第80話 護衛対象が来るまでは、自由にやる
霧蔵の小箱の朝確認は、もう第1層の日課になっていた。
側面の数字を見る。
蓋を開ける。
中身を確認する。
帳面に写す。
最初の頃のように、数字が一つ減るたびに全員が息を止めることはなくなった。
驚きは薄れた。
代わりに、扱い方の話が増えている。
「数字を数えるだけなら、もう誰でもできます」
マイラが小箱の前で言った。
「問題は、何を入れるか。誰が持つか。いつ出すかです」
俺は黒い水膜の前で、その言葉を聞いていた。
「小箱も、そろそろ次の段階か」
『当然ね』
ヴェルティアが答える。
『報酬は、見つけた時より使い始めてからの方が面倒になるわ』
「便利なのに?」
『便利だからよ』
その小箱の少し離れたところで、今日は別の瓶が人の目を集めていた。
紅琥珀の雫。
赤みを帯びた琥珀色の酒。
昨日、紅琥珀スライムから得たものだ。
薬ではない。
美容品でもない。
身体を強くするものでもない。
ただ美味い酒。
だが、その「ただ」が、どうにも人の足を軽くする。
グラントさんが、瓶を前にして静かに言った。
「以前、フィンさん達が獲得した紅琥珀の雫には、金貨5枚の値がつきました」
周囲の冒険者たちが、ざわっとした。
金貨5枚。
第1層にいる全員が、その重さを理解しているわけではない。
けれど、安い値段ではないことは分かる。
カイルが思わずフィンを見た。
「金貨5枚って、改めて聞くとすごいな」
フィンは少し困ったように笑う。
「僕たちも驚いたよ」
グラントさんは続ける。
「今回は、王都調査団の確認が入りました。長く市場に出ていなかった希少性もあります。清水側での暫定買取なら、金貨8枚」
「八枚!?」
誰かが声を上げた。
グラントさんがすぐに指を立てる。
「声を大きくしないでください」
ライラが腕を組んだ。
「言ったそばから人が走る値段じゃない」
「ええ。ですから、ここで止めています」
グラントさんは穏やかに言う。
「王都の貴族向けに競らせれば、金貨10枚、あるいはそれ以上もあり得ます。しかし、それを今ここで煽るべきではありません」
イリオさんが眉を寄せる。
「十分、煽っています」
「控えめに申し上げています」
「商人の控えめって怖いわね」
ライラが吐き捨てるように言った。
「弱い赤スライムが、ぴょんぴょん逃げて、酒を落として、金貨8枚。そりゃ走るわよ。走らない方が不思議だわ」
テラリアが瓶をじっと見つめる。
「小さい瓶なのに、人を走らせるのね」
「小さいからよ」
ライラは言った。
「手が届きそうで、持って帰れそうで、売れそうで、飲めそう。そういうものが一番足を軽くするの」
ロザックさんが低く言う。
「第4層は禁じない」
その声で、冒険者たちが少し静かになった。
「第4層へ行ける者は、第3層を越えて戻ってきた者だ。冒険者が稼ぎに行くのを、ギルドは一つ一つ止めない」
イリオさんが続ける。
「ただし、掲示は出します。紅琥珀の雫は薬ではないこと。紅琥珀スライムは弱いが、追わせること。取得後こそ帰還すること」
マイラが静かに頷いた。
「取れた後こそ、帰ってください」
その一言は、昨日から何度も聞いているのに、まだ少し重い。
フィンが掲示予定の文を見ていた。
「僕たちの時も、もう一匹探したくなりました」
カイルが意外そうな顔をする。
「フィンが?」
「うん」
フィンは素直に頷く。
「取れたから、次もいける気がした。あの時、マイラが止めなかったら、たぶん少し奥まで見に行ってた」
マイラが淡々と言う。
「少し奥、が一番危険です」
ライラが、ふっと笑った。
「いいわね。短くて刺さるわ」
そこで、グラントさんが白い小箱へ目を向けた。
「もう一つ、考えなければならないことがあります」
「何だ」
ロザックさんが聞く。
「紅琥珀の雫を、どこに保管するかです」
空気が少し変わる。
グラントさんは小箱を見た。
「霧蔵の小箱に入れれば、保存には向きます。時間の進みも遅い。高価な酒を劣化させずに置ける」
イリオさんがすぐに言う。
「ですが、あの箱には所有者固定がありません」
「はい」
