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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第68話 霧の前で、帰る条件を決める



 清水の第1層に、帰るための人間が呼ばれた。


 勝つためではない。


 倒すためでもない。


 奥へ進むためでもない。


 帰るためだ。


 黒い水膜の向こうで、メリダが仮受付の前に立っている。


 短く切った髪。


 使い込まれた革鎧。


 左頬に残る薄い傷。


 派手さはない。


 強者の空気もない。


 けれど、足の置き方に迷いがなかった。


 逃げるための足。


 戻るための目。


 そういうものを持っている冒険者だ。


 仮受付の机には、冷霧区域の記録が広げられていた。


 第5層湯溜まり奥に確認。


 湯溜まり護衛依頼には含めない。


 公開依頼には含めない。


 上位冒険者による再調査待ち。


 そこに、クレス、カティア、ティア、カイル、ラハルが揃っている。


 マイラは記録帳を開き、オルド村長は少し離れた場所で見守っていた。


 メリダは記録を一通り読み、顔を上げた。


「勝つ予定? 戻る予定?」


 最初の質問がそれだった。


 クレスが答える。


「戻る予定だ」


「なら、私の仕事はあるね」


 メリダはそう言って、机の前に立った。


 カイルが少し首を傾げる。


「メリダさん、敵を倒す役じゃないんだよな?」


「うん」


 メリダはあっさり頷く。


「倒せる敵なら、あなたたちが倒す。私は、倒せそうに見える時に帰るって言う役」


 カイルは少しだけ目を瞬かせた。


 それから、クレスを見た。


「クレスさん、第6層はそういう場所ってことですか?」


「ああ」


 クレスは短く答える。


「前に入った時、敵は倒せそうに見えた。だが、追えば霧の奥へ引かれる」


「分かりました」


 カイルは頷いた。


 その声は素直だった。


 新しい場所への興味は、目に残っている。


 だが、それを自分で握っている。


 ティアがメリダへ視線を向ける。


「冷え、視界不良、音の反射。足元に紛れる魔物。短時間でも判断が遅れるわ」


「うん。記録で見た」


 メリダは机の上を指で軽く叩いた。


「でも、こういう時に一番怖いのは、怖いと思う前に進めることだよ」


 カティアが口の端を少しだけ上げた。


「分かってるじゃねえか」


「臆病者講習の担当だからね」


 メリダは静かに言う。


「怖がる前に条件を決める。怖くなってから決めると、だいたい遅い」


 マイラがその言葉を書き留めた。


 撤退条件。


 冷霧区域再調査。


 見出しの下に、空白がいくつもできる。


 クレスが口を開いた。


「条件を決める。誰かが言えば、全員が従う。理由の確認は戻ってからだ」


 ラハルが頷く。


「ふむ。戦場で議論を始めるな、ということか」


「そうだ」


 メリダが手を上げる。


「撤退の言葉は1つにしたい」


「何にする」


「戻る」


 短い。


 だからいい。


 マイラが書く。


「撤退申告語、戻る」


 メリダは続けた。


「誰が言っても止まる。Aランクでも、Cランクでも、私でも。言った人を説得しない。まず戻る」


 カイルが少し真面目な顔で聞いた。


「オレがまだ行けると思っても?」


「戻る」


「ティアが魔法で霧を開けられそうでも?」


「戻る」


「ラハルさんが受けられるって言っても?」


「戻る」


 ラハルが豪快に笑った。


「ふはは! わしが受けると言ってもか!」


「言いそうだから先に言ってます」


 メリダは真顔だった。


 カティアが小さく吹き出す。


「言うな」


「言うでしょう」


 ティアまで静かに頷いた。


「言うわね」


「ぬう」


