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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第5話 水音の先へ



 清水の間には、今日も水音が響いていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽたり。


 人間が一人、迷宮に消えた翌日でも、水は澄んでいる。


 死体も、衣服も、道具も残らなかった。


 ネズという男は、清水の間に刻まれた「破壊行為禁止」を見たうえで、壁に鉄杭を打ち込もうとした。


 だから、迷宮は処理した。


 その結果、DPは増えた。


【現在DP:138】


「……増えたなあ」


『ええ。増えたわね』


「数字だけ見れば、かなりの前進なんだよな」


『数字だけ見なくても前進よ。清水の間は守られたのだから』


「そうなんだけどさ」


 俺は水盤に映る自分の顔を見た。


 少し疲れている。


 だが、沈みきってはいない。


 そこは大事だ。


 沈みきったら、たぶん判断が鈍る。


 前世でもそうだった。


 面倒な案件ほど、頭を抱えたままでは詰む。


 とりあえず立つ。


 とりあえず水を飲む。


 とりあえず「大丈夫」と言う。


 根拠はあとから探す。


 だいたい、それでなんとかしてきた。


「人間一人分の死は濃いんだろ?」


『ええ。死体、血、魔力、恐怖、執着、道具。すべて迷宮に還ったもの』


「うん。濃い。めちゃくちゃ濃い。たぶん、二郎系DP」


『じろうけい?』


「前世の強すぎる食べ物の話。気にしなくていい」


『気になる言い方をしておいて、気にするなと言うのはずるいわ』


「とにかく、濃いからってそればっかり食べたら駄目ってこと」


『殺して増やすのは違う、という話ね』


「そう。でも必要なら殺す」


 俺は、昨日よりはっきり言えた。


「俺も死にたくない。ヴェルティアも砕かせない。清水の間も壊させない。日本人感覚としてはためらいはあるけど、ここは異世界で、俺は迷宮主だ。壊すやつまでお客様扱いはしない」


