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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第25話 赤と琥珀の帰還



 教会の確認が入った翌朝。


 清水の間は、いつもより少しだけ落ち着かない空気だった。


 水音は変わらない。


 ぽたり。


 ぽたり。


 清水はいつも通り流れている。


 村人たちも水を汲みに来る。


 冒険者たちも装備を整える。


 仮受付の職員も、眠そうな顔で木札を確認している。


 だが、その横に白い法衣の二人がいた。


 巡回神官エリオ。


 助祭トマ。


 二人は、昨日の確認だけで帰らなかった。


 もう少し、清水の間の動きを見たいらしい。


 ただし、口出しはしない。


 エリオ神官は水場と木札を静かに見ている。


 トマは緊張しながら、村人が清水を汲む様子や、冒険者が装備を整える様子を記録していた。


 それだけなのに、見られている側は妙にそわそわする。


 フィンが小声で言った。


「教会の人がいると、なんか背筋が伸びますね」


 マイラが答える。


「悪いことしてなくても?」


「してなくても」


 サナが言う。


「背筋が伸びるなら、いい」


「前向きな受け取り方」


 リオは木札を見ていた。


 第4層。


 三時間探索、帰還。


 第4層報酬、未取得。


 その下に、第3層の記録が並ぶ。


 踏破、帰還。


 紅肌の雫。


 昨日、彼らは第4層の奥へ進んだ。


 だが、まだ報酬には届いていない。


 今日は違う。


 向かうのは第4層ではなく、第3層。


 目的は紅肌の雫だった。






 黒い水膜の内側で、俺は白い法衣の二人を見ていた。


「見られてる……」


『見られる価値がある迷宮になったということよ』


「そう言われると嬉しいような、怖いような」


『両方でいいのではなくて?』


「まあ、そうなんだけど。教会が見てる中で紅肌の雫を取りに行くの、ちょっと緊張するな」


『治療薬ではないと、昨日説明していたでしょう』


「マイラがちゃんと説明してくれたからな。助かった」


『あの娘は記録が上手いわ』


「うん。フィンも笛、リオとサナは判断、ニーナは魔法。みんなちゃんと役割が出てきた」


『迷宮が育てたのね』


「人間側も頑張ったけどな」


『迷宮が場を与えたのよ』


「高貴なる主張が強い」


『当然でしょう』


 ヴェルティアはどこか得意げだった。


 俺は清水の間を見る。


 今日、第3層へ向かうのはリオたちだけではない。


 別の冒険者たちも準備していた。


 EランクからDランク仮認定を目指す者。


 すでにDランクで、清水の迷宮での実績を積もうとする者。


 そして、クレスたち。


 昨日の夕方、クレス、カティア、メリダは確認目的で第3層を踏破し、帰還記録を得ていた。


 高ランクであっても、迷宮の条件は変わらない。


 第4層の琥珀水紋門は、第3層を踏破して帰還した記録を持つ者にしか開かない。


 それを、クレスたちは自分たちで確認していた。


「クレスたちも行くのか」


『ええ。ようやく上位者が第4層を測りに行くわね』


「BランクとCランクが入るなら、そろそろ第4層の本当の距離が分かるな」


『報酬にも届くかもしれないわ』


 ヴェルティアの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 俺は横目で見る。


「ヴェルちゃん、今ちょっと期待した?」


『その呼び方はやめなさい』


「期待した?」


『第4層の報酬が外へ出るかどうかは、迷宮核として確認すべきことよ』


「飲みたい?」


『確認よ』


「うんうん」


『それは二回ではないから許すわ』


「判定が細かい!」


 ヴェルティアはすました顔で水膜を見ている。


 でも、たぶん期待している。


 琥珀の雫。


 外へ出る最初の一本。


 それが今日になるかもしれない。






 仮受付の前に、四つの組が並んだ。


 一つ目は、リオたち。


 リオ、サナ、フィン、マイラ、ニーナ。


