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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第8話 水音は噂になる



 翌朝。


 清水の間には、いつも通りの水音が響いていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その奥からは、別の音も混ざる。


 ぬちゃり。


 ぴちゃん。


 ずるり。


 第2層、ぬかるみ回廊の音だ。


 清い水と泥。


 生活と訓練。


 並べると妙に地味だが、昨日の結果を見る限り、かなり効いている。


「第1層だけだと、村人が水を汲んで帰る場所で終わる」


『ええ』


「でも、第2層みたいに訓練できる場所があれば、冒険者が来る理由になる」


『入口だけを使う者も、奥を目指す者も出る。感情の種類が増えるわ』


「生活欲だけじゃなくて、挑戦欲とか、悔しさとか、警戒とかだな」


『そう。迷宮には流れが必要よ』


 黒い水膜の内側で、俺は清水の間とぬかるみ回廊を見ていた。


 隣にはヴェルティアがいる。


 黒いゴシック調のドレス。


 銀白の長い髪。


 赤い瞳。


 実体化したばかりだというのに、立ち姿だけはもう完全に迷宮の核らしい。


 ただし、さっきから袖口のレースが水膜に引っかかっている。


 本人は気づいていない。


「ヴェルティア、袖」


『袖?』


「水膜に引っかかってる」


『……これは意図的な接続よ』


「絡まってるだけに見える」


『迷宮核としての接続よ』


「はいはい」


『はいは一回』


「はい」


 無理に引っ張ると破れそうだったので、俺は黙って袖を外してやった。


 ヴェルティアは少しだけ視線を逸らした。


『……今のは、補助として認めるわ』


「珍しく素直に近いな」


『近いだけよ』


「惜しい」






 水膜の向こうでは、クレスが旅支度を整えていた。


 Bランク剣士。


 昨日、フィンとマイラを見守り、ぬかるみ回廊を低ランク冒険者の訓練に使える可能性があると判断した男だ。


 落ち着いていて、強くて、判断が早い。


 外の世界で話を動かせる人間だ。


 俺たちは迷宮の内側にいる。


 外へ直接声を出さないと決めている以上、クレスの報告はかなり重要だった。


 クレスは、フィンとマイラに向き直った。


 フィンは朝から少しそわそわしている。


 マイラは杖を抱え、真面目な顔でクレスを見ていた。


「俺はラクト支部に戻る」


 クレスが言った。


「ギルドへの報告を急ぐ必要がある。俺一人なら速い」


「俺たちは、ここに残るんですよね」


 フィンが言った。


 軽い声に聞こえる。


 だが、少しだけ緊張が混じっていた。


「そうだ」


「クレスさんがいない間に、俺が泥と一体化していたら?」


「一体化する前に戻れ」


「ですよね」


 フィンは頭をかいた。


 マイラが横から言う。


「第1層の水汲みを邪魔しない。第2層は入口付近だけ。無理に奥へ進まない。戻る判断を優先。魔力を無駄にしない。ですよね」


「そうだ」


 クレスは静かにうなずいた。


「君たちは昨日、戻る判断ができた。だから残す」


 フィンが、ぴたりと止まった。


「……信頼、ですか?」


「ああ」


 フィンは一瞬、いつもの軽口を探したようだった。


 けれど、うまく見つからなかったらしい。


「そ、そういうの、面と向かって言われると困りますね」


「困る必要はない。信頼された分、油断するな」


「はい!」


 返事が少し大きかった。


 本人も照れたのか、鼻の下をこすった。


 まだうっすら泥の跡が残っている。


 マイラが布を渡す。


「そこ、昨日から何度も拭いてる」


「俺の鼻、ぬかるみ回廊の記憶力が強い」


「洗って」


 クレスは二人を見て、少しだけ笑った。


「村と迷宮を見ておけ。何かあれば、オルド村長と相談しろ。迷宮に対して余計なことはするな」


「話しかけるのは?」


 フィンが聞く。