『その割り切り、嫌いではないわ』


「褒めた?」


『評価よ。高貴なる評価』


「出た、便利ワード」


『便利ではなく高貴よ』


「はいはい」


『はいは一回!』


 いつもの返しがあると、少し楽になる。


 重いものを重いまま置き続けると、心の床が抜ける。


 だから、軽口で支える。


 これは逃げじゃない。


 たぶん。


 いや、逃げじゃないことにする。


「で、だ」


『何?』


「外から来るぞ」


『ええ。村人ではないわね』


 朝から、迷宮に向けられる感情が変わっていた。


 村人のものとは違う。


 生活の焦りや感謝だけではない。


 剣のようにまっすぐで、熱を持った気配。


 その横に、怖がりながらも周囲を探る軽い気配。


 もう一つ、慎重に水と空気を測ろうとする静かな気配。


「冒険者だな」


『おそらく』


「村が呼んだんだろうな」


『人が消えたもの。自分たちだけでは抱えきれなかったのでしょう』


「正しい判断だと思う」


『怒らないの?』


「怒らない。むしろ当然だろ。人が消えたんだぞ」


『討伐されるかもしれないわよ』


「そこは、まあ……討伐されないように頑張る」


『急に弱いわね』


「討伐、怖いだろ! 名前からしてこっちが悪役じゃん!」


『迷宮主なのだから、もう少し堂々となさい』


「中身は元会社員なんだよ。クレーム対応の前は毎回ちょっと震えてたんだよ」


『情けないわね』


「でも逃げなかったから、今ここにいる」


『死んだけれど?』


「そこ刺す!?」


 俺は清水の間を見回した。


 第1層。


 生活区域。


 病人が水を飲む。


 子どもが桶を持つ。


 老人が石段に座る。


 転売や大量持ち出しは拒む。


 破壊行為者は呑む。


 この場所の役割は、かなり固まってきた。


 だが、迷宮が成長するには、村人だけでは足りない。


 感謝、畏れ、生活欲。


 それは迷宮を満たす。


 でも、冒険者にはまた別のものがある。


 挑戦。


 恐怖。


 撤退。


 報酬への期待。


 名声。


 悔しさ。


 次こそは、という執着。


 そういうものも、迷宮には必要だ。


「冒険者も呼ぶ必要がある」


『ええ。迷宮だもの』


「ただ、第1層で剣を抜かれたら困る」


『斬るものなど置いていないわ』


「人間は、斬るものがなくても剣を抜くことがあるんだよ」


『本当に面倒ね』


「だから、冒険者用の場所を作る」


『殺す場所?』


「違う。いや、完全には違わない」


『どちらなのよ』


「死なないために、死に近づく場所」


 ヴェルティアのコアが、赤黒く明滅した。


『訓練区画ね』


「そう。だけど安全区画じゃない。油断すれば死ぬ」


『あら、分かってきたじゃない』


「訓練でも、迷宮は迷宮だろ」


『ええ』


「村人が水を飲む場所とは違う。冒険者が奥へ進むなら、危険を引き受けてもらう」


『つまり、殺すためではない。でも、死ぬことはある』


「そういうこと」


『高貴なる教育的死地ね』


「言い方!」


『違うの?』


「違わないけど、もう少し柔らかく言ってくれ」


『高貴なる泥んこ教室』


「急に幼児向けになるな」


 その頃、ルスカ村の外れでは、三人の冒険者が森へ向かう準備をしていた。


 Bランク剣士、クレス。


 二十二歳。


 若いが、立ち姿に緩みがない。


 腰の剣は飾りではない。


 村の者が見るだけで、少し安心するような存在感があった。


 その隣には、弓を背負った少年フィン。


 Eランクの斥候役。


 身軽そうな体つきで、目だけは忙しく周囲を見ている。


 さらに後ろに、杖を持った少女マイラ。


 こちらもEランク。


 治癒と補助を学ぶ新人冒険者だ。


 マイラは村人たちの顔色と、桶の中の水を交互に見ていた。


 オルド村長は、昨日からの出来事をもう一度説明した。


 清い水が出たこと。


 村人が助かったこと。


 転売しようとした者には水が出なかったこと。


 破壊しようとしたネズが、消えたこと。


 クレスは最後まで黙って聞いた。


 怒りも、恐怖も、すぐには口にしなかった。


 その沈黙だけで、彼が軽く見ていないことが分かった。


「ネズは、消えたのですね」


 クレスが静かに確認した。


 オルドはうなずいた。


