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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第7話 新人、ぬかるみに学ぶ


 ぬかるみ回廊の入口で、クレスは腕を組んで立っていた。


 剣は抜いていない。


 足も踏み出していない。


 ただ、見ている。


 その視線の先には、フィンとマイラがいた。


 二人は第2層の入口に並び、泥落としの泉の横で装備を確認している。


 フィンは矢筒の位置を少し高く直し、靴紐を二重に結んだ。


 昨日、苔鼠に狙われた場所だ。


 本人は何も言わないが、かなり気にしているらしい。


「よし。靴紐、よし。矢筒、よし。弓、よし。心、やや泥」


 フィンは自分の胸を軽く叩いた。


 マイラが杖を短く持ち直しながら、冷静に言う。


「心は洗えないから、自分で何とかして」


「泥落としの泉、心にも効きませんかね」


「飲用不可」


「心で飲むのも不可?」


「多分、迷宮に怒られる」


 フィンは泉をちらりと見た。


 淡く白濁した水面が、ぴたりと静まっている。


 そこに刻まれている短い文字は、昨日から変わらない。


 泥落としの泉。


 飲用不可。


 迷宮は余計な説明をしない。


 水が流れるか。


 止まるか。


 それだけで答える。


 フィンは両手を上げた。


「飲みません。見てるだけです。水面に映る俺の泥まみれな将来を見てるだけです」


「それ、見えてるなら避けて」


「避けたい。切実に避けたい」


 マイラの裾は、昨日より少し高く留められていた。


 杖も長く突くのではなく、短く構えられるように持っている。


 肩掛けの小袋も、腰の前側に移していた。


 泥に引っ張られにくい位置だ。


 さらに腰の小さな革筒には、包帯と薬草粉、それから薄い白布が入っている。


 治癒役の道具らしい。


 マイラはそれを指先で確認し、最後に自分の手のひらを見た。


「魔力、今日は温存する」


 フィンが小声で聞いた。


「ライトヒール、使わない方針?」


「使わなくて済むならね。小さい傷で全部魔法に頼ったら、奥で本当に必要な時に困る」


「なるほど。じゃあ俺の心の傷は?」


「自力」


「厳しい」


 クレスはそれを見て、軽くうなずいた。


「二人で行け」


 フィンの顔が一瞬だけ固まる。


「クレスさん、本当に入口で見てるだけですか?」


「ああ」


「俺たちが、こう、泥に飲まれたり、鼠に靴紐を芸術的に解体されたり、泥スライムに全身で歓迎されたりしても?」


「自分たちで判断しろ」


「歓迎の圧が強すぎる場合は?」


「戻れ」


「戻る。いい言葉ですね。俺、戻るって言葉、今日かなり好きです」


 クレスは少しだけ笑った。


 それから、表情を引き締める。


「危険なら声はかける。だが、基本的には手を出さない」


 その言葉に、フィンの表情から笑いが少し消えた。


 マイラもまっすぐクレスを見る。


「私たちが判断しないと、意味がないからですか」


「そうだ」


 クレスはぬかるみ回廊を見た。


 泥道。


 浅瀬。


 滑る石床。


 濁った水路。


 奥で小さく揺れる泥スライムの影。


「Bランクが後ろにいるから安全、ではない。俺が全部助けるなら、君たちはこの階層から何も学べない」


「……はい」


 マイラは短く答えた。


 フィンは小さく息を吐く。


「分かりました。つまり、今日の俺たちは自力で泥と親睦を深めるわけですね」


「親睦ではなく警戒」


「警戒しながら、適度な距離感で泥とお付き合いしてきます」


「付き合わなくていい。見ろ。聞け。考えろ。戻れ」


 クレスは二人へ視線を向けた。


「怖いなら正しい。怖くなくなった時が一番危ない」


 フィンは口を閉じた。


 マイラも小さくうなずく。


 その言葉は軽くない。


 けれど、不思議と背中を押す響きがあった。


「行ってきます」


 マイラが言った。


「行ってきます。できれば帰ってきます」


 フィンが続く。


「できれば、じゃない」