「返事はないだろう。だが、無礼をするな」


「はい」


「第1層で魔法や戦闘行為も控えろ。あそこは村人の場所でもある」


 マイラがうなずく。


「分かりました」


 クレスは最後に、清水の間へ軽く頭を下げた。


「行ってきます」


 迷宮は返事をしない。


 水音だけが響く。


 ぽたり。


 ぽたり。


 クレスはそれを聞いてから、ラクト支部へ向けて一人で歩き出した。






 黒い水膜の内側で、俺はその背中を見送った。


「挨拶されると、ちょっと返したくなるな」


『駄目よ。私たちは外の人間と直接話さない』


「分かってる。水と泥と壁文字で語る。清水の迷宮、無口営業」


『妙な看板を作らないでちょうだい』


「作らない作らない。DPもったいないし」


『そこなの?』


「そこも大事」






 クレスが去ったあとも、清水の間には村人たちがやって来た。


 子どもが桶を持つ。


 老人が石段に腰を下ろす。


 病人の家族が静かに水を受ける。


 転売禁止。


 大量持ち出し禁止。


 破壊行為禁止。


 壁に刻まれた三つの文字は、そのままだ。


 誰もそれ以上の説明を求めない。


 迷宮は長話をしない。


 水を出すか。


 止めるか。


 それだけで十分だった。






 その日の午前。


 フィンとマイラは、第2層の入口付近で反復訓練を始めた。


 最初は、滑る石床の手前まで。


 次は、苔鼠の穴の位置を確認するところまで。


 その次は、泥スライムが反応する距離を測るところまで。


 毎回、奥へは行かない。


 毎回、戻る。


 フィンは泥の深さを確認しながら進み、マイラは杖を短く持って足場を探る。


 苔鼠が靴紐を狙えば、フィンは大きく払わず、足の向きを変えて避けた。


 泥スライムが退路側へ寄れば、マイラがすぐに言う。


「戻る」


「了解」


 最初の頃、フィンは戻るたびに悔しそうだった。


 だが、三度目には少し変わった。


「戻るのが早くなってきた気がする」


「進むのが早くなったわけじゃないけどね」


「それ、喜んでいいやつ?」


「たぶん」


「たぶんでも喜ぶ。俺は小さな成功で生きる男」


 フィンは泥落としの泉で靴を洗いながら、ふっと笑った。


 マイラは膝についた泥を落とし、魔力を使わずに小さな擦り傷を布で拭いた。


「魔法は使わないのか?」


 フィンが聞く。


「使わない。これくらいなら、泥を落として布で十分」


「温存?」


「うん。使わずに済むなら、それが一番いい」


「昨日より治癒役っぽいこと言ってる」


「昨日も言ってた」


「俺が聞けてなかっただけか」


「たぶん」


 フィンは少しだけ黙った。


 それから、浅瀬を見た。


「……もう一回行く?」


「入口の石床まで。泥スライムが動いたら戻る」


「了解」


 二人はまた、ぬかるみ回廊へ入っていく。


 大きな成果ではない。


 奥まで進んだわけでもない。


 魔物を倒したわけでもない。


 けれど、迷宮内での行動は少しずつ変わっていた。


 足元を見る。


 音を聞く。


 荷物を気にする。


 互いの距離を見る。


 戻る判断を早くする。


 第2層は、派手な勝利ではなく、地味な生存判断を積ませていた。






 黒い水膜の内側で、俺は表示を見ていた。


【村人の生活利用を確認】


【生活欲、感謝、規律認識を獲得】


【第2層 反復訓練利用を確認】


【恐怖、悔しさ、挑戦欲、撤退判断を獲得】


【回復魔法未使用による魔力温存判断を確認】


【獲得DP:17】


【第1層清水維持、第2層魔物再配置にDPを2消費】


【現在DP:68】


「少し増えたな」


『ええ。細いけれど、途切れない流れね』


「ネズの時みたいな濃さはない」


『あれは死体、道具、恐怖、執着が一度に流れ込んだもの。濃くて当然よ』


「でも、あれを基準にしたら駄目だな」


『ええ。迷宮が濁る』


 ヴェルティアの赤い瞳が、表示を見る。


『こちらは薄い。でも、人間が生きて帰る限り、また来る』


「そっちの方が運営としては強い」