「死体はない。血もない。持っていたはずの道具もない。ただ、清水の間には『破壊行為禁止』の文字だけが残っておった」


「その前に、彼は転売目的で水を持ち出そうとした」


「そうだ」


「そして、迷宮に拒まれた」


「そうだ」


 フィンは落ち着かなそうに足を動かしている。


「えっと、つまり……水を売ろうとしたら水が止まって、壁を壊そうとしたら人が消えた、と」


 自分で言って、フィンは顔を引きつらせた。


「すみません。言葉にすると余計に怖いですね」


 マイラが小さくため息をつく。


「怖いで済ませたら駄目。水で助かっている人がいるなら、危険と効果を分けて見ないと」


「真面目だなあ、マイラは」


「怖くて真面目になってるの」


「俺も怖いです」


「あなたは怖い時ほど喋る」


「黙ると心臓の音が聞こえるので」


 クレスが少しだけ笑った。


「怖いなら、それでいい。怖さをなくす必要はない。怖いまま、見るべきものを見る」


「クレスさん、それ、かっこいいんですけど、もう少し簡単に言うと?」


「逃げるな。でも無理するな」


「分かりやすい!」


「最初からそれで言えばいいのに」


 マイラが呆れる。


 クレスは苦笑した。


 オルドはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、すぐに表情を引き締める。


「クレス殿。わしらは、あの迷宮を討伐してほしいのか、守ってほしいのか、それすら分からん」


「はい」


「水は必要だ。だが、人が消えた」


「分かっています」


「村の者だけで判断するには、重すぎる」


 クレスはうなずいた。


「まず現場を見ます。迷宮が村に害をなすなら、止めます。村人が迷宮に害をなしたなら、その線も見ます」


「村人が悪いと?」


 近くにいた男が、少し強い声を出した。


 クレスはその男へまっすぐ顔を向ける。


「悪いと決めていません。迷宮が正しいとも決めていません。だから見ます」


 その声は柔らかい。


 だが、逃げ道はなかった。


 男は口をつぐむ。


 フィンが小声で呟いた。


「うわ、やっぱりBランクって圧ある……」


 マイラが肘でつつく。


「聞こえる」


「褒め言葉です」


「圧があるは褒め言葉なの?」


「たぶん」


「たぶんで使わない」


 三人は、オルド村長に案内されて森へ向かった。


 その先に、黒い石の洞窟がある。


 入口には看板。


 清い水、あります。


 困っている人、歓迎。


 奪いに来る人、お断り。


 フィンが看板を見上げ、眉を寄せた。


「……思ったより、普通の言葉ですね」


 マイラは静かに読んだ。


「普通だから、余計に怖い」


 クレスは看板の前で立ち止まる。


 少しだけ頭を下げた。


「入ります」


 返事はない。


 だが、水音だけが聞こえた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 三人は清水の間へ入った。


 冒険者が入ってきた。


 俺は、奥からそれを見ていた。


 最初に見えたのは、剣士の青年。


 背筋がまっすぐだ。


 歩き方に無駄がない。


 しかも、入ってきてすぐに剣へ手をかけなかった。


 まず、入口。


 次に壁文字。


 床。


 水場。


 天井。


 退出経路。


 全部見ている。


「あれがBランクか」


『強いわね』


「分かるのか?」


『魔力の大きさだけではないわ。迷宮に入った瞬間の欲が乱れていない。恐れてはいる。でも、恐れに呑まれていない』


「へえ……」


『少し厄介ね』


「敵に回したくないタイプだな」


『今のところ、敵意は薄いわ』


 クレスの後ろから、フィンが入ってくる。


 こちらは目が忙しい。


 水場を見て、壁を見て、床を見て、また入口を見る。


 怖いのだろう。


 だが、逃げ出してはいない。


 さらにマイラが入る。


 彼女は水盤の前で膝をつき、ほんの少しだけ水を木匙にすくった。


 飲まずに、匂いを確かめる。


 指先につける。


 小さな布へ垂らす。


「治療水ではないと思います」


 マイラが言った。


「少なくとも、強い治癒魔力は感じません。ただ、とても清潔です。雑味が少ない。弱った人でも飲みやすい水だと思います」


 オルドが小さく息を吐く。


「病を治すわけではないのか」


