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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第72話 崩した形を、戻される前に断つ



 クレスの肩には、まだ薄い布が巻かれていた。


 深い傷ではない。


 マイラの処置と救護席の補助で血は止まり、動きも戻っている。


 それでも、革鎧の肩口に残った裂け目は、昨日の霧がまだそこに噛みついているように見えた。


 清水の第1層。


 仮受付の机には、前回の記録が広げられている。


 前衛型、一時崩し成功。


 射撃型、二重射線の可能性。


 霧操作型または支援型、前衛型立て直しの可能性。


 戻り道遮断、撤退宣言前から開始。


 負傷者、クレス。左肩軽傷。


 カイルはその文字を、何度も読んでいた。


 読むたびに、左奥の見せ線と、右前から来た本命の白い線が頭の中で重なるのだろう。


 剣の柄を握る指に、力が入っている。


 クレスはそんなカイルを責めなかった。


 ただ、記録の別の場所を指で押さえた。


「一本目を見るな、とは言わない」


 カイルが顔を上げる。


「はい」


「一本目を見た時、自分が何を見なくなったかを見る」


「……はい」


 カイルは静かに頷いた。


 昨日の返事より、少しだけ深い声だった。


 メリダが机の上に、細い木片を並べる。


 前衛。


 射線。


 霧。


 足元。


 戻り道。


 それぞれの位置を、木片で示していく。


「今日は、前を崩す前に戻り道を作ります」


 マイラが筆を構えた。


「崩す前に、ですか」


「はい。崩してから戻り道を見ると遅い。崩れた瞬間、みんな前を見ます。だから、崩す前に後ろを空けておく」


 カティアが頷く。


「下は俺が見る。戻り道の端を潰すやつは先に蹴る」


 ティアが指先に小さな魔力を灯す。


「私は霧を晴らさない。戻る霧にだけ楔を入れるわ。全部払おうとすると、消耗が大きい」


 ラハルは盾を床に置き、深く息を吐いた。


「わしは前衛型を流す。押した後、残らぬ」


「押して残らない」


 メリダが繰り返した。


「それが大事です。ラハルさんが残ると、そこを壁にされます」


「うむ。今日は壁ではなく、開いた扉だな」


 カティアが横から言う。


「開いたまま取っ手壊すなよ」


「む。取っ手は大事だな」


「真面目に返すな」


 軽口は短い。


 すぐに場の空気は記録へ戻る。


 クレスが全員を見る。


「今日は番隊を崩す」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


「ただし、奥へ走らない。前衛型を崩す。射線を切る。霧の戻りを遅らせる。足元を開ける。戻り道を残す。その全部が揃った時だけ、前へ進む」


 カイルが短く答えた。


「分かりました」


 メリダが口を開く。


「戻る、は今まで通りです。ただ、今日はもう1つ言葉を決めたい」


「何だ」


 クレスが聞く。


「続ける」


 メリダは言った。


「怪我や揺れが出た時、治療や確認に目が寄りそうになったら、続ける。意味は、無視じゃない。隊列を続ける。安全域で見る」


 マイラの筆が止まる。


 カイルも、少しだけ息を止めた。


 昨日、クレスの肩を見てしまった自分を思い出したのだと思う。


 クレスはすぐに頷いた。


「採用する」


 ティアが補足する。


「傷を軽く扱う言葉ではないわ。見る場所を間違えないための言葉ね」


「はい」


 メリダは頷いた。


「怪我を見て止まる場所と、怪我を見ないで戻る場所を間違えないためです」


 マイラが記録する。


 負傷時申告語。


 続ける。


 意味、隊列継続。


 治療判断は安全域で行う。


 カイルが小さく息を吐いた。


 クレスが言う。


「行くぞ」


 誰も異論を言わなかった。


 俺は黒い水膜の前で、その背中を見ていた。


「今日は本当に崩しに行くんだな」


『ええ』


 ヴェルティアの声は静かだった。


『昨日の傷を、手順に変えたわ』


「痛い授業料だな」


『迷宮は安い授業ばかりではないもの』


 水膜の中で、カイルがもう一度、クレスの肩を見た。


 それから視線を霧の方へ戻す。


 今度は、そこで止まらなかった。