 ラハルは少しだけ肩を落とした。


 場の空気が軽くなる。


 だが、決めている内容は重い。


 メリダは指を3本立てた。


「細かく分けると多くなるから、大きく3つにする」


 マイラが筆を構える。


「お願いします」


「1つ目。位置。前衛から後衛までが一息で確認できない。声の方向が変に返る。誰かの場所を言うのに迷う。これは戻る」


 ティアが頷いた。


「霧だけでなく、音も位置を崩すからね」


「うん。目だけで無理なら声を使う。声も怪しいなら、そこで終わり」


 メリダは2本目の指を軽く動かす。


「2つ目。足。足先が鈍る。歩幅が変わる。足音が重くなる。本人が言わなくても周りが言う」


 ラハルが腕を組む。


「強がる者が出そうだな」


「だから、本人申告だけにしない」


 メリダは即答した。


「歩幅は隠しにくい。足音も隠しにくい。自分が大丈夫と言っても、周りが変だと言ったら戻る準備」


 カティアが頷く。


「隠した分から殺しに来る場所か」


「そういう場所だと思う」


 メリダは3本目の指を立てた。


「3つ目。欲。見えた敵を追いたくなる。倒した敵を確認したくなる。奥が見えた気がする。そうなったら止まる」


 カイルの眉が少し動いた。


 メリダはそれを見逃さない。


「特に、速い人」


「オレか」


「うん」


 カイルはクレスを見た。


「クレスさん、オレが前に出そうになったら止めてください」


「俺が止める。メリダも止める。お前自身も止まれ」


「分かりました」


 カイルは深く頷いた。


 その顔に不満はない。


 ただ、悔しさの予行練習みたいなものはあった。


 自分が行ける時に止まる。


 それは強い者ほど難しい。


 メリダは最後に、指を下ろした。


「あと、どれにも入らないけど、誰かが今のは変だって言ったら戻る」


 マイラの筆が止まる。


「それは条件として曖昧では」


「曖昧だから残す」


 メリダは静かに言った。


「霧や音や冷えは、ちゃんとした言葉になる前におかしくなる。言葉になってからだと遅い時がある。だから、変だ、で戻れるようにする」


 クレスが頷いた。


「採用する」


 マイラは少し迷った後、記録した。


 違和感申告時、撤退。


 俺は黒い水膜の前で息を吐いた。


「違和感で戻る、か」


『曖昧な判断を、曖昧なまま規則にしたわね』


「普通の規則だと怒られそうだけど、第6層には合ってる気がする」


『霧を相手にするなら、形になった危険だけを待っていては遅いもの』


 俺は水膜を見る。


 まだDPは動かない。


 ここまでは準備だ。


 だが、準備は確かに迷宮へ向いている。


 マイラが記録を読み上げた。


「冷霧区域再調査、撤退条件」


 位置。


 視界、声、隊列の場所が崩れた場合、戻る。


 足。


 冷え、歩幅、足音に異常が出た場合、戻る準備。複数出た場合、戻る。


 欲。


 敵を追う、倒した敵を確認しに行く、奥へ進みたくなる動きが出た場合、止まる。


 違和感。


 誰かが変だと申告した場合、戻る。


「撤退申告語は、戻る」


 クレスが全員を見た。


「異論は」


 誰も言わなかった。


 メリダが小さく頷く。


「じゃあ、怖がる準備はできたね」


 カティアが笑う。


「いい言い方じゃねえか」


 ラハルが胸を張った。


「ならば、怖がりながら参ろう!」


「爺さんが言うと、全然怖がってる感じしねえな」


「気持ちはあるぞ!」


「声がでけえんだよ」


 カイルが少し笑った。


 ティアは呆れたように息を吐く。


 それでも、全員の目はもう第5層の奥を向いていた。


 冷霧区域へ入る。


 ただし、攻略ではない。


 戻る条件が機能するかを確かめる。


 それが、この日の目的だった。




 第5層へ向かう道は、すでに彼らの足に馴染んでいた。


 琥珀の貯蔵庫。


 熱を帯びる通路。