「はい。けれど、熱や脱水で弱った人にとって、清潔な水は十分に命を支えます」


 俺は思わずうなずいた。


「分かってる子だな」


『あの少女、治癒術師の卵ね』


「いいな。万能じゃないって分かってくれる人間は貴重だ」


『人間はすぐ奇跡と呼びたがるものね』


「奇跡扱いされると、次に治らなかった時に怒られるからな」


『経験者の言葉?』


「前世のクレーム対応が火を噴くぜ」


『噴かせなくていいわ』


 フィンが壁文字を読んだ。


 転売禁止。


 大量持ち出し禁止。


 破壊行為禁止。


 フィンがごくりと唾を飲む。


「……短い方が怖いんですね」


 マイラが頷いた。


「言い訳を聞く気がない文字」


「やめて。そういう分析、余計に怖い」


 クレスは水受けの前に立った。


 床の溝。


 水の流れ。


 石段。


 低い水盤。


 動線。


 それらを見て、静かに言った。


「これは、村人のために整えられている」


 オルドが顔を上げた。


「分かるのか」


「はい。戦う場所ではありません。待つ場所、飲む場所、汲む場所が分かれている。老人や子どもが使う前提です」


 フィンがきょろきょろする。


「でも、ここで人が消えたんですよね」


「だから危険がないとは言わない」


 クレスは壁文字を見た。


「ただ、危険の向きがはっきりしている。水を求める者には開く。持ち去ろうとする者、壊そうとする者には閉じる。そういう場所に見えます」


 俺は小さく息を吐いた。


「すごいな、あの人」


『Bランクだもの』


「剣が強いだけじゃないのか」


『本当に強い者は、斬る前に見るわ』


「かっこいいな」


『貴方とは違うわね』


「急に刺すじゃん」


『高貴なる事実よ』


「痛い事実だな」


 その時、フィンがうっかり水場の石に手をつきかけ、慌てて引っ込めた。


「触っていいのか分からないの、めちゃくちゃ怖いんですけど」


 マイラが呆れた顔をする。


「壊さなければいいんじゃない?」


「俺の手が壁にとっては破壊だったら?」


「どんな手してるの」


「繊細な破壊の手」


「意味が分からない」


 クレスが少し笑った。


「無駄に触らない。それでいい」


「はい」


 フィンは素直に手を下げた。


 その様子を見て、俺は思った。


 冒険者は必要だ。


 この迷宮を大きくするには、村人だけでは足りない。


 清水だけでは、いつか生活施設で止まる。


 でも、冒険者が来れば違う。


 挑戦する。


 怖がる。


 失敗する。


 撤退する。


 また来る。


 迷宮に感情を向ける。


 欲を向ける。


 そして、深く潜る。


 ただし、いきなり殺す場所を作ったら駄目だ。


 あのフィンとマイラみたいな新人は、たぶんすぐ死ぬ。


 死んだら終わりだ。


 生きて帰れば、次がある。


 そして、生きて帰るためには、死に近いものを知らなきゃいけない。


「ヴェルティア」


『何?』


「第2層を作る」


 ヴェルティアのコアが、強く光った。


『ようやくね』


「訓練区画だ」


『訓練。でも安全ではない』


「そう」


『最初に言っていたわね。殺して終わりではなく、通わせる迷宮にすると』


「言ったな」


『第2層は、そのための場所ね』


「そうだ。清水だけだと村人は来る。でも、迷宮を大きくするなら冒険者も必要だ」


『冒険者は欲が濃いわ。挑戦、報酬、名声、恐怖、撤退、悔しさ。村人の生活欲とは違う味がする』


「味って言うな」


『迷宮核だもの』


「便利だな、その言葉」


 俺は奥の壁を見た。


「第1層は村人を守る。第2層は冒険者を泥に落とす」


『雑な言い方ね』


「でも合ってる」


『ええ。かなり合っているわ』


「新人に必要なのは、強い魔物じゃない。足元を見ることだ」


『足元?』


「泥道。浅瀬。ぬかるみ。滑る石床。濁った水路」


『地味ね』


「地味なことで死ぬんだよ」


 俺は前世の記憶を思い出す。


 転ぶ。


 落とす。


 濡らす。


 滑る。


 焦る。


 小さい事故が、大きい事故になる。


 現場では、だいたいそうだった。


 たぶん迷宮でも同じだ。


「装備が汚れると動きが鈍る。荷物が重いと転ぶ。水音で敵に気づける。逆に自分の音で敵に気づかれる。浅瀬では歩き方を変える。ぬかるみでは焦らない。戻る判断をする。仲間と声を掛け合う」


