第4話 清水の間、牙を持つ
防犯会議。
前世で聞いたら、たぶん俺は胃を押さえていた。
会議。
その二文字には、人間の体力を吸う呪いがある。
資料を作り、説明をし、結論が出ず、次回へ持ち越され、結局なぜか俺の仕事が増える。
あれは現代日本のダンジョントラップだった。
しかも毎週復活する。
『何を遠い目をしているの?』
「前世の魔物を思い出してた」
『魔物?』
「会議」
『会議は魔物なの?』
「場合によってはドラゴンより厄介」
『人間社会、滅びた方がいいのではなくて?』
「たまに俺もそう思ってた」
俺は清水の間の中央に立っていた。
淡い灰色の床。
桶を置く水受け。
子どもや老人が飲みやすい低い水盤。
待つための石段。
こぼれた水を流す浅い溝。
昨日、DPを使って整えたばかりの場所だ。
見た目は穏やかだった。
水音は優しい。
床は清潔。
壁文字も分かりやすい。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
これだけだ。
短い。
冷たい。
言い訳を許さない。
だけど、今のままだと足りない。
文字は文字だ。
読んで守る人間には効く。
怖がって立ち止まる人間にも効く。
でも、読んだうえで踏み越えるやつには、別の仕組みがいる。
「今日は防犯を作る」
『ようやく罠ね』
「嬉しそうだな」
『迷宮核だもの』
「昨日も聞いたぞ、その万能回答」
『便利でしょう?』
「便利すぎる」
ヴェルティアの赤黒いコアが、少し得意げに光った。
まだ宝石のままだ。
第2層ができるまでは、こいつはこの姿でいる。
高貴なるダンジョンコア様は、今のところ赤黒い割れかけ宝石である。
『今、失礼なことを考えたでしょう』
「考えてません」
『間があったわ』
「迷宮主にも心の個室をください」
『迷宮内に個室? 作る?』
「そのノリで心の中に部屋を作らないでくれ。怖い」
俺は水盤を見た。
清い水が、静かに揺れている。
この水を飲んだ子どもがいる。
この水で一日を越えた病人がいる。
この水を見て泣きそうになった老人がいる。
そして、この水を売ろうとした男もいる。
ネズ。
昨日、革袋を二つ持ち込んだ男。
迷宮は、あいつの濁った欲を読んで水を止めた。
それで終わるならいい。
でも、終わらない気がしていた。
「転売目的なら水を止める。大量持ち出しも止める。そこまでは昨日と同じでいい」
『ええ』
「でも、壁を掘る。水脈を探す。水受けを壊す。看板を壊す。そういうやつが出た時、止めるだけじゃ足りない」
『殺すのね』
ヴェルティアは、あっさり言った。
水を出すか止めるかくらいの温度で、人を殺す話をした。
前世の俺なら、ここで胃がきゅっとなっていた。
いや、今もなっている。
日本人としての感覚は、まだ体のどこかに残っている。
人を殺す仕組みを作りましょう。
はい、作りましょう。
そんなノリで済むわけがない。
「……とはいえ」
俺は両頬を軽く叩いた。
ぱん、と乾いた音が清水の間に響く。
「そこは割り切る!」
『急に声が大きいわね』
「大事なところだからな! 俺は異世界に転生した! しかも迷宮主になった! 俺だって死にたくないし、ヴェルティアを砕かせる気もない!」
『大地』
「日本人としてためらいはある! あるけど、生活区画を壊すやつまで、お客様扱いはできません!」
『お客様扱い』
「前世の悪い癖だ! クレーマーを神様みたいに扱う文化は、ここで捨てる!」
『神をずいぶん安売りする文化ね』
「そうなんだよ! しかも返品不可の地獄だった!」
少しだけ息が軽くなった。
重い話を、重いまま飲み込むと沈む。
沈んだら判断が鈍る。
俺は迷宮主だ。
暗い顔で水場の隅に体育座りしている場合ではない。
「だから、防衛として殺す。稼ぐためじゃない。楽しむためでもない。ここを守るためだ」
