第67話 湯を求める紙と、霧を見た者たち
清水の第1層に、湯を求める紙が届いた。
封蝋つきの文書だった。
プロンテラ領主府。
プロンテラ冒険者ギルド。
プロンテラ商人ギルド。
3つの確認印が並んでいる。
持ってきたのは、グラントだ。
商人ギルドの交渉役で、清水の迷宮にも何度も足を運んでいる男。
いつもの柔らかい笑みはある。
けれど、今日の笑みは紙の束の重さに少しだけ押されていた。
「第5層湯溜まり護衛依頼に関する整理文書です」
仮受付の机に、文書が置かれる。
オルド村長が静かにそれを見た。
マイラは記録帳を開く。
クレス、カティア、ティア、カイル、ラハルも第1層にいた。
彼らは、つい先日、第5層湯溜まりの奥に冷たい霧を見ている。
けれど、外から来た文書は、まだその霧を知らない。
紙が求めているのは、湯だった。
グラントが要点だけを読み上げる。
「紅肌の雫は、第3層報酬として買い取り依頼で処理可能。琥珀の雫は、第4層報酬として出所と本数を記録した上で買い取り可能」
仮受付の職員が頷く。
そこは、もう揉めるところではない。
高い。
競争は起きる。
だが、第3層と第4層を突破できる冒険者は増えている。
貴族が金を積み、冒険者が納得して売るなら、紅肌の雫も琥珀の雫も動く。
問題は、次の行だった。
「第5層湯溜まり護衛依頼は、上記2種の買い取り依頼とは別枠とする。本人講習、撤退申告語、同行冒険者条件、第5層経験者の確認、帰還後の救護席確認を必須とする」
カティアが腕を組んだ。
「そこは通ったか」
「はい」
グラントは頷く。
「紅肌の雫と琥珀の雫は品として動かせます。湯溜まり護衛は、本人を動かす依頼です。プロンテラ側でも別枠で整理されました」
「なら、だいぶマシだな」
カティアはそう言ったが、表情は緩めなかった。
なぜなら、紙の束はそこで終わっていなかったからだ。
グラントが、もう1枚の文書を机に置く。
「ただし、問題になりそうな追記があります」
オルド村長の眉がわずかに動いた。
「追記、ですか」
「はい。複数の貴族家から似た文言が出ています」
グラントは紙をめくり、そこだけを読み上げた。
「第5層湯溜まり到達後、護衛冒険者が安全と判断する範囲において、迷宮奥部の追加確認も希望する」
その場の空気が、音を立てずに冷えた。
外の者たちは、第6層を知らない。
冷霧区域の存在を知らない。
だが、知らなくても欲は伸びる。
湯溜まりの奥。
迷宮奥部。
追加確認。
そんな言葉で、まだ見ぬ先へ手を伸ばそうとする。
クレスが文書を見たまま言った。
「却下だな」
短い一言だった。
カイルがすぐに頷く。
「はい。クレスさん、それは入れちゃ駄目です」
カイルの声には、いつもの明るさが少しだけ残っていた。
だが、軽くはない。
彼は冷たい霧を見た。
行けそうだと思って、戻った。
だから、その追記が何を踏み抜くか分かる。
ティアが紙の文言を見て、静かに言う。
「安全と判断する範囲、という書き方が危険ね」
マイラが記録の手を止める。
「なぜですか」
「安全の基準を、その場の護衛に丸投げしているからよ」
ティアは淡々と続ける。
「護衛対象が望む。雇い主が望む。報酬が積まれる。その中で、護衛冒険者が安全と判断した、と書かせる形になる」
ラハルの顔が少し険しくなった。
「つまり、後で責める余地を残す書き方か」
「そう読めるわ」
カティアが舌打ちした。
「嫌な紙だな」
グラントは否定しなかった。
「悪意があるとは限りません。ただ、便利な文言です」
「便利ってのは、逃げ道が多いってことだろ」
「はい」
クレスが紙を机へ戻した。
「第5層湯溜まり護衛依頼に、奥の確認は含めない」
仮受付の職員がすぐに書き留める。
「第5層湯溜まり到達後、迷宮奥部の追加確認は不可」
カティアが続けた。
「護衛冒険者が安全と判断しても不可、だ」
「はい」
「雇い主が望んでも不可」
「はい」
「湯溜まり護衛は、湯溜まりまで行って戻る依頼。奥を見る依頼じゃねえ」
その言葉で、紙の熱が少しだけ下がった気がした。
オルド村長が頷く。
「湯を求める者に、霧まで渡す必要はありませんな」
グラントは一瞬だけ、目を細めた。
「霧、ですか」
その言葉に、場がわずかに止まった。
オルド村長は、隠すようにはしなかった。
ただ、軽くも扱わなかった。
「第5層湯溜まりの奥に、冷たい霧の区域が確認されています」
グラントの表情から、笑みが少し薄くなった。
紙の重さが、さらに増えたようだった。
「正式な階層として、ですか」
クレスが答える。
「まだ分からない。俺たちは数歩だけ確認して戻った。案内はない。文字もない。冷え、音の反射、足元に紛れる魔物、小型の飛行魔物を確認した」
「第5層湯溜まりの奥に」
「ああ」
グラントはしばらく黙った。