 二つ目は、最近ようやく第3層の三時間到達と帰還を安定させたEランク三人組だった。


 槍持ちのノル。


 斥候のヘイス。


 小柄な盾役のリタ。


 三人とも顔が強張っている。


 今日が初めての踏破挑戦だ。


 三つ目は、元からDランクのザック組。


 片手斧のザック。


 弓使いのユーリ。


 盾役のゴート。


 こちらはランクこそ上だが、清水の迷宮ではまだ第3層踏破記録がなかった。


 そして四つ目が、クレスたち。


 クレス。


 カティア。


 メリダ。


 人数は三人。


 ただし、空気は他の組とまるで違う。


 クレスはいつも通り落ち着いている。


 カティアは眠そうに見えるくらい自然体だ。


 メリダは肩をすくめて、いつものように少し斜めに笑っていた。


「高ランク様の第4層見物かい?」


 ザックが軽く言う。


 カティアが睨む。


「見物で済むなら楽でいいな」


「すみません」


 メリダが笑う。


「楽なら、臆病者はいらないんだけどねえ」


 クレスは三組を見回した。


「今日は役割を分ける」


 その言葉に、清水の間が少し静まった。


「第3層は、リオたちと各組に任せる」


 リオが顔を上げた。


 フィンも目を見開く。


 クレスは続けた。


「第3層は、もう彼らに任せていい」


 短い言葉だった。


 だが、リオたちには重かった。


 これまで、第3層はクレスやカティア、メリダの指導があってようやく挑む場所だった。


 今は違う。


 任せていい。


 そう言われた。


 フィンが小さく息を吸う。


 マイラは記録板を握り直す。


 サナは目を伏せ、すぐに前を向いた。


 リオは、静かに頷いた。


「任されます」


 クレスは頷く。


「俺たちは第4層へ入る。目的は踏破。可能なら、報酬を確認する」


 その一言で、空気が変わった。


 第4層。


 三時間探索で未到達だった奥。


 まだ誰も持ち帰っていない報酬。


 それを、クレスたちが狙う。


 カティアが周りの冒険者たちを睨んだ。


「勘違いするなよ。BランクとCランクが入るから楽勝って話じゃねえ。上の連中が行って、どこが危ねえか測ってくるって話だ」


 メリダも笑う。


「臆病者もついていくしね」


 フィンが思わず聞いた。


「メリダさん、第4層も怖いですか?」


「怖いねえ。足場が良い場所は、油断の足音が聞こえにくい」


「なるほど……」


 サナが短く言う。


「分かる」


 クレスは最後にリオたちを見た。


「紅肌の雫は欲しいだろう。だが、欲しいなら帰れ。俺たちがいなくても、君たちは帰れる」


 リオは真っ直ぐ答えた。


「はい」


 カティアが言う。


「第3層を甘く見るな。慣れた時に沈むぞ」


 フィンが笛を握る。


「肝に銘じます」


「フィン、お前は笛を鳴らすのが遅れたら自分で自分の頭を殴れ」


「手厳しい!」


「冗談だ」


「本当に冗談ですか?」


「半分」


「半分!」


 そのやり取りに、周りが少し笑った。


 緊張がほどける。


 だが、油断にはならない。


 清水の間の木札の前で、それぞれの組が動き始めた。






 最初に第3層へ入ったのは、Eランク三人組だった。


 ノル。


 ヘイス。


 リタ。


 三人は入口で深呼吸をした。


 リタが盾を握る。


「戻る判断、最優先」


 ヘイスが骨笛を確認する。


「合図は俺。遅れたら止めて」


 ノルが頷く。


「止める。殴るのは帰ってから」


「帰ってからならいいのかよ」


 三人は藻の迷路へ入っていった。


 次に、ザック組が続く。


 ザックは片手斧を軽く肩に乗せた。


「Dランク内実績、取りに行くぞ」


 ユーリが弓を確認する。


「赤い小瓶より、帰還記録ね」


 ゴートが盾を鳴らす。


「両方だ」


 ザックが笑う。


「欲張るなって言われたばっかりだろ」


「欲張る。だが、死なない」


「それならいいか」


 三人も第3層へ入る。


 リオたちは最後に第3層の入口へ立った。


 リオが振り返ると、クレスたちは琥珀水紋門の前へ向かっていた。


 フィンが言う。


「上はクレスさんたちに任せて、俺たちは俺たちの仕事ですね」


 マイラが頷く。


