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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第78話 王都の火力は、まず潜って確かめる



 九五。


 白い小箱の側面に浮かんだ数字を見て、マイラが小さく頷いた。


「九五です。中身は空。蓋も正常。昨日から、また一つ減っています」


 白い小箱の数字が減る。


 それだけで、第1層の朝は少し重くなる。


 九八の時は、みんなが息を止めた。


 九七の時は、確認の声が硬かった。


 九六の時には、王都調査団の前で数字が減った。


 そして、九五。


 驚きは薄くなっている。


 代わりに、管理する空気が濃くなっていた。


 俺は黒い水膜の前で、その様子を見ていた。


「九五か。数字が減るたびに、胃に来るな」


『使う側には、よい薬でしょうね』


 ヴェルティアが言った。


「薬?」


『期限のない便利に酔わないための薬よ』


「苦そうだな」


『便利すぎる報酬よりは、ずっとましだわ』


 小箱は便利だ。


 けれど、便利すぎる。


 だから、終わりがある。


 そう説明されたばかりなのに、人間側の目はまだ小箱から離れない。


 商人。


 冒険者。


 領主府。


 ギルド。


 王都調査団。


 白い箱ひとつで、第1層の空気がここまで変わる。


 俺は息を吐いた。


 その時、水膜の向こうで、王都調査団の机が動いた。


 イリオさんが、帳面を並べている。


 聞き取りの準備だ。


 第6層踏破者への確認。


 小箱の扱い。


 第2層から第5層までの報酬と危険の整理。


 たぶん今日の予定は、そういうものだった。


 机。


 紙。


 順番。


 王都らしいやり方だと思う。


 ただ、その机の前に立っていた少女は、王都らしい顔をしていなかった。


 ライラだ。


 王都所属Aランク冒険者。


 小柄で、口が強くて、火力が高くて、目が妙に鋭い。


 そのライラが、帳面を閉じた。


「紙は読んだわ」


 イリオさんが顔を上げる。


「では、これより聞き取りを始めます」


「次は現物」


 短かった。


 すごく短かった。


 イリオさんの筆が止まる。


「ライラ殿。本日は聞き取りと照合が主目的です」


「見れば分かることを、机でこねても仕方ないでしょ」


「第6層は危険です」


「第6層には行かないわよ」


 ライラは、そこだけはあっさり言った。


「第2層から第5層まで。泥、藻、琥珀、湯。冒険者が何に釣られて、どこで足を滑らせるのか見てくる」


 ロザックさんが腕を組む。


「案内をつける」


「いらない。ぞろぞろ入ったら、階層の素の顔が見えないわ」


 テラリアが、ぱっと笑った。


「行くのね! わたしも行く!」


「あなたは絶対そう言うと思ったわ」


「だって、行かない理由がないもの!」


「危ない理由は山ほどあるけどね」


「でも行けるのでしょう?」


「行けるわ」


 テラリアは、満足そうに頷いた。


 イリオさんは、そこで無理に止めなかった。


 代わりに、帳面を閉じて、声を低くした。


「条件を出します」


 ライラが片眉を上げる。


「早いわね」


「止めても行かれるなら、行ける形にします」


 おお。


 イリオさん、有能だ。


 ただ振り回されているだけではなかった。


「一つ。第6層へは行かない。第5層の湯溜まり到達まで」


「いいわ」


「二つ。第4層で赤い影を見ても追わない」


「欲で滑るのは三流よ。追うなら準備して追うわ」


「三つ。帰還後、こちらの質問には答えていただきます」


「答えるわよ。見たものならね」


「四つ。追加で潜る場合は、こちらが条件を出します」


「酒が絡んでも?」


 グラントさんが目だけで笑った。


 イリオさんは表情を変えない。


「酒が絡むなら、なおさらです」


「いいじゃない」


 ライラは少し笑った。


「仕事が早い文官は嫌いじゃないわ」


 その時、カイルが手を上げた。


「俺も行きたい!」


 全員の視線がカイルに向いた。


 カイルは一瞬だけひるんだが、すぐ続けた。