『魔物は?』


「弱いのを置く。苔鼠の小巣。泥スライムの溜まり」


『弱いわね』


「でも、足元が悪ければ十分怖い」


『確かに、転んだところに泥スライムが乗れば、初心者は焦るでしょうね』


「焦るだけじゃ済まないかもな」


『あら、止めないの?』


「止めない」


 俺は、これから開く奥の壁を見た。


「ここは訓練区画だ。でも、安全区画じゃない。油断すれば死ぬ。ダンジョンって、そういうものだろ」


『……分かってきたじゃない』


「村人が水を飲む場所とは違う。冒険者が奥へ進むなら、危険を引き受けてもらう」


『泥スライムに口と鼻を塞がれても?』


「それも危険のうちだ。ただし、初手で即死させる配置にはしない」


『戻れる道は残すのね』


「戻れる道は残す。でも、戻る判断をしなかった奴まで助ける場所にはしない」


 ヴェルティアのコアが、静かに赤く光った。


『いいわ。訓練とは、死なない保証ではなく、死に近づく練習ということね』


「言い方は怖いけど、その通りだ」


『高貴なる教育的ぬかるみね』


「今のはちょっと語呂が悪い」


『失礼ね!』


「第2層の入口と最奥に、泥落としの泉を置こう」


『泥を落とす水ね』


「飲用不可。持ち出し不可。第2層の泥を落とす。多少の擦り傷は直す。疲労は気休め程度に軽くする」


『深い傷は?』


「治さない」


『骨折は?』


「治さない」


『魔力は?』


「回復しない」


『ずいぶん控えめね』


「清水の間と混ざると困る。これは回復施設じゃなくて、泥を落として態勢を整える場所だ」


『なるほど』


「入口に置くのは、第1層を汚さないため。最奥に置くのは、到達したやつが一息つけるように」


『そして、戻るか進むかを考えさせる』


「そういうこと」


 ヴェルティアが小さく笑った気がした。


『大地。貴方、本当に迷宮を店のように考えるわね』


「違うぞ」


『違うの?』


「教習所だ」


『何よ、それ』


「泥まみれになって、二度と同じ失敗をしないための場所」


『結局、高貴さはないわね』


「でも役に立つ」


『……否定はしないわ』


 その時、クレスが清水の間の奥へ視線を向けた。


 まだ何もない壁。


 ただの行き止まりに見える場所。


 だが、彼はそこに何かを感じたのかもしれない。


「この奥には、まだ何もないのですか?」


 オルドが答える。


「村の者は、奥へ進んでおらん。水だけで十分だったからな」


「そうですか」


 クレスは、しばらく奥の壁を見ていた。


 俺は思わず笑った。


「勘がいいな」


『なら、見せてあげましょう』


「そうだな」


 俺は清水の間の奥を見た。


 第1層は、守る場所。


 第2層は、鍛える場所。


 冒険者を呼ぶなら、冒険者が死なないための怖さを置く。


 清い水から始まった迷宮は、泥を持つ。


「作ろう」


『ええ』


 清水の間の奥。


 白い石の壁に、細い亀裂が走った。


 水音が変わる。


 ぽたり、ではない。


 ぬちゃり。


 ぴちゃん。


 ずるり。


 清水の間に似合わない、湿った音が奥から響いた。


 村人たちがざわつく。


 フィンが弓に手をかけかけ、クレスが片手で制した。


「まだ抜くな」


「は、はい」


 マイラが一歩下がる。


「壁が……開く?」


 淡い灰色の壁が、ゆっくり沈んだ。


 その向こうに、暗い通路が現れる。


 清水の間とは違う匂い。


 湿った土。


 泥。


 苔。


 浅い水。


 白い石の床は、数歩先で茶色い泥道へ変わっていた。


 その先に、浅瀬が見える。


 さらに奥では、濁った水路が曲がっている。


 天井から水滴が落ち、ところどころに滑りそうな石が並んでいた。


 壁の根元には、苔が盛り上がっている。


 小さな穴がいくつもあった。


 水路の端では、泥が不自然に盛り上がり、ぷるりと震えた。


 弱い。


 だが、足元の悪い場所では十分に嫌な相手だ。