「紅肌の雫。売る分と、使う分」


 ニーナが少し頬を赤くする。


「確認用です」


 サナがフィンを見る。


「今は言わない」


「まだ何も言ってない」


「言いそうだった」


「信頼が逆方向!」


 リオが笑う。


「行こう。今日は俺たちだけで帰る」


 五人は第3層へ入った。






 同じ頃。


 クレス、カティア、メリダは琥珀水紋門の前に立っていた。


 クレスが手を伸ばす。


 琥珀色の水紋が広がった。


 門が開く。


 昨日、三人は第3層を踏破して帰還記録を得た。


 その記録に、迷宮はきちんと反応している。


 高ランクだからではない。


 条件を満たしたから開く。


 それを見て、エリオ神官が小さく目を細めた。


「階層条件は、身分や職位ではなく記録に反応するのですね」


 仮受付の職員が頷く。


「そのようです」


 トマが記録する。


「迷宮の入場条件、個人実績に反応」


 カティアが門を見て言う。


「見られてる中で入るの、気色悪いな」


 メリダが笑う。


「人気者だねえ」


「嬉しくねえ」


 クレスは静かに言った。


「行こう」


 三人は第4層へ入った。






 第4層。


 琥珀の貯蔵庫。


 足場は安定している。


 通路は広い。


 樽棚の影が続き、琥珀色の水路がところどころに走る。


 香りは、最初からある。


 甘く、重く、温かい。


 冒険者を迎えるようでいて、少しずつ判断の端を溶かす香り。


 カティアは入ってすぐ、鼻を鳴らした。


「気持ち悪いな」


 メリダが肩をすくめる。


「良い匂いなのにねえ」


「良い匂いだから気持ち悪いんだよ」


 クレスは通路を見た。


「足場は良い。視界も悪くない。だから、危険が遅れて見える」


 カティアが頷く。


「若い連中が言ってた通りだ。歩けるから進みたくなる」


 メリダは腰の袋から小さな布を取り出し、壁際に結んだ。


「臆病者の印、一つ目」


 カティアが言う。


「印は二重だ」


「もちろん」


 クレスたちは進んだ。


 若手たちより速い。


 だが、走らない。


 戦闘が起きても、崩れない。


 琥珀スライムが通路を塞いだ。


 クレスの剣が、光を斬るように滑る。


 一閃。


 スライムは形を崩し、床へ散った。


 樽齧り鼠が布印へ走る。


 カティアの短剣が床に刺さる。


 鼠の進路が止まる。


 メリダが石を投げ、棚の影からもう一匹を追い出した。


「二匹目」


 クレスが即座に斬る。


 流れるような対応だった。


 だが、楽ではない。


 酔香蛾が出た時、空気が変わった。


 琥珀色の粉が、通路にふわりと広がる。


 カティアが舌打ちする。


「粉だ」


 メリダは一歩下がる。


「吸いたくないねえ」


 クレスは外套を振った。


 風魔法ではない。


 ただの動きだ。


 それでも、Bランクの身体能力で振られた外套は、粉の流れを一瞬だけ乱した。


 カティアがその隙に跳ぶ。


 短剣が酔香蛾の羽を裂く。


 蛾は落ちた。


 だが、香りは残る。


 メリダが眉をひそめた。


「まずいね」


 クレスが問う。


「何がだ」


「今、もう少し進めると思った」


 カティアも少し黙った。


「……あたしもだ」


 クレスは足を止めた。


 沈黙。


 琥珀の香りだけが、三人の間を流れる。


 クレスは静かに言った。


「俺も、判断が少し遅れた」


 カティアが息を吐く。


「Bランクでも効くか」


 メリダが笑う。


「臆病者にも効くよ。だから怖い」


 クレスは後方の印を確認した。


「三分停止。水を飲む。呼吸を整える」


 カティアは素直に頷いた。


「了解」


 メリダも壁に背を預ける。


「良いねえ。強い人間が止まるのは、良い」


「皮肉か?」


「本心だよ」


 三人は止まった。


 進めるのに、止まった。


 それが、第4層では一番難しい。






 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


「クレスでも遅れるのか」


『ええ』


「第4層、ちゃんと効いてるな」