 俺は握った手を、ゆっくり開いた。




 第5層へ向かう道は、すでに彼らの足に馴染んでいた。


 だが、油断はない。


 第1層にある第4層入口から、琥珀の貯蔵庫へ入る。


 そこを越えれば、熱を帯びる通路。


 湯気の匂い。


 第5層の門番が待つ場所へ続く。


 ホットスプリングガーディアンとの戦いは、いつも通り重い。


 だが、今日は誰も余計に長く戦わない。


 ラハルは受け流す。


 クレスは位置を切る。


 カイルは踏み込みすぎない。


 ティアは蒸気の隙間だけを作る。


 カティアは関節を抜く。


 メリダは味方の足を見る。


 門番が崩れる。


 湯溜まりの白い湯気が揺れる。


 誰も湯には触れない。


 温かい白の奥に、冷たい白がある。


 クレスが剣を抜き直した。


「確認する。前を崩す前に戻り道を作る。一本目で消えた場所を見る。怪我が出ても隊列を崩さない」


 メリダが続ける。


「戻るって言ったら」


「戻る」


「続けるって言ったら」


「続ける」


 全員の声が揃った。


 冷たい霧へ入る。


 床の温度が変わる。


 音が丸くなる。


 湯気の匂いが薄れる。


 アイススライムは進路を塞いだが、カイルが止め、カティアが抜いた。


 フロストバットが低く横切る。


 ラハルの盾は動かない。


 濡石クラブが右下へ紛れる。


 カティアが蹴り、戻り道の端へ弾き出す。


 今日は、入った時から後ろを作っている。


 前へ進むために、後ろを削らせない。


 霧の奥で、ミストウルフが現れた。


 右寄り。


 前回と同じ位置。


 行けば、隊列が伸びる場所。


 カイルが見る。


 剣は上がる。


 だが、足は出ない。


「狼、右。見ます。行きません」


 クレスが頷く。


「前だ」


 霧が厚くなる。


 白い幕が、前へ押し出される。


 前衛型。


 そこにいると分かっていても、輪郭は掴みきれない。


 壁に見える。


 鎧に見える。


 大きな腕に見える。


 だが、役割はもう分かっている。


 前を塞ぐものだ。


 ラハルが盾を構える。


「来い」


 重い衝撃。


 盾が鳴る。


 その音が後ろへ返る。


 だが、ラハルは止まらない。


 膝を沈め、盾を斜めにし、重さを横へ流す。


「開くぞ!」


 前衛型の重さが、ほんの少し横へ抜けた。


 同時にクレスが入る。


 剣先が白い厚みの端を裂く。


 前回と同じではない。


 深く切るのではなく、姿勢の支えを探している。


 硬いもの。


 霧ではないもの。


 そこへ刃を当てる。


「ここだ」


 クレスの剣が沈む。


 前衛型の輪郭が大きく傾いた。


 左奥から、細い射線。


 一本目。


 カイルの目が向く。


 剣も向く。


 だが、身体は向かない。


 右足は床に残し、左奥へ剣だけを置く。


 氷粒が砕けた。


 次。


 昨日の本命は、右前の低い位置から来た。


 カイルは左奥を見た直後、自分が見なくなった場所へ目を戻す。


 前衛型の陰。


 右前。


 そこに、白い線があった。


「右前、本命!」


 カイルの剣が間に合う。


 完全には弾けない。


 だが、線を逸らした。


 氷粒はカイルの腕ではなく、霧の中へ流れ、石床で弾ける。


 クレスはカイルを見ない。


 前を見ている。


「続ける」


 短い声。


 カイルが答える。


「はい!」


 ティアが霧の流れを見る。


 前衛型の崩れた場所へ、白い霧が戻ろうとしている。


 奥で青白い光が揺れる。


 昨日と同じ。


 立て直しの光。


 ティアは霧を払わない。


 光へ直接撃たない。


 戻る霧の流れに、細い魔力を差し込む。


 霧が裂けるのではない。


 絡む。


 戻りが遅れる。


「長くは止められないわ」


「一拍でいい」


 クレスが言う。


 その一拍に、カティアが足元を抜いた。


 濡石クラブを蹴り、もう1体を短剣の柄で叩き、戻り道の端を開ける。


「下、開いた!」


 メリダが後ろを見る。


 戻り道はある。


 まだある。


 ただし、細い。


「半分残ってる。押せる。でも、戻れる幅は半分」


 その声で、全員が前だけを見なくなる。


 前衛型が崩れている。