『貴方の言う“通わせる迷宮”ね』


「そうそう。死体で一発大入りじゃなくて、日々の来場で回す感じ」


『言い方が完全に商売人ね』


「生活インフラ迷宮だからな。帳簿感覚は大事」


『そのうち、迷宮に会計室を作ると言い出しそうだわ』


「それは嫌だな。会社員時代の嫌な記憶が起き上がってくる」


『では作らないわ』


「助かる」


 俺は表示をもう一度見た。


 DPは少ない。


 でも、増えている。


 村人が水を使う。


 冒険者が泥に入る。


 怖がる。


 戻る。


 また挑む。


 そのたびに、迷宮は少しだけ満ちる。


 急に大きくならなくてもいい。


 流れが止まらないことが大事だった。






 ラクト支部は、ルスカ村から離れた街道沿いの町にあった。


 大きな町ではない。


 だが、周辺の村々と森、浅い迷宮、街道護衛を扱うには十分な規模の冒険者ギルド支部である。


 昼過ぎ。


 クレスはその扉を開けた。


 受付の奥で、数人の冒険者が顔を上げる。


 Bランク剣士が一人で戻ってきた。


 しかも、新人二人を連れていない。


 それだけで、空気が少し変わった。


 受付の女性が眉を上げる。


「クレスさん。早かったですね」


「報告を急ぐ必要がありました」


「フィンさんとマイラさんは?」


「ルスカ村に残しています」


 その一言で、近くの冒険者たちがざわつく。


 クレスは受付に近づき、静かに言った。


「支部長に報告を。特殊迷宮案件です」


 受付の顔つきが変わった。


 冗談ではない。


 Bランクが特殊迷宮と言った。


 それだけで、軽く流していい話ではなくなる。


 しばらくして、クレスは奥の小部屋へ通された。


 支部長は壮年の男だった。


 短く刈った髪と、書類で荒れた机。


 戦場より机の上の方が荒れているタイプの男である。


「クレス。報告を聞く」


「はい」


 クレスは、順を追って話した。


 ルスカ村近くに現れた迷宮。


 第1層、清水の間。


 清い水を出し、村人の生活を支えていること。


 壁文字は三つ。


 転売禁止。


 大量持ち出し禁止。


 破壊行為禁止。


 転売目的の者には水が出なかったこと。


 破壊行為に及んだネズという村人が、死体も衣服も道具も残さず迷宮に吸収されたこと。


 支部長の眉が、そこで深く寄った。


「吸収か」


「はい。痕跡はありませんでした。迷宮が処理したと見るべきです」


「危険度は?」


「危険です。ただし、即討伐対象と判断するのは早いです」


 支部長は黙った。


 クレスは続ける。


「第1層は、生活利用区域として機能しています。村人の水汲みを助け、病人や老人にも使いやすい構造でした。戦闘用ではありません」


「迷宮が人間の生活に合わせていると?」


「そう見えます」


「続けろ」


「第2層、ぬかるみ回廊が生成されました。泥道、浅瀬、滑る石床、濁った水路、苔鼠、泥スライム。低ランク冒険者が死ぬ原因を、浅い階層でまとめて経験させる構造です」


「訓練用か」


「可能性があります。ただし、安全な訓練場ではありません。油断すれば死にます」


 クレスの声は落ち着いていた。


「フィンとマイラを入れました。二人は進行に失敗し、撤退しました。マイラは回復魔法を一度使用。戻る判断ができたため、村に残しています」


 支部長はしばらく考えた。


「清水の迷宮、か」


「村ではそう呼び始めています」


「討伐依頼として受けるには惜しい。放置するには危ない。かといって領主案件にするには、まだ情報が足りない」


「同感です」


「要観察の特殊迷宮として仮記録する」


 支部長は書類を引き寄せた。


 羽ペンが走る。


 清水の迷宮。


 第1層、生活利用区域。


 第2層、低ランク訓練可能区域。


 禁止事項、転売、大量持ち出し、破壊行為。


 違反時、迷宮による拒否または吸収。


 危険度、未確定。


 討伐判断、保留。


 要観察。


「新人を送り込むか?」


 支部長が聞いた。


 クレスは即答しなかった。


「条件付きなら」


