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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第6話 高貴なるヴェルちゃん



 白銀の魔力が、俺の手に触れた。


 冷たく、柔らかく、確かにそこにあった。


 触れる。


 投影ではない。


 幻でもない。


 手のひらに乗るその光は、細く、なめらかで、淡いラベンダーを含んだ銀白色に揺れていた。


「……いやいやいや」


 俺は、さっきから同じことしか言えていない。


「どういうこと?」


『私が聞きたいわよ!』


 ヴェルティアの声は、いつもの高飛車な響きのまま震えていた。


 震えた高飛車。


 なかなか珍しい音色である。


 赤黒いコアから、銀白の魔力がほどけていく。


 黒い魔力が床を這い、赤い粒子が水音に混ざって舞う。


 その中心で、細い指が形を持った。


 白い手。


 黒いレースの袖口。


 肩を覆う黒いゴシック調のドレス。


 胸元には赤い宝石。


 黒薔薇と茨のような頭飾り。


 そして、長い銀白の髪。


 周囲には、黒い水膜が張っていた。


 清水の間の奥を、外から隠す膜だ。


 水音も、魔力の光も、声も、ほとんど外へ漏れない。


 村人も、冒険者も、こちらの姿を見ることはできない。


 迷宮の奥で何かが起きている。


 外の者に分かるのは、その程度だ。


 それでいい。


 俺とヴェルティアは、外の人間と直接話さない。


 迷宮は、壁文字と構造と現象で示す。


 それが、この場所のやり方だ。


『大地、手を離さないでちょうだい』


「離したらどうなる?」


『分からないわ!』


「分からないのに高圧的!」


『高貴なる緊急事態よ!』


「便利ワードを緊急避難に使うな!」


 俺は白銀の魔力に触れたまま、もう片方の手を伸ばした。


 魔力の中から、肩が現れる。


 細い首。


 透き通るような白い肌。


 耳元には赤い宝石のイヤリング。


 長い睫毛。


 閉じられていた瞼が、ゆっくり開く。


 鋭く静かな赤い瞳。


 無表情に近い冷淡な顔。


 まるで、迷宮そのものが女王の姿を選んで立ち上がったようだった。


 美しい。


 冷たい。


 近づきがたい。


 高貴。


 そんな言葉が頭に浮かんだ直後、その女は片足を出して、ドレスの裾を踏んだ。


「きゃっ」


 ずるっ。


 高貴なる女王様は、完成直後に前のめりで倒れかけた。


「危なっ!」


 俺は慌てて支えた。


 細い体が腕の中に収まる。


 軽い。


 冷たい。


 そして、ちゃんと重さがある。


 実体だ。


 完全に実体だ。


「……た、助かったわ」


「高貴なる完全顕現、初手で自分の裾に負けてるけど大丈夫?」


「床が遠かっただけよ」


「床はずっとそこにあるだろ」


「うるさいわね!」


 ヴェルティアは俺の腕から離れようとして、今度は長い髪が俺の肩に引っかかった。


「あ、待って。髪、絡まってる」


「何でそんなところに貴方の肩があるのよ!」


「俺の肩の位置に文句言われたの初めてだよ!」


 俺が髪をほどこうとすると、ヴェルティアは真っ赤な瞳で睨んできた。


 無表情に近い冷淡な顔。


 ただし、耳がほんのり赤い。


「丁寧に扱いなさい。これは高貴なる髪よ」


「はいはい。高貴なる絡まりを解きますね」


「はいは一回!」


「はい」


「素直だと、それはそれで腹立たしいわね」


「どうしろと」


 どうにか髪をほどくと、ヴェルティアは顎を上げた。


 黒いゴシックドレスの裾が魔力の風で広がる。


 黒いレース。


 花飾り。


 棘のような装飾。


 赤い宝石のアクセント。


 薄く透ける布と重い黒布が重なり、裾とリボンがゆっくり揺れている。


 露出は控えめ。


 妖艶というより、神秘的で威厳がある。