 クレスが言った。


「必ず戻れ」


「はい!」


 二人は、ぬかるみ回廊へ足を踏み入れた。


 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


 隣には、実体化したヴェルティアがいる。


 黒いゴシック調のドレス。


 銀白の長い髪。


 赤い瞳。


 黙っていれば、完全に迷宮の女王だ。


 黙っていれば。


「……クレス、すごくない?」


『Bランクでしょう』


「いや、そういう強さだけじゃなくてさ。言うことがいちいち主人公なんだけど」


『主人公?』


「物語の中心に立つ人」


『貴方ではなく?』


「いや、俺が主人公のはずなんだけど、今ちょっと危ない。この人、主人公か!?」


『迷宮主が自分の立場を疑わないでちょうだい』


「だって『怖いなら正しい』だぞ。何その名言。俺も言いたい」


『言えばいいじゃない』


「俺が言うと『怖いなら帰って水飲もう』になる」


『貴方らしいわね』


「褒めてる?」


『評価よ』


「高貴なる評価?」


『それは私の言葉よ』


 ヴェルティアは赤い瞳で、ぬかるみ回廊を見つめていた。


 実体化したばかりの体は、まだ少し不安定らしい。


 長い髪の先が、時々ふわりと魔力にほどけかける。


 そのたびに、本人がすました顔で指先に巻き戻している。


 高貴なる寝癖みたいなものだ。


「今、失礼なことを考えなかった?」


「考えてません」


「間があったわ」


「ヴェルちゃん、感度高いな」


 俺の足元が、ぬちゃりと沈んだ。


「その呼び方は禁止よ」


「外では禁止って話じゃなかった?」


「内側でも禁止よ」


「でも、ちょっと許してる感じが」


「ないわ」


「ヴェルちゃん」


 さらに足が沈んだ。


「ごめんなさい」


「素直でよろしい」


「この呼称矯正訓練、ぬかるみ回廊より厳しい」


『第2層相当よ』


「俺まで訓練されてる!」


 黒い水膜の向こうでは、フィンとマイラが慎重に進んでいる。


 昨日より足取りが違う。


 フィンはもう大股で歩かない。


 泥の深さを確かめるように、足の裏で押してから体重を乗せている。


 マイラは杖を前に突きすぎず、足元の石と水音を確認してから進む。


「いいな」


『ええ。昨日より迷宮を見ているわ』


「足元、音、荷物、仲間の位置。ちゃんと見てる」


『恐怖と悔しさは、良い教師になるわ』


「言い方は怖いけど、その通りだな」


『迷宮だもの』


「便利ワード出た」


『便利ではないわ。高貴なる事実よ』


「出た、高貴なる便利ワード」


 ヴェルティアは少しだけ口元を緩めた。


 たぶん笑っている。


 笑ったと言うと怒るので、今は言わないでおく。


 フィンとマイラは、最初の滑る石床まで来ていた。


 昨日、フィンが尻から落ちた場所だ。


 石は浅瀬の中にいくつも並んでいる。


 一見すると、足場に見える。


 だが、表面は薄い苔と水でぬめっている。


 体重の乗せ方を間違えれば、簡単に滑る。


 フィンは石の前で止まった。


「ここ、昨日の俺の尊厳沈没地点」


「尊厳は置いていって。荷物になる」


「ひどい」


「軽くなるよ」


「実用的なひどさ」


 マイラは杖の先で石を軽く押した。


 つるり、と杖が横に流れる。


 マイラの眉が動いた。


「滑る。右側の石は駄目」


「左は?」


 フィンがしゃがんで、水の流れを見る。


「左の方が浅い。でも、その先の泥が濃い」


「真ん中は?」


「真ん中は……苔が薄い。でも水音が変」


 二人は黙る。


 水音。


 浅瀬の流れに混じって、ぴちょん、ぴちょん、と違う音がする。


 一定ではない。


 何かが、水の下で動いているような音。


 マイラが小さく言った。


「水路側に何かいる」


「泥スライム?」


「たぶん」


「見える?」


「見えない」


「見えないの、嫌だなあ」


「嫌だから確認する」


 マイラは小石を拾い、水路の端へ軽く投げた。


 ぽちゃん。


 泥の表面がぷるりと揺れた。


 濁った水の中から、泥スライムがゆっくり動き出す。


