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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第79話 赤い琥珀は、追うほど遠い



 九四。


 白い小箱の側面に浮かんだ数字を見て、マイラが小さく頷いた。


「九四です。中身は空。蓋も閉じています。昨日から一つ減りました」


 小箱の数字は、今日も淡々と減っている。


 昨日は九五。


 今日は九四。


 便利なものには終わりがある。


 それを毎朝、白い箱が第1層に見せていた。


 俺は黒い水膜の前で、その様子を見ていた。


「九四か。分かってても、胃に来るな」


『期限が見えるから、扱えるのよ』


 ヴェルティアが言った。


『急ぐ理由にもなる。止まる理由にもなる。便利な報酬には、その両方が必要だわ』


「急がせて、止める、か」


『ええ。小箱だけではなく、これからの報酬にもね』


 その言葉通り、今日の第1層は小箱だけを見ていなかった。


 紅琥珀スライム。


 紅琥珀の雫。


 昨日、カイルがうっかり口にした言葉が、朝の空気を少し熱くしている。


 美容効果はない。


 治療効果もない。


 身体強化もない。


 ただ美味い酒。


 ただそれだけ。


 けれど、ただ美味いだけのものほど、人はまっすぐ欲しがる。


 第1層の一角で、今日の第4層確認に向けた話し合いが始まっていた。


 潜るのは、ライラ、テラリア、カイル、フィン、マイラ。


 リオとサナは第1層待機。


 ロザックさん、イリオさん、グラントさんも待機だ。


 フィンは紅琥珀スライムを倒した経験者。


 マイラは、その時に戻り道と状態を見ていた。


 カイルは、昨日の口滑りの責任半分、勢い半分。


 そしてライラは、朝から明らかに機嫌が鋭かった。


「で、出るのよね?」


 声が低い。


 イリオさんが落ち着いて答える。


「レアモンスターです。必ず出るとは限りません」


「そこが腹立つのよ。出ない時間まで値段に化けるんだから」


 叫ばない。


 けれど、目が本気だ。


 カイルが小声で言う。


「昨日より怖いな」


 ライラがすぐに振り向いた。


「誰が火をつけたと思ってるの?」


「俺です」


「分かってるなら、今日はちゃんと見なさい。赤いのを見逃したら、琥珀の泡割り一杯分くらい恨むわ」


「具体的に高い!」


「高いわよ」


 テラリアは拳を合わせて、きらきらした顔をしていた。


「赤いスライムを見つければいいのね」


「見つけても、すぐ走らない」


 フィンが言った。


 昨日より声がしっかりしている。


「そこが一番大事です」


 テラリアが首を傾げる。


「弱いのでしょう?」


「弱いです。攻撃もほとんどありません」


 フィンは頷いた。


「だから追いたくなるんです。届きそうに見える。倒せそうに見える。前に出れば取れる気がする」


 フィンは一度、視線を第4層の門へ向けた。


「前の時、僕も一歩出かけました。マイラに止められなかったら、たぶん追ってました」


 マイラが静かに続ける。


「フィンさんの足が前に出たので、止めました」


「笛、耳元で鳴らされたんです」


 フィンが少し苦笑する。


「正直、びっくりしました。でも、あれで戻れました」


 マイラは表情を変えずに言った。


「追う前に止める方が、怪我をしてから治すより簡単です」


 ライラがマイラを見た。


 少しだけ、口元が上がる。


「いいわね。嫌いじゃないわ、そういうの」


 テラリアは自分の足元を見た。


 走りたい。