 黙っていれば、完全に迷宮の女王だ。


 黙っていれば。


「どうかしら」


 ヴェルティアは、無表情に近い顔で俺を見た。


「高貴なる私の完全顕現よ」


「いや、美人すぎてびっくりした」


「と、当然でしょう」


 ヴェルティアの赤い瞳が少し揺れた。


「私は高貴なるダンジョンコアなのだから、この程度は当然よ」


「でも裾踏んだ」


「言わないでちょうだい!」


「髪も絡まった」


「言わないでちょうだい!」


「ヴェルちゃん、意外とドジだな」


 空気が止まった。


 水音まで止まった気がした。


 ヴェルティアの赤い瞳が、すうっと細くなる。


「今、何と呼んだの?」


「ヴェルちゃん」


「誰が?」


「君が」


「誰を?」


「ヴェルティアを」


「なぜ?」


「長いから」


 ヴェルティアの肩が震えた。


 怒りか。


 羞恥か。


 高貴なる複合災害か。


「私は、死にかけながらも高貴なる迷宮核として再起した存在よ」


「うん」


「第2層完成によって、ついに実体ある姿を得た、清水の迷宮の核よ」


「うん」


「その私を、ヴェルちゃん?」


「かわいいだろ」


「かわっ」


 ヴェルティアが固まった。


 赤い瞳が泳ぐ。


「か、かわいいなどという庶民的評価で、私を測るのではないわ!」


「じゃあ、高貴かわいい」


「混ぜないでちょうだい!」


「高貴なるヴェルちゃん」


「やめなさい!」


 その叫びで、黒い水膜がびくりと揺れた。


 危ない。


 外へ声が漏れたかと思ったが、水膜はすぐに厚みを増した。


 清水の間の手前側には、奥の壁が黒く揺らいでいるようにしか見えていないはずだ。


「今の、外に聞こえた?」


「聞こえていないわ。たぶん」


「たぶん?」


「実体化したばかりなのよ。細かい制御まで完璧に求めないでちょうだい」


「高貴なる完全顕現では?」


「完全顕現と完全制御は別よ!」


「なるほど。便利な分割」


「うるさいわね!」


 ヴェルティアは俺の胸ぐらを掴もうとして、まだ慣れない指先で空振りした。


「……」


「……」


「今のは、威圧の予備動作よ」


「失敗したんじゃなくて?」


「予備動作よ」


「ヴェルちゃん」


 俺の足元が、ぬちゃりと沈んだ。


「うわっ!」


「高貴なる制裁よ」


「制御できてるじゃん!」


「当然でしょう」


 ヴェルティアは無表情に近い顔で言った。


 ただし、口元がほんの少しだけ上がっていた。


 まずい。


 この相棒、実体化して面倒くささが増した。


 黒い水膜の外では、クレスたちがぬかるみ回廊の入口を見ていた。


 第2層。


 ぬかるみ回廊。


 清水の間とはまるで違う空気が、奥から流れてくる。


 泥道。


 浅瀬。


 ぬかるみ。


 滑りそうな石床。


 濁った水路。


 壁際の苔。


 小さな穴。


 水路の端でわずかに震える泥の塊。


 入口には、淡く白濁した小さな泉。


 白い石の縁には、短く文字が刻まれていた。


 第2層 ぬかるみ回廊。


 泥落としの泉。


 飲用不可。


 フィンはその文字を読んで、乾いた笑いを漏らした。


「飲むなって書いてありますけど、飲みたくなる見た目じゃないですね」


 マイラは杖を握り直す。


「でも、書いてあるなら何か意味がある。触る前に確認した方がいい」


 クレスは、しばらく黙っていた。


 Bランクの剣士である彼でも、できたばかりの階層を見ただけで断言はしない。


 迷宮は、見た目通りとは限らない。


 優しい水場が人を消したように。


 泥道が、ただの泥道で終わるとも限らない。


「まず、三人で入る」


 クレスが言った。


「危険を測る。フィン、前に出すぎるな。マイラ、足元と水音に注意」


「はい」


「はい」


 フィンは返事をしながらも、すでに顔が引きつっていた。


「ちなみに、危険だった場合は」


「戻る」