「第6層の前の階層なら知ってるし! 足も動くし!」


 ライラがカイルを見た。


 上から下まで。


「あんた、第6層を越えたんでしょ」


「一応!」


「一応で越えられる階層じゃないわ」


「クレスさんたちと一緒だったから」


「そこが分かってるなら、まあいいわ」


 ライラは短く言った。


「来なさい」


「いいの!?」


「足は動く?」


「動く!」


「邪魔しない?」


「しない!」


「射線に入らない?」


「入らない!」


「よし」


 カイルの顔が明るくなる。


 イリオさんが静かに言う。


「カイル殿。同行するなら、ライラ殿の指示に従ってください」


「はい!」


「それと、戻る判断を軽く見ないこと」


「はい!」


 イリオさんは、カイルの返事を聞いてから、ライラへ視線を戻した。


「3人だけで行くことを認めます。ただし、予定時刻を過ぎた場合、ギルド側で救助判断に入ります」


「分かったわ」


「分かっているなら結構です」


 そこで、ようやくライラが笑った。


「ほんと、用意が早いわね」


「あなた方が早すぎるだけです」


 そうして、3人は第2層入口へ向かった。


 ライラ。


 テラリア。


 カイル。


 王都の火力。


 拳の姫。


 第6層を越えた若手。


 聞き取り用の机を置いたまま、3人は泥の奥へ消えていった。




 第2層は、ライラの機嫌をかなり削った。


 ぬかるみ回廊。


 泥。


 水。


 滑る石。


 足を取る床。


 新人冒険者にとっては、死ぬ前に失敗する場所。


 ライラにとっては、裾を汚す場所だった。


「ちょっと。この泥、跳ね方に悪意があるんだけど」


 泥スライムをフレアアローで焼いた直後、泥が見事にライラの裾へ飛んだ。


 テラリアは泥の上で楽しそうに足を踏み直している。


「すごいわ! 踏む場所で全然違う!」


「そういう階層よ」


 カイルが言う。


 ライラが横目で見る。


「あんたも転んだの?」


「……最初は、ちょっと」


「ちょっとね」


「本当にちょっとだから!」


「今の顔でだいたい分かったわ」


 泥スライムは、ライラにとって敵ではない。


 苔鼠も、テラリアの拳とカイルの剣で素早く処理された。


 ただ、泥は最後まで敵だった。


 ライラは怒りながらも、足元を見ていた。


 泥の深さ。


 敵の出る位置。


 テラリアが踏み込みすぎる瞬間。


 カイルが前に出たがる瞬間。


 文句は多い。


 だが、見ている場所は多かった。


「訓練場としては悪くないわ」


 ライラは第2層を出る時、裾を見て言った。


「嫌いだけど」


 カイルが笑いをこらえる。


「笑ったら燃やすわよ」


「笑ってない!」


「口の端が裏切ってるわ」


 第3層では、藻がライラを怒らせた。


 藻の迷路。


 似たような水路。


 反響する水音。


 絡む足元。


 第2層より、笑って進める場所ではない。


 ライラも、入ってすぐ顔つきを変えた。


「戻り道を濁す階層ね」


 カイルが頷く。


「そう。似てるんだよ、道が」


「似てるんじゃなくて、似せてるのよ。水音も嫌な方向に響く。第6層の前にこういう場所を置くの、性格悪いわ」


 褒めているのか、怒っているのか分かりにくい。


 たぶん、両方だ。


 ライラはウィンドカッターで藻を切った。


 切られた藻の細い破片が、ふわりと舞って、ライラの髪についた。


 カイルが口を閉じる。


 テラリアは素直に言った。


「髪に藻がついたわ」


「知ってる!」


 ライラは藻を指で取ろうとして、さらに絡めた。


「この階層、絶対性格悪い!」


 ただ、第3層はそれだけでは終わらない。


 水スライムが横の水路から現れる。


 ライラのスパークショットで動きが止まる。


 カイルが斬る。


 テラリアが押し込む。


 絡み藻の先は、ライラが切る。


 道の癖はカイルが思い出す。


 戻る場所は3人で確認する。


 速い。


 だが、第2層のような軽さはない。


 カイルが小声で言った。


「ここ、慣れても嫌なんだよな」


 ライラは頷いた。


「慣れた頃に一番危ない作りよ」


「そういうの、分かるんだ」