『ええ』
「清水の間は、困っている人を迎える場所だ。でも、壊すやつは客じゃない」
『ええ』
「警告はもう出してある。書き足さない。長々と説明しない」
『なぜ?』
「壊すなって書いてあるのに壊すやつは、もう説明を読む気がない。細かい文章を増やしても、逃げ道を探すだけだ」
『人間にしては、よく分かっているわね』
「前世で注意書きを読まない客は山ほど見た」
『貴方の前世、迷宮より人間観察に向いていたのではなくて?』
「嫌な才能だな」
俺は息を吐いた。
「今ある文字だけでいい」
壁に刻まれた短い三行。
そのうちの一つ。
破壊行為禁止。
それだけで十分だ。
『いいわね』
ヴェルティアの声が、静かに沈む。
『短く、硬く、逃げ道がない。高貴なる警告よ』
「高貴かどうかは分からんけど、分かりやすい」
『では、防衛機構を作るわ』
「どうなる?」
『床、壁、水路を、一時的に迷宮の喉へ変える。破壊意思を持つ者を固定し、水で動きを奪い、そのまま迷宮の内側へ引き込む』
「死体は?」
『残らないわ』
ヴェルティアの声は、静かだった。
『肉体、血、衣服、道具、持ち込んだ悪意、最後に向けられた恐怖。それらはすべて迷宮へ還る。人間の死体は、ただの道具より濃いDPになる』
「……入口に戻すわけじゃないんだな」
『戻してどうするの? ここは迷宮よ。踏み越えた者を、外へ丁寧に返す場所ではないわ』
「そうか」
『嫌?』
「嫌ではある」
俺は正直に言った。
「でも、必要ならやる。というか、やらないとこっちが終わる。俺は二度目の人生を、変な遠慮で閉店させる気はない」
『閉店』
「前世の言い方だ。気にするな」
『気になるわよ』
「まあ、とにかく。ここは俺たちの迷宮だ。困っている人には開く。奪いに来るやつには閉じる。壊すやつは飲み込む」
『ええ』
「よし。決定!」
『軽くない?』
「軽く言わないと重すぎる!」
『貴方らしいわね』
「褒めた?」
『評価よ。高貴なる評価』
「出たな、便利評価」
床に青白い光が走った。
水受けの下。
低い水盤の奥。
壁文字の周囲。
入口から少し内側の床。
白い石の中に、細い水脈のような模様が刻まれていく。
それは美しかった。
細い銀線にも見える。
水の筋にも見える。
だけど俺には、獣の歯に見えた。
清い水場に隠された、透明な牙。
【清水の間に防衛機構を追加します】
【DPを16消費しました】
【現在DP:15】
「……できたのか」
『ええ』
「見た目は変わらないな」
『牙は、見せびらかすものではないわ』
「名言っぽい」
『実際、名言よ』
「自分で言うな」
水音が戻った。
ぽたり。
ぽたり。
清水の間は、また穏やかな顔をした。
けれど、その床の下には喉がある。
壁の奥には牙がある。
ここは水場だ。
そして、迷宮だ。
昼の水汲みは、静かに終わった。
村人たちは壁文字を見て、いつもより少しだけ背筋を伸ばした。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
昨日からあった三行だ。
けれど今日は、最後の一行がやけに重く見えた。
ミルは壁文字を見上げて、首を傾げた。
「村長、はかいこういってなに?」
「壊すな、ということだ」
「壊さなければいいんだよね?」
「そうだ」
オルド村長の声は硬かった。
「壊さなければよい」
村人たちは、水を汲む時にいつもより丁寧になった。
桶をそっと置く。
水をこぼしたら布で拭く。
子どもが壁に触ろうとしたら、母親が慌てて手を引く。
清水の間は、昨日よりもずっと静かだった。
俺はそれを奥から見ていた。
「効いてるな」
『悪いことではないわ』
「まあ、壊されるよりはいいけど」
『優しい場所を守るには、恐れが要る』
「恐れすぎると、人が来なくなる」
『来なくなったら困る?』