 それが顔に出ていた。


 けれど、彼女は拳を握って言った。


「じゃあ、まず止まるのね」


「そう」


 ライラは短く頷く。


「走るのが悪いんじゃないわ。走る前に、自分の足を誰が動かしてるか分からないのが悪いのよ」


 イリオさんが条件を出す。


「第4層のみ。第5層へは進まない。紅琥珀スライムを見つけても、追跡範囲は事前に決めた通路内。予定時刻を越える場合は帰還。取得できなくても深追いはしない」


 ライラが少しだけ不満そうに眉を寄せる。


「取得できなくても、って言い方が嫌ね」


「必要な言い方です」


「分かってるわよ。分かってるけど、聞くと腹が立つの」


「負け前提ではありません。帰還前提です」


 ライラは一瞬黙った。


 それから、ふっと笑った。


「……いい言い方じゃない」


 ロザックさんがフィンを見る。


「無理はするな。お前たちは経験を伝えるために行く。倒すためだけじゃない」


「はい」


 カイルが横で姿勢を正した。


「俺は?」


「口を滑らせた分、目を滑らせるな」


「はい!」


 ライラが手を叩いた。


「よし。行くわよ。赤い琥珀、こっちが準備してる時に出てきなさい」


 カイルが言う。


「出てくるかな、それで」


「出てこなかったら文句を言うわ」


「誰に?」


「迷宮に」


 俺は黒い水膜の前で、思わず肩をすくめた。


「俺に来るのか」


『紅琥珀スライムの出現は、貴方が手で動かしているものではないでしょう』


「でも文句は来そうだな」


『来るでしょうね』


 ヴェルティアは少し楽しそうだった。


 5人は琥珀水紋門へ向かう。


 白い小箱の数字は、九四。


 終わりのある便利が残る第1層から、終わり方を間違えれば危ない欲が、第4層へ向かった。




 第4層、琥珀の貯蔵庫。


 甘く重い香りが通路に満ちている。


 高い棚。


 琥珀色の水路。


 樽の影。


 足場は悪くない。


 道も第3層ほど迷わせない。


 だからこそ、走れる。


 走れてしまう。


 ライラは入ってすぐ、鼻を動かした。


「昨日より腹立つ匂いがするわね」


 カイルが聞く。


「匂い、変わるの?」


「変わらないわよ。あたしの欲が増えただけ」


「そこは正直なんだ」


「欲しいものを欲しくない顔で追う方が危ないでしょ」


 普通の琥珀スライムが床を滑る。


 酔香蛾が棚の影から舞った。


 樽齧り鼠が横道を走る。


 ライラは指先に小さな火を灯したが、大きくは燃やさない。


「大火力は使わないわ。酒の匂いがする場所で派手に燃やすとか、赤字にもほどがある」


 フィンが弓を構える。


「右の棚下へ寄せます」


「当てなくていい。嫌がる場所へ落としなさい」


「はい」


 矢が飛び、床近くの棚脚に刺さる。


 琥珀スライムが嫌がって左へ流れる。


 カイルが横を塞ぎ、テラリアが近づいた敵を拳で押さえる。


 ライラは火と風で逃げ道を狭める。


 倒すというより、流れを作る。


 今日の動きは、昨日と違った。


 しばらく進んでも、赤い影は出ない。


 一つ目の広間。


 出ない。


 棚の多い曲がり角。


 そこでも出ない。


 ライラの眉間に皺が寄る。


「出ないわね」


 フィンが答える。


「前もすぐには出ませんでした」


「分かってる。分かってるけど、分かってることと腹が立つことは別よ」


 カイルが少し笑う。


「その言い方、ちょっと分かる」


「分かるようになったら高くつくわよ」


 テラリアは自分の足元を見ていた。


 走りたい気持ちを、足の裏で押さえ込むように。