「いい響きですね、戻る」


「ただし、戻れるうちに判断する」


「急に響きが重くなりました」


 三人は、ぬかるみ回廊へ入った。


 最初の数歩で、フィンはもう嫌そうな顔になっていた。


「うわ、靴が重い……」


 泥道は浅い。


 足首まで沈むほどではない。


 だが、靴底に泥が絡み、歩くたびにぬちゃりと音を立てる。


 清水の間とはまるで違う。


 空気が湿っている。


 水音が多い。


 どこから聞こえる音なのか分かりにくい。


 天井から落ちる水滴。


 浅瀬の流れ。


 濁った水路。


 泥の奥で何かが動く音。


 全部が混ざっている。


「音が多いですね」


 マイラが言った。


「どこから何が来るか分かりにくい」


「そうだ」


 クレスが答える。


「まず、足音を小さく。水を蹴らない。泥を跳ねさせない。自分の音で周囲の音を消すな」


「はい」


「はい!」


 フィンが声を張った瞬間、水路の端で泥がぷるりと震えた。


 クレスが即座に言う。


「声も小さく」


「はい」


 フィンは今度は小声だった。


 三人はゆっくり進む。


 浅瀬に入る時、クレスは足を高く上げすぎない。


 水を蹴らない。


 石に足を置く時は、体重を一気にかけない。


 滑るかどうかを確かめてから進む。


 フィンが真似する。


 一歩目はうまくいった。


 二歩目で油断した。


 石がぬるりと滑る。


「うわっ!」


 フィンの体が傾いた。


 クレスは助けなかった。


 いや、助けられる距離にはいた。


 だが、すぐには手を出さなかった。


 フィンは慌てて弓を庇い、泥水へ尻から落ちた。


 ばしゃん。


「冷たっ! くさっ! 俺の尊厳が沈んだ!」


 マイラが顔をしかめる。


「尊厳より弓を確認して」


「あっ」


 フィンが慌てて弓を持ち上げる。


 弦は濡れていない。


 だが、矢筒の下が泥を吸っている。


 クレスが言った。


「荷物の位置が低い。泥道では、普段より荷物が汚れる。汚れると重くなる。重くなるとさらに転ぶ」


「はい……」


「今の転倒で怪我は?」


「心が」


「足は?」


「少し擦りました」


 マイラがフィンの足を見た。


「浅い擦り傷。泥は落とした方がいい」


「入口に戻る?」


 フィンが言う。


 クレスは頷いた。


「戻る。最初の失敗で戻ることを恥ずかしがるな」


「でも、まだ全然進んでないですよ」


「だから戻れる」


 フィンは口を閉じた。


 その言葉は、軽くなかった。


 進みすぎてからでは戻れない。


 傷が浅いうちに戻る。


 汚れが軽いうちに整える。


 それも迷宮攻略だ。


 マイラが小さく呟いた。


「……この階層、嫌ですね」


「そうだな」


 クレスが答える。


「嫌なことを、浅いうちに教えてくる」


 三人は入口の泥落としの泉に戻った。


 フィンが靴と足を泉に入れる。


 白濁した水が、泥をふわりと剥がした。


 擦り傷の周りの汚れも落ち、赤みが少し引く。


「おお……」


 フィンが目を丸くする。


「すごい。泥が落ちる。しかも、ちょっとだけ楽」


 マイラが確認する。


「傷が完全に治ったわけじゃない。血が止まりやすくなった程度。疲労回復もごく弱い」


「飲んだらもっと回復するとか」


 フィンが泉を見た。


 その瞬間、泉の表面がぴたりと止まった。


 空気が少し冷える。


 フィンは即座に両手を上げた。


「飲みません! 冗談です! 水場の圧が強い!」


 マイラがため息をついた。


「冗談でも言わない方がいい」


「はい。口を泥で封印します」


「それは本当に危ないからやめて」


 クレスはフィンとマイラを見た。


「次は三人で、もう少し奥を見る。フィンは荷物を上げろ。マイラは杖を濡らさない持ち方を試せ」


「はい」


「はい」


 三人は再びぬかるみ回廊へ入った。


 今度は少し進む。