 奥の光も見える。


 けれど、戻り道は半分しかない。


 それを知ったまま、次の一手へ進む。


 ラハルが盾を押す。


 昨日より短く。


 昨日より強く。


 そして、残らない。


「押して、引く!」


 前衛型がさらに傾いた。


 クレスの剣が、その傾きへ入る。


 カイルが右前を見続ける。


 左奥の射線がまた鳴る。


 見せ線だ。


 だが、見せ線でも当たれば崩れる。


 カイルは剣を小さく返す。


 左奥の線を弾く。


 すぐに右前へ戻る。


 また白い線。


 本命。


 今度は低い。


 カイルは踏み込まず、剣を下げて受けた。


 刃に氷が砕け、手首が痺れる。


「重い!」


「止まるな」


 クレスの声。


「はい!」


 カイルは痺れた手を握り直す。


 目は霧から外さない。


 ティアの額に汗が浮いた。


 冷たい霧の中なのに、魔力の消耗で汗が出ている。


 霧の戻りを遅らせるだけで、かなり削られている。


 青白い光がもう一度揺れる。


 前衛型の姿勢が戻りかける。


 ティアが歯を食いしばった。


「同じ流れじゃない。戻す場所をずらしてる」


「見えるか」


 クレスが聞く。


「見える。でも、全部は止められない」


 カティアが低く言った。


「全部止めるな。戻してる場所を教えろ」


 ティアが一瞬だけカティアを見る。


 カティアは足元を見ている。


 霧を見ていない。


 でも、ティアが見る場所を減らそうとしている。


 ティアはすぐに答えた。


「前衛型の右肩側」


「聞いた」


 カティアが床を蹴った。


 足元攪乱を捌きながら、前衛型の右肩側へ短剣を投げる。


 刃ではない。


 柄の重い短剣。


 白い厚みの右肩側へ当たり、小さな音を立てた。


 そこへクレスが入る。


 霧の戻る場所。


 支え直される場所。


 そこを、剣で断つ。


 白い厚みが、今度こそ大きく崩れた。


 前衛型が膝をついたように見えた。


 霧の中で、低い影が沈む。


 ラハルが吼える。


「開いたぞ!」


「残るな!」


 メリダが叫ぶ。


「分かっておる!」


 ラハルは前へ残らない。


 押した勢いを横へ逃がし、すぐに戻り道側へ半歩引く。


 その瞬間、ミストウルフが走った。


 撤退の声はまだ出ていない。


 それでも、戻り道へ入ってくる。


 今日は、戻る時ではなく、前衛型が崩れた瞬間に動いた。


「来た!」


 メリダが声を上げる。


 カイルは射線を見ている。


 クレスは前衛型を断っている。


 ラハルは引いている。


 ティアは霧を遅らせている。


 カティアが動く。


 足元の蟹を蹴った直後の足で、ミストウルフの進路へ入る。


 正面から止めるのではない。


 狼が戻り道の中央へ入る前に、横から短剣を滑らせる。


「そこは通すかよ」


 ミストウルフの輪郭が揺れた。


 しかし、消えない。


 もう1歩、戻り道へ食い込む。


 メリダが一歩下がる。


 逃げるためではない。


 戻り道の幅を見るためだ。


「道、三分の一!」


 危ない。


 でも、まだ残っている。


 戻るには狭い。


 進むには足りない。


 ここで戻れば、狼と足元に絡まれる。


 ここで押せば、前が開くかもしれない。


 メリダの喉が動いた。


 戻る、と言いかける。


 けれど、今日は違う。


 戻り道を見たうえで、前も見る。


 クレスが前衛型の支えを切った。


 カイルが本命射線を見た。


 ティアが霧の戻りを一拍遅らせている。


 カティアは狼に触っている。


 ラハルは残っていない。


 今は、まだ隊列が崩れていない。


 メリダは叫んだ。


「続ける! 道は細い、でも残ってる!」


 クレスが答える。


「続ける」


 その声で、全員が止まらない。


 カイルが右前の本命射線を弾く。


 弾いた直後、左奥の見せ線ではなく、さらに上から細い音がした。


 三本目。


 射撃型が撃ち方を変えた。


 カイルの目が追いつかない。


 だが、今度は1人で見ていない。


 ラハルの盾が少し上がる。


 ティアの光が足元ではなく、胸の高さで一瞬だけ弾ける。


 白い線が見えた。


 カイルが剣を返す。


 間に合う。


「上!」


 氷粒が砕けた。


