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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第86話 王女が来る前に、線を引く



 リーナ王女が来る。


 その一報が清水の間に落ちた翌朝、第1層の空気は少し硬くなっていた。


 水音は変わらない。


 清水はいつも通り流れている。


 村人は水を汲み、冒険者は依頼札を見る。


 それでも、誰もが少しだけ意識していた。


 王女。


 王都正式視察団。


 清水の迷宮を見に来る、護衛対象。


 俺は黒い水膜の前で、清水の間を見ていた。


「王女が来るなら、何か整えた方がいいかな」


『不要よ』


 ヴェルティアの返事は早かった。


「即答」


『王女が来るから迷宮が変わるのではないわ。迷宮へ来るなら、王女が迷宮を見るのよ』


「接待しない迷宮」


『礼節は必要よ。媚びは不要』


 その言葉は、かなりしっくりきた。


 清水の迷宮は、人間の王家の庭ではない。


 だからといって、無礼に扱う必要もない。


 王女として迎える。


 けれど、迷宮の線は変えない。


 それを人間側も分かっているかどうか。


 今日の準備は、そこから始まった。




 清水の間の石机に、イリオが王都からの先触れを広げていた。


 周囲には、ライラ、テラリア、ロザック、グラント、オルド村長。


 少し離れて、クレスとカティア。


 マイラも記録板を持って立っている。


 イリオが内容を整理する。


「王都正式視察団の到着は三日後。視察者はリーナ王女殿下。目的は、清水の迷宮の現状確認です」


 紙面を押さえながら続ける。


「対象は、第1層の清水供給、報酬確認台、冒険者講習、第3層および第4層報酬の管理状況、第5層湯溜まりの安全確認」


 ライラがすぐに言った。


「第6層は?」


「記載なし」


「なら、なし」


 短い。


 迷いがない。


 ロザックも頷く。


「第6層は視察範囲に入れない」


 グラントが口を開く。


「白い小箱について質問は出るでしょう」


「説明はするわ」


 ライラは答える。


「でも、現地へは行かせない。触らせるかも、その場で判断する」


 イリオが紙に書き込む。


「第6層は説明のみ。現地視察不可。白い小箱の実物確認は、所持者判断」


「所持者って書き方、いいわね」


 ライラは白い小箱に軽く触れた。


「これはあたしの報酬よ。王都備品じゃない」


「その扱いで統一します」


 イリオは頷いた。


 そこで、ライラはテラリアを見る。


「リーナ王女の性格を、もう一度聞かせて」


 テラリアは少しだけ考えてから、口を開いた。


「悪い子ではないわ。素直で、よく見て、よく聞く子よ。王女としての勉強も真面目にしている」


「その言い方だと、問題が続くわね」


「見たいと思ったものを、見るための理由を作るのが得意なの」


 ライラの目が細くなった。


「やっぱり問題じゃない」


「だから、止める人が必要なのよ」


 テラリアの声は明るすぎなかった。


 親戚だから甘く見るのではない。


 知っているからこそ、危うさも分かっている声だった。


 ライラは確認する。


「リーナ王女が第6層を見たいと言っても?」


「止めるわ」


「理由を並べても?」


「聞いた上で止める」


「テラリア姉様って呼ばれても?」


 テラリアは少しだけ目を伏せ、それから頷いた。


「止めるわ」


 ライラはそこで、短く息を吐いた。


「護衛対象は、願いを叶える相手じゃない。死なせない相手よ」


 イリオの筆が一瞬止まった。


 すぐに動く。


 記録したのだろう。


 テラリアも、静かに頷いた。


「分かってる」


 その一言で、この場の線はかなりはっきりした。


 リーナ王女は迎える。


 だが、第6層には行かせない。


 白い小箱も、王女だから自由に触れるわけではない。


 視察は歓迎ではある。


 けれど、願いの全部を通す場ではない。




 次に、ロザックが冒険者側の運用を決めた。


「王女殿下の視察日は、清水の間の見物人を制限する」


 近くで聞いていた冒険者達が、少しざわついた。


 王女を見たい者は当然いる。


 だが、清水の間は見物席ではない。


 ロザックは続ける。


「水汲みは止めない。迷宮利用も完全には止めない。だが、王女見たさに居座る者、護衛導線へ寄る者、第6層の話で騒ぐ者は退かす」


 カティアが短く言う。


「退かなきゃ?」


「帰す」