 苔鼠が壁際の穴から顔を出した。


 小さい。


 丸い。


 苔を背負った鼠。


 見た目だけなら少し可愛い。


 だが、動きは速い。


 苔鼠は、フィンの靴紐へ飛びついた。


「うわっ、可愛くない!」


 フィンが足を引く。


 その拍子に泥を蹴る。


 泥がマイラの裾にかかる。


「フィン!」


「ごめん!」


「謝る前に足!」


 靴紐が噛み切られかけている。


 クレスが短く言った。


「斬るな。払え」


 フィンは短剣を抜きかけた手を止め、靴を振って苔鼠を払った。


 苔鼠は壁際へ逃げ、穴に戻る。


「斬っちゃ駄目なんですか?」


「斬れる相手なら斬ってもいい。でも、足元が悪い時に下へ刃を向けると体勢が崩れる。小さい敵に大きく反応するな」


「はい……」


 マイラが言う。


「これ、地味に嫌ですね」


「だから怖い」


 クレスは周囲を見ながら言った。


「強敵がいるわけじゃない。けれど、足場、荷物、音、小さい敵、全部が少しずつ悪くなる。重なると事故になる」


 その後、三人は最初の泥スライム溜まりまで進んだ。


 泥スライムは、浅い水路の中でぷるぷる震えていた。


 濁った泥の塊。


 目も口もない。


 だが、近づくと床の泥ごと滑るように動く。


「来ます」


 マイラが言う。


 フィンが弓を構えようとして、足元を見た。


 泥。


 水。


 滑る石。


「……弓、やめます」


「判断は?」


 クレスが聞く。


「足場が悪くて、構えが安定しません。外したら矢をなくします。短剣で牽制します」


「いい」


 泥スライムが近づく。


 フィンは短剣で突こうとして、やめた。


 代わりに石を蹴って水を跳ねさせる。


 泥スライムが一瞬、動きを止める。


 マイラが補助術で足元の滑りを少しだけ抑える。


 クレスは剣を抜かない。


 見ている。


 フィンとマイラの判断を。


 泥スライムは、フィンの足首へ絡もうとした。


 フィンが半歩下がる。


 下がった先の石が滑る。


「っ」


 マイラが声を出す。


「左、泥が深い!」


「右行く!」


 フィンが右へ逃げる。


 だが荷物が遅れる。


 体が傾く。


 クレスが初めて手を伸ばし、フィンの肩紐を掴んだ。


 それ以上は助けない。


 倒れない程度に支えるだけ。


「撤退」


 クレスが言った。


「え、でも」


「撤退」


「はい!」


 フィンとマイラは即座に下がった。


 泥スライムは追ってくる。


 だが、入口に近づくにつれ動きが鈍くなった。


 どうやら一定以上は追ってこない。


 二人は泥落としの泉まで戻り、息をついた。


 フィンの顔は泥だらけだった。


「……死ぬかと思った」


 マイラも肩で息をしている。


「死ぬほどではないと思った。でも、転んで口を塞がれたら危なかった」


 クレスは静かに頷いた。


「ここは、新人を殺すためだけの階層ではない」


 フィンが顔を上げる。


「ほんとですか?」


「でも、安全でもない」


 クレスはぬかるみ回廊を見た。


「足場を見る。荷物を見る。音を聞く。小さな敵に大きく反応しない。戻る判断をする。仲間と声を掛け合う。この階層は、それを叩き込んでくる」


 マイラが小さく息を呑む。


「訓練……ですか?」


「訓練に近い」


 クレスは言った。


「ただし、失敗すれば死ぬ訓練だ。迷宮だからな」


 その言葉に、フィンとマイラは黙った。


 クレスは第2層の正体を、見ただけで決めつけたのではない。


 歩いて、滑って、戻って、泥を落とし、魔物の動きを見て、初めてそう判断した。


 ぬかるみ回廊は、新人育成の場だ。


 だが、学校ではない。


 死なない保証はない。


 死に近づいて、戻ることを覚える場所だ。


「では、次は二人で行く」


 クレスが言った。


 フィンが硬直した。


「……はい?」


「俺は入口で見る。危険なら声をかける。ただし、手は出さない」