 フィンは息を呑んだ。


「いた」


「近づく?」


「こっちが動けば反応すると思う」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、同時に一歩下がった。


 クレスは入口側からそれを見ている。


 何も言わない。


 フィンは一度だけクレスの方を見た。


 助けを求める目ではない。


 確認する目だった。


 クレスはただ頷いた。


 フィンは前を向く。


「先に石床を越える。泥スライムは近づいたら下がる」


「荷物は?」


「上げる」


「私が先?」


「いや、俺が先に行く。滑ったら、笑うなよ」


「笑う余裕があったら、たぶん助ける」


「余裕がなかったら?」


「戻る」


「正しい!」


 フィンは左肩の荷物を上げ、弓を体の前に寄せた。


 一歩。


 石に足を乗せる。


 すぐには体重をかけない。


 足裏で確かめる。


 二歩目。


 浅瀬の水が足首に当たる。


 フィンは水を蹴らないよう、ゆっくり進んだ。


 マイラが後ろから続く。


 杖を水につけないよう短く持ち、裾を片手で押さえている。


 その時だった。


 壁際の苔が、小さく揺れた。


 苔鼠が穴から飛び出した。


 狙いはフィンではない。


 マイラの荷物紐だった。


「マイラ、右!」


 フィンが声を抑えて言う。


 マイラは体をひねった。


 その瞬間、足元の石が滑る。


「っ」


 体勢が崩れた。


 マイラが杖を突こうとする。


 だが、杖を突いた先は浅瀬の泥だった。


 ずぶり、と沈む。


 支えにならない。


「マイラ!」


 フィンが手を伸ばした。


 マイラの腕を掴む。


 だが、フィン自身の荷物が重い。


 昨日より上げていたとはいえ、泥を吸った矢筒と濡れた靴が体を後ろへ引く。


 二人分の重さが、滑る石の上で一気に崩れた。


「うわっ」


 フィンの足が流れる。


 マイラも引っ張られる。


 その横で、苔鼠が荷物紐に噛みついた。


 ぷつん。


 細い紐が切れる。


 小袋が泥へ落ちた。


 さらに、水路の泥スライムがゆっくり進路を塞ぐように動く。


 強い魔物ではない。


 だが、退路にいる。


 滑る石床。


 泥を吸った荷物。


 足を取る浅瀬。


 荷物紐を狙う苔鼠。


 退路を塞ぐ泥スライム。


 どれも一つなら小さな問題だ。


 だが、重なると危険になる。


 フィンの顔から軽さが消えた。


「どうする」


 マイラが低く聞いた。


 フィンは小袋を見た。


 泥に沈みかけている。


 中には包帯、薬草粉、薄い白布が入っている。


 治癒役の道具だ。


 取りたい。


 だが、取るには一歩踏み込む必要がある。


 泥スライムが近い。


 マイラの足元は滑る。


 フィンの荷物も重い。


 フィンが歯を食いしばる。


「俺が」


「戻る」


 マイラが言った。


 短く。


 はっきりと。


 フィンが振り向く。


「でも、荷物」


「戻る」


 マイラの声は震えていなかった。


「道具より、足が大事。今取りに行ったら、二人とも崩れる」


「でも、回復道具だろ」


「私にはライトヒールがある。でも、魔法を使う時間と足場がなければ意味がない」


 フィンは一瞬だけ迷った。


 泥に沈む小袋を見る。


 泥スライムを見る。


 マイラを見る。


 そして、うなずいた。


「戻る」


 二人はゆっくり下がった。


 フィンがマイラの腕を支える。


 今度は引っ張らない。


 体重を預けさせず、二人で同じ方向へ足を動かす。


 泥スライムが近づく。


 苔鼠がちょろちょろと足元を狙う。


 フィンは短剣を抜きかけ、やめた。


 大きく動けば滑る。


 代わりに靴先で水を小さく払った。


 苔鼠が一瞬止まる。


 その間に、マイラが浅瀬から足を抜いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 泥落としの泉の見える場所まで戻った瞬間、泥スライムの動きが鈍くなる。