「条件は」


「第1層で戦闘行為をしないこと。魔法も使わないこと。村人の水汲みを邪魔しないこと。第2層は入口付近から始めること。必ず引率をつけること。奥へ行かせないこと」


「引率は?」


「俺が戻ります」


「一人で足りるか」


 その時、扉の向こうから声がした。


「足りねえだろうな」


 乱暴に扉が開く。


 入ってきたのは、栗色の髪を後ろで束ねた女性だった。


 革鎧は軽装。


 腰には短剣。


 背中には小型の弩。


 靴は泥にも街道にも慣れた形をしている。


 目つきは鋭く、口元は不機嫌そうに曲がっている。


 Cランク斥侯、カティア。


 二十七歳。


 ラクト支部でも、口の悪さと面倒見の悪さを自称する面倒見の良さで知られている女だった。


「カティア。盗み聞きか」


 支部長が睨む。


「聞こえる場所で話す方が悪い」


「扉の外に耳をつけていたな」


「耳がいいんだよ。斥侯だからな」


 カティアはクレスを見た。


「で? 泥道、浅瀬、滑る石床、苔鼠、泥スライム? 新人がまとめて足を取られるやつじゃねえか」


「そうだ」


「死人を出したくねえなら、斥侯をつけろ。剣士だけじゃ足元の嫌らしさを見落とす」


「俺が見落とすと?」


「お前は強い。だから見えるものと、強いから見えにくいものがある」


 クレスは少しだけ笑った。


「相変わらず口が悪い」


「褒め言葉として受け取るわ」


「褒めてはいない」


「じゃあ、今から褒めろ」


 支部長が額を押さえた。


「お前たち、話を進めろ」


 カティアは机の端に腰を預けた。


「行くなら、あたしも行く。新人の死体拾いなんざ面倒だからな」


「心配しているのか?」


 クレスが聞く。


「死体拾いが面倒だって言っただろ」


「つまり心配している」


「その耳、泥に詰まってんのか?」


「俺の耳は正常だ」


「じゃあ性格が悪いんだな」


「君ほどではない」


「言うじゃねえか、Bランク様」


 二人のやり取りに、支部長は深く息を吐いた。


 だが、止めなかった。


 クレスとカティア。


 剣士と斥侯。


 性格は違うが、実力は信頼できる。


 新人を泥の迷宮へ連れていくなら、悪くない組み合わせだった。


「カティア。引率につけ」


「了解」


「ただし、勝手に奥へ進むな」


「分かってる。新人を連れていくんだろ。いきなり奥へ突っ込む馬鹿を蹴り戻す係だ」


「蹴るな」


「必要なら蹴る」


「ほどほどにしろ」


「死ぬよりマシだろ」


 支部長は反論しなかった。


 実際、その通りだった。








 噂は、その日のうちにギルド内へ広がった。


 清い水がある迷宮。


 村人が水を汲んでいる。


 Bランクのクレスが、即討伐対象ではないと判断した。


 第2層は新人訓練に使えるかもしれない。


 ただし、破壊行為をした者は死体も道具も残さず消えた。


 冒険者たちは、こういう話に弱い。


 危険。


 未知。


 報酬はまだ不明。


 でも、Bランクが見た。


 特殊迷宮として記録された。


 新人でも入口なら入れるかもしれない。


 その時点で、何人かの目が変わった。


「俺たちも行けますか」


 最初に言ったのは、短槍を持つEランク新人、リオだった。


 まだ若い。


 新品ではないが、使い込まれてもいない革鎧。


 短槍を大事そうに持つ手には、緊張と期待が混じっている。


 その後ろには、盾持ちと見習い魔術師がいた。


 見習い魔術師は、杖を抱えながら何やらそわそわしている。


 魔法を使いたい顔だ。


 続いて、剣を腰に下げたEランク新人、サナも前に出た。


 こちらはリオより落ち着いているが、目は強い。


 背後には、弓使いと、回復魔法を使える治癒術師見習いがいた。


「私たちも同行を希望します」


 サナが言う。


「低ランク向けの訓練に使えるなら、見ておきたいです」


 クレスは二組を見た。


 すぐに許可は出さない。


「観光ではない」


「分かっています」


 リオは短槍を握り直した。