「今、危険ならって言いました?」


「言った」


「危険じゃない場合は?」


「もちろん手は出さない」


「つまり基本、手は出さない」


「そうだ」


 フィンはマイラを見た。


 マイラは泥のついた杖を見て、それからぬかるみ回廊を見た。


「行こう」


「マイラさん?」


「ここで戻ったら、次も怖いまま」


「今も怖いけど?」


「怖いまま行く」


 フィンは一瞬黙った。


 そして、苦笑した。


「分かった。じゃあ、泥と青春してきますか」


「青春を泥に沈めないで」


「もう半分沈んでる」


 二人は装備を整えた。


 フィンは矢筒の位置を上げ、靴紐を結び直す。


 マイラは杖を短く持ち、裾を少しまくる。


 クレスは何も言わない。


 ただ見ている。


 二人が一歩、ぬかるみ回廊へ踏み出す。


 さっきより慎重に。


 さっきより静かに。


 さっきより、互いの位置を気にしながら。


 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


「……いい」


『ええ』


「いや、いいぞこれ!」


『声が大きいわ』


「だって見たか今の! 滑る石の前で止まった! 右の泥が深いって確認した! 水音まで聞いてた! さっきまで泥に尻から着地してたフィンが!」


『成長が早いわね』


「早い! めちゃくちゃ早い! ぬかるみ回廊、ちゃんと仕事してる!」


 俺は思わず拳を握った。


 会社員時代、作った導線がちゃんと機能した時の感覚に近い。


 いや、あの時はせいぜい客が迷わずレジに行くくらいだった。


 今は違う。


 人間が、死なないために迷宮を見ている。


 泥を見て、水音を聞いて、仲間と声を掛け合っている。


 これは、かなり気持ちいい。


「ヴェルティア、見たか! 俺たち、今ちゃんと迷宮運営してるぞ!」


『当然でしょう。貴方が考えて、私が形にしたのだから』


「最高の共同作業じゃん!」


『言い方が庶民的ね』


「庶民出身だからな!」


 二人は、さっき転んだ滑る石の前で止まった。


 フィンが先に言う。


「ここ、滑る」


「右の泥は深い」


「苔穴あり」


「水音、左奥」


「泥スライムはまだ動いてない」


 マイラが頷く。


「進む?」


 フィンは少し迷った。


 それから、首を横に振った。


「一歩だけ進んで、戻る。まず戻れる距離を伸ばす」


 マイラが少し笑った。


「いい判断」


 二人は一歩だけ進んだ。


 そして戻った。


 たったそれだけだ。


 でも、さっきより確実に迷宮を見ていた。


「うおお……!」


『なぜ貴方が感動しているの?』


「するだろ! 初めて補助輪なしで自転車に乗れた子を見た親みたいな気分だよ!」


『親?』


「違うな。迷宮主だから……泥の親?」


『嫌な親ね』


「泥の父、大地!」


『貴方、名前まで泥に向いているのね』


「今そこ気づく!?」


 俺はぬかるみ回廊を見た。


 泥道。


 浅瀬。


 滑る石。


 苔鼠。


 泥スライム。


 全部、派手ではない。


 でも効いている。


 強い魔物を置いたわけじゃない。


 豪華な宝箱を並べたわけでもない。


 それでも冒険者は、迷宮を見るようになる。


 足元を見るようになる。


 仲間を見るようになる。


「第2層、作ってよかったな」


『当然でしょう』


「いや、そこはもっと喜んでいいぞ。ヴェルティア、すごい。めちゃくちゃすごい」


『と、当然よ』


「泥をここまで教育的にできるダンジョンコア、そうそういないぞ」


『泥を褒められても複雑なのだけれど』


「高貴なる泥!」


『混ぜないでちょうだい!』


「高貴なるぬかるみ!」


『さらに嫌よ!』


「じゃあ、高貴なるヴェルちゃん式ぬかるみ教室」


『その呼び方を混ぜるなと言っているの!』


 俺が笑った、その時。