 追ってこない。


 フィンとマイラは、そのまま入口まで下がった。


 泥落としの泉まで戻ると、フィンはその場に座り込んだ。


 マイラも杖を握ったまま、深く息を吐く。


 白濁した泉に足を入れると、泥がゆっくり剥がれていく。


 擦り傷の周りの泥も落ちる。


 汚れが流れ、赤くにじんだ部分がはっきり見えた。


 泥落としの泉は、助けてくれる。


 泥を落とす。


 少しだけ痛みを和らげる。


 気休め程度に疲れを軽くする。


 だが、完全には治さない。


 傷は傷のまま残る。


 マイラは泉から足を上げ、自分の膝を見た。


 石で擦った傷がある。


 浅い。


 だが、泥にまみれていたら危なかったかもしれない。


 フィンが心配そうに覗き込む。


「大丈夫か?」


「浅い。けど、試す」


「試す?」


 マイラは杖を立て、左手を傷の近くに添えた。


 目を閉じる。


 短く息を吸う。


「ライトヒール」


 声は小さい。


 だが、清水の間の空気が、ほんの少し震えた。


 マイラの手のひらに、淡い若葉色の光が灯る。


 光は水面に映り、泥落としの泉の白濁に淡く混ざった。


 光が、傷口へ吸い込まれた。


 赤くにじんでいた部分が、ゆっくり閉じていく。


 完全に消えたわけではない。


 跡は残る。


 痛みも少し残る。


 だが、血は止まった。


 皮膚が薄くつながり、動いても広がらない程度には塞がった。


 フィンが目を丸くした。


「おお……何回見ても便利」


「便利じゃない。魔力を使うし、集中もいる。泥の中では無理」


「心の傷には?」


「効かない」


「今日、心への判定が厳しい」


 マイラは少しだけ笑った。


 その額には、うっすら汗が浮いている。


 小さな傷を塞いだだけだ。


 それでも魔力を使った。


 無限ではない。


 万能でもない。


 だからこそ、どこで使うかが大事だった。


 黒い水膜の内側で、俺は固まっていた。


「……」


『大地?』


「……」


『どうしたの?』


「……魔法」


『ええ』


「今、魔法を使ったよな?」


『使ったわね』


「人間が、魔法名を唱えて、手が光って、傷が閉じたよな?」


『その通りよ』


「うおおおおおおお!」


『声が大きいわ!』


「本物の回復魔法だ! 見た!? 見たよな!? 光った! ライトヒールって言った! 傷が閉じた! これだよこれ! 異世界ファンタジー!」


『貴方、迷宮主になってから今さら異世界に興奮するの?』


「する! するに決まってるだろ! 水脈生成とかDP表示もすごいけど、あれは俺たち側の機能じゃん! 今のは人間が使う魔法! 現地人の魔法! 外部魔法実演!」


『外部魔法実演とは何よ』


「すごい……! 俺もやりたい!」


『無理よ』


「早い!」


『貴方は迷宮主。魔法使いではないもの』


「そこをなんとか!」


『ならないわ』


「異世界に来たのに魔法使えないの、やっぱりつらい!」


『その代わり、貴方は階層を作れるでしょう』


「それはそれ、これはこれ!」


『わがままね』


「男の子は一回くらいライトヒールとかファイアボールとか撃ちたいんだよ!」


『貴方、三十八歳でしょう』


「異世界では心が少年に戻るんだよ!」


『面倒な生き物ね』


 俺は水膜の向こうのマイラを見た。


 傷を塞いだあと、彼女はすぐに立ち上がらない。


 呼吸を整え、杖を握り直している。


 魔法はすごい。


 でも、簡単ではない。


 泥の中で焦りながら使えるものではない。


 そこが、またいい。


「ヴェルティア」


『何?』


「魔法を使うと、迷宮にも何か流れてくるのか?」


『ええ。ごくわずかだけれど、魔力の残響が残るわ。発動時の緊張、集中、消費、安心。それらが混ざって、迷宮に薄く入る』


「つまり、ライトヒールを使う場面もDPになる?」