「分からないまま進むほど、安い命してないわよ」


 やがて、報酬部屋へ着いた。


 紅肌の雫。


 淡い赤色の小瓶。


 ライラはそれを手に取る。


「これね」


 テラリアが覗き込む。


「きれいね」


「売れる色してるわ」


 カイルが少し笑う。


「そこなんだ」


「見た目で欲しくなるものは、それだけで値段が乗るのよ」


 ライラは瓶をしばらく見た。


 封を開ける前に、一瞬だけ止まった。


 珍しく、すぐには動かなかった。


 俺は黒い水膜の前で、その間を見ていた。


 ライラは、怖がっているわけではない。


 迷っているというより、何を払うか数えている顔だった。


 そして、すぐに結論を出した。


「使うわ」


 カイルが目を丸くする。


「今?」


「こういうのは、自分の肌で見るのが一番早いわ。誰かの変化を横から見て、分かった顔をする方が嫌」


「毒だったら?」


「毒じゃないことくらいは読んだわよ。治療薬でも若返りでもない。なら、残るのは価値を見るだけ」


 そう言って、ライラは紅肌の雫を飲んだ。


 数呼吸。


 泥と藻で乱れていた顔色が、少し整った。


 頬に血色が戻る。


 目元の疲れた感じが軽くなる。


 髪についた藻はそのままだ。


 そこは、そのままだった。


 ライラは小瓶を見下ろした。


「……悔しいくらい効くわね」


 テラリアが嬉しそうに言う。


「ライラ、きれいになったわ!」


「そこはもう少し遠回しに言いなさい」


「遠回し?」


「いいわ。無理そうね」


 カイルが笑う。


 ライラは第3層の出口へ目を向けた。


「そりゃ人が走るわ。顔色が戻るだけで、人生が少し変わる人間はいるもの」


 声の調子が少し変わった。


「でも、欲しいものの前で足元を見なくなるやつから、ここで消える」


 カイルは真面目な顔になった。


「紅肌の雫、ほんと人が増えたもんな」


「いいものは人を呼ぶ。高いものは人を急がせる。急ぐやつは転ぶ」


 ライラは、藻の浮く水路を見た。


「分かりやすいじゃない」


 その言い方は強かった。


 でも、軽くはなかった。




 一度第1層へ戻り、3人は第4層へ向かった。


 琥珀水紋門が開く。


 第4層、琥珀の貯蔵庫。


 甘く重い香り。


 高い天井。


 貯蔵棚の影。


 琥珀色の水路。


 ライラは入った瞬間、鼻を動かした。


「……酒の匂い」


 カイルが言う。


「分かる?」


「分かるわよ。高いやつの匂い」


 テラリアも鼻を動かす。


「甘いわ」


「甘いだけじゃないわ。木と煙と、ずるい匂いがする」


「ずるい匂い?」


「飲みたくなる匂いよ」


 琥珀スライムが床を広がる。


 酔香蛾が棚の影から舞う。


 樽齧り鼠が走った。


 ライラは周囲を一瞬で見た。


「棚から離す。酒を燃やしたら、敵より先にあたしが怒るわよ」


「俺も怒られる?」


 カイルが聞く。


「邪魔したらね」


「しない!」


「なら生きて」


 ライラの指先に赤い魔力が集まる。


 敵が広い場所へ寄った瞬間、彼女が笑った。


「数で押せば勝てると思った? 残念。まとめて狙いやすくなっただけよ」


 赤い光が弾けた。


「クリムゾンバースト」


 爆裂。


 赤い熱と衝撃が、敵の群れをまとめて飲み込んだ。


 棚は燃えない。


 琥珀の水路にも火は入らない。


 敵だけが吹き飛ぶ。


 カイルが息を呑む。


「すげえ……」


 テラリアは少し不満そうだった。


「わたしの分が少ないわ!」


「端に残したでしょ」


「あれだけ?」


「不満なら次はもっと早く動きなさい。あたしの前には出ないで」


「分かったわ!」


 テラリアが残った樽齧り鼠へ踏み込む。


 拳が走る。


 カイルも横から剣を入れる。


 ライラは後ろから逃げ道を潰す。


 火力で押している。


 でも、何でも燃やしているわけではない。


 棚の近くでは火を絞る。


 香りが濃い場所では足を止める。


 赤字になる勝ち方をしない。


 それが、ライラの火力だった。


 報酬部屋で、琥珀の雫が手に入る。


 小さな瓶。


 琥珀色の液体。


 ライラは香りを嗅いで、しばらく黙った。


「……これは嫌な値段になるわ」