「見つけたら、まず止まる」


 小さく呟いた。


 ライラが横目で見る。


「いいじゃない」


 テラリアの顔が少し明るくなった。


「今の、合ってる?」


「合ってる。褒められる前に走らなければ、もっと合ってる」


 テラリアは口を結んだ。


 今度は返事をしなかった。


 そのまま、足を止めた。


 数呼吸後。


 フィンの指が止まった。


「静かに」


 空気が変わる。


 甘い香りの奥。


 棚の影。


 琥珀色の光の中で、赤いものが跳ねた。


 ぴょん。


 小さい。


 弱そう。


 届きそう。


 赤みを帯びた琥珀色のスライムが、棚の脚元にいた。


 ライラの目が変わった。


「……いた」


 声は低い。


 けれど、口元が笑っている。


 いつもの勝ち気な笑みではない。


 欲しいものを見つけた顔だった。


 テラリアの足が、ほんの少し前へ出る。


 その瞬間、フィンが短く言った。


「止まって!」


 テラリアは止まった。


 ライラも動かない。


 紅琥珀スライムは、もう一度跳ねた。


 逃げる。


 でも遠すぎない。


 追えば届きそうな距離で。


 ライラの指が動いた。


 火を撃つ指ではない。


 掴みに行きそうになった指だ。


「……欲しいわね」


 小さく、本音が落ちた。


 カイルが息を呑む。


 ライラはすぐに、自分の指を握り込んだ。


「でも、今走ったら負け」


 声が冷えた。


「あんな見え見えの餌に飛びつくなんて、三流のやることだわ」


 カイルが小声で言う。


「顔、ある?」


 ライラは赤い影を見たまま言った。


「欲しいものには顔があるの」


「名言っぽいのに雑だな」


「うるさい」


 フィンが奥の通路を見る。


「右奥へ誘ってます。前と似ています」


 マイラが続ける。


「右奥は香りが濃く、棚の影で足元が見えにくいです。戻り道も一度曲がります」


 ライラが舌打ちした。


「弱いくせに、誘い方だけは上等ね」


 紅琥珀スライムがまた跳ねる。


 今度は少し右へ。


 テラリアは動かない。


 ただ、拳を握っている。


 自分に言い聞かせるように、低く言った。


「まだ」


 ライラの目が、一瞬テラリアへ向いた。


 すぐ赤い影へ戻る。


「そう。まだ」


 フィンが矢をつがえる。


「左を嫌がらせます」


「当てなくていい。進路を変えなさい」


「はい」


 矢が飛ぶ。


 スライムの左側、棚脚近くへ刺さる。


 紅琥珀スライムが弾かれたように右へ跳ねる。


 カイルが横から踏み込み、剣の腹で床を叩いた。


 金属音。


 スライムが嫌がり、中央へ戻る。


「こっちに戻った!」


「斬らない。潰さない。逃げる場所を減らすだけ」


「分かってる!」


 ライラが指で床をなぞる。


 細い火の線が走った。


 フレアライン。


 燃やすためではない。


 越えてはいけない線だ。


「ここから奥は無し。自分たちの足を先に縛るわよ」


 テラリアが線を見る。


 今度は何も言わない。


 ただ、頷いた。


 紅琥珀スライムは弱い。


 攻撃してこない。


 牙も爪もない。


 けれど、全員の視線を引っ張っている。


 逃げる。


 跳ねる。


 届きそうな距離で止まる。


 それだけで、人の足を動かそうとする。


 俺は黒い水膜の前で、息を詰めた。


「これ、嫌な敵だな」


『強くないから危ないのよ』


 ヴェルティアが言った。


『倒せそう。取れそう。今なら届きそう。そう思わせるものは、人間の判断を軽くするわ』


「軽くなるのは足だけじゃないのか」