『わずかにね。死体を吸うほど濃くはない。でも、繰り返されれば流れになる』


「なるほど……」


 俺は胸が熱くなった。


 水。


 泥。


 恐怖。


 撤退。


 連携。


 そして、魔法。


 ダンジョン運営ファンタジーっぽさが、一気に濃くなってきた。


「やばい。楽しい」


『人間が転んで、傷を負って、魔法を使っているのに?』


「そこだけ切り取ると最低だな!」


『実際、迷宮主らしいわ』


「褒めてる?」


『評価よ』


「高貴なる?」


『高貴なる』


「いただきました!」


 俺は拳を握った。


「第2層、ちゃんと冒険者の行動を引き出してる。見る、進む、失敗する、戻る、治す、反省する。これ、すごいぞ」


『貴方が考え、私が形にしたのだから当然よ』


「最高の共同制作じゃん」


『言い方が庶民的ね』


「庶民出身だからな!」


「……くそ」


 フィンが小さく言った。


 マイラが顔を向ける。


「怪我?」


「違う」


 フィンは泥に沈んだ奥の方を見た。


「奥まで行けなかった」


 声には、悔しさがあった。


 魔物を倒せなかった悔しさではない。


 格好悪く転んだ悔しさでもない。


 進めなかった悔しさ。


 戻るしかなかった悔しさ。


「俺、昨日よりは見てたつもりだったんだけどな」


「見てたよ」


 マイラが言った。


「昨日より、ずっと」


「でも、戻った」


「戻れた」


 フィンは黙った。


 そこへ、クレスが歩いてきた。


 入口側から、静かに二人を見る。


 フィンは少し身構えた。


 叱られると思ったのかもしれない。


 マイラも背筋を伸ばした。


 クレスは二人を見て、短く言った。


「戻れたなら成功だ」


 フィンが目を見開いた。


「……成功、ですか?」


「ああ」


「奥まで行けてないですよ」


「奥まで行けなかったと判断して、戻った。荷物を諦めた。二人で戻った。死ななかった。それは成功だ」


 クレスの声は穏やかだった。


 だが、軽くはなかった。


「迷宮で一番まずいのは、勝てないことじゃない。戻れないことだ」


 フィンの喉が鳴る。


 マイラは、ライトヒールをかけたばかりの膝にそっと触れた。


「ライトヒールを使っても、ですか」


「使って戻れたなら、それも判断だ」


「でも、魔力を使いました」


「使わず悪化させるよりいい。ただし、次は使わずに済む動きを考えろ」


 マイラは目を伏せた。


 少し悔しそうだった。


 けれど、納得もしている顔だった。


「魔法があるから進める、ではない」


 クレスは言った。


「魔法があっても戻る。そこを間違えるな」


 マイラは、はっきりとうなずいた。


「はい」


 フィンが頭をかく。


「つまり、今日は泥に負けたんじゃなくて、泥から生還した?」


「そう言ってもいい」


「じゃあ、俺の尊厳も少し戻ります?」


「それは自分で拾え」


「泥の中に沈んでるんですが」


「なら、次に拾えるよう進め」


 フィンはぽかんとした。


 それから、小さく笑った。


「クレスさん、たまに言い方がずるいです」


「何がだ?」


「怒られると思ったら、ちょっと前向きになるやつを出してくる」


 マイラも小さく笑った。


「だからついて行きたくなるんだよ」


 フィンは照れくさそうに泥のついた鼻をこすった。


 余計に汚れた。


 マイラが無言で布を渡す。


「ありがとう。今、俺の顔が迷宮の一部になりかけた」


「だいぶなってる」


 クレスは少しだけ笑った。


 だが、すぐにぬかるみ回廊へ視線を戻した。


「この階層は、新人を甘やかしていない」


 クレスが静かに言った。


「だが、いきなり殺す気でもない」


 フィンとマイラが顔を上げる。