 カイルが聞く。


「飲まないの?」


「ここで開けるわけないでしょ。酒は飲む場所を選ぶのよ」


「そこはちゃんとしてるんだ」


「そこをちゃんとしないやつは、いい酒を飲む資格がないわ」


 その時、奥で赤いものが跳ねた。


 ぴょん、と。


 琥珀色の影の中に、赤みを帯びた小さな光。


 テラリアが反応する。


「今の!」


「追わない」


 ライラの声は短かった。


 テラリアは止まった。


 カイルも、奥を見たまま動かない。


 ライラは奥の通路を睨む。


「報酬を取った後。酒の匂い。戦闘後。そこに珍しそうな赤い何か。釣り餌としては上等ね」


 カイルが言いかける。


「それ、たぶん」


 ライラが横目で見る。


「何?」


 カイルは口を閉じた。


「後で言う」


「今言いなさい」


「後で!」


 ライラは少し目を細めた。


 だが、奥へは行かなかった。


「まあいいわ。ここで欲張るほど安くない」


 3人は第4層を戻った。


 赤い影は、もういなかった。




 第5層は、ライラの顔から怒りを少し消した。


 熱を帯びた通路。


 湯気。


 石壁を流れる水滴。


 テラリアはずっと楽しそうだった。


「本当に温泉があるのね!」


 カイルが頷く。


「ある。初めて来た時、俺もびっくりした」


「戦って、温泉に入れる迷宮なのね!」


「その言い方だと遊び場っぽいな」


「違うの?」


「違う……と思う」


 ライラが即座に言う。


「違うわよ。強い敵がいて、本人が来ないと意味のない湯がある。そりゃ金を積む人間が出るわ」


「また金の話だ」


「金になるものは、人を危なくするのよ」


 ライラの目は真面目だった。


「紅肌、琥珀、湯。いいものばっかり。だから危ない」


 ホットスプリングガーディアンが現れた。


 熱をまとった守護者。


 湯気に揺れる巨体。


 テラリアが拳を握る。


「強そう!」


「前に出るなら右。カイルは横。足を止めるだけでいい。無理に格好つけたら置いて帰る」


「はい!」


「返事が軽い」


「ちゃんと分かってる!」


「なら生きて証明しなさい」


 守護者が動いた。


 テラリアが先に飛び込む。


 拳が守護者の膝を叩く。


 カイルが横から剣を入れ、動きをずらす。


 ライラは、その中心を見た。


 炎が指先に集まる。


 広がらない。


 狭い。


 重い。


 敵一体を焼き抜く火。


 ライラの髪先が熱で浮く。


「いいじゃない。あんたには、高い魔法を使う価値がありそう」


 赤白い光が凝る。


「インフェルノノヴァ」


 閃光。


 炎は広がらず、守護者の中心を貫いた。


 熱が一瞬、通路を押す。


 守護者の核に赤いひびが入る。


 そこへ、テラリアが踏み込んだ。


「そこね!」


 ガントレットが核を叩く。


 カイルも続く。


「いけっ!」


 剣が亀裂を押し広げた。


 守護者が崩れる。


 湯気が大きく広がった。


 テラリアが両手を上げる。


「やったわ!」


 カイルは息を吐いた。


「今の、めちゃくちゃ強かったな」


 ライラは軽く肩を回す。


「高い魔法だからね」


「高いって、魔力が?」


「魔力も。外した時の損も。撃つ価値のない相手に撃つと腹が立つところも」


「分かるような、分からないような」


「分かる頃には高くついてるわよ」


 テラリアは守護者の崩れた場所を見て、にこにこしている。


「ライラが止めて、わたしが殴る。すごく楽しいわ!」


「楽しいだけで突っ込まない」


「分かってるわ!」


 ライラは少し疑わしそうな顔をしたが、そこで止めた。


 その先に、湯溜まりがあった。


 静かな水面。


 湯気。


 暖かい空気。


 テラリアが息を弾ませる。


「温泉!」


 カイルも笑う。


「ここ、ほんと気持ちいいんだよな」


 ライラは最初、警戒した。


「回復か、美容か、罠か」


「罠じゃないと思う」


「思う、で入るには高そうな湯ね」


 それでも、入った。


 数秒。


 ライラの表情が止まる。


 テラリアは素直に声を出した。


「気持ちいい!」


 カイルも湯に浸かって息を吐く。


「あー、やっぱりここは別格だな」