「でも、浅い階層で足場や退路を学べるなら、行きたいです」


 カティアが鼻で笑った。


「浅い階層だから安全、と思ってるならやめとけ。泥で転ぶやつは、だいたい自分だけは転ばねえと思ってる」


 リオの顔が少しこわばる。


 サナはまっすぐカティアを見た。


「転ぶ前提で行きます」


「いい返事だな。半分くらいは信じてやる」


「半分ですか」


「口の返事は軽い。泥で見せろ」


 カティアはクレスへ視線を向けた。


「連れてくなら、明日だ。人数を増やしすぎるな。新人二組まで。魔術師も治癒術師も、第1層では絶対に魔法を使わせるな」


「同意見だ」


 クレスはうなずいた。


「第1層は生活区域だ。村人の場所でもある。試し撃ちをする場ではない」


 見習い魔術師が、ぴくっと肩を跳ねさせた。


 カティアがすかさず睨む。


「今、試したい顔したな」


「し、してません」


「した。杖持ちの新人はだいたいその顔をする」


「カティアさん、魔術師ですか?」


「斥侯だよ。馬鹿を見る目があるだけだ」


 リオが小声で言った。


「馬鹿を見る目……」


「お前も含むぞ」


「はい!」


 支部長はため息をつきながらも、同行を認めた。


 翌日、クレス、カティア、新人パーティ二組。


 それに最低限の物資を持たせ、ルスカ村へ向かうことになった。








 その頃。


 清水の迷宮では、フィンとマイラが午後の訓練を終えていた。


 泥落としの泉で靴を洗い、マイラは魔力を使わずに小さな擦り傷を処置している。


 村人たちは清水の間で夕方の水を汲み終え、静かに帰っていった。


 青白い表示が浮かぶ。


【第1層 生活利用継続】


【第2層 反復訓練継続】


【恐怖、警戒、悔しさ、挑戦欲、撤退判断を獲得】


【獲得DP:16】


【清水維持、泥落としの泉維持にDPを2消費】


【現在DP:82】


「じわじわ増えるな」


『ええ。濁らず、細く、続いている』


「こういう増え方なら、見ていて安心できる」


『油断はしないことね。人間が増えれば、欲も増えるわ』


「だな。明日あたり、ちょっと騒がしくなりそうだ」


『遠くから、こちらへ向けられる気配が増えている。挑戦欲、好奇心、警戒。それと、魔力への期待』


「魔力への期待?」


『魔術師が来るかもしれないわね』


 俺は思わず立ち上がった。


「魔術師!?」


『声が大きいわ』


「魔術師ってことは、ファイアボールとか、ウィンドカッターとか、そういうの!?」


『知らないわよ。人間の使う魔法体系までは、まだ詳しく見ていないもの』


「でも来るんだな? 魔法使う人が来るんだな?」


『おそらく』


「やばい。明日、めちゃくちゃ楽しみ」


『第1層では魔法を使わせない方がいいわ』


「分かってる。清水の間でファイアボールとか撃たれたら普通に困る」


『困るで済むの?』


「済まない。即出禁レベル」


『出禁』


「迷宮的には水が止まるやつ」


『場合によっては床も沈むわ』


「それは最終手段で」


 俺はぬかるみ回廊を見た。


 魔術師。


 治癒術師。


 剣士。


 槍持ち。


 盾持ち。


 斥侯。


 冒険者が増える。


 それだけで、迷宮に流れ込む感情も増える。


 でも、制御を間違えれば一気に危ない。


「明日は、第1層でのルールが大事だな」


『ええ』


「魔法も戦闘行為も控えてもらう。水汲みの邪魔もさせない」


『どうやって伝えるの?』


「そこはクレスとカティアに期待」


『また外の人間に頼るのね』


「外の秩序は外の人間に回してもらう。こっちは迷宮の仕組みで判断する」


『悪くないわ』


「やった。高評価?」


『調子に乗るには早いわ』


「厳しい」


『でも、悪くはない』


「それで十分」






 翌日。


 ルスカ村へ続く街道に、冒険者たちの足音が増えた。


 先頭はクレス。


 隣にカティア。


 後ろには新人パーティ二組。


 短槍のリオ。


 剣持ちのサナ。


 盾持ち、弓使い、見習い魔術師、治癒術師見習い。


 名前を覚えるだけで村人が混乱しそうな人数だった。