 手首がまた痺れる。


 カイルは歯を食いしばる。


 でも、剣は下がらない。


 クレスが前衛型の奥へ半歩入る。


 奥の青白い光が揺れた。


 支援型か。


 霧操作型か。


 その両方か。


 今度は、はっきり形を見る暇はない。


 見るより先に、断つ。


「ティア」


「見えてる」


 ティアが霧の戻る流れを追う。


 青白い光そのものではなく、そこから伸びる冷たい筋。


 霧を戻す筋。


 それを見つける。


「前衛型の背中側。右から左へ流れてる」


「カイル」


 クレスが言う。


「射線」


「見ます!」


「カティア」


「下と狼!」


「ラハル」


「道を開ける!」


「メリダ」


「戻り道、まだある!」


 クレスが踏み込んだ。


 前衛型の崩れた隙間を抜ける。


 奥の光へ直接向かうのではない。


 光と前衛型をつないでいる霧の筋へ、剣を入れる。


 手応えは薄い。


 何かを斬ったというより、張っていた糸を外したような感触だった。


 青白い光が、大きく揺れた。


 前衛型が戻らない。


 白い厚みが、そのまま横へ崩れる。


 ラハルが盾を押し込む。


 今度は流すためではない。


 倒れた形が戻る前に、道の外へ押し出すためだ。


「ぬうううう!」


 重い。


 だが、動く。


 前衛型が、霧の中で大きく傾いた。


 その時、左奥から射撃型が連続で撃った。


 見せ線ではない。


 本命を混ぜた連射。


 カイルの剣だけでは足りない。


 ティアが光を落とす。


 カティアが金具を弾く。


 クレスが肩の痛みを無視して、一本だけ剣で逸らす。


 白い線がそれぞれ砕ける。


 砕けた音が霧の中で跳ねる。


 方向感覚が乱れる。


 メリダが叫ぶ。


「名前!」


「クレス!」


「ラハル!」


「カイル!」


「カティア!」


「ティア!」


「メリダ!」


 返事が揃う。


 位置は合っている。


 まだ崩れていない。


「続ける!」


 メリダが言った。


 今度は迷わない。


 カティアがミストウルフの足を切る。


 狼の輪郭が崩れ、白い霧にほどける。


 倒したかどうかは分からない。


 でも、戻り道の中央から消えた。


「道、開いた!」


 ティアが霧の筋へ魔力を押し込む。


 青白い光が、今度は後ろへ下がろうとした。


 逃げる。


 いや、位置を変える。


 支援役が位置を変えれば、また前衛型を戻される。


 カイルが反応する。


 行きたい。


 届きそうだ。


 だが、今回は足が出ない。


 剣だけが動く。


 上から来た射線を弾き、そのまま左奥へ圧を返す。


「クレスさん、左奥の射線、止まります!」


「止めろ」


「はい!」


 カイルは射撃型へ走らない。


 剣を振るうのではなく、射線が通る場所へ立つ。


 撃たせない位置を取る。


 白い線が来ない。


 左奥の細い音が、一瞬だけ止まった。


 その一瞬で、クレスが青白い光へ向かう。


 前衛型を倒すのではない。


 番隊の形を戻すものを断つ。


 霧の中で、青白い光が揺れる。


 そこへ、クレスの剣が届いた。


 硬い手応えはない。


 だが、光が裂けた。


 霧が一気に薄くなる。


 前衛型の白い厚みが、支えを失ったように崩れた。


 ラハルの盾がそれを押し切る。


 低い影が、霧の中で沈む。


 同時に、足元の濡石クラブがばらばらに動いた。


 カティアが舌打ちする。


「散った!」


 足元攪乱が、最後に逃げるように広がる。


 戻り道ではなく、全員の足元へ。


 踏めば滑る。


 避ければ隊列が開く。


 ティアが足元へ光を落とす。


 カティアが一番近いものを蹴る。


 ラハルが盾を床へ低く滑らせ、2体をまとめて弾く。


 カイルが前を見たまま、足だけで1体を避ける。


 クレスは踏み込まず、剣の柄で白い石を払った。


 メリダが言う。


「足、短く。開かない」


 全員が短い歩幅で揃える。


 足元の白が、少しずつ減っていく。


 霧が薄くなる。


 これまでと違う。


 閉じる白ではない。


 崩れて、ほどけていく白だ。


 左奥の射線が止まった。


 上からの音もない。


 ミストウルフの唸りも聞こえない。