 ライラは黙っている。


 テラリアが覗き込む。


「ライラ?」


「……まずいわ」


 カイルが身構える。


「え、何かある?」


「違う」


 ライラは湯に肩まで沈んだ。


「出たくない」


 テラリアが満面の笑みになる。


「分かるわ!」


 ライラは目を閉じた。


「王都の貴族が狂う理由が分かったわ。これは駄目ね。紅肌で顔色、琥珀で酒、ここで湯。しかも本人が来ないと意味がない」


「いいことじゃないの?」


 テラリアが首を傾げる。


「いいものよ。だから面倒なの」


 ライラは湯をすくい、指の間から落とした。


「いいものを、誰でもどこでも自由に持てると思った時、人は一番雑になるのよ」


 それは、妙に重い言葉だった。


 テラリアも、カイルも、すぐには返さなかった。


 ライラは続ける。


「ここは持ち帰れない。本人が来るしかない。来るには戦うしかない。戻るしかない。だから、まだまし」


「ましなんだ」


 カイルが言う。


「ましよ。欲しいものの前に、道が残ってるもの」


 テラリアは湯の中で拳を握った。


「じゃあ、強くなる理由になるわ!」


 ライラはテラリアを見た。


 呆れたように。


 でも、少しだけ楽しそうに。


「あんたは本当に、前向きに危ないわね」


 テラリアは笑った。


 ライラも、それ以上は言わなかった。


 俺は黒い水膜の前で、その光景を見ていた。


 泥。


 藻。


 酒。


 湯。


 ライラは文句を言いながら、全部の価値と危険を見ていた。


 テラリアは、全部を前向きに受け取っていた。


 カイルは、その間でよく走っていた。


「ライラ、湯に弱いな」


『弱いのではなく、価値を理解したのよ』


「それで出たくないって言うんだ」


『価値を理解したからでしょう』


 ヴェルティアは、少しだけ満足そうだった。


 迷宮が、人間を動かしている。


 それが嬉しいのかもしれない。


 少し怖いけど。




 第1層へ戻った3人は、入る前とは明らかに違っていた。


 泥と藻の名残はある。


 でも、湯に入ったせいで妙にさっぱりしている。


 テラリアは最初から最後まで楽しそう。


 カイルは少し疲れているが、顔は明るい。


 ライラは不機嫌そうなのに、肌艶がいい。


 本人はそれを気に入らないようだった。


 イリオさんが3人を見て、まず言った。


「予定時刻内の帰還を確認しました」


 ライラが肩をすくめる。


「ほら、戻ったでしょ」


「戻ったことが重要です」


 イリオさんはすぐに続けた。


「第6層へ進んでいないこと。第4層の赤い影を追っていないこと。第5層湯溜まりまでで帰還したこと。この3点を確認します」


「確認していいわよ。全部その通り」


「では、こちらから順に聞きます」


 イリオさんは、そこでようやく机を使った。


 振り回されるだけではなく、戻ってきた相手を逃がさない。


 聞く順番も決めている。


 ライラも、そこは逃げなかった。


 泥は嫌。


 藻も嫌。


 紅肌は効く。


 琥珀は高い。


 湯は危険なくらい気持ちいい。


 赤い影は追わせる動きだった。


 ライラの言葉は雑だったが、内容は鋭かった。


 イリオさんは、それを短く整理していく。


 やっぱり有能だ。


 その後、琥珀の雫の封が開けられた。


 小さな杯に、少量。


 ライラは香りを嗅いだ。


 目を細める。


 飲む。


 止まる。


「……高い」


 イリオさんが聞く。


「値段ですか」


「味よ。腹立つくらい高い味がする」


 グラントさんが柔らかく笑う。


「商人としては、大変ありがたい評価です」


「ありがたがらないで。値段が跳ねる」


「もう跳ねています」


「でしょうね!」


 テラリアも少し飲んで、目を丸くした。


「喉が熱い! でも香りがすごいわ!」


 カイルが笑う。


「だろ? 最初びっくりするよな」


 そこへ、酒場側から声がかかった。


「それ、弾ける清水で薄める飲み方もありますよ」


 ライラの手が止まった。


「弾ける清水で割る?」


「はい。泡立つ清水で薄めると、飲みやすくなって香りも」


「それ、絶対うまいやつじゃない」