『戦闘力ではなく、判断に触れる階層だもの』


「Bランクでも止まって確認する。これ、かなり大事だ」


『若い者たちにも見せたいくらいね』


「外からは見えないんだよなあ」


『でも、帰れば語られるわ』


「そうだな」


 ヴェルティアは、琥珀の貯蔵庫の奥を見ていた。


 たぶん、報酬の位置を分かっている。


 いや、絶対分かっている。


「ヴェルちゃん、近い?」


『何が?』


「琥珀の雫」


『近いわ』


 答えた。


 珍しく、素直に答えた。


 俺は思わず笑う。


「やっぱり期待してるだろ」


『報酬の初回流通を確認しているだけよ』


「ふーん」


『何よ』


「いや、可愛いなと思って」


 俺の足元が、ぬちゃりと沈んだ。


『余計なことを言わない』


「すみません」


 でも、今のはちょっと照れていたと思う。


 言わない。


 足がさらに沈みそうだから。






 第3層では、リオたちが赤い光に近づいていた。


 藻の迷路は、彼らを覚えているように揺れる。


 水音が反響し、方向をずらす。


 だが、フィンの笛は早かった。


 ピー。


 停止。


 赤い光が見えた瞬間、全員が止まる。


 リオは自分の足を見た。


「止まれた」


 サナが言う。


「目」


 リオは赤い光から視線を外す。


「こっちも止める」


 マイラが記録する。


「赤光確認。足停止、視線誘導あり」


 ニーナが小さくライトを灯す。


「帰路印、見えます」


 淡い光が、藻の影に隠れた布印を照らした。


 フィンが頷く。


「帰り道あり。体力は?」


 リオが答える。


「残ってる」


 サナも頷く。


「いける」


 マイラが言う。


「魔力、問題なし」


 ニーナも答える。


「大丈夫です」


 フィンが笛を下げた。


「進みます」


 五人は進んだ。


 赤い光に飛びつかない。


 帰り道を見てから進む。


 第4層で覚えた、判断の遅れを疑う癖。


 それは、第3層でも生きていた。


 宝箱の前でも、リオはすぐに手を伸ばさなかった。


 全員で周囲を見る。


 藻の揺れ。


 水音。


 帰路。


 時間。


 サナが頷く。


「開けて」


 リオが宝箱を開けた。


 中には、赤い小瓶が五本。


 紅肌の雫。


 小瓶の中で、淡い赤が揺れている。


 ニーナが思わず息を呑んだ。


 マイラも、ほんの少しだけ表情を変えた。


 フィンは何か言いかけた。


 サナが見た。


 フィンは口を閉じた。


 今日一番の判断だった。


 リオが小瓶を慎重に分ける。


「五本。予定通り、帰る」


 マイラが頷く。


「取得後、即帰還」


 ニーナは小瓶を胸元にしまう。


「落とさないようにします」


 フィンが周囲を見る。


「帰りましょう」


 彼らは戻った。


 宝箱の前で長居しない。


 赤い光に酔わない。


 取ったら帰る。


 それだけのことを、確実に行った。






 第4層の奥で、クレスたちは琥珀色の光に近づいていた。


 通路の先に、低い棚が並ぶ部屋がある。


 その奥に、小さな宝箱。


 紅肌の雫の宝箱より、少し古びている。


 木ではなく、琥珀色の石でできた箱だった。


 その手前で、香りが一段濃くなる。


 カティアが足を止めた。


「ここが一番きついな」


 メリダが低く笑う。


「欲しいものの前は、いつだってきついよ」


 クレスは宝箱を見ていた。


 目は静かだ。


 だが、一瞬だけ、踏み出す間が早くなった。


 カティアが言う。


「クレス」


 クレスは止まった。


「……今、早かったな」


「ああ」


 クレスは素直に認めた。


「俺も欲に引かれている」


 メリダが感心したように言う。


「それを言えるBランクは、強いねえ」


「強くなければ言えないことではない。言わなければ危ないだけだ」


 クレスは水を一口飲んだ。


 カティアも飲む。


 メリダも飲む。


 三人は帰路印を確認した。


 時間を確認した。


 体力を確認した。


 そして、クレスが言った。


「進む。箱を開け、報酬を確認し、すぐ戻る」


 カティアが頷く。