 通路の入口には、小さな泉があった。


 清水とは違う。


 淡く白濁した、ぬるい水。


 飲むためではない。


 泥を落とすための水。


 清水の間に戻る前に、汚れをここで落とすための場所だった。


 フィンが乾いた声を出した。


「……あの、これ、奥に行くための道ですよね?」


 マイラが杖を握り直す。


「行きたくなる見た目ではないけど」


「むしろ、帰りたくなる見た目なんですけど」


 クレスは、開いた通路の入口をじっと見ていた。


 泥道。


 浅瀬。


 滑りそうな石。


 濁った水路。


 壁際の苔。


 奥でわずかに震える泥の塊。


 危険はある。


 だが、剣を抜いて突撃するような殺気とは違う。


 通路は狭すぎない。


 戻る道も見える。


 入口には、汚れを落とすためらしき泉がある。


「……妙な階層だ」


 クレスが静かに言った。


 フィンが顔を引きつらせる。


「妙、で済ませます? 俺には泥だらけの嫌がらせ通路に見えますけど」


「嫌がらせではあると思う」


「あるんだ」


 マイラは杖を握り直した。


「でも、ただ殺すための場所にも見えない」


 クレスはうなずいた。


「分からない。だから、まだ判断しない。実際に入って、確かめる」


 フィンが小さく手を上げた。


「ちなみに、その実際に入る人って」


「俺たちだ」


「ですよね。言うと思いました」


 フィンの声は軽かったが、喉は鳴っていた。


 マイラも黙って水路の奥を見ている。


 新しい通路は、静かに水音を響かせていた。


 まるで、入るなら入れ、と言っているようだった。


【第2層 ぬかるみ回廊を生成します】


【泥道、浅瀬、ぬかるみ、滑る石床、濁った水路を構築】


【苔鼠の小巣を配置】


【泥スライムの溜まりを配置】


【泥落としの泉を入口と最奥に設置】


【DPを104消費しました】


【現在DP:34】


 表示が消える。


 清水の間の奥には、確かに新しい階層ができていた。


 第2層。


 ぬかるみ回廊。


 冒険者を殺すためだけではない。


 だが、冒険者を守るためだけでもない。


 死なないために、死に近づく場所。


 俺は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「できたな」


『ええ』


「ここから冒険者も呼べる」


『ええ』


「村人は清水の間。冒険者はぬかるみ回廊。役割を分けられる」


『ええ』


「……なんか、急に迷宮っぽくなったな」


『ようやく気づいたの?』


「いや、気づいたっていうか、形になったんだよ」


『形?』


「第1層だけだと、水場なんだ。困ってる人を呼ぶ場所。生活区域。守る場所」


『ええ』


「でも、それだけだと迷宮としては止まる。水を汲んで帰るだけになる」


『止まった水は濁るわ』


「そう、それ。人も欲も同じだ。村人は第1層で生活欲を流す。冒険者は第2層で恐怖と挑戦を流す。転んで、汚れて、焦って、戻って、悔しがって、また来る」


『……なるほど』


「第1層で受け入れる。第2層で鍛える。第3層から報酬で選ばせる。そこまで行って、ようやく“通わせる迷宮”になる」


『清水だけで終わらせないための流れね』


「そう。清水の間は入口。ぬかるみ回廊は冒険者を迷宮に慣らす場所。ここで死なない保証はしない。でも、いきなり深い階層で死なせるより、何度も来る理由を作れる」


『人間を育てて、欲を濃くするのね』


「言い方は怖いけど、まあそうだな。最初から全部食うんじゃなくて、通わせる。失敗させる。戻らせる。次を考えさせる」


『……貴方、人間のくせに本当に迷宮主っぽくなってきたわね』


「褒めてる?」


『評価よ。高貴なる評価』


「出たな、便利ワード」


『便利ではなく高貴よ』


「はいはい」


『はいは一回!』


「はい」


 俺は奥に開いたぬかるみ回廊を見た。


 清水の間とは、まるで違う。


 白い石と澄んだ水の場所ではない。