 いや、俺も混乱しそうだ。


 村の入口では、オルド村長が待っていた。


 村人たちは遠巻きに冒険者たちを見る。


 子どもたちは、特に見習い魔術師の杖に目を輝かせていた。


「魔法使うのかな」


「火が出るのかな」


「水の迷宮で火を出したら怒られるんじゃない?」


「怒られるかな」


「沈むかな」


「沈むのはやだな」


 子どもたちの会話を聞いて、大人たちは顔を引きつらせた。


 水は必要だ。


 だが、冒険者が増えるのは不安でもある。


 剣を持つ者。


 槍を持つ者。


 魔法を使う者。


 村にとっては頼もしいが、同時に騒動の匂いもする。


 それでも、商売の気配はすでにあった。


 誰かが小さく言う。


「冒険者が増えるなら、飯を出せるな」


「干し肉だけじゃ足りないだろ」


「靴紐、売れるかもしれん」


「泥だらけなら洗い場も必要だ」


「宿はどうする」


 オルドはその声を聞き、眉間にしわを寄せた。


 迷宮が村を変え始めている。


 水だけではない。


 人の流れも、金の流れも、欲の流れも。


 もう動き出していた。






 清水の間に、新しい冒険者たちが入った。


 全員、入口で足を止めた。


 淡い灰色の床。


 澄んだ水盤。


 桶を置く水受け。


 村人が休める石段。


 そして、壁の三行。


 転売禁止。


 大量持ち出し禁止。


 破壊行為禁止。


 リオが小さく息を呑む。


「ここが……」


 サナは壁文字を見て、表情を引き締めた。


「短いですね」


 カティアが鼻で笑う。


「短い警告ほど重いんだよ。余計な言い訳を聞く気がねえってことだ」


 見習い魔術師が杖を握り直した。


 その瞬間、クレスが言った。


「第1層では魔法を使うな」


 見習い魔術師の肩が跳ねる。


「は、はい」


「戦闘行為も禁止だ。ここは村人の生活利用区域でもある。水を汲む者、病人、老人、子どもが来る。試し撃ち、試し斬り、威嚇は禁止」


 カティアが続ける。


「あと、壁を触るな。水路を覗き込んで落ちるな。泉を勝手に飲むな。馬鹿をやるなら外でやれ。中でやったら、死体拾いが面倒だ」


 新人たちの顔が引き締まった。


 フィンが端の方で小声で言う。


「カティアさん、怖い」


 マイラが小さく返す。


「でも分かりやすい」


「分かりやすい怖さ」


 カティアはフィンの方をちらりと見た。


「聞こえてんぞ、泥鼻」


「泥鼻!?」


「顔で泥を測ったんだろ」


「情報伝達が早い!」


 フィンは慌てて鼻を押さえた。


 サナが少し笑い、リオも緊張を少し緩めた。


 空気が硬くなりすぎる前に、軽く割れる。


 カティアは口が悪い。


 だが、空気の扱いも悪くなかった。






 黒い水膜の内側で、俺は新しい冒険者たちを見ていた。


「剣士、槍持ち、盾持ち、魔術師、治癒術師。ちゃんとパーティ感あるな」


『魔術師にばかり目が行っているわよ』


「それは仕方ない。杖持ってるんだぞ。何か出そうだろ」


『第1層では出させない』


「分かってる。見たいけど、ここは我慢だな」


『よろしい』


「俺、今かなり偉くない?」


『普通よ』


「厳しい」


 俺はカティアに目を向けた。


 栗色の髪を束ねたCランク斥侯。


 口は悪い。


 立ち方もどこか荒い。


 でも、清水の間に入ってから、視線が一度も止まっていない。


 床。


 壁。


 水路。


 出口。


 村人の位置。


 冒険者の足の向き。


 全部見ている。


「この人、口は悪いけどめちゃくちゃ見てるな」


『斥侯は厄介よ。迷宮を見る角度が違う』


「どう違う?」


『剣士は敵を見る。魔術師は魔力を見る。斥侯は“何が起きる前触れか”を見る』


「おお……それは厄介だ」


『足跡、濡れ方、匂い、音の反響、魔物の寄り方。迷宮側からすると、隠したつもりの癖を読まれる』


「頼れる姉御キャラかと思ったら、迷宮的には監査役みたいな存在だな」


『かんさ?』


「見られたくないところを見る人」


『嫌な役目ね』