「箱の前で余計なことを始めたら蹴るぞ」


「始めない」


 メリダが笑う。


「でも、気になるねえ」


 クレスは宝箱へ進んだ。


 罠はない。


 だが、香りが濃い。


 開けたくなる。


 覗き込みたくなる。


 もっと近づきたくなる。


 クレスは片膝をつき、箱を開けた。


 中には、小さな瓶が三本あった。


 赤ではない。


 水でもない。


 琥珀色。


 透明な瓶の中で、金と茶色の間の液体が静かに揺れている。


 ただし、瓶にはしっかり封がされていた。


 香りはほとんど漏れてこない。


 箱の底に、文字が浮かんでいた。


 琥珀の雫。


 カティアが目を細める。


「琥珀の雫……?」


 メリダが小さく息を吐いた。


「名前だけか」


 クレスは瓶を手に取り、光に透かした。


「中身は戻って確認する」


「ここで開けるなよ」


「ああ」


 クレスは三本を慎重に袋へ入れた。


 箱の蓋を閉じる。


 その瞬間、部屋の奥で何かが小さく動いた。


 赤みを帯びた琥珀色の、小さな影。


 ぴょん、と棚の隙間を跳ねた。


 メリダが目を細める。


「何かいたね」


 カティアが短剣に手を伸ばす。


「追うか?」


 クレスは一瞬だけ考えた。


 だが、すぐ首を横に振る。


「追わない。今日は報酬を持って帰る」


 小さな影は、すぐに奥へ消えた。


 カティアが舌打ちする。


「今の、何だったんだ」


 メリダは笑う。


「追ったら迷子になるやつだよ」


 クレスは立ち上がる。


「戻る」


 三人は宝箱の部屋を出た。


 琥珀の雫を持って。






 黒い水膜の内側で、俺とヴェルティアは同時に黙っていた。


「……今の」


『紅琥珀スライムね』


「出たな」


『出たわね』


「逃げたな」


『逃げたわね』


「追わなかったな」


『追わなかったわね』


 ヴェルティアの声が、ほんの少しだけ残念そうだった。


 俺は横を見る。


「ヴェルちゃん、紅琥珀の雫、ちょっと期待した?」


『確認対象として興味があるだけよ』


「今の声、けっこう残念だったぞ」


『足元』


「ごめんなさい」


 俺の足が沈んだ。


 でも、俺も少し笑っていた。


 紅琥珀スライムは出た。


 けれど、まだ捕まらない。


 追わない判断ができた。


 それでいい。


 初回の第4層突破で、激レアまで取れてしまったら、さすがに欲が勝ちすぎる。


 今日は琥珀の雫。


 それで十分だ。


「クレス、偉いな」


『ええ。報酬を得た後に、さらに欲を追わなかった』


「やっぱりBランクだ」


『あの剣士は、迷宮を見る目があるわ』


「主人公みたいだな」


『貴方、それを言いすぎると立場が危ういわよ』


「危うい!」


 ヴェルティアは少しだけ笑った。






 清水の間に、先に戻ったのはリオたちだった。


 誰も、小瓶を見せびらかさない。


 だが、五人全員が立って戻ってきた。


 マイラが赤い小瓶を五本並べる。


 清水の間に歓声が上がる。


 今度は大きすぎない。


 冒険者たちは学んでいる。


 帰ってきた者には、まず水と座る場所が必要だ。


 カティアがいない代わりに、ザックが手を叩いた。


「騒ぎすぎるな。座らせろ」


 ユーリが笑う。


「カティアさんみたい」


「やめろ」


 リオたちは休憩場所へ向かった。


 エリオ神官とトマも近づいた。


 トマは興味深そうに赤い小瓶を見る。


「これが、紅肌の雫……」


 マイラが頷く。


「第3層踏破報酬です。治療薬ではありません」


「昨日も聞きました」


「何度でも言います。間違って広がると困るので」


 エリオ神官が微笑んだ。


「良い姿勢です」


 マイラは少し照れたように目を伏せた。


 リオが小瓶を分ける。


「二本は売る。一本はパーティ資金。二本は……」


 そこで言葉が止まる。


 マイラとニーナが同時に視線を落とした。


 サナは無言で水を飲む。


 フィンは天井を見る。


 何も見えないはずなのに、やけに真剣な顔で見ている。


 ザックが首を傾げる。


「何で天井を見てるんだ?」


 フィンは真顔で答えた。