グラントさんは頷いた。
「誰が持つか。どこに置くか。誰が取り出せるか。金貨8枚の瓶を箱へ入れた瞬間、今度は箱ごと価値を持ちます」
オルド村長が胃のあたりを押さえた。
「箱に高い酒を入れると、箱もますます高く見えるわけですな」
「その通りです」
「便利は胃に悪いですな」
ライラが小箱を見て、紅琥珀の雫を見た。
「便利な箱に、高い酒。最悪の組み合わせね」
グラントさんが微笑む。
「商人としては、魅力的な組み合わせです」
「だから最悪なのよ」
イリオさんは一度、紙を閉じた。
「小箱の運用試験はこちらで進めます。まずは通常の琥珀の雫からです。紅琥珀の雫は入れません」
「妥当ですね」
グラントさんが頷く。
「金貨8枚相当の品を、最初の試験に使うべきではありません」
イリオさんはライラへ視線を向ける。
「ライラ殿。王都側の本隊が到着するまでは、こちらで待機を」
「待機?」
ライラは露骨に嫌そうな顔をした。
「今、待機って言った?」
「言いました」
「紅琥珀の雫が出る迷宮の前で?」
「はい」
「第4層に、弱くて、逃げて、でも金貨8枚は見える赤いスライムがいるって分かった翌日に?」
「はい」
「しかも、あたしは昨日それを飲んだのよ?」
「はい」
ライラは一拍置いた。
そして、胸を張った。
「無理ね」
イリオさんは目を閉じた。
「ライラ殿」
「護衛対象がここにいるなら話は別よ。守るべき相手がいるなら、あたしはちゃんと守るわ。そこは舐めないで」
その声は、ほんの少しだけ低かった。
護衛責任者としての顔。
王都側のAランク冒険者としての顔。
だが、その顔は長く続かなかった。
「でも、本隊はまだ来てない。今この場であたしが椅子に座って帳面を眺めてたところで、紅琥珀スライムは待ってくれないわ」
「紅琥珀スライムも、あなたを待ってはいません」
「だから探しに行くのよ」
カイルがぼそっと言った。
「理屈が強引なのに、勢いで通りそうだ」
「聞こえてるわよ」
「すみません」
テラリアがぱっと顔を上げた。
「ライラ、行くのね」
「行くわ」
「わたしも行く」
「来ると思ったわ」
イリオさんが即座に口を挟む。
「テラリア様を連れて行く場合は、護衛責任が発生します」
「分かってるわよ」
ライラは指を一本立てた。
「第6層には行かない。第5層にも行かない。第4層だけ。紅琥珀スライムを探す。出なければ普通の琥珀の雫を取って帰る。赤いのが出ても、追跡範囲は決める。戻り道を失う前に帰る」
イリオさんは黙って聞いていた。
ライラは、にやっと笑う。
「ほら。責任者でしょ?」
「そこで胸を張られると、少し不安になります」
「失礼ね」
「ですが、条件としては妥当です」
ライラは満足そうに頷いた。
「護衛対象が来るまでは、あたしは自由にやらせてもらうわ」
イリオさんが何か言いかける。
ライラは先に続けた。
「もちろん、責任を投げる気はないわよ。守る相手が来たら守る。危ない線は踏まない。テラリアを連れて行くなら、なおさら戻る場所は決める」
そこで、笑う。
「でもね。紅琥珀の雫があるって分かった迷宮で、あたしに大人しくしろって言うのは、火の前に油を置いて燃えるなって言うようなものよ」
グラントさんが穏やかに言った。
「燃えない油もあります」
「商人は黙ってて。今そういう話じゃない」
「失礼しました」
カイルが顔を上げる。
「俺は?」
ライラは少し考えた。
「今日は来なくていいわ。あんたが来ると、また余計なことを口にしそうだし」
「信用が低い!」
「昨日の今日で高いと思う?」
「思わない!」
「正直でよろしい」
フィンが横で少し笑った。
「気をつけてください。紅琥珀は、本当に追わせます」
ライラはフィンを見る。
さっきまでの軽い顔が、少しだけ締まった。
「分かってる。取るなら、追わない。囲う。重くする。走るのは最後」
テラリアが続ける。
「待ってから走る」
「そう」
ライラは満足そうに頷いた。
「今日はそれを、もう一回やるわ」
イリオさんが最後に言う。
「自由行動と無秩序は違います」
ライラは一瞬止まった。
そして、にやりと笑う。