『ええ。頭も軽くなるわ』


 フィンが二本目の矢を放つ。


 今度も当てない。


 逃げてほしくない場所へ落とす。


 紅琥珀スライムが中央へ跳ねた。


 マイラが短く言う。


「戻り道、確保できています」


 ライラの目が細くなる。


「よし」


 紅琥珀スライムが跳ね上がる。


 その瞬間、ライラの指が下がった。


 火ではない。


 空気が沈む。


「グラビティプレス」


 重さが、赤い小さな体を床へ引いた。


 紅琥珀スライムの跳ねる動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。


 弱い敵だ。


 だから重さに逆らえない。


 ライラが言うより先に、テラリアは一歩目を踏んでいた。


 ただし、さっきとは違う。


 勝手に走ったのではない。


 線の内側。


 決めた場所。


 決めた瞬間。


 待って、見て、今だと分かってから。


 テラリアが走る。


 低く沈んだ身体が、次の一歩で一気に伸びた。


 拳ではない。


 開いた手のガントレット。


 叩き潰すのではない。


 床へ押さえ込む。


「ここ!」


 テラリアの声が弾けた。


 ぱきん、と薄い飴細工が割れるような音がした。


 赤みを帯びた琥珀色の雫が、石床に転がった。


 誰もすぐには動かなかった。


 テラリアは息を弾ませながら、手を上げたまま止まっている。


 カイルは剣を下げた。


 フィンは弓を下ろし、短く息を吐いた。


 マイラはまず戻り道を見た。


 ライラは、紅琥珀の雫を見ていた。


 すぐには拾わない。


 赤みを帯びた琥珀色。


 普通の琥珀の雫より、少しだけ深い色。


 小さいくせに、視線を奪う色。


「……腹立つ」


 ライラが呟いた。


 カイルが聞く。


「何が?」


「見ただけで分かるのよ。高いって」


 ライラはようやく雫を拾った。


 指先が、ほんの少し慎重だった。


「こういうの、本当に腹が立つわ。欲しくなるじゃない」


 フィンが静かに笑った。


「分かります」


 ライラがフィンを見る。


「分かるでしょ?」


「はい。前も、取った後の方が怖かったです」


 それは、さっきまでのフィンより少し重い声だった。


「取れた瞬間、もう一匹いける気がしました。今のやり方なら、次もできるって」


 マイラが続ける。


「取得後が一番危険です。成功した直後は、もう一度できると思います」


 テラリアが紅琥珀の雫を見つめる。


 その顔に、次を探したい気持ちが一瞬だけ浮かんだ。


 けれど、彼女は自分で足を引いた。


「……戻るのね」


 ライラが、少しだけ目を丸くした。


 それから笑った。


「そう。戻るの」


 テラリアは小さく頷く。


「今なら戻れるもの」


「上出来」


 その一言は短かった。


 でも、テラリアの顔はぱっと明るくなった。


 ライラは紅琥珀の雫を握る。


「欲は置いて帰るんじゃないわ。持って帰って、第1層で味わうのよ」


 カイルが笑う。


「格好いいような、そうでもないような」


「格好いいのよ」


 5人は戻り始めた。


 途中で、赤い影はもう出なかった。


 ライラは棚の影を一度見た。


 すぐに視線を戻した。


「見てないわよ」


 カイルが言う。


「誰も何も言ってない」


「言う顔だった」


「言う顔って何?」


「欲しいものには顔があるの。言いたいことにも顔があるわ」


 フィンが小さく笑った。


 マイラも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 テラリアは走らなかった。