「困る。水は必要とされてる」
『なら、ちょうどよい恐れを設計しなさい。迷宮主なのでしょう?』
「簡単に言うなあ」
『高貴なる助言よ』
「高貴ってつければ何でも通ると思うなよ」
『通らないの?』
「通りそうで悔しい」
昼の最後に、オルド村長が水場へ深く頭を下げた。
迷宮に話しかけはしない。
ただ、頭を下げるだけ。
それでいい。
ここは会話する場所ではない。
迷宮は人間に返事をしない。
ルールを示し、欲を読み、判断する。
村人たちが帰ると、清水の間にはまた水音だけが残った。
静かだった。
夜が来るまでは。
その夜。
ネズは森の中を歩いていた。
月は細い。
足元は暗い。
だが、何度も水汲みに使われた道には、すでに踏み跡ができている。
ネズは革袋を背負い、片手に短い鉄杭、もう片手に小さな槌を持っていた。
つるはしは持ってこなかった。
大きすぎる。
音も出る。
それに、あからさまに「壊しに来ました」という姿になる。
鉄杭なら言い訳できる。
足場を見るため。
水脈を調べるため。
外を探すため。
奪うわけではない。
壊すつもりではない。
ただ、少し調べるだけ。
ネズはそう自分に言い聞かせていた。
だが、胸の奥では別の声がしていた。
あの水なら売れる。
隣村なら買う。
水場そのものを取れなくても、水脈の一部を見つけられればいい。
迷宮の中の水じゃなければ、あの壁文字の決まりには引っかからない。
自分は頭がいい。
村長も、バランも、あの得体の知れない迷宮も、出し抜いてやる。
森の奥に、黒い石の洞窟が見えた。
看板がある。
清い水、あります。
困っている人、歓迎。
奪いに来る人、お断り。
ネズは小さく舌打ちした。
「奪いに来たんじゃねえよ」
誰も聞いていない。
返事もない。
ネズは洞窟に入った。
清水の間は、昼と同じように静かだった。
淡い灰色の床。
整った水場。
低い水盤。
石段。
壁文字。
転売禁止。
大量持ち出し禁止。
破壊行為禁止。
ネズはそれを見て、喉を鳴らした。
怖かった。
それは確かだった。
だが、同時に腹も立った。
水がある。
村の近くにある。
自分たちが困っている。
なのに、なぜこの洞窟が決める。
なぜ自分だけ拒まれる。
なぜ欲が分かる。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
「ふざけるなよ……」
ネズは中央の水受けには近づかなかった。
水を汲めば止められる。
それは分かっている。
だから、彼は壁を見た。
水が落ちてくる石の割れ目。
その周囲の白い石。
ここを少し削れば、水の流れが分かるかもしれない。
水脈の向きが分かるかもしれない。
外から掘れる場所が分かるかもしれない。
ネズは鉄杭を壁の隙間へ当てた。
その瞬間、水音が止まった。
完全に。
「……っ」
壁に刻まれた文字が、淡く光る。
破壊行為禁止。
ネズは固まった。
心臓が強く鳴る。
だが、しばらく待っても何も起きない。
水が止まっただけだ。
文字が光っただけだ。
ネズは息を吐いた。
「脅しだ」
声が震えた。
自分でも分かった。
それが悔しかった。
「脅しだろ、こんなもん」
ネズは槌を持ち上げた。
鉄杭を叩く。
かん、と乾いた音が清水の間に響いた。
水盤の水面が、静かに波打つ。
壁文字が、もう一度光る。
破壊行為禁止。
それだけだった。
退去せよ、とは書かれない。
次は殺す、とも書かれない。
ただ、最初から最後まで、同じ一文だけがそこにある。
ネズの手が止まる。
額から汗が落ちた。
やめろ。
戻れ。
今なら帰れる。
頭のどこかで、そういう声がした。
だが、その声は別の声に押し潰された。
ここで引いたら、また笑われる。
バランに止められたまま終わる。
村長に睨まれたまま終わる。
あの水は金になる。
自分は間違っていない。