 泥。


 浅瀬。


 苔。


 濁った水路。


 滑る石。


 小さな魔物の気配。


 いかにも嫌な場所だ。


 でも、嫌な場所だからこそ意味がある。


「新人がいきなり深い迷宮に入ったら、たぶん死ぬ」


『弱いものね』


「弱いというより、知らないんだよ。足場を見ること。荷物を軽くすること。退路を残すこと。水音を聞くこと。仲間と声をかけること。戻る判断をすること」


『それを泥で教えるのね』


「そう。泥は優秀だぞ。転ばせる。汚す。焦らせる。重くする。音を立てる。しかも地味だから油断する」


『高貴さはないけれど、嫌らしさはあるわね』


「それがいい。強敵に負ける前に、泥で失敗しておけって話だ」


『第2層は、冒険者の鼻を折る場所』


「鼻を折るっていうか、足元を見せる場所だな」


『似たようなものよ』


「違うようで、ちょっと近いな」


 俺は少し笑った。


 清水の間を作った時とは違う感覚がある。


 あれは、困っている人を呼ぶための場所だった。


 今度は、危険に向かう人間を試す場所だ。


 優しくするだけでは駄目だ。


 甘くするだけでも駄目だ。


 この先に来る者たちは、村人ではない。


 冒険者だ。


 欲を持って、奥へ進む者たちだ。


「ここからが迷宮運営って感じだな」


『ようやく私の迷宮らしくなってきたわ』


「でも、第1層は生活区域のままだぞ」


『分かっているわ。水場を汚されては困るもの』


「第2層の入口に泥落としの泉を置いたのは、そのためでもある。泥を持ち込ませない。第1層はきれいに保つ」


『本当に清潔が好きね』


「生活インフラだからな」


『高貴さが遠いわ』


「でも強い」


『……もう否定しないわ』


 ヴェルティアのコアが、静かに光った。


 その光は昨日より強い。


 ひび割れた赤黒い宝石の奥に、ほんの少しだけ銀白の筋が見えた。


「……ん?」


『どうしたの?』


「いや、今、なんか光らなかった?」


『私が高貴だからでしょう』


「雑な理由だな」


『失礼ね。高貴とは常に光るものよ』


「そういうもんなのか?」


『そういうものよ』


「本当かあ?」


 俺が首を傾げた、その時だった。


 ヴェルティアのコアが、強く脈打った。


 赤黒い光が、一瞬だけ清水の間に広がる。


「え?」


『……何?』


 ヴェルティア自身も、戸惑っている。


 コアのひびが、細く光を漏らした。


 清水の間の水面が揺れ、新しく開いた奥の通路から湿った風が吹き戻ってくる。


『待ちなさい』


 ヴェルティアの声が揺れた。


『これは、まだ……私は、こんな現象、聞いて』


「ヴェルティア?」


『大地』


「何だ?」


『少し、まずいかもしれないわ』


「え、何が?」


『私の核が、形を持とうとしている』


「……形?」


 赤黒いコアの奥で、銀白の糸のような光がほどけた。


 髪にも見える。


 魔力の糸にも見える。


 それが、清水の間の薄暗い空気にふわりと広がる。


 俺は固まった。


 清水の間の奥では、Bランク冒険者も、Eランク新人二人も、村長も、村人も、新しく開いた通路を見ている。


 そのさらに奥で、俺の相棒である死にかけダンジョンコアが、なぜか何かになろうとしていた。


「……いやいやいや」


 俺は両手で頭を押さえた。


「急にイベント始まった!?」


『い、イベントではないわ! 私は高貴なるダンジョンコアよ!』


「その高貴なるダンジョンコアから、髪みたいな魔力が出てるんだけど!?」


『私に聞かないでちょうだい! 私だって初めてなのよ!』


 赤黒い光が、もう一度脈打つ。


 銀白の魔力が広がる。


 水音が止まる。


 清水の間も、ぬかるみ回廊も、村人たちも、冒険者たちも。


 その瞬間だけ、すべてが息を呑んだように静まり返った。


 クレスは、開いたばかりの第2層を見つめていた。


 泥道。


 浅瀬。


 濁った水路。


 苔の小穴。


 泥の中で震える魔物らしきもの。