 ちゃんと待って、ちゃんと走って、ちゃんと戻っていた。




 第1層へ戻ると、空気が一気に集まった。


 紅琥珀の雫。


 赤みを帯びた小瓶。


 ライラがそれを取り出した瞬間、グラントさんの目が変わった。


 イリオさんも表情を引き締める。


 ロザックさんは腕を組み、黙って見ている。


 まず、フィンが説明した。


「紅琥珀スライム自体は弱いです。攻撃はほとんどありません。ただ、逃げます。跳ねます。追わせます」


 以前より言葉が落ち着いている。


 経験を話している声だった。


「今回は、矢で進路を嫌がらせました。倒すためじゃなくて、行かせたくない場所を潰すためです」


 マイラが続ける。


「ライラさんの魔法で範囲を決め、グラビティプレスで動きが鈍ったところを、テラリア様が押さえました。追跡ではなく、誘導後の捕獲です」


 テラリアが嬉しそうに言う。


「待ってから走ったわ」


 イリオさんが頷く。


「それは重要です」


 テラリアの表情が明るくなる。


 しかし、今度は跳ね回らなかった。


 褒められたことを、ちゃんと自分の中にしまうような顔だった。


 ロザックさんが低く言う。


「量は管理する」


「分かってるわよ」


 ライラは紅琥珀の雫を見る。


 少し間を置いて付け加えた。


「……本当に、分かってる」


 イリオさんが小さく頷いた。


 グラントさんが紅琥珀の雫を見た。


 商人の顔だった。


「色、香り、希少性。通常の琥珀の雫より、さらに扱いが難しいですね」


 カイルが聞く。


「値段、つきます?」


 グラントさんは少し黙った。


「つきます」


 いつもの柔らかい言い回しがなかった。


 それだけで、危険な値段なのだと分かった。


 イリオさんが言う。


「流通させる前に、扱いを決める必要があります」


 ライラは紅琥珀の雫を見たまま言った。


「美味い酒は、戦争より先に財布を狂わせるわよ」


 グラントさんが頷く。


「財布が狂えば、人も動きます」


 ロザックさんが続けた。


「人が動けば、迷宮で死ぬ」


 紅琥珀の雫は薬ではない。


 世界を変える魔道具でもない。


 ただ美味い酒。


 それでも、人は動く。


 むしろ、ただ美味いからこそ、言い訳なく欲しくなる。


 試飲は、第1層の管理下で行われた。


 杯は小さい。


 量も少ない。


 まず、過去に飲んだことのあるフィンが確認する。


 フィンは香りを嗅いで、目を細めた。


「同じです」


 ほんの少し飲む。


 目を閉じる。


「……やっぱり、美味しいです」


 カイルが飲む。


 すぐに黙った。


「あー……これだ」


 それだけだった。


 テラリアも少量を口にする。


 目を丸くし、それから静かに杯を見た。


「香りが、ずっと残るわ」


 そして、ライラの番になった。


 ライラは杯を手に取る。


 さっきまであれだけ鋭かった目が、少しだけ真剣になる。


 香りを嗅ぐ。


 口元がわずかに動く。


 飲む。


 止まる。


 沈黙。


 テラリアが首を傾げる。


「ライラ?」


 ライラは杯を置いた。


「……腹が立つわね」


 カイルが恐る恐る聞く。


「美味しくなかった?」


 ライラが、ぎろりと睨む。


「美味すぎるのよ」


 低い声だった。


 叫ばない分、本気だった。


「普通の琥珀の雫でも十分腹立つ味だったのに、さらに上ってどういうこと? 弱いスライムが、ぴょんぴょん逃げて、こんなもの落とすんじゃないわよ。……また行きたくなるでしょ」