 湯気の匂い。


 門番戦は短くない。


 けれど、今回の目的はそこではない。


 ホットスプリングガーディアンは、ラハルが重い一撃を受け、クレスが位置を切り、カイルが踏み込み、ティアが蒸気の隙間を作り、カティアが関節の動きを見た。


 メリダは戦いの中心には入らない。


 後ろで見ていた。


 敵ではなく、味方を。


 誰が息を詰めたか。


 誰が濡れた床で半歩遅れたか。


 誰が勝てると思って前へ出そうになったか。


 門番が崩れた後、カイルが息を吐いた。


「まだ行けます」


 それは報告だった。


 勢いではない。


 クレスが頷く。


「湯には入らない。休みすぎない。呼吸を整えたら奥を見る」


 湯溜まりの白い湯気が揺れている。


 いつもなら、そこは緩む場所だ。


 手を浸し、髪を整え、肌を休める場所。


 けれど今日は違う。


 誰も湯に触れない。


 湯の誘惑を、目的から外す。


 湯気の奥に、別の白がある。


 冷たい霧だ。


 カティアが膝を軽く曲げた。


「音、聞くぞ」


 ティアが短く詠唱し、指先に薄い光を作る。


「霧は切らないわ。今日は見え方を確認するだけ」


 ラハルが盾を構える。


「前はわしが受けよう」


「受けるだけで進むなよ」


「分かっておる」


 メリダが全員を見た。


「入る前に確認。戻るって言ったら」


「戻る」


 カイルが答える。


 ティアも言う。


「戻る」


 カティアが続ける。


「戻る」


 ラハルも低く言う。


「戻る」


 クレスが最後に言った。


「戻る」


 それで、全員の言葉が揃った。


 冷たい霧の前で、6人が足を踏み出す。


 1歩目。


 湯気の温さが、背中側へ退いた。


 2歩目。


 床の濡れ方が変わる。


 温かい湿り気ではない。


 石そのものが、体温を奪う湿り気だ。


 3歩目。


 音が丸くなる。


 ラハルの鎧が小さく鳴った。


 その音が、右の壁ではなく左の奥から返ってくる。


 メリダがすぐに言った。


「声つなぎ」


 クレスが答える。


「前、クレス」


 ラハル。


「前左、ラハル」


 カイル。


「前右、カイル」


 カティア。


「中左、カティア」


 ティア。


「中右、ティア」


 メリダ。


「後ろ、メリダ」


 それだけの確認に、霧が薄く絡みつく。


 1回目は全員の位置が合った。


 メリダは頷く。


「進める」


 クレスが半歩進む。


 足元で、小さな白が動いた。


 カティアの声が飛ぶ。


「床、左!」


 カイルの剣が反応する。


 だが、クレスの声が先だった。


「切るな。止めろ」


「はい!」


 カイルは踏み込みを短く変えた。


 刃で斬り抜くのではなく、白い塊の進路を潰す。


 氷を含んだスライムのような魔物が、床に潰れて震えた。


 ティアの小さな魔法がそれを固める。


 カティアが横から短剣を入れ、動きを止めた。


 倒せた。


 倒せる敵だった。


 だが、メリダは床を見ない。


 後ろを見ている。


「ラハルさん、左足」


「む?」


「少し歩幅が詰まった。まだ戻らない。でも申告してください」


 ラハルが自分の足に意識を向ける。


「冷えはある。動く」


 マイラがここにいたら、すぐ書きそうな報告だった。


 メリダは頷く。


「進める。でも次に重くなったら戻る側に傾けます」


「承知した」


 霧の中で、羽音がした。


 上。


 いや、後ろ。


 いや、横。


 音が薄い布の上を転がるみたいに、位置を変える。


 カイルの肩がわずかに動いた。


 見えたのだ。


 霧の中に、白い羽を持つ小さな魔物。


 フロストバット。


 それが一瞬だけ姿を見せ、霧の奥へ消える。


 カイルの足が前へ出かける。


「カイル」


 クレスの声。