家族のためだ。
村のためだ。
将来のためだ。
「俺は……悪くねえ」
ネズはもう一度、槌を振り下ろした。
その音は、鳴らなかった。
床から伸びた水が、音より早く彼の腕に絡みついた。
「は?」
次の瞬間、白い石の床が沈んだ。
ネズの足首を水が掴む。
膝が折れる。
槌が落ちる。
鉄杭が床を転がる。
「ま、待て」
誰に言ったのか、ネズ自身にも分からなかった。
迷宮は返事をしない。
壁が動く。
水場の奥の石が開き、細い水路が喉のように広がる。
ネズの体が、抵抗する間もなくその中へ引きずられた。
「やめろ! 俺は、俺はただ」
水が口に入った。
言葉が潰れた。
透明な水が、ネズの体を包む。
冷たい。
清い。
どこまでも澄んでいる。
その澄んだ水の中で、ネズは目を見開いた。
手が壁を掻く。
爪が割れる。
足が暴れる。
泡が上がる。
やがて、音が消えた。
水路の奥が閉じる。
ネズの体も、衣服も、革袋も、鉄杭も、槌も、すべて清水の間から消えていた。
残ったのは、濡れた床と、静かな水音だけだった。
壁には、最初からある短い文字が残っている。
破壊行為禁止。
俺は、清水の間の奥でそれを見ていた。
動けなかった。
いや、動く必要はなかった。
もう仕組みは動いていた。
警告は出ていた。
破壊行為禁止。
それでもネズは叩いた。
そして、二度目を振り下ろした。
だから、迷宮は処理した。
水が静かになる。
白い石の喉が閉じる。
床が戻る。
壁の傷は、ゆっくり塞がっていく。
そこにあったものは、何も残らなかった。
濡れた鉄杭も、槌も、革袋も。
ネズの服も、肉も、血も。
全部、迷宮が飲み込んだ。
「……終わった、か」
『ええ』
ヴェルティアの声は静かだった。
『違反者を吸収したわ』
「吸収、か」
『嫌な言葉?』
「嫌だな」
『でも、正しい言葉よ』
「分かってる」
俺は水盤を見た。
清い水は、また静かに流れ始めていた。
何もなかったように。
さっきまで人間が一人死んでいた場所で、水は変わらず澄んでいる。
それが、たぶん怖いところだ。
でも俺は、そこで沈み込まないように、わざと大きく息を吸った。
「よし!」
『よし?』
「よし、だ」
『今の流れで?』
「今の流れだからだよ。警告は出した。壊すなと示した。それでも壊そうとした。だから防衛機構が動いた。ここまでは筋が通ってる」
『ええ』
「日本人としては、そりゃ胃がざらっとする。人が消えたんだからな。でも、俺も死にたくない。ヴェルティアも消したくない。清水の間も壊されたくない」
『大地』
「だから、割り切る! 俺は迷宮主! ここは異世界! 生活区画を壊すやつは客じゃない!」
『……ずいぶん強引に立ち直るのね』
「強引に立ち直らないと、やってられないだろ!」
『確かに』
「あと、こういう重い空気の時こそ、明るく確認する。俺は止めなかった。止めないで正解だった。そうじゃないと、次に守るべき人が危なかった」
『ええ。その通りよ』
「なら、俺は背負う。背負うけど、潰れない。潰れたら経営者失格だ」
『迷宮主でしょう』
「迷宮主兼、清水の間の現場責任者!」
『肩書きが庶民的ね』
「庶民出身だからな!」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
たぶん、戻さないと飲まれる。
清い水にも。
迷宮にも。
今の数字にも。
【生活区画防衛機構、初回起動】
【破壊行為者一名を吸収】
【衣服、所持品、破壊道具を吸収】
【畏れ、敵意、執着、死の恐怖、境界認識を獲得】
【現在DP:138】
「……増えたな」
『ええ』
「人間一人で、これだけ増えるのか」
『死体、血、魔力、恐怖、執着、道具。全部が迷宮へ還ったもの』
「やっぱり、危ないな」
『ええ。だから、殺せばよいとは考えてはいけない』
