を気にする人には、価値があります」
エリオ神官は少しだけ微笑んだ。
「それは、そうでしょうね」
カティアが片眉を上げる。
「分かるのかよ」
「人は、鏡の前でも救いを求めます」
その一言に、清水の間が少し静かになった。
マイラは記録板を抱え直す。
ニーナが少しだけ自分の頬に触れた。
サナは何も言わない。
フィンも、今回は茶化さなかった。
エリオ神官は続ける。
「教会としては、これを治療薬として扱うことはできません。ですが、商人や貴族女性が騒ぐ理由は理解できます」
仮受付の職員が慌てて記録する。
神官確認。
紅肌の雫、教会治療の代替ではない。
美容および体調印象改善の報酬として扱う。
カティアが職員の記録を見て、ぼそりと言う。
「また字が硬い」
「記録ですから」
「知ってる」
エリオ神官は苦笑した。
その後、エリオ神官は清水を一口飲んだ。
祈ってからではない。
ただ、旅人として。
木の杯に注がれた水を、ゆっくり飲む。
彼は目を閉じた。
しばらく沈黙した。
そして、息を吐く。
「清い」
短い感想だった。
助祭トマも水を飲む。
その表情が少しだけ緩んだ。
「旅の疲れが、少し薄くなる感じがします」
「ええ」
エリオ神官は頷く。
「ただし、奇跡と呼ぶには早い。これは継続して観察が必要です」
オルド村長が不安そうに尋ねる。
「神官様。この水は、村で使い続けてよいのでしょうか」
エリオ神官はオルドを見る。
「私の判断では、禁じる理由はありません。むしろ、今この村から清水を取り上げる方が害になるでしょう」
村人たちの顔に、安堵が広がった。
だが、エリオ神官はそこで終わらせなかった。
「ただし、報告は上げます」
空気が、また少し固くなる。
大地の内側の声が聞こえるわけではないが、もし聞こえていたら、たぶんこうだった。
そこは上げるのか。
実際、俺はそう思っていた。
黒い水膜の内側で、俺は額を押さえた。
「報告は上げるのか……!」
『当然でしょう』
「分かってた。でも言われるとしんどい!」
『現場の神官が隠した方が、後で面倒になるわ』
「それも分かる!」
『なら受け入れなさい』
「受け入れたくない現実ってあるんだよ」
『人間は面倒ね』
「元人間なので!」
水膜の向こうで、エリオ神官は静かに清水へ向き直った。
「この水を、教会の名で奪うことはしません」
エリオ神官の声は、清水の間にまっすぐ響いた。
「少なくとも、私の報告ではそう記します。これは教会が与えた祝福水ではない。教会の祈りで支配できる水でもない。清水の迷宮に属する水である、と」
オルド村長が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要です。見たままを記すだけです」
エリオ神官は、少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、上がどう判断するかは分かりません」
その言葉で、村人たちの安堵は少しだけ引き戻された。
クレスが言う。
「今後、教会から追加の調査が来る可能性があるということですね」
「あります」
「敵対的なものですか」
「分かりません。少なくとも、私は敵対すべきではないと報告します」
カティアが低く言った。
「上の連中がそれを聞くとは限らねえ」
「その通りです」
エリオ神官は否定しなかった。
だからこそ、言葉に重みがあった。
「ですが、現場で見た者として、私はこう記します。この場所は、教会の祭壇ではない。村の井戸でもない。商人の倉庫でもない。冒険者の訓練場であり、村人の水場であり、そして何より、迷宮であると」
清水の間に、水音が響いた。
ぽたり。
ぽたり。
誰もすぐには話さなかった。
その沈黙の中で、助祭トマが小さく清水に頭を下げた。
祈りではない。
礼だった。
水は、変わらず流れていた。
黒い水膜の内側で、表示が浮かんだ。
【第1層 教会関係者による確認行動を検知】
【祈りへの反応なし】
【聖印への反応なし】
【必要者への清水供給を継続】
【軽度浄化作用を確認されました】
【不要物投入口を確認されました】
【紅肌の雫 治療薬ではないと外部認識されました】
【祈り、疑念、畏れ、記録欲、線引きへの理解を獲得】
【獲得DP:96】
【現在DP:2446】
「教会確認でもDP入るんだな」
『ここは迷宮の内側だもの。祈りも疑念も畏れも、流れれば入るわ』
「祈りまでDPになるの、なんか罰当たり感がある」
『迷宮だもの』
「便利な言葉だなあ」
『事実よ』
俺は清水の間を見る。
エリオ神官は、まだ清水の前に立っている。
敵ではない。
味方とも言い切れない。
でも、見たものを見たまま記す人間だ。
それは、この世界ではたぶん貴重なのだろう。
「ひとまず、最悪の流れじゃなくて良かった」
『ええ』
「でも、報告は上がる」
『ええ』
「次は教会の上役とか来るのかな」
『その可能性はあるわね』
「やめて!?」
ヴェルティアは、少しだけ笑った。
高貴なる笑み。
たぶん、本人はそう言うだろう。
俺には少し意地悪そうに見えた。
清水の間には、白い法衣の足跡が残った。
水は、誰の祝福でもない。
だが、清い。
それだけで、人間は名をつけたがる。
祈りたがる。
欲しがる。
守ろうとする。
奪おうとする。
清水の迷宮は、また一つ、人間社会の厄介な扉を開けてしまった。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
清水は、教会の祈りでは増えませんでした。
けれど、その価値を見られた以上、静かなままではいられません。
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