 同時に、メリダの声。


「足」


 カイルの足が止まった。


 剣先だけが、霧を切る。


「……はい」


 声に悔しさはある。


 でも、止まった。


 メリダが軽く息を吐く。


「今の踏み込み、さっきより短い」


「え?」


 カイルが自分の足を見る。


 本人は気づいていなかったらしい。


「止まろうとしたからじゃないのか」


 カティアが聞く。


「それもある。でも、右足の戻りが遅い。冷えてるか、床を探ってる」


 ティアが霧の奥を見たまま言った。


「足元を疑い始めると、踏み込みの幅は縮むわ」


「うん」


 メリダは頷く。


「ラハルさんの左足。カイルさんの右足。まだ1人ずつなら進める。でも、足の条件が2つ出てる」


 ラハルが盾を握り直した。


「思ったより早いな」


「早いです」


 メリダは霧を見た。


「だから、浅いうちに戻る準備をします」


 クレスが頷く。


「あと数歩だけ見る。曲がらない」


 さらに進む。


 霧が濃くなる。


 床の石と白い小さな魔物の区別が、少しずつ面倒になる。


 カティアが低く言う。


「床が全部怪しく見えるな」


「見る場所を決める」


 メリダが答える。


「前はクレスさんとカイルさん。足元はカティアさん。霧の動きはティアさん。ラハルさんは音。私は後ろ」


 ラハルが盾を構え直した。


「音か」


「鎧と盾の返りがおかしくなったら言ってください」


「承知した」


 メリダはラハルを前に出しすぎない。


 カイルを走らせない。


 ティアに霧全部を任せない。


 クレスだけに判断を集めすぎない。


 それぞれの見る場所を減らす。


 そのためにいる。


 俺は水膜の前で、思わず呟いた。


「強いな、メリダ」


『敵を倒していないのに?』


「倒してないから強いんだよ、たぶん」


 ヴェルティアは答えなかった。


 けれど、水膜の向こうで進む一行を、じっと見ている気配がした。


 霧の奥で、低い唸り声がした。


 ミストウルフ。


 姿は薄い。


 輪郭が揺れている。


 前にいるようで、少し横。


 横にいるようで、足音は前。


 カイルが剣を構える。


 ラハルが盾を上げる。


 ミストウルフは、飛びかかってこなかった。


 霧の奥へ、一歩下がる。


 その先で、白い羽音がした。


 さらに足元で、石が擦れるような小さな音がする。


 ティアが目を細めた。


「奥に何かいる」


 カティアも短剣を構え直す。


「下にもいるな」


 クレスが前を見る。


 霧の向こうに、まだ道がある。


 見える。


 届きそうに見える。


 メリダが言った。


「戻る」


 全員が止まった。


 理由は聞かない。


 クレスが即座に向きを変える。


「戻る」


 カイルが息を吸った。


 ミストウルフはまだ見える。


 追えば届きそうな距離にいる。


 だが、カイルは剣を下げた。


「戻ります」


 クレスが短く頷く。


「いい判断だ」


 メリダが後ろを見たまま言う。


「ラハルさんの左足。カイルさんの右足。後ろの羽音。足元の擦れる音。全部少しずつです」


 ティアが頷く。


「どれか1つならまだ進める」


「うん。でも重なった。あと、私の声が右後ろから一回返った」


 カティアが床を見る。


「なるほどな。はっきり危険になる前に、戻るってわけか」


「はっきりしてからだと、たぶん遅い」


 メリダの声は揺れなかった。


 帰り道は、入った時より短いはずだった。


 それなのに、霧の中では長く感じる。


 湯気の匂いが来ない。


 温かい床が遠い。


 羽音が横から鳴る。


 さっきのフロストバットか。


 別の魔物か。


 カイルの肩が動く。


 だが、今度は自分で止まった。


「見えた。でも追わない」


 メリダが後ろから言う。


「それでいい」