「会社にもいた。怖かった」






 カティアはぬかるみ回廊の入口へ向かった。


 第2層から、湿った泥の匂いが流れてくる。


 彼女は一歩入る前に、しゃがんだ。


 指で床の泥を少し触る。


 匂いを嗅ぐ。


 足跡を見る。


 水路の流れを見る。


 滑る石の角度を見る。


 苔鼠の穴を見る。


 泥スライムが反応する距離を測るように、近くの小石を投げた。


 ぷるり、と泥が揺れる。


 カティアの目が細くなった。


「嫌な階層だな」


 リオが緊張した声で聞く。


「危ないですか?」


「危ねえよ」


 カティアはあっさり言った。


「ただ、殺す気満々って感じじゃねえ。足を見ろ、音を聞け、荷物を軽くしろ、退路を残せ。そう言ってるみたいな作りだ」


 サナがぬかるみ回廊を見た。


「訓練向き、ですか」


「向いてる。だが、訓練場と思うな。訓練場には、失敗しても笑って終われる場所がある。ここはねえ」


 カティアは振り返る。


「戻れなきゃ死ぬ。だから戻る練習になる」


 クレスがうなずいた。


「俺の見立てと同じだ」


「そりゃどうも。Bランク様のお墨付きが出たな」


「茶化すな」


「茶化してねえよ。半分しか」


「半分はしている」


「うるさい男だな」


 二人の軽口に、新人たちの緊張が少し緩む。


 だが、カティアの目は笑っていない。


 彼女は泥の奥を見ていた。


「今日は入口だけだ。滑る石の手前まで行って戻る。調子に乗ったやつは、あたしが襟首掴んで戻す」


 リオが真面目にうなずく。


「分かりました」


 サナも剣に触れず、足元を見ていた。


 見習い魔術師は、杖をぎゅっと抱えている。


 その顔を、カティアが見逃すわけがなかった。


「魔術師」


「は、はい」


「今日は撃つな」


「はい」


「撃ちたい顔をするな」


「顔も駄目ですか」


「顔はだいたい行動の前兆だ」


「気をつけます」






 黒い水膜の内側で、俺はそのやり取りを見て、静かにうなずいた。


「顔で魔法撃ちたいのバレるの、面白すぎる」


『貴方も似たような顔をしているわよ』


「えっ」


『撃ちたい顔』


「俺もカティアに怒られる側か……」


『間違いなくね』


「斥侯、怖いなあ」


 新しい冒険者たちが第2層の入口へ集まったことで、清水の迷宮に流れ込む感情は一気に増えた。


 好奇心。


 警戒。


 挑戦欲。


 名声欲。


 魔法を使ってみたい欲。


 失敗したくない不安。


 引率者に認められたい気持ち。


 カティアに怒られたくない気持ち。


 村人の生活欲とは違う、冒険者らしい熱があった。


 表示が浮かぶ。


【新規冒険者の来訪を確認】


【挑戦欲、名声欲、警戒、魔力期待を獲得】


【第1層 非戦闘利用認識を確認】


【第2層 複数パーティ観察利用を確認】


【獲得DP:31】


【現在DP:113】


「おお、増えた」


『人数が増えれば感情の種類も増えるわ』


「魔力期待って表示、やっぱり気になるな」


『貴方が一番期待している顔をしているわよ』


「否定できない」


『ただし、魔法見たさに迷宮を曲げては駄目よ』


「分かってる。そこは自制する。たぶん」


『たぶん?』


「努力します」


『よろしい』


 俺はぬかるみ回廊を見た。


 冒険者たちはまだ奥へ進んでいない。


 今日は観察と入口訓練で終わるだろう。


 それでいい。


 急がなくていい。


 急がせる必要もない。


 でも、いずれ彼らは先を求める。


 泥だけでは飽きる。


 訓練だけでは、人は通い続けない。


 危険を越えた先に、欲しくなるものが必要だ。


「ヴェルティア」


『何?』


「第3層を考えよう」


『ええ。報酬のある階層ね』


「第1層は守る場所。第2層は鍛える場所。第3層からは、ちゃんと欲を置く」


『冒険者を奥へ向かわせる餌ね』


「言い方は怖いけど、まあそうだな」


『何を置くつもり?』


「金、武器、薬、魔石。いろいろあるけど……最初は、もっと広く刺さるものがいい」


『広く?』