 ヴェルティアの体がふらりと揺れた。


「おっと!」


 俺は慌てて支えた。


 今度は髪ではない。


 実体化した体そのものが、少し力を失ったようだった。


「大丈夫か、ヴェルちゃん」


「だから、その呼び方は……」


 怒ろうとしたヴェルティアの声が、途中で弱くなる。


 赤い瞳が揺れた。


「……少し、魔力の流れが安定しないだけよ」


「無理してるんじゃないか?」


「無理などしていないわ。私は高貴なる」


「高貴なる?」


「……高貴なる、少し休憩が必要な状態よ」


「ただの休憩じゃん!」


「言い方が大事なの!」


「分かった。高貴なる休憩モードな」


『勝手に機能名をつけないでちょうだい』


「でも便利そうだぞ。今後、疲れたら高貴なる休憩モード」


『絶対に言わないわ』


「じゃあ俺が言う」


『許可していないわ』


「高貴なるヴェルちゃん、休憩入りまーす」


 俺の足元が、ぬちゃりと沈んだ。


「うわっ! 制裁早い!」


「高貴なる即時対応よ」


「制御、不安定って言ってなかった?」


「貴方を沈める程度なら安定しているわ」


「そこだけ安定しないで!」


 俺は笑ってしまった。


 ヴェルティアは睨んできたが、逃げなかった。


 むしろ、ほんの少しだけ俺の腕に体重を預けた。


 軽い。


 冷たい。


 でも、ちゃんとそこにいる。


 宝石だった相棒が、今は俺の横でむくれている。


 これもまた、かなりすごい出来事だった。


「なあ、ヴェルティア」


『何?』


「実体化、おめでとう」


『急に何よ』


「いや、ちゃんと言ってなかったなと思って」


『……今さらね』


「今さらでも言う。よく分からん現象だけど、俺は嬉しいぞ」


 ヴェルティアは少しだけ目を逸らした。


『高貴なる当然の進化よ』


「照れてる?」


『照れていないわ』


「耳、赤いぞ」


『魔力の反射よ』


「便利な言い訳だな」


『高貴なる反射よ』


「出た」


 黒い水膜の向こうでは、フィンとマイラがぬかるみ回廊へ再び一歩踏み出している。


 クレスは入口で二人を見ている。


 村人たちは遠巻きに、恐れと安堵の混ざった目で迷宮を見ている。


 第1層は守る。


 第2層は鍛える。


 そして、ヴェルティアは形を持った。


 清水の迷宮は、もうただの水場ではない。


 人が来る。


 泥に沈む。


 怖がる。


 戻る。


 また挑む。


 その全部が、迷宮を育てる。


 水音が響く。


 泥音が混ざる。


 そして、高貴なるヴェルちゃんが、俺の横で小さく呟いた。


「……その呼び方、外では禁止よ」


「内側ならいいのか?」


「よくないわ」


「今ちょっと許した感じあったぞ」


「ないわ」


「ヴェルちゃん」


 俺の足元が、またぬちゃりと沈んだ。


「やっぱり駄目か!」


「当然でしょう」


 ヴェルティアは無表情に近い顔で、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「高貴なる制裁よ」


「その制裁、ちょっと楽しんでない?」


「気のせいよ」


「絶対楽しんでるだろ」


「高貴なる気のせいよ」


「便利すぎるな、その言葉!」


 俺の足元で、泥がもう一度だけ、ぬちゃりと鳴った。


あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


ヴェルティア、ついに実体化しました。


ただし、外の人間と直接話すことはありません。


迷宮は言葉ではなく、構造とルールと現象で人間に示します。


そして第2層「ぬかるみ回廊」は、新人に優しい場所ではなく、死なないために死に近づく場所です。


次話では、フィンとマイラの挑戦をさらに進めつつ、第2層の評判がどう広がっていくかを書いていきます。


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