 最後の声だけ、少しだけ悔しそうだった。


 テラリアが嬉しそうに聞く。


「また行きたいのね」


「行きたいわよ」


 ライラは即答した。


 そのあと、自分で顔をしかめる。


「だから腹が立つの。行きたいと思わされた時点で、もう半分負けてる気がするのよ」


 フィンが頷く。


「分かります」


「分かるでしょ。これ、美味すぎるもの」


 マイラが静かに言った。


「紅琥珀の雫は薬ではありません」


「知ってるわよ」


「治療効果も、美容効果も、身体強化もありません」


「だから余計に厄介なのよ」


 ライラは杯を見下ろした。


「ただ美味いだけ。だから、欲しい理由がそれだけで済む。言い訳がいらない。最悪ね。最高に最悪」


 グラントさんが深く頷く。


「その評価は、商人として非常によく分かります」


「分からないで。分かられると値段が上がる」


「上がりますね」


「そこは否定しなさいよ」


「できません」


 イリオさんが静かに口を開いた。


「本日の確認で、扱いの難しさははっきりしました。紅琥珀スライムは強敵ではない。だからこそ、未熟な冒険者でも追えると思ってしまう」


 ロザックさんが頷く。


「そして追えば、道を崩す」


「紅琥珀の雫は薬ではない。けれど、希少な嗜好品として高値がつく。第4層への挑戦理由を増やします」


 グラントさんが続ける。


「通常の琥珀の雫だけでも十分な価値があります。紅琥珀が広まれば、さらに人は動きます」


 ライラは面白くなさそうに口を曲げた。


「でしょうね。話を聞いただけで走るやつが出るわ」


「馬鹿だけではありません」


 イリオさんの声は静かだった。


「優秀な者も走ります。欲しいと思えば」


 ライラは一瞬、黙った。


 それから、ふんと鼻を鳴らす。


「……耳が痛いわね」


 テラリアが驚いた顔をした。


「ライラが認めたわ」


「そこ、驚くところじゃないわよ」


「珍しいもの」


「珍しくないわ。あたしだって正しいことくらい認めるわよ」


 カイルが小声で言う。


「珍しい気はする」


「聞こえてる」


「はい」


 ライラは腕を組んだ。


「今日の取り方は悪くなかったわ。追わない。誘導する。重くする。走るのは最後。欲しいなら、欲だけで足を出さない」


 テラリアが頷く。


「待ってから走る」


「そう。あんたはそれを覚えなさい。走るのが悪いんじゃない。走る前に考えないのが悪いのよ」


「分かったわ」


 今度の返事は、少し静かだった。


 ライラも、満足そうに頷いた。


 フィンは少しほっとした顔をしている。


 自分たちが取った紅琥珀の雫。


 それがただの偶然ではなく、経験として役に立った。


 そう見えた。


 マイラも静かに頷いている。


 カイルは、フィンの肩を軽く叩いた。


「悪かったな、昨日言っちゃって」


「まあ、結果的にはよかったよ」


「本当?」


「でも、次は言う前に考えろ」


「はい」


 そのやり取りを見て、ライラが言った。


「言う前に考えられる人間ばっかりなら、世の中の揉め事は半分になるわ」


 グラントさんが微笑む。


「残り半分は?」


「金と酒と意地よ」


「かなり的確ですね」


「褒めても値引きしないわよ」


「まだ交渉していません」


「これからする顔だった」


 俺は黒い水膜の前で、その騒ぎを見ていた。


「紅琥珀の雫、ただ美味いだけなのにな」


『ただ美味いだけ、というのが人間には強いのよ』


 ヴェルティアが言う。


『薬なら理由がいる。魔道具なら管理がいる。でも、美味しいものは、欲しいだけで動ける』


「理由がいらない欲か」


『ええ。だから扱いを間違えると、厄介よ』


 白い小箱の数字は、九四。


 終わりのある便利が、朝からそこに置かれている。


 その横で、もう一つ、終わり方を決めなければならない報酬が生まれた。


 紅琥珀の雫。


 ただ美味いだけの酒。


 だが、ただ美味いだけのものに、人間は一番まっすぐ欲を伸ばす。


 ライラは空になった杯を見て、悔しそうに言った。


「……次に行く時は、もっと上手く取るわよ」


 イリオさんが即座に言う。


「次に行く条件は、これから決めます」


「言うと思った」


 テラリアが笑う。


「でも、また行くのね」


 ライラは胸を張った。


「当然でしょ。美味いものを前に一回で終わるほど、あたしは枯れてないのよ」


 カイルが笑った。


「ライラさんらしいな」


「今、小さいのに元気だなって思った?」


「思ってない!」


「目が泳いだわよ」


「思ってないって!」


「よし、そこに正座」


 フィンが苦笑し、マイラがため息をつき、テラリアが楽しそうに見ている。


 第1層は、また少し騒がしくなった。


 けれど、その騒がしさの中心には、一つの線が残っていた。


 欲しいものほど、追う前に止まる。


 走るなら、戻れる形を作ってから。


 清水の迷宮は、また一つ、人間の欲に線を引いた。



後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


赤い琥珀は、追えば届きそうで、だからこそ足を止めるのが難しいものになりました。


ただ美味いだけの酒。

けれど、ただ美味いだけだからこそ、人はまっすぐ欲しがるのかもしれません。


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