 ライラは杯を置いた。


「もう1本いるわ」


 イリオさんが、すぐに口を開く。


「追加で第4層へ入るなら条件があります」


 早い。


 ライラが少し笑う。


「ほんと用意がいいわね」


「一つ。第4層のみ。第5層へは行かない。二つ。赤い影を追わない。三つ。取得後、即帰還。四つ。飲用は第1層で行う」


「いいわ」


「カイル殿も同じ条件です」


「俺も行くの!?」


 カイルが声を上げる。


 ライラが当然のように言う。


「さっき来たでしょ。道を忘れてないなら来なさい」


「忘れてないけど!」


「なら来る」


「扱いが雑!」


 2度目の第4層は早かった。


 ライラは火を絞り、テラリアは拳を振るい、カイルは横から敵を止めた。


 琥珀の雫を追加で取る。


 赤い影は出なかった。


 ライラは少しだけ舌打ちしたが、追いようがないので戻った。


 第1層で、琥珀の雫を弾ける清水で割る。


 泡が立つ。


 香りが軽く上がる。


 琥珀の泡割り。


 ライラは飲んだ。


 また止まった。


「……これは駄目ね」


 イリオさんが身構える。


「問題が?」


「美味すぎる。量が足りない」


 グラントさんが胃を押さえた。


「需要が増える音がしました」


 カイルが笑う。


「分かる。これ、うまいよな」


「うまいで済ませるには高すぎるわ」


 ライラは周囲を見た。


「琥珀の雫を持ってる人、出しなさい。買うわ」


 イリオさんが静かに言う。


「買い取りは、相場を乱さない範囲でお願いします」


「先に言われた」


「あなたは先に言わないと走る方ですので」


「王都文官って、たまに腹立つくらい正しいわね」


 グラントさんが微笑む。


「市場価格を崩さない範囲なら、私も立ち会います」


「商人が立つと値段が上がるじゃない」


「上がりますね」


「否定しなさいよ」


 完全な宴会ではない。


 王都調査団がいる。


 ロザックさんもいる。


 イリオさんが量を見ている。


 グラントさんが値段を見ている。


 でも、第1層の一角には、確かに酒の空気があった。


 その空気の中で、カイルがぽろっと言った。


「そういや、フィンたちが取った紅琥珀の雫って、これより美味いんだよな」


 空気が止まった。


 ライラの目だけが動く。


「……今、何て言った?」


 カイルの顔が固まる。


「あ」


「紅琥珀?」


「えっと」


「カイル」


 ライラの声が低くなる。


「詳しく」


 カイルは助けを求めるように周囲を見た。


 誰も助けなかった。


 テラリアだけが興味津々だった。


「紅琥珀って何?」


 カイルは観念した。


「第4層に、たまに紅琥珀スライムっていう赤いやつが出るんだ。フィンたちが前に倒して、紅琥珀の雫を取ったことがある」


 ライラの目が鋭くなる。


「酒?」


「酒。たぶん」


「美容は」


「ないと思う」


「治療は」


「ない」


「強化は」


「聞いてない」


 ライラはゆっくり笑った。


「いいじゃない。余計な言い訳がいらないわ」


 イリオさんが目を閉じた。


 ロザックさんが額に手を当てた。


 グラントさんの笑みは、完全に商人のものになっていた。


 ライラは言った。


「フィンを呼びなさい」


 カイルが小さく呟く。


「ごめん、フィン」


 しばらくして、フィンが来た。


 マイラも一緒だった。


 リオとサナも少し離れて立っている。


 フィンはライラの前に立つと、まずカイルを見た。


「カイル」


「ごめん」


「何を言ったんだよ」


「紅琥珀の話」


 フィンは一度、天井を見た。


 それからライラへ向き直る。


「えっと。何から話せばいいですか」


 ライラは少しだけ目を細めた。


 今のフィンの反応で、遊び話ではないと分かったのだろう。


「第4層のどこで出たの」


「僕たちの時は、琥珀の雫を取った後です」


「後限定?」


「いえ。クレスさん達は、報酬前に見たって聞いてます」


「つまり、第4層に稀に出る赤いスライムってことね」


「はい。紅琥珀スライムです」


「速い?」


「速いです。跳ねます。追わせる感じがあります」


「やっぱりね。さっき見た赤いの、たぶんそれだわ」