「余計なことを言わない訓練です」


 サナが頷く。


「続けて」


「はい」


 周りが少し笑った。


 エリオ神官も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 マイラはしばらく小瓶を見ていた。


 それから、一本を手に取った。


「効果確認。自分の体で」


 ニーナも、少し遅れて一本を手に取る。


「私も……確認します」


 フィンは天井を見続けた。


 偉い。


 とても偉い。






 マイラは紅肌の雫を口にした。


 小瓶一本。


 淡い赤い液体が喉を通る。


 派手な光は出ない。


 魔法のような音もしない。


 だが、少しずつ変化はあった。


 疲労でくすんでいた頬に、自然な血色が戻る。


 唇の色が、ほんの少し明るくなる。


 指先の乾いた感じが薄れ、手の甲の荒れが落ち着く。


 若返ったわけではない。


 別人になったわけでもない。


 ただ、疲れで曇っていたものが少しだけ晴れた。


 マイラは自分の手を見た。


「……なるほど」


 声は小さかった。


 でも、表情は隠しきれていなかった。


 ニーナも紅肌の雫を飲む。


 彼女は元々まだ若い。


 変化は大きくない。


 それでも、緊張で青ざめがちだった頬に、ほんのり赤みが戻った。


 杖を握って荒れていた指先が、少しだけなめらかになる。


 ニーナは自分の頬に触れた。


「少し、温かいです」


 トマが小さく息を呑む。


「確かに、治療とは違いますね」


 エリオ神官が頷く。


「ええ。傷を塞いだわけではない。病を取り除いたわけでもない。ですが、本人の状態が整っている」


 マイラが記録板を取ろうとした。


 ザックが言った。


「今くらい記録を後にしろよ」


 マイラは手を止めた。


「でも」


 サナが短く言う。


「後でいい」


「……分かった」


 フィンはまだ天井を見ている。


 ニーナは小瓶を両手で持ち、少しだけ嬉しそうにしていた。


 その表情を見て、トマがぽつりと言う。


「これも、救いなのでしょうか」


 エリオ神官は少し考えた。


「少なくとも、本人が少し顔を上げられるなら、価値はあります」


 トマは静かに頷いた。


 教会の治療とは違う。


 神の奇跡とも違う。


 だが、人が求める理由はある。


 そのことを、助祭は目の前で見た。






 その少し後。


 琥珀水紋門が揺れた。


 清水の間の空気が、一気に変わる。


 クレスたちが戻ってきた。


 クレス。


 カティア。


 メリダ。


 三人とも、立っている。


 大きな傷はない。


 だが、表情には疲労があった。


 特に、目の奥。


 戦闘で削られた顔ではない。


 判断を削られた顔だった。


 カティアが水場の方へ歩きながら言う。


「水」


 フィンがすぐ杯を取った。


「どうぞ!」


「気が利くな」


「言われる前に動く訓練です」


「いい訓練だ」


 カティアは水を飲み、深く息を吐いた。


 クレスも水を飲む。


 メリダは座り込んで、肩を回した。


「いやあ、第4層は嫌な場所だねえ」


 その言葉に、冒険者たちがざわつく。


 嫌な場所。


 メリダがそう言うなら、そうなのだろう。


 クレスは仮受付の前に立った。


「第4層を踏破した。報酬を取得。全員帰還」


 清水の間が、静まり返った。


 カティアが袋から小さな瓶を取り出す。


 三本。


 琥珀色の液体が入った小瓶。


 赤ではない。


 水でもない。


 光に透かすと、金と茶の間でゆっくり揺れる。


 ただし、しっかりと封がされている。


 仮受付の職員が震える手で記録板を用意する。


「名称は……」


 クレスが言った。


「箱の底に文字があった」


 カティアが小瓶を見た。


「琥珀の雫……?」


 その名が、初めて清水の間に落ちた。


 琥珀の雫。


 第4層の報酬。


 だが、それが何なのかは、まだ誰にも分からない。


 冒険者たちがざわめいた。


「琥珀の雫」


「何の雫だ?」


「飲めるのか?」


「薬か?」


「酒っぽいって話じゃなかったか?」


 カティアが鋭く睨む。