 カティアが笑う。


「褒められてんぞ、Aランク」


「悪くないな」


 ティアが短く魔法を放った。


 霧を払うのではない。


 足元だけを照らす。


 濡れた石の隙間に、白い蟹のような魔物が貼り付いていた。


 濡石クラブ。


 ラハルの盾の端がそれを弾く。


 クレスが進路を切り、カティアが足元を抜く。


 倒した。


 だが、誰も見に行かない。


 そのまま戻る。


 メリダの声が続く。


「後ろ、メリダ。中右、ティア」


「中左、カティア」


「前右、カイル」


「前左、ラハル」


「前、クレス」


 声つなぎが短くなる。


 湯気の匂いが、ようやく戻った。


 温かい床に足が乗る。


 その瞬間、全員の肩が少し下がった。


 クレスが手を上げる。


「ここまで」


 湯溜まりの白い湯気が、今は妙に優しく見えた。


 けれど、誰も湯に入らない。


 今日の目的は、湯ではない。


 帰る条件だった。


 メリダがゆっくり息を吐く。


「浅いね」


 カイルが霧の方を見る。


「浅い。でも、戻らなかったら危なかった」


「うん」


 メリダは頷く。


「勝てない場所じゃない。だから危ない」


 ティアが静かに言う。


「勝てる敵を見せて、こっちの足を前に出させる。そういう作りね」


 カティアが鼻を鳴らした。


「嫌な性格してるな」


 ラハルが低く笑う。


「迷宮とは、なかなか稽古上手よな」


「褒めるなよ、爺さん。調子に乗るぞ」


 俺は黒い水膜の前で、ちょっとだけ視線を逸らした。


「いや、乗らないけど」


『本当かしら』


「疑いが深い」


『妥当な警戒よ』


 ヴェルティアの声は冷たくない。


 どちらかというと、満足している。


 進ませたかったのではない。


 戻れるかを見ていた。


 そんな声だった。




 第1層へ戻ると、マイラがすぐに救護席へ案内した。


「全員、足先の感覚確認をお願いします」


 カイルが靴を脱ぎながら言う。


「ちょっと冷えてる。でも動く」


 ティアが手を添えて確認する。


「魔力消耗は軽いわ。霧を無理に払わなかったから」


 ラハルは足を叩いて豪快に言った。


「わしは問題ない!」


 メリダが即座に見る。


「歩幅が戻ってないです」


「ぬ?」


「右足が半歩重い」


 ラハルが自分の足を見る。


 少しだけ、黙った。


「……確かに、鈍いな」


 カティアが呆れた顔をした。


「だから言われてんだよ、爺さん」


「むう。申告しよう。右足に鈍さあり」


 マイラが記録する。


「ラハルさん、右足に軽い鈍さ。救護席で経過確認」


 ラハルは素直に座った。


 メリダはそれを見て、ほっとしたように息を吐いた。


「強い人が座ってくれると、後が楽になります」


 ラハルが首を傾げる。


「そうか?」


「はい。強い人が我慢すると、弱い人が言えなくなるので」


 その言葉に、場が一瞬静かになった。


 クレスが小さく頷いた。


「記録に入れていい」


 マイラはすぐに書いた。


 強者の申告は、他者の申告を助ける。


 カイルが自分の足を確かめながら言う。


「オレは、追わないのが一番きつかった」


 カティアが笑う。


「だろうな」


「見えてたんだよ。届きそうだった」


 クレスが言う。


「届くように見せている可能性がある」


「はい」


 カイルは頷く。


「次も止まります。クレスさん」


「ああ」


 ティアが記録を見ながら言った。


「次は、霧の奥の影を確認したいわ。今日は撤退条件の確認が目的だったけれど、奥にもう1つ動きがあった」


 カティアも頷く。


「ミストウルフが下がった先だな。単に逃げてる感じじゃなかった」


「ただ、連携と断定するには早いわ」


 ティアが言う。


「羽音と足元の音が重なったのは偶然かもしれない。霧でそう聞こえただけかもしれない」