 フィンの表情が変わった。


「見たんですか?」


「見た。追わなかったけど」


「それで正解だと思います」


 フィンの声が、少し真面目になる。


「あれ、見つけると追いたくなるんです。でも、追うと道が崩れます。第4層は足場がいいから、走れる気がするんです。そこが危ないです」


 ライラは黙って聞いた。


 フィンは続ける。


「僕たちの時は、先に退路を押さえました。水で押して、逃げ道を狭めて、慌てて追わないようにしてから倒しました」


「いいじゃない」


 ライラは短く言った。


「口だけじゃないわね。足で覚えてる」


 フィンは少しだけ照れたような顔をした。


「カティアさんに、追うなって何度も言われたので」


「口の悪いやつの忠告は高いのよ」


「それ、カティアさんに言ったら喜ぶか怒るか分からないです」


「両方でしょ」


 マイラが静かに口を挟んだ。


「紅琥珀の雫は、効果品ではありません。治療、強化、美容の効果は確認されていません」


 ライラが見る。


「酒?」


「はい」


 フィンが頷いた。


「とんでもなく美味しい酒です」


 ライラの顔が決まった。


「行くわ」


 イリオさんが即座に言う。


「本日の実地確認は終了です」


「まだ夕方よ」


「終了です」


 ロザックさんも低く言った。


「今日は終わりだ」


「美味い酒を落とす赤いスライムがいるのよ」


「だから明日にしろ」


「今行った方が」


「明日だ」


 テラリアが明るく手を上げた。


「明日にしようよ! フィン達も連れて行ったら、色々聞けるでしょ?」


 ライラの動きが止まる。


「……それは合理的ね」


 イリオさんが、ほんの少しだけ救われた顔になった。


 ライラはフィンを見る。


「明日、来なさい」


「僕たちですか?」


「取ったことあるやつを連れて行くのが一番早いでしょ。口だけの噂より、足で覚えてるやつの方が信用できるわ」


 マイラが言う。


「同行範囲は事前に決めてください」


「無理はさせないわよ。必要な場所まで。危なくなったら戻す」


 その時、近くにいたメリダが口を開いた。


「戻すなら、先に戻り方を決めてください」


 ライラはメリダを見た。


 少し笑う。


「いいわね。そういうの、嫌いじゃないわ」


 テラリアは嬉しそうに言った。


「明日も迷宮ね!」


 カイルはフィンにもう一度手を合わせた。


「ごめん」


 フィンはため息をついた。


「後で詳しく聞くからな」


「はい」


 俺は黒い水膜の前で、そのやり取りを見ていた。


「カイル、やったな」


『口を滑らせたわね』


「でも、話は進んだな」


『欲はよく進むわ』


 ヴェルティアが淡々と言う。


 たしかに、欲は進む。


 紅肌の雫も。


 琥珀の雫も。


 湯溜まりも。


 そして、紅琥珀の雫も。


 人はいいものを見ると進む。


 でも、戻れなければ意味がない。


 水膜の向こうで、ライラは空になった杯を見た。


 次に、第4層へ続く入口を見た。


 そして最後に、フィンたちを見た。


「明日、行くわよ。琥珀、泡割り、紅琥珀。全部、現場で確かめる」


 イリオさんが言った。


「本日の調査は終了です」


「だから明日って言ったでしょ」


 テラリアが笑った。


「明日も楽しみね!」


 白い小箱の数字は、九五。


 王都調査団は到着したばかりだった。


 だが、清水の第1層はもう分かっていた。


 王都の火力は、紙の上だけでは止まらない。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、ライラ、テラリア、カイルの3人による実地確認回でした。

第2層と第3層はテンポよく通過しつつ、紅肌の雫、第4層の赤い影、第5層の湯溜まり、そして琥珀の泡割りへつなげています。


ライラは火力だけでなく、欲と価値と危険を見る人物として動きました。

テラリアは前へ進む拳。

カイルは勢いで同行し、最後に紅琥珀の話をうっかり出す役です。


次回は、フィン達を交えて第4層の紅琥珀スライム確認へ進む予定です。


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