「それでいい」


 クレスが続ける。


「第5層まで視察するなら、同行者は絞るべきです。湯溜まりは報酬部屋ですが、そこまでの道は戦闘階層です」


 イリオが書き込む。


「第5層は戦闘階層。湯溜まりは報酬部屋。同行者は最小限」


 マイラが記録板を抱え直した。


「湯溜まり効果については、既存記録で説明できます。第5層踏破記録も照合可能です」


 ロザックが頷く。


「マイラは第1層で説明役だ。同行は状況次第で判断する」


「分かりました」


 マイラは落ち着いて答えた。


 彼女は既に第5層を越えている。


 記録係としての言葉には、現場を見た重みがある。


 オルド村長は、しばらく黙っていた。


 手を組み、言葉を選んでいる。


 やがて、深く息を吸ってから口を開いた。


「村としては、清水の間までの道を整えます。水汲みの導線も、普段より乱れないようにします」


 そこで一度、言葉を切る。


「ですが、村が清水の迷宮を所有しているような顔はしません」


 場が静かになった。


 オルド村長は背筋を伸ばした。


「我々は、迷宮のそばにある村です。清水に助けられている村です。案内はします。準備もします。ですが、迷宮の主ではありません」


 俺は黒い水膜の前で、思わず黙った。


 それは、村長としてかなり重い言葉だった。


 王女が来る。


 村にとっては、大きな出来事だ。


 普通なら、村の手柄にしたくなるかもしれない。


 でも、オルド村長はそこを間違えなかった。


『良い認識ね』


 ヴェルティアの声も静かだった。


『迷宮への礼節を分かっているわ』


 イリオも頷いた。


「その認識で王都側にも伝えます。清水の迷宮は、村の所有物ではない。村は近隣共同体として受け入れに協力する」


 グラントが続ける。


「商人ギルド側は、視察当日の売り込みを止めます。紅肌の雫、琥珀の雫、白い小箱。王女殿下へ直接売り込もうとする者が出ないよう、事前に通達します」


 ロザックが眉を寄せる。


「出るのか」


「出ます」


 グラントは即答した。


「出ますので、先に止めます。献上品も事前許可制にしましょう。無秩序な接触は、後の取引を壊します」


 イリオがまた書き込む。


「商談、献上、接触制限」


 ライラが頷いた。


「助かるわ」


「利益のためです」


 グラントは柔らかく笑った。


「礼節を失えば、利益も遠ざかりますので」


 商人らしい。


 だが、今はそれでいい。


 村は、迷宮を自分の物にしない。


 商人は、報酬を王女への売り物にしない。


 冒険者ギルドは、視察を見世物にしない。


 同じことを繰り返し言う必要はなかった。


 それぞれが、自分の仕事として動き始めれば十分だった。




 受け入れ準備は、昼までに大枠が固まった。


 第1層の水汲み導線。


 王都視察団の待機場所。


 冒険者講習席の一部開放。


 報酬確認台の説明順。


 紅肌の雫と琥珀の雫の扱い。


 第5層へ入る場合の同行人数。


 湯溜まり利用時の性別別導線。


 第1層への帰還路確認。


 そして、第6層の扱い。


 第6層は説明のみ。


 現地視察なし。


 挑戦なし。


 白い小箱は、ライラの判断で見せる。


 触らせるかどうかも、ライラの判断。


 そこまで決めたところで、テラリアが少しだけ席を外した。


 清水の間の端。


 水汲みの流れから外れた場所で、彼女は清水の水面を見ていた。


 ライラが後を追う。


「少し、昔のことを思い出した?」


 テラリアは振り向いた。


「顔に出ていた?」


「出てたわ」


 テラリアは小さく笑い、水面へ視線を戻した。


「小さい頃、王族の集まりでよく会ったの。リーナはいつも、わたしの後ろをついてきたわ」


「テラリア姉様って?」


「そう」


 テラリアの表情が柔らかくなる。


「わたしが木剣を振っていると、危ないから離れなさいって言われても見に来るの。庭の端まで走ってきて、どうして剣を持つの、どうして外へ行きたいの、どうしてそんなに楽しそうなのって聞いてきた」


 水音が静かに響く。


「リーナは、見たいものを見たい子だった。知りたいものを、そのままにできない子だった」


 ライラは茶化さなかった。


 ただ、少し低い声で言った。


「情があるなら、止めるのは余計に難しいわね」


「ええ」


 テラリアは頷いた。


「だから、先に決めておくわ。リーナが第6層を見たいと言っても止める。白い小箱を触りたいと言っても、ライラの判断に従わせる。湯溜まりより奥はないと、わたしからも言う」