 メリダが短く首を振った。


「偶然かどうかを見るなら、次も戻る準備を強くした方がいい」


「理由は?」


 マイラが聞く。


「偶然じゃなかった場合、こっちが見ているつもりで、向こうにも見られているから」


 クレスの目が細くなる。


「敵が散っているのではなく、こちらの足を動かすために配置されている可能性がある」


 カティアが顎に手を当てた。


「まだ可能性だ。だが、そう見て入った方が死ににくい」


 ラハルが救護席に座ったまま、低く笑う。


「第5層は、1体の門番を崩す場所。冷霧区域は、見えぬ何かにこちらの形を崩される場所かもしれぬな」


 クレスは頷いた。


「次はそこを見る」


 カイルが顔を上げる。


「敵が組んでるかどうか、ですか?」


「断定はしない」


 クレスは静かに言った。


「だが、向こうの動きがこちらの隊列を崩しに来ているのかを見る」


 メリダが頷く。


「見るだけなら、戻る条件は今日より厳しくした方がいい」


「なぜ?」


 カイルが聞く。


「今日より深く見るなら、戻るまでの距離も伸びるから」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


 冷霧区域。


 まだ浅い。


 まだ数歩しか入っていない。


 でも、ただ寒いだけの場所ではない。


 ただ見えにくいだけの場所でもない。


 倒せる敵を見せる。


 追わせる。


 隊列を伸ばす。


 声をずらす。


 足を冷やす。


 そして、戻る判断を遅らせる。


 そこまで分かった。


 俺は黒い水膜の前で、表示を待った。


 今度は、すぐに浮かんだ。


【冷霧区域再調査隊の編成を確認】


【撤退条件の事前設定を確認】


【冷霧区域浅層再調査を確認】


【複数の違和感による撤退判断を確認】


【冷霧区域の誘導行動を確認】


【冷霧区域内の敵連携の可能性を確認】


【獲得DP:640】


【現在DP:3496】


「3496か」


『少し戻ったわね』


「攻略じゃなくて撤退でも、ちゃんと増えるんだな」


『迷宮にとって、進むことだけが成果ではないもの』


 俺はその言葉を、少しゆっくり飲み込んだ。


 進むことだけが成果ではない。


 清水の迷宮を作ってから、何度もそれを見てきた気がする。


 第1層は、生きるための水。


 第2層は、慣れるための泥。


 第3層から先は、報酬と危険。


 そして冷霧区域は、勝てる敵を前にして戻れるかどうか。


 そういう場所になりつつある。


「倒せる敵より、追わせる敵が怖いってことか」


『ええ』


 ヴェルティアが答える。


『あの霧は、強い者の足を止めるためではなく、強い者の足を伸ばさせるためにあるのかもしれないわ』


「性格悪いな」


『誰が作ったのかしら』


「……次は、もう少しだけ自覚を持って見るよ」


『それでいいわ』


 水膜の向こうで、メリダが記録帳を覗き込んでいた。


 彼女は笑っていない。


 けれど、怖がっている顔でもない。


 怖さを、仕事にしている顔だった。


 クレスたちは、次に見るべきものを確認している。


 霧の奥。


 下がる敵。


 重なる音。


 薄く見える配置。


 第6層は、まだ攻略されていない。


 けれど、少しだけ輪郭が見えた。


 冷たい霧の中には、倒せる敵がいる。


 そして、倒せるからこそ、追ってはいけない敵がいる。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、冷霧区域に入る前に撤退条件を決め、メリダを加えて浅く再調査する回でした。

第6層は、強い敵を倒すだけではなく、倒せそうに見える敵を追わずに戻れるかを試す場所になっています。


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