ヴェルティアの声は、妙に静かだった。
『人の死は濃い。けれど濃いものばかり求める迷宮は、必ず濁る。貴方が作った清水の間は、濁ってはいけないのでしょう?』
「ああ」
俺は壁文字を見た。
破壊行為禁止。
それだけだ。
でも今、その一文はもうただの注意書きではなくなった。
実行済みの事実になった。
「殺して増やすのは違う。でも、守るために殺すのはある」
『ええ』
「ここ、間違えたら終わるな」
『だから貴方が迷宮主なのよ』
「責任重っ!」
『今さら?』
「今さら!」
俺は頭をかいた。
軽口が出た。
なら、まだ大丈夫だ。
俺はまだ、清水の間を濁らせる側には落ちていない。
たぶん。
いや、たぶんじゃ駄目だな。
そこはちゃんと見張る。
俺自身を。
翌朝、ルスカ村は静かだった。
最初に異変に気づいたのは、いつも早く水を汲みに来る老婆だった。
清水の間に、ネズはいなかった。
血もない。
死体もない。
革袋も、鉄杭も、槌もない。
ただ、水場の前の床だけが、昨日より少し濡れていた。
そして壁には、短い文字があった。
破壊行為禁止。
老婆は悲鳴を上げた。
その声は森を抜け、村まで届いた。
村人たちが集まった。
オルド村長も来た。
バランも来た。
ミルは来ようとして、母親に止められた。
バランは清水の間に入って、顔から血の気を失った。
「……ネズ」
誰も答えなかった。
答える者はいなかった。
オルド村長は、床を見た。
壁を見た。
水場を見た。
濡れた石を見た。
そして、短い壁文字を見た。
破壊行為禁止。
「昨夜、ネズを見た者は」
オルドが低く問う。
バランが、震える声で答えた。
「……俺が見た。昨日の夕方、あいつ、言ってた。迷宮の水じゃなければいいって。湧き出る前の水脈を探すって。俺は止めた。止めたんだ……」
バランの声が潰れる。
「鉄杭と槌を持ってたのかもしれねえ。いや、たぶん持ってた。あいつ、そういう顔してた」
村人たちは黙った。
死体はない。
血もない。
道具もない。
だからこそ、怖かった。
獣に襲われたなら、血が残る。
転んで死んだなら、体が残る。
人に殺されたなら、何か痕跡が残る。
だが、ここには何もない。
ネズという人間が、持ち込んだ物ごと消えている。
清水の間は、何もなかった顔で水を流している。
「村長……」
誰かが震える声で言った。
「どうするんだ」
オルドは答えなかった。
彼の顔は、昨日より老けて見えた。
ネズは愚かだった。
警告を無視した。
水を売ろうとした。
迷宮を掘ろうとした。
それは事実だ。
だが、村の人間でもあった。
妻もいる。
子もいる。
生活に困っていた。
その全部が、消えた跡の前では言い訳にも慰めにもならなかった。
オルドは、深く息を吸った。
「子どもには見せるな」
「でも、村長。このまま水を汲むのか?」
「汲む」
村人たちがざわついた。
オルドは杖を強く突いた。
「汲む。病人がいる。子どもがいる。老人がいる。この水がなければ困る者がいる」
「でも、人が消えたんだぞ」
「だからこそ、ルールを破るな」
オルドの声は低かった。
「この迷宮は、村のものではない。水は恵みだが、奪えるものではない。ネズはそれを間違えた」
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
水は必要だった。
迷宮は怖かった。
その両方が、同じ場所にあった。
「それと」
オルドは森の道を見た。
「冒険者を呼ぶ」
村人たちが顔を上げる。
「討伐するのか?」
「分からん」
「調べてもらうのか?」
「それも分からん」
「なら、何を頼むんだ」
オルドは清水の間を見た。
水音がする。
優しく、冷たく、変わらずに。
「村だけで判断してはならんものだ。あれは井戸ではない。神の泉でもない。ただの魔物の巣とも違う。人を救い、人を消す迷宮だ」