「群がるな。まず記録だ」


 ざわめきが少し下がる。


 クレスは小瓶を一本だけ仮受付の机に置いた。


「効果は未確認。外見は琥珀色の液体。第4層内では香りによる判断鈍化がある。これが同じものかは、確認が必要だ」


 仮受付の職員が記録する。


「開封確認、行いますか?」


 周囲が静かになった。


 クレスは少し考えた。


「一本は確認用に開ける。残り二本は未開封で保管。異論は?」


 カティアが肩をすくめる。


「あたしが飲む」


 フィンが目を丸くした。


「えっ、カティアさんが?」


「何だよ」


「いや、止める隙がなかったので」


「確認役が必要だろ。酒で倒れるほど柔じゃねえ」


 メリダがにやりと笑う。


「酒だったら、だけどねえ」


 エリオ神官も近づいた。


「教会としても、治療薬かどうかの確認は必要です。ただし、無理に飲む必要はありません」


 カティアは小瓶をつまみ上げた。


「無理じゃねえよ。少量だ」


 封を切る。


 その瞬間、ふわりと香りが広がった。


 清水の間が、静かになった。


 木。


 蜜。


 煙。


 乾いた果実。


 酒場の安酒ではない。


 誰もがそう感じるほど、深く澄んだ香りだった。


 カティアは一瞬だけ眉を動かした。


 それから、小瓶に口をつける。


 ほんの一口。


 喉が動く。


 カティアは黙った。


 長い沈黙ではない。


 だが、周りの冒険者たちにはやけに長く感じられた。


 フィンが小声で聞く。


「……どうです?」


 カティアは小瓶を見た。


 それから、低く言った。


「酒だな」


 清水の間がざわめいた。


 カティアは続ける。


「しかも、かなり良い。効能は分からねえ。少なくとも、傷が塞がる感じも、体が強くなる感じもない。ただ……」


「ただ?」


 ユーリが身を乗り出す。


 カティアは少しだけ嫌そうに顔をしかめた。


「うまい」


 その一言で、空気が変わった。


 薬ではない。


 治療でもない。


 強化でもない。


 ただ、うまい酒。


 だが、それだけで十分に危険だった。


 冒険者たちの目が、一斉に琥珀の雫へ向く。


 エリオ神官が静かに言う。


「治療薬ではないようですね」


「ああ。少なくとも、あたしにはそう感じない」


 カティアは小瓶を机に置いた。


「ただし、これは高くなる。間違いなく」


 メリダが笑う。


「人間は、うまい酒にも弱いからねえ」


 クレスは頷いた。


「第4層の報酬、琥珀の雫。効果は現時点では不明。酒に類する高品質な嗜好品として記録する」


 仮受付の職員が、急いで書き込んだ。


 第4層踏破報酬。


 琥珀の雫。


 酒に類する高品質嗜好品。


 治療効果、強化効果、現時点では確認なし。


 カティア試飲。


 非常に美味。


 カティアが記録板を覗き込んだ。


「最後の一文、要るか?」


 職員は真顔で答えた。


「重要情報です」


「そうかよ」


 そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。


 だが、琥珀の雫を見る目は真剣だった。


 外へ出れば、間違いなく価値がつく。


 冒険者が欲しがる。


 商人が欲しがる。


 貴族が欲しがる。


 教会も、無視できない。


 琥珀色の小瓶は、清水の間に新しい熱を生んでいた。






 エリオ神官は、琥珀の雫を見ていた。


 紅肌の雫を見た時とは違う顔だった。


 警戒が少し濃い。


「これは、別の種類の欲を呼びますね」


 助祭トマが記録する手を止めた。


「別の欲」


「美しくありたい欲。稼ぎたい欲。強くなりたい欲。そして、味わいたい欲」


 エリオ神官は琥珀の雫を見た。


「この迷宮は、階層ごとに人の欲を変えている」


 クレスは少しだけ目を細める。


「そう見えますか」


「そう見えます」


 エリオ神官は答えた。


「ただし、今日の帰還で分かったこともあります。欲を呼ぶだけではない。欲を置いて帰れる者だけが、報酬を持ち帰る」


 カティアが低く笑った。


「教会の人間に言われると、なんか変な感じだな」


「私も、迷宮で酒の報酬を見る日が来るとは思いませんでした」