「足場、音、荷物、連携、撤退。そして、魔法を使う判断。新人が迷宮で死ぬ理由を、浅い場所でまとめて見せてくる」


 クレスは少し間を置いた。


「訓練場に近い。だが、訓練場ではない。判断を誤れば死ぬ。だから意味がある」


 オルド村長は、その言葉を入口の近くで聞いていた。


 村人たちも、遠巻きに聞いている。


 誰も笑わない。


 だが、清水の間の空気が少し変わった。


 水だけの場所ではない。


 人が消える怖い場所でもある。


 そして、冒険者が泥に沈み、生きて戻ることを学ぶ場所でもある。


 迷宮の意味が、一つ増えた。


「クレス殿」


 オルドが低く言った。


「この迷宮は、どう見るべきでしょうか」


 クレスはすぐには答えなかった。


 清水の間を見る。


 村人が使う水場を見る。


 破壊行為禁止の文字を見る。


 そして、ぬかるみ回廊を見る。


「討伐対象と決めるには早いです」


 村人たちが小さくざわつく。


「ただし、危険がないわけではありません。第1層は村人の生活を支えている。第2層は、低ランク冒険者の訓練に使える可能性がある」


「可能性」


「はい。今日だけで断定はできません。けれど、フィンとマイラが学んだことは本物です」


 フィンが照れたように鼻をこする。


 また泥が伸びた。


 マイラが二枚目の布を渡した。


「ありがとう。俺の顔、今どこまで迷宮化してる?」


「頬まで」


「まだ戻れる?」


「戻れたなら成功」


「それ、便利に使わないで」


 クレスは笑いをこらえるように息を吐き、それから表情を戻した。


「ギルドには、こう報告します。第1層は非戦闘利用区域。第2層は低ランク冒険者向けの訓練可能区域。ただし、油断すれば死亡の危険あり」


 オルドは深く息を吐いた。


「では、冒険者が来るようになるのか」


「来るでしょう」


 クレスは答えた。


「清い水があり、訓練できる階層がある。噂になれば、必ず」


 村人たちの顔に、不安と期待が混ざる。


 水が得られる。


 冒険者が来る。


 宿が必要になる。


 食事が必要になる。


 靴や紐、簡単な修理も必要になる。


 村が変わるかもしれない。


 だが、それは同時に、別の欲も連れてくる。


 オルドは、そのことを分かっている顔をしていた。


「これは、村のものではない」


 オルドは自分に言い聞かせるように言った。


「だが、村はこの迷宮のそばにある。なら、村も変わらねばならん」


 クレスはうなずいた。


「その判断は、早い方がいいと思います」


「クレス殿は、どうされる」


「明日、ギルドへ報告に戻ります」


 フィンが顔を上げた。


「え、クレスさん一人で?」


「ああ。急いだ方がいい」


「俺たちは?」


「この村に残れ」


 フィンとマイラが、同時に固まった。


「残る?」


「ここで待機し、第1層の利用状況と第2層の反応を見る。無理に奥へは進むな。ただし、戻れる範囲で訓練は続けろ」


「クレスさんなしで?」


「俺がいないからこそ、自分たちで判断する練習になる」


 フィンは口を開けたまま固まった。


 マイラは少しだけ不安そうに杖を握る。


 クレスは二人を見た。


「怖いなら、それを忘れるな。忘れなければ、戻れる」


 まただ。


 フィンは苦笑した。


「だから、そういう言い方するんですよね」


「嫌か?」


「嫌じゃないです。ずるいだけで」


 マイラが小さくうなずく。


「残ります。無理はしません。戻る判断を最優先します。魔力も無駄遣いしません」


「いい返事だ」


 クレスは二人の肩に軽く手を置いた。


「君たちは今日、勝てなかったんじゃない。戻れた。そこから始めればいい」


 清水の間に、水音が響いた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その奥で、ぬかるみ回廊の泥音が混ざる。