オルドは言った。
「見てもらう。測ってもらう。こちらが踏み越えてよいものか、踏み越えてはならんものか」
バランが小さくうなずいた。
その顔は青ざめたままだった。
「誰を呼ぶんだ」
「近くに、護衛依頼帰りの冒険者がいると聞いた。Bランクの剣士、クレスだ」
村人たちの間に、小さなどよめきが走った。
Bランク。
村に来るような冒険者ではない。
だが、だからこそ頼れる。
オルドは続けた。
「新人二人を連れているそうだ。実地訓練の途中らしい。村から正式に頼む」
「金は?」
「出せるだけ出す。足りない分は、わしが頭を下げる」
誰も笑わなかった。
誰も止めなかった。
ネズは消えた。
死体も、服も、道具もない。
それでも村人たちは、彼がもう戻らないと分かっていた。
その日、村人たちはいつもより深く頭を下げて水を汲んだ。
誰も壁に触れなかった。
誰も余分な桶を出さなかった。
誰も声を荒げなかった。
清い水は、変わらず注がれた。
それは救いだった。
そして、警告だった。
その日の夕方。
ルスカ村へ続く道に、三人の冒険者が現れた。
先頭を歩く青年は、まだ若い。
二十二歳。
整った革鎧に、使い込まれた剣。
背筋はまっすぐで、歩き方に無駄がない。
表情は穏やかだが、目は周囲をよく見ている。
Bランク剣士、クレス。
彼は村の柵を見て、少し眉を寄せた。
「空気が重いな」
隣を歩いていた少年が、弓を肩にかけ直した。
小柄で身軽そうな体つき。
茶色の髪が跳ねている。
Eランク斥候、フィン。
「重いっていうか、湿ってますよね。水の村だけに」
「フィン」
「すみません。今のは自分でも浅かったです」
後ろの少女が、ため息をついた。
淡い栗色の髪をまとめ、杖を持っている。
治癒と補助を学ぶEランク冒険者、マイラ。
「人が消えた村で、水の冗談は最悪」
「はい。反省しました。口を桶に突っ込んで黙ります」
「桶に失礼」
「俺の口、桶以下!?」
クレスが小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「二人とも、気を引き締めて。今回は普通の護衛依頼じゃない。相手は迷宮だ」
「でも、村の近くにできた水場なんですよね?」
フィンが声を落とす。
「人を助けてるって話もあるとか」
マイラが続けた。
「でも、人も消えた。しかも警告文のあとで」
クレスはうなずいた。
「だから、決めつけない。討伐対象かどうかも、危険度も、まず見る。村人を守る。でも、迷宮が何を守っているのかも見る」
「迷宮が、何を守っているのか?」
フィンが首を傾げる。
クレスは村の奥、森の方を見た。
「ただ人を殺すだけなら、村人はもう近づかない。でも水は必要とされている。なら、そこにはルールがあるはずだ」
マイラが小さく息を呑んだ。
「ルールを破ったから、消えた?」
「まだ分からない」
クレスは静かに言った。
「分からないから、見に行く」
その声は柔らかかった。
けれど、逃げる声ではなかった。
村の入口で、オルド村長が三人を待っていた。
顔には疲れが濃い。
それでも、背筋は曲げていない。
「来てくださったか、クレス殿」
「お久しぶりです、オルド村長」
クレスは丁寧に頭を下げた。
「依頼内容は道中で聞きました。清い水を出す迷宮。そして、警告を破った村人が消えた」
オルドは目を伏せた。
「その通りです」
「まずは話を聞かせてください。それから、現場を見ます」
「討伐は」
「今は決めません」
村人たちがざわつく。
クレスはまっすぐに言った。
「俺たちは村を守るために来ました。でも、何が敵か分からないまま剣は抜きません」
その言葉に、オルドは深くうなずいた。
「それでよい。いや、それがよい」
フィンが小声でマイラに囁く。
「クレスさん、こういう時ほんと真面目だよね」