 その言葉に、少しだけ笑いが起きた。


 だが、琥珀の雫を見る目は真剣だった。






 黒い水膜の内側で、俺はその光景を見ていた。


「出たな」


『出たわね』


「琥珀の雫、初流通」


『ええ』


 ヴェルティアは、いつもより静かだった。


 俺は少しだけ横を見る。


「ヴェルティア」


『何?』


「飲みたい?」


『……確認は、いずれ必要ね』


「今じゃなくて?」


『外へ出たものを奪うわけにはいかないでしょう』


「おお」


『何よ』


「ちゃんと我慢してる」


『当然よ。高貴なる迷宮核だもの』


「偉い偉い」


『子ども扱いしないでちょうだい』


「はいはい」


『はいは一回!』


「今日の分、いただきました」


『何を嬉しそうにしているのよ』


 ヴェルティアは不満そうに言った。


 でも、琥珀の雫を見る目は、やっぱり少し柔らかい。


 俺は笑いをこらえた。


 これ以上からかうと、足元が沈む。


 今日はすでに何回か沈んでいる。






 夕方。


 エリオ神官は、清水の間の端で報告内容を整理していた。


 助祭トマが横に座り、紙を押さえている。


「清水は教会の祝福水ではない」


 エリオ神官が言う。


 トマが記録する。


「祈りおよび聖印への反応なし。困窮者への水供給あり。軽度浄化作用あり」


「紅肌の雫は治療薬ではない」


 トマが続ける。


「病、重傷、呪いへの効果なし。顔色、肌荒れ、手指の乾燥、疲労印象への軽度改善。美容および自己状態回復の報酬として需要あり」


「琥珀の雫は、第4層踏破報酬」


 トマの手が少し止まる。


 新しい名前だ。


 今日、初めて外に出た名前。


「酒に類する可能性あり。香気により判断鈍化の危険あり。報酬取得後も追加誘導あり。上位冒険者により、追跡せず帰還」


 エリオ神官は頷いた。


「第3層は、低ランク冒険者の実技評価と収入源になりつつある。第4層は、上位者でも判断を試される」


 トマは少し手を止めた。


「神官様。これは、良いことなのでしょうか」


「簡単には言えません」


 エリオ神官は清水の間を見る。


 水を汲む村人。


 紅肌の雫を手にする冒険者。


 Dランク仮認定に喜ぶ若者。


 琥珀の雫を見て黙り込む大人たち。


 不要物投入口へ包みを入れる者。


「この迷宮は、人を助けています。ですが、同時に人を選び、欲を呼び、成長しています」


 トマは唾を飲み込んだ。


「危険、ということですか」


「危険です」


 エリオ神官は即答した。


「ですが、奪うより見誤る方が危険です」


 トマが顔を上げる。


「では、どう報告しますか」


 エリオ神官は少し考えた。


 それから、静かに言った。


「清水の迷宮は、信仰ではなく選別で人を救う、と」


 トマはその言葉を書き留めた。


 その文字を見て、少しだけ震えた。






 黒い水膜の内側で、俺も震えた。


「報告文、怖っ」


『的確ではなくて?』


「的確だけど怖い! 信仰ではなく選別で人を救うって、字面が強すぎる!」


『良い言葉ね』


「ヴェルティアは気に入ると思ったよ!」


『事実だもの』


 俺は清水の間を見る。


 今日、第3層から赤い雫が戻ってきた。


 新しいDランクが生まれた。


 元からDランクだった冒険者も、少しだけ評価を上げた。


 マイラとニーナは、自分のために雫を使った。


 クレスたちは第4層を突破し、琥珀の雫を持ち帰った。


 そして教会は、それを見た。


 水だけではない。


 紅肌の雫だけでもない。


 琥珀の雫まで、外へ出た。


 この迷宮は、人間の暮らしと欲と評価の間に、少しずつ根を伸ばしている。


 清水の迷宮は、また一つ、人間社会に近づいた。


 そしてたぶん、人間社会の方も、こちらへ近づいてきている。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


赤い雫は、自分のために。


琥珀の雫は、欲を置いて帰った者の手に。


清水の迷宮は、また少し人の世界へ近づきました。


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