 ぬちゃり。


 ぴちゃん。


 ずるり。


 清い水と泥。


 生活と訓練。


 救いと危険。


 そして魔法。


 それらが、同じ迷宮の中で流れ始めていた。


 黒い水膜の内側で、俺は両手で頭を抱えていた。


「この人、やっぱり主人公だろ!」


『まだ言っているの?』


「だって見た? 『魔法があっても戻る』だぞ。何その言葉の剣技。俺の心まで斬られたんだけど」


『斬られている場合ではないわ。貴方は迷宮主でしょう』


「分かってる。でもクレス、強すぎる。剣も強そう。性格も主人公。新人育成も上手い。泥まみれの若者に前を向かせる。属性盛りすぎじゃない?」


『厄介な相手ね』


「敵に回したくないなあ」


『今のところ、敵意はないわ』


「そこがまた主人公っぽい。まず見て、考えて、決めるタイプ」


『貴方より落ち着いているわね』


「刺すなあ」


『高貴なる事実よ』


「痛い事実!」


 俺の足元で、泥がぬちゃりと鳴った。


 ヴェルティアがやったわけではない。


 ぬかるみ回廊から伝わる泥音だ。


 その音を聞いて、俺は青白い表示を見た。


【第2層 ぬかるみ回廊 初回訓練利用を確認】


【恐怖、悔しさ、撤退判断、連携意識を獲得】


【ライトヒールの発動を確認】


【魔力残響を微量獲得】


【泥落としの泉を使用】


【獲得DP:22】


【泥落としの泉維持、苔鼠小巣再形成、泥スライム再形成にDPを3消費】


【現在DP:53】


「……思ったより少ないけど、増えたな」


 俺は表示を見つめた。


 ネズ一人を吸収した時に比べれば、ずっと少ない。


 人が死んだ時のDPは濃かった。


 恐怖も、死体も、魔力も、道具も、全部が迷宮へ還った。


 それに比べれば、今回のDPは小さい。


 でも。


『ええ。でも、こちらの方が濁らないわ』


 ヴェルティアが言った。


 実体化した彼女は、黒いドレスの裾を整えながら、表示を見ている。


 白銀の髪が、黒い水膜の光を受けて淡く揺れた。


『恐怖、悔しさ、撤退判断、連携意識、魔力残響。どれも薄い。けれど、次につながる』


「少なくても、何度も来る」


『通わせる迷宮ね』


「そう。泥まみれで帰って、悔しがって、また来る。怪我をして、ライトヒールを使って、魔力を消費して、次は魔法を使わずに戻ろうと考える。そっちの方がいい」


『高貴なる継続収益ね』


「言い方」


『違うの?』


「違わないけど、もっと情緒を大事にして」


『高貴なる情緒的継続収益』


「悪化した」


 ヴェルティアは小さく笑った。


 笑った。


 たぶん、笑った。


 無表情に近い冷たい顔のまま、口元だけがほんの少し動いた。


「今、笑った?」


「笑っていないわ」


「いや、笑った」


「笑っていない」


「ヴェルちゃん、笑うとかわいいな」


 俺の足元が、ぬちゃりと沈んだ。


「毎回これ!」


「学習しなさい」


「これも訓練?」


「高貴なる呼称矯正訓練よ」


「嫌すぎる」


 水膜の向こうでは、フィンとマイラがもう一度、ぬかるみ回廊の入口を見ていた。


 すぐには入らない。


 でも、目は逃げていない。


 フィンは泥を落とした靴紐を見て、また結び直している。


 マイラは失った小袋の代わりに、残った道具を数え直している。


 それから、自分の手のひらを見て、魔力の残りを確かめるように指を握ったり開いたりしていた。


 クレスはその二人を見ている。


 手を出さずに。


 けれど、目を離さずに。


「いい流れだな」


『ええ』


「水だけじゃない。泥も、魔法も、役に立つんだな」


『当然でしょう』


 ヴェルティアは顎を上げた。


『清い水だけでは、人間は甘える。泥だけでは、人間は嫌がる。魔法だけでは、人間は慢心する。水で迎え、泥で試し、魔法の限界を見せる。それがこの迷宮の形になり始めているわ』