「そこがいいところでしょ」
「いや、俺も真面目ですよ。真面目に足が震えてます」
「それは正直」
クレスは二人を振り返った。
「震えていてもいい。止まらなければ」
フィンは一瞬ぽかんとして、それから苦笑した。
「そういうことさらっと言うから、ついて行くしかなくなるんですよねえ」
マイラは杖を握り直した。
「現場を見るなら、私も行きます。水が本当に病人を支えているなら、確認したい」
「行こう」
クレスは森を見た。
その奥に、清水の迷宮がある。
清い水を出し、人を救い、人を消した迷宮。
夕暮れの光の中で、森の道は静かに口を開けていた。
同じ頃。
清水の間では、俺が水盤の前に座り込んでいた。
「……なんか、今日は疲れたな」
『防衛機構を一度動かしただけで?』
「一度って言い方が軽いなあ。人が一人消えてるんだけど」
『破壊行為者よ』
「分かってる。分かってるけど、日本人感覚がまだ残ってるんだよ」
『なら、早く慣れなさい』
「そこを即答するのが迷宮核だよな!」
『当然でしょう。貴方は迷宮主よ。水場を守る側なの。壊す者にまで心を割いていたら、次に割れるのはこの迷宮だわ』
「うん。だから割り切る。俺も死にたくないし、ヴェルティアも砕かせない。清水の間も壊させない」
『それでいいわ』
「でも疲れたものは疲れた!」
『情けないわね』
「元会社員だからな! メンタルの耐久値は高いようで低い!」
『威張ることではないわ』
「知ってる!」
俺は入口の方を見た。
外は見えない。
村が冒険者を呼んだことも、俺には分からない。
ただ、朝から迷宮へ向けられる感情が変わったことだけは分かった。
感謝だけではない。
畏れだけでもない。
疑い。
警戒。
それでも必要だという生活欲。
そして、遠くから近づいてくる新しい気配。
村人のそれとは違う。
鋭い。
整っている。
少し熱い。
その横に、震えをごまかすような軽い気配。
もう一つ、慎重に水の性質を見ようとする静かな気配。
それが何なのか、まだ分からなかった。
「ヴェルティア」
『何?』
「たぶん、次は外の人間が来る」
『村人ではなく?』
「分からない。でも、今日の空気は昨日と違う」
『怖い?』
「ちょっとな」
『迷宮主なのに?』
「迷宮主でも怖いものは怖い」
『情けないわね』
「でも、逃げない」
俺は水盤を見た。
そこには、少し疲れた俺の顔が映っている。
前世でも、何度も見た顔だ。
面倒な案件の前。
謝罪に行く前。
誰もやりたがらない現場へ向かう前。
でも、今は違う。
俺は会社員じゃない。
迷宮主だ。
「清水の間は守る」
『ええ』
「困っている人には開く」
『ええ』
「壊すやつは殺す」
『ええ』
ヴェルティアのコアが、静かに赤く光った。
『それが、貴方の迷宮よ』
「言い方、重いなあ」
『軽く言ってほしかったの?』
「いや、軽く言われても困る」
『面倒ね』
「元人間だからな」
俺は水面に映る自分へ、少しだけ笑ってみせた。
「まあ、大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」
『その言葉、今日聞くと少し不安になるわ』
「俺も!」
『威張ることではないわ!』
ヴェルティアの声が響く。
水音が重なる。
ぽたり。
ぽたり。
清い水は、今日も流れている。
救いとして。
警告として。
そして、これから来る者たちを映す鏡として。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
清水の間は、ついに「破壊行為禁止」の先を実行しました。
次話では、Bランク剣士クレスと新人二人が、清水の迷宮を初めて見ることになります。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