「いいじゃない。王都文官のくせに、冒険者に刺さること言うわね」
「王都文官ですので」
「そこは譲らないのね」
「譲りません」
ライラは背を向け、テラリアと並んで琥珀水紋門へ歩き出した。
小柄な火力と、前へ進みたがる拳。
二人だけの足音が、第1層から第4層へ向かう。
その背中を見送りながら、イリオさんは紙を一枚取った。
「では、小箱の試験を進めます」
ただ待つのではない。
ライラたちが自由に動いている間、第1層では別の面倒が動き始めていた。
第4層、琥珀の貯蔵庫。
甘く重い香りが、今日も通路に満ちていた。
ライラは入ってすぐ、足を止めた。
鼻を動かす。
目を細める。
「……昨日と同じ匂いね」
テラリアが隣に立つ。
「赤いの、出るかしら」
「出る時は出る。出ない時は出ない」
ライラは短く言った。
声は軽くない。
期待していないわけではない。
むしろ、期待しているからこそ、そこへ寄りかからないようにしている声だった。
「出なかったら?」
「普通の琥珀を取って帰る」
「赤いのは?」
「探す。けど、探し続けない」
ライラは通路の奥を見た。
「出ないものを追い始めたら、それはもうスライムじゃなくて自分の欲を追ってるの。そういう時は帰る」
テラリアはしばらく黙った。
それから、静かに頷いた。
「分かったわ」
琥珀スライムが床を滑る。
酔香蛾が棚の影から舞った。
ライラは大きな火を使わない。
指先の小さな火で進路を逸らし、風で香りの濃い場所を流す。
テラリアは前へ出る。
ただし、昨日より一歩遅い。
走り出す前に、足元を見る。
ライラが横目で見た。
「覚えてるじゃない」
「戻る場所を見るのでしょう」
「そう」
普通の敵は問題にならない。
テラリアが近い敵を押さえ、ライラが逃げる方向を潰す。
昨日のフィンの矢がない分、細かい誘導は少し難しい。
だが、二人は二人なりに動きを合わせていた。
「右へ寄せる」
「右ね」
「そこで止まる」
テラリアが踏み込み、琥珀スライムの進路を遮る。
ライラが小さな火で奥を塞ぐ。
琥珀スライムが逃げ場を失い、テラリアの手元に転がった。
叩き潰すのではなく、押さえる。
昨日の動きが残っていた。
ライラは口元を緩めた。
「いいじゃない」
テラリアの顔が明るくなる。
「今の、よかった?」
「よかったわ」
短い言葉だった。
でも、テラリアには十分だったらしい。
何度か通路を巡る。
棚の影を見る。
香りの濃い場所を避ける。
報酬部屋にも到達する。
琥珀の雫は手に入った。
だが、赤い影は出なかった。
ライラは瓶を手に、しばらく動かなかった。
琥珀の雫の色を見ているのか。
その向こうに、出なかった赤い影を見ているのか。
分からない。
テラリアは何も言わなかった。
第4層の空気だけが、甘く重く流れている。
ライラの指が、瓶の首を軽く叩いた。
一度。
もう一度。
小さな音だった。
「……残念ね」
ようやく、ライラが言った。
いつものような大きな声ではない。
短くて、少しだけ苦い声だった。
テラリアが静かに聞く。
「まだ探す?」
ライラはすぐには答えなかった。
棚の影を見た。
奥の通路を見た。
昨日、赤いものが跳ねた場所に少し似ている曲がり角を見た。
それから、息を吐く。
「探したいわ」
正直な声だった。
「でも、出なかったから負けなんて言い出したら、レア相手に財布も心も持たないわ」
テラリアは頷く。
ライラは琥珀の雫を懐にしまった。
「今日は普通の琥珀で勝ち。赤いのは、向こうが顔を出さなかっただけ」
「勝ちなのね」
「勝ちよ」
ライラは振り返る。
「欲がなかったら、こんなところまで来てないわ。でも、欲だけで奥へ行くなら、それは冒険者じゃなくて獲物よ」
テラリアは、少しだけ目を丸くした。
それから、自分の足元を見る。
「帰るのね」
「帰るわ」
二人は戻り始めた。
帰り道、ライラは一度だけ棚の影を見た。
ほんの一瞬。
赤いものが跳ねるのを期待した目だった。
けれど、すぐ前を向いた。
テラリアはそれに気づいた。
でも、何も言わなかった。
ただ、ライラの半歩後ろを歩いた。
第1層へ戻ると、カイルが真っ先に駆け寄った。