「それ、俺が考えたんだけどな」


『私が形にしたわ』


「じゃあ共同制作か」


『そうね。高貴なる共同制作よ』


「庶民なる企画と、高貴なる施工」


『言い方が急に現場ね』


「元会社員だからな!」


 俺は表示をもう一度見た。


 獲得DPは多くない。


 でも、悪くない。


 フィンとマイラは生きて戻った。


 マイラはライトヒールを使った。


 クレスは迷宮を即討伐対象にしなかった。


 村は、この迷宮をただの水場でも、ただの怪物でもないと見始めた。


 これは大きい。


 たぶん、かなり大きい。


「ヴェルティア」


『何?』


「第2層、成功だな」


『まだ初回よ』


「戻れたなら成功なんだろ?」


『……それを貴方が言うのね』


「言いたかった」


『あの剣士の言葉を盗んだわね』


「いい言葉は活用する。前世でもよくやった」


『だから会社員は恐ろしいのね』


「その会社員、今は迷宮主です」


『知っているわ』


 ヴェルティアは赤い瞳で俺を見た。


『迷宮主。次はどうするの?』


「クレスがギルドに報告へ行くなら、人が増える」


『ええ』


「フィンとマイラは残る。村人も水を使う。清水の間と第2層で、少しずつDPは入る」


『次の階層を考える?』


「考える。でも急ぎすぎない。第2層を回しながら、冒険者が何を欲しがるか見る」


『報酬ね』


「そう。第3層からは、ちゃんと報酬を置きたい。危険を越えた先に、欲しくなるものを置く」


『人間が目を輝かせるもの』


「そう。金じゃなくてもいい。むしろ、金に変えたくなるもの」


 ヴェルティアの瞳が、楽しげに細くなった。


『貴方、本当に人間の欲を扱うのが上手くなってきたわね』


「前職でポイントカード施策やってたからな」


『ぽいんと、かーど……やはり恐ろしい響きね』


「恐ろしいぞ。あと一回で景品とか、人間は弱い」


『なら、第3層はその弱さを使うのね』


「そういうこと」


 俺はぬかるみ回廊を見た。


 泥。


 水。


 恐怖。


 悔しさ。


 戻る判断。


 魔力の消費。


 そして、次へ進みたい欲。


 迷宮は、少しずつ迷宮になっている。


 清水の間に、水音が響く。


 その奥に、泥音が混ざる。


 外では、クレスが村長に説明している。


 フィンとマイラが装備を直している。


 内側では、俺とヴェルティアが次を見ている。


「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」


『その言葉、最近は少しだけ根拠が増えてきたわね』


「お、褒めた?」


『評価よ。高貴なる評価』


「高貴なる評価いただきました!」


『調子に乗らないでちょうだい』


「今は乗る! 第2層、ちゃんと機能したからな! しかも魔法も見られた!」


『そこが一番嬉しそうね』


「そりゃそうだろ! 人間が使う本物の魔法だぞ!」


『貴方も階層を作っているでしょう』


「それはそれ、これはこれ!」


『本当に面倒ね』


「異世界ファンタジーを摂取した元日本人は、だいたいこうなる!」


 俺が拳を握ると、ヴェルティアは呆れたように息を吐いた。


 それでも、赤い瞳は少しだけ楽しそうだった。


「ねえ、大地」


「何?」


「その勢いで、足元を忘れないことね」


「うまいこと言うなあ」


『高貴なる助言よ』


「じゃあ、足元確認!」


 俺は自分の足元を見た。


 ヴェルティアの制裁で、まだ少し泥に沈んでいた。


「……まず俺が戻れてない」


『戻れたなら成功よ』


「クレスの名言を泥罰に使うな!」


 黒い水膜の内側に、俺の叫びとヴェルティアの小さな笑いが混ざった。


 外には届かない。


 迷宮は、まだ人間に語らない。


 ただ、水を流し、泥を沈め、壁に刻まれた短いルールを示す。


 そして人間は、その中で勝手に学んでいく。


 清水の迷宮は、少しずつ大きくなっていた。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


第2層「ぬかるみ回廊」は、新人を甘やかす場所ではありません。


けれど、死ぬ前に失敗させ、生きて戻る判断を教える場所です。


今回はマイラの回復魔法も登場しました。


魔法は便利ですが、万能ではありません。


クレスはこの階層を、低ランク冒険者の訓練に使える可能性があると見ました。


次話では、この報告が村と冒険者ギルドにどう広がっていくのかを書いていきます。


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