「姉様って呼ばれても?」


 テラリアは、少しだけ目を細めた。


「呼ばれても」


 ライラはしばらく黙っていた。


 それから、短く言う。


「なら、任せる」


「ありがとう」


「礼を言うところじゃないわ。大変なのはこれからよ」


「そうね」


 テラリアは水面から目を離した。


 その顔には、懐かしさはまだ残っている。


 けれど、もう迷いは少なかった。


「リーナは大事よ。だから止めるわ」


 ライラは頷いた。


「それでいい」


 俺は黒い水膜の前で、そのやり取りを見ていた。


「テラリア、ちゃんと止める側に回ったな」


『血筋と役割を分けたのね』


 ヴェルティアが言う。


『親しいからこそ止める。悪くない判断だわ』


「王族って大変だな」


『立場ある者は、どこでも面倒を背負うものよ』


「迷宮核も?」


『当然よ』


 ヴェルティアは静かに胸を張った。


『高貴なる迷宮核ですもの』


 今回は、突っ込まなかった。


 少しだけ、本当にそう見えたからだ。




 三日間は、準備で過ぎた。


 水汲み場は普段より広く取られた。


 講習席の一部は視察説明用に空けられた。


 商人ギルドからは、視察当日の売り込み禁止が通達された。


 冒険者ギルドは、清水の間に残る者を絞った。


 第5層の同行者も整理された。


 ライラは毎日、小箱の位置を確かめていた。


 腰の後ろ寄り。


 戦闘の邪魔にならず、必要ならすぐ触れられる場所。


 中には、薬、触媒、保存食、魔石、防寒布、替えの手袋、琥珀の雫。


 冒険者の道具であり、護衛の備えでもある。


 テラリアは、リーナについて必要な情報をイリオへ伝えた。


 好奇心が強いこと。


 人の話は聞くが、納得できる理由を求めること。


 自分の目で見たがること。


 そして、テラリアを「姉様」と呼ぶこと。


 イリオはそれらを短く整理し、ライラへ渡した。


 ライラは読んで、最後に一言だけ言った。


「面倒だけど、悪い子じゃなさそうね」


 テラリアは少しだけ嬉しそうにした。


 その表情を見て、ライラはため息をついた。


「だから止めづらいのよ」


「うん」


「うんじゃないわよ」


 軽いやり取りだった。


 けれど、二人の間で線はもう引かれていた。


 そして三日目の夕方。


 ルスカ村の外から、整った馬蹄の音が届いた。


 普段の荷馬車とは違う。


 数が多い。


 足並みが乱れていない。


 護衛の馬が先に入り、その後ろに王都の旗を掲げた馬車が続く。


 清水の間にいた者達の背筋が、自然と伸びる。


 オルド村長は門前へ出た。


 深く息を吸い、両手を前で組む。


 グラントは一歩下がり、商人としての笑みを控えめに整えた。


 ロザックは冒険者達の位置を目で確認する。


 イリオは先触れの紙を閉じ、正面に立った。


 ライラは白い小箱に触れなかった。


 代わりに、剣帯と小箱の位置を一度だけ確かめる。


 テラリアは、少しだけ唇を引き結んでいた。


 馬車が止まる。


 扉が開く。


 先に降りた侍女が周囲を確認し、その後、小柄な少女が姿を見せた。


 柔らかな金の髪。


 淡い色の旅装。


 王女らしい整った所作。


 けれど、その目は落ち着きなく動き、清水の間の奥を見ようとしていた。


 その目が、テラリアを見つけた瞬間に輝く。


「テラリア姉様!」


 少女の声が、清水の間に明るく響いた。


 テラリアの表情が、一瞬だけ柔らかくなる。


 だが、彼女はすぐに背筋を伸ばした。


「リーナ」


 ライラが小さく呟く。


「……最初の一声で、だいたい分かったわ」


 リーナ王女は、まだ清水の入口に立ったばかりだった。


 水音は、いつも通り響いている。


 だが、清水の迷宮に集まるものは、また一つ重くなった。



後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、リーナ王女を迎える前の準備回でした。


王女が来るからといって、迷宮のルールは変わりません。

ただし、人間側の受け入れ体制は整えます。


ライラは護衛責任者として、第6層禁止を明確にしました。

テラリアも、親しい相手だからこそ止める側に回ります。


そして、リーナ王女が清水の迷宮へ到着しました。


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