 前衛型の重さも消えた。


 青白い光は、もう揺れていない。


 クレスが剣を構えたまま言う。


「確認」


 ティアが霧を見る。


「霧の戻りが止まっているわ」


 カティアが足元を見る。


「下も消えた。石は石だ」


 ラハルが盾を構える。


「前の重さはない」


 カイルが左奥と右前を順に見る。


「射線、ありません」


 メリダが後ろを見る。


「戻り道、あります」


 誰もすぐに喜ばなかった。


 喜んだ瞬間に何かが来る。


 そういう場所だった。


 クレスは一呼吸だけ待った。


 霧は戻らない。


 音も返らない。


 冷えはある。


 だが、足を絡める冷えではない。


 前方の白が、薄く開いていく。


 そこに、通路があった。


 今まで見えなかった奥への道。


 霧の中に隠れていた、まっすぐではない細い道。


 カイルが小さく息を吐いた。


「開いた」


 クレスが頷く。


「ああ」


 メリダがまだ後ろを見ている。


「戻り道は残ってます。でも、長居はしない方がいい」


「進む」


 クレスが言った。


「ただし、走らない」


 全員が頷いた。


 霧冷えの番隊がいた場所を越える。


 そこに死体らしいものは残っていない。


 白い霧のほどけた跡。


 冷たい石。


 砕けた氷の粒。


 それだけがある。


 歩くたび、床の冷たさが少しずつ変わっていく。


 刺すような冷えから、静かな冷えへ。


 音の返りも変わる。


 丸くずれる音ではなく、奥へ吸い込まれるような音。


 ティアが小さく言った。


「霧が、引いている」


 カティアが周囲を見る。


「敵の気配はねえな。今のところは」


 ラハルが盾を下ろさないまま笑う。


「番隊を越えたか」


「まだ報酬を見ていない」


 クレスが言う。


「油断するな」


「承知」


 カイルはクレスの肩を見ない。


 左奥も、右前も、足元も見ている。


 昨日の傷が、今日の目になっていた。


 メリダが短く言う。


「前、白い」


 霧ではない白が見えた。


 石壁の奥に、淡く光る入口がある。


 冷たい霧とは違う。


 湯気とも違う。


 白い部屋。


 報酬の気配。


 誰も言葉を出さなかった。


 その瞬間、俺の目の前にも表示が浮かんだ。


【霧冷えの番隊の撃破を確認】


【前衛型と支援型の連携遮断を確認】


【射撃型の二重射線への対応を確認】


【霧操作型による再遮断の阻止を確認】


【戻り道を維持したままの第6層突破を確認】


【報酬区画への到達を確認】


【獲得DP:1840】


【現在DP:8596】


「8596」


 数字を見ても、すぐには声が出なかった。


 水膜の向こうで、クレスたちはまだ警戒を解いていない。


 番隊は倒した。


 道は開いた。


 でも、誰も勝った顔をしていない。


 勝った後にも、足を置く場所を確認している。


 それが、今回の勝ち方だった。


 ヴェルティアが静かに言う。


『越えたわね』


「ああ」


 俺は黒い水膜を見つめた。


「でも、まだ中身は見てない」


『報酬区画よ』


「だよな」


 白い入口の前で、クレスが振り返る。


 全員がいる。


 ラハル。


 カイル。


 ティア。


 カティア。


 メリダ。


 誰も欠けていない。


 クレスの肩には布がある。


 カイルの手にはまだ痺れが残っているかもしれない。


 ティアの魔力は削られている。


 カティアの息も浅い。


 ラハルの盾には氷粒の跡が残っている。


 メリダの声は、何度も戻り道を見たせいで少し掠れている。


 それでも、全員が立っている。


 クレスが短く言った。


「入るぞ」


 6人は、霧の奥に現れた白い部屋へ足を踏み入れた。



後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、霧冷えの番隊を苦戦しながらも倒し切る回でした。

前衛型を崩し、射撃型の二重射線を見切り、霧の戻しを遅らせ、戻り道を残したまま第6層突破まで到達しています。


次回は、いよいよ報酬部屋の中身です。

ここからまた清水の迷宮らしい騒ぎになっていきます。


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