「冒険者だけじゃなく、商人や村人にも噂が広がるもの」


『清水のように?』


「そう。でも水とは違う。必要だから使うものじゃなくて、欲しくて取りに行くもの」


 俺は冒険者たちを見た。


 泥だらけになったフィン。


 真面目に傷を確認するマイラ。


 新品に近い革鎧のリオ。


 顔つきの強いサナ。


 カティアの鋭い目。


 そして、村人たち。


 その中には、疲れた顔の女たちもいた。


 水汲みや看病、畑仕事で、頬の色が悪い者。


 寝不足で目元が暗い者。


 手荒れを隠すように袖を引く者。


 ふっと出てきたのは、前世で見た広告や売り場の記憶だった。


 美容。


 健康ではない。


 治療でもない。


 若返りでもない。


 けれど、人はそこにかなり強い欲を向ける。


「美容だな」


『びよう?』


「顔色が少し良くなる。くすみがちょっと抜ける。疲れた顔が、少し戻る」


『若返り?』


「違う」


『治療?』


「それも違う。傷跡も病気も治さない。顔立ちも変えない。美人になる薬でもない」


『では、何を売るの?』


「調子を戻す感じだな」


『ずいぶん曖昧ね』


「曖昧だから欲しくなるんだよ。効きすぎると危ないし、期待も壊れる」


『具体的には?』


「小瓶だな。薄い赤の雫。飲むと、頬や唇に自然な赤みが戻る。寝不足の顔色、軽い肌荒れ、手荒れ、乾燥。そのあたりに少し効く」


『けれど、万能ではない』


「そう。若返らない。病気は治らない。深い肌トラブルも治らない。あくまで、本来の調子に少し近づけるくらい」


『効きすぎない報酬にするのね』


「うん。万能薬にしたら、面倒な連中が一気に来る。最初は欲だけ強くて、危険度は抑えたものがいい」


『そして、噂は広がる』


「たぶん、かなり広がる」


 俺は水盤を見た。


 清い水とは違う。


 泥とも違う。


 第3層に置くなら、少し色があった方がいい。


 赤。


 血色。


 頬。


 疲れた顔に戻る赤み。


『名前は?』


「まだ考える」


『本当はもう浮かんでいる顔ね』


「ちょっとだけ」


『言いなさい』


「いや、次の階層を作る時まで温める」


『焦らすの?』


「人間の欲は、少し焦らした方が濃くなる」


 ヴェルティアが、ゆっくり笑った。


『貴方、本当に迷宮主らしくなってきたわね』


「褒めてる?」


『評価しているのよ』


「それは素直に受け取る」


 俺はぬかるみ回廊を見た。


 冒険者たちは泥の入口で、真剣に足元を見ている。


 村人たちは水を汲みながら、その様子を不安と期待の混じった目で見ている。


 清水の迷宮は、もうただの水場ではない。


 人が来る。


 欲が来る。


 魔法が来る。


 商売の気配が来る。


 そして次は、報酬だ。


「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」


『その言葉、最近は本当に少し根拠が増えてきたわね』


「だろ?」


『でも、調子に乗ると足元を取られるわよ』


「ぬかるみ回廊みたいに?」


『ええ』


「じゃあ足元確認!」


 俺は自分の足元を見た。


 今日は沈んでいなかった。


「よし、戻れてる!」


『まだ始まってもいないわ』


「戻れたなら成功!」


『使い方が雑よ』


 黒い水膜の内側に、俺の笑い声とヴェルティアの呆れた声が混ざった。


 外には届かない。


 迷宮はまだ、人間に語らない。


 ただ、水を流し、泥を沈め、次の欲を静かに育てていた。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


クレスの報告により、清水の迷宮は「要観察の特殊迷宮」としてギルドに仮記録されました。


そして新たに、Cランク斥侯のカティアと新人冒険者たちがやってきました。


第1層は生活区域。


第2層は訓練区域。


そして第3層からは、いよいよ報酬のある階層へ進んでいきます。


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