 それらを観察していた彼は、ふと顔を上げた。


「……魔力が揺れた」


 フィンがびくっと肩を跳ねさせる。


「え、何ですかそれ。嫌な言葉なんですけど」


 マイラも杖を握り直した。


「水音が止まりました」


 村人たちもざわついた。


 だが、誰にも何が起きているのかは分からない。


 清水の間の奥。


 人間たちには見えない場所で、迷宮核が形を持とうとしている。


 ただ、水面だけが銀白に揺れていた。


「下がって」


 クレスが静かに言った。


「まだ危険とは限らない。でも、近づかない方がいい」


「りょ、了解です」


 フィンが一歩下がる。


 マイラは水盤の表面を見つめたまま、小さく呟いた。


「これは……攻撃の魔力じゃない」


「分かるのか?」


 オルドが聞く。


 マイラは迷いながら答えた。


「分かる、とは言えません。ただ、これは外へ向かう魔力ではなく、内側で形を整えようとしている感じがします」


「内側で?」


「はい。まるで、何かが生まれようとしているような」


 その言葉に、村人たちの顔がこわばる。


 フィンが引きつった笑みを浮かべた。


「生まれるって、いい意味ですよね? ね? だれか、いい意味って言ってください」


 誰も言わなかった。


「沈黙が一番怖いんですけど!」


『大地』


 ヴェルティアの声が、いつになく不安げに震えた。


「うん」


『……手を、貸しなさい』


 高飛車なはずの声が、初めて少しだけ頼りなかった。


 俺は、反射的に手を伸ばした。


 触れられるかどうかも分からない。


 それでも伸ばした。


 次の瞬間、白銀の魔力がふわりと俺の手に触れた。


 冷たく、柔らかかった。


 そして、確かにそこにあった。


「触れた……?」


『大地』


「いる。ちゃんといるぞ」


『……ええ』


 赤黒いコアから伸びた銀白の魔力が、ゆっくり人の輪郭を作っていく。


 細い肩。


 長い髪。


 白い指先。


 淡く透けるような輪郭。


 まだ完全な肉体ではない。


 けれど、宝石だけだったヴェルティアが、確かに人の形を取り始めていた。


「ヴェルティア、お前」


『見ないで』


「いや、見ないと状況が分からないだろ!」


『高貴なる緊急事態なのよ! 少しは気を遣いなさい!』


「気を遣う方向が分からない!」


『知らないわよ! 私だって初めてなのだから!』


 銀白の光がさらに広がる。


 水盤が震え、ぬかるみ回廊の奥から湿った風が吹く。


 俺は、ヴェルティアの手らしきものを握った。


 冷たい。


 でも、さっきより輪郭がはっきりしている。


 そして、なぜか俺の心臓がうるさい。


「大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」


『今、それを言うの!?』


「こういう時こそ言うんだよ!」


『根拠は!?』


「ない!」


『最悪ね!』


「でも手は離さない!」


 ヴェルティアは、一瞬だけ黙った。


 銀白の髪が、水のように揺れる。


『……なら、許すわ』


「そこは高貴なる許可なんだ」


『うるさいわね』


 次の瞬間、光が弾けた。


 清水の間の奥に、白銀の輝きが広がる。


 俺は目を細めた。


 水音が戻る。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その中に、もう一つ。


 小さく、誰かが息をする音が混じった。



あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。


清水の迷宮に、新しい道が開きました。


第1層は守る場所、第2層は鍛える場所。


ただし、訓練区画でも油断すれば死にます。


次話では、ヴェルティアに起きた変化と、クレスたちの探索を書いていきます。


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