「出た!?」
「出ない」
ライラは短く答える。
「でも、琥珀の雫は取ったわ」
グラントさんが頷く。
「それでも十分な成果です」
「分かってるわよ」
ライラはそう言って、琥珀の雫を差し出した。
言葉ほど軽くは見えなかった。
出なかったものへの未練が、まだ目に残っている。
テラリアが隣で言う。
「帰ってきたから勝ちなのよ」
ライラがテラリアを見る。
少しだけ笑う。
「そうね。そこは勝ち」
イリオさんが二人を見て、まず時間を確認した。
「予定内の帰還です」
「ほら」
「その一言で台無しにしないでください」
「何がよ」
「責任者らしさです」
「そんなもの、必要な時に出せればいいのよ」
ロザックさんが低く笑った。
「冒険者らしい責任者だな」
「褒めてる?」
「半分な」
テラリアが嬉しそうに言う。
「ライラと同じ言い方」
「やめなさい。妙なところを覚えるんじゃないわよ」
その横で、小箱の運用試験はすでに始まっていた。
白い小箱の前に、通常の琥珀の雫が一瓶置かれている。
紅琥珀ではない。
まずは通常品から。
グラントさんが説明する。
「高価な品を劣化させずに保管できるか。それ自体は魅力的です。ですが、最初から金貨8枚相当の紅琥珀を入れるべきではありません」
イリオさんが頷く。
「誰が入れ、誰が取り出し、誰が確認するか。そこを決めます」
ロザックさんが周囲を見る。
「小箱の近くにいる者も絞る。見物で囲むな」
冒険者たちが少し下がる。
オルド村長がほっとしたように息を吐いた。
「数字を数えるだけの日々が、懐かしくなりそうですな」
グラントさんが微笑む。
「運用が始まれば、数字より人の方が動きますから」
「ますます胃に悪いですな」
マイラが通常の琥珀の雫を受け取り、小箱の前に立つ。
「入れます」
周囲が静かになる。
白い小箱の蓋が開く。
内側は白い。
底があるようで、距離が曖昧な白。
マイラは琥珀の雫を入れた。
蓋を閉じる。
グラントさんが帳面に記す。
イリオさんも別の紙に記す。
ロザックさんは、周囲の視線を見ている。
小箱は、ただそこにある。
でも、もうただの日数を数える箱ではない。
何を預けるか。
誰が預けるか。
誰が出すか。
それを考えなければならない箱になった。
ライラが小箱を見て、少しだけ眉を上げる。
「赤い方を入れなかったのは正解ね」
グラントさんが頷く。
「赤い方を入れた瞬間、箱まで赤く見えますから」
「商人の言い方って、時々怖いわね」
「価値は色を変えます」
「怖いって言ってるでしょ」
俺は黒い水膜の前で、その様子を見ていた。
「小箱に酒が入ったな」
『普通の琥珀の雫だけれどね』
「それでも、なんか始まった感じがする」
『始まったのよ』
ヴェルティアが言う。
『報酬は、使われた瞬間から次の問題を生むわ』
「迷宮って、便利にしてるのか面倒にしてるのか分からないな」
『両方よ』
ですよね。
第1層では、ライラが紅琥珀の雫の置かれた場所を見ていた。
飲みたい顔。
行きたい顔。
でも、今日は帰ってきた顔。
テラリアが隣で言う。
「また行きたいわね」
「行くわよ」
ライラは即答した。
そして、少しだけ言葉を変えた。
「でも次は、今日より上手く帰るわ」
イリオさんが遠くから言う。
「帰還前提であるなら、王都側としても検討の余地があります」
「聞こえてたの?」
「聞こえる位置にいました」
「王都文官って、油断ならないわね」
「文官ですので」
ライラは舌打ちした。
けれど、笑っていた。
清水の迷宮は、冒険者を止めない。
王都の火力も、椅子に縛られてはいない。
赤い酒へ伸びる欲。
白い箱へ預ける価値。
今日、第1層は日数を数える場所から、運用を始める場所へ変わっていった。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
赤い影は出ませんでした。
けれど、出なかったからこそ、帰る線が少しだけ濃くなりました。
白い箱には、最初の琥珀が入ります。
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