その沈黙は、商人としての計算ではなかった。
紙をどう流すか、誰に伝えるか、どこで止めるか。
そういう線を頭の中で引いている沈黙だった。
「プロンテラへ、すぐ報告すべき内容です」
「だろうな」
カティアが言う。
「でも、湯溜まり依頼の客に混ぜるなよ」
「混ぜません」
グラントは即答した。
「これは別紙です。第5層湯溜まり護衛依頼とは分けます」
仮受付の職員が新しい紙を出す。
見出しは、冷霧区域。
第6層とは書かない。
公開依頼にも載せない。
まずは現場記録として残す。
マイラが記録を読み上げる。
「冷霧区域。第5層湯溜まり奥に確認。現時点では公開依頼に含めない。湯溜まり護衛依頼の対象外。上位冒険者による再調査待ち」
クレスが頷いた。
「それでいい」
ティアが追加する。
「冷えは足から来ます。短時間でも申告が必要です。湯溜まり直後の緩んだ状態で入る場所ではありません」
カティアは別の言い方をした。
「湯で息を抜いた後に、音のズレる霧へ入る。やるなら最初から別の顔で入れってことだ」
その言葉の方が、冒険者には伝わりやすかった。
グラントも頷く。
「つまり、湯溜まり護衛の延長ではなく、冷霧区域調査として別に組む」
「そうだ」
クレスが言う。
「第5層湯溜まり護衛は、護衛対象を湯溜まりまで連れて行き、戻す依頼だ。冷霧区域に入る判断は、その依頼の外に置く」
カイルがクレスを見る。
「クレスさん、次に入るなら調査隊ですよね?」
「ああ」
「護衛じゃなくて、調査」
「そうだ」
「分かりました」
カイルは頷いた。
その目は、霧の奥を思い出している。
行きたい気持ちはある。
けれど、湯のついでに行く場所ではないと理解している。
そこで、カティアがぽつりと言った。
「メリダを呼んだ方がいいな」
グラントが少し意外そうに顔を上げる。
「メリダさんを、ですか」
「ああ」
カティアは腕を組んだまま答えた。
「あそこは、強いやつを並べりゃいいって場所じゃねえ。音がズレる。足が冷える。敵を追えば戻り道が薄くなる。そういう場所で、早めに『帰る』って言える奴がいる」
クレスも頷いた。
「第6層は、勝ち方より先に戻り方だ」
カイルがすぐに言う。
「クレスさん、メリダさんはそのためですか?」
「ああ。メリダは臆病者講習で、戻る言葉を先に出せる。あれは第6層で必要になる」
マイラが記録する。
「冷霧区域再調査候補に、メリダさんを追加」
ティアが静かに補足した。
「臆病は、あの霧では欠点ではないわ。感覚が崩れる前に戻るための役割になる」
ラハルが大きく頷いた。
「ふむ。強き者が進み、臆病な者が帰り道を守る。悪くない」
「爺さん、その言い方だとメリダに怒られるぞ」
カティアが言う。
「ぬう。では、帰還に優れた者、と言い換えよう」
「最初からそう言え」
少しだけ笑いが起きた。
重い紙の束の上に、ほんの薄い風が通る。
だが、決めることは決める。
仮受付の職員が、4枚の紙を机に並べた。
1枚目。
紅肌の雫。
第3層報酬。
買い取り依頼として処理可能。
2枚目。
琥珀の雫。
第4層報酬。
買い取り依頼として処理可能。
3枚目。
第5層湯溜まり護衛。
本人同行が必要。
本人講習、撤退申告語、護衛条件、帰還後確認必須。
迷宮奥部の追加確認は含めない。
4枚目。
冷霧区域。
第5層湯溜まり奥に確認。
湯溜まり護衛依頼には含めない。
公開依頼には含めない。
上位冒険者による再調査待ち。
全部を同じ皿に乗せたら、必ず誰かが取り違える。
だから、分ける。
紙も。
依頼も。
欲も。
命の置き場所も。
グラントが、4枚目の紙を見た。
「この冷霧区域については、私からプロンテラへ急ぎで戻します。ただし、湯溜まり依頼の受付文書には載せません」
オルド村長が頷く。
「お願いします」
「王都への報告にも、後から乗るでしょう」
「でしょうな」
「その時、また紙が増えます」
グラントは少しだけ疲れた顔で笑った。
オルド村長も、静かに笑った。
「紙が増えるだけなら、まだ戻れます」
その言葉に、クレスが目を細めた。
「人が増える前に、紙で止めるか」
「はい」
オルド村長が頷く。
「紙で止められるうちは、紙で止めましょう」
それは、村長らしい言葉だった。
剣ではない。
魔法でもない。
水でもない。
紙で、人を止める。
清水の第1層は、そういう場所にもなっていた。
俺は黒い水膜の前で、そのやり取りを見ていた。
外から来た文書は、湯を求めていた。
けれど、湯の奥にはもう霧がある。
紙はそれを知らない。
人間もまだ、ほとんど知らない。
だからこそ、ここで線を引く。
俺は表示を待った。
少し遅れて、内部表示が浮かぶ。
【プロンテラ領主府からの第5層湯溜まり護衛依頼整理文書を確認】
【第5層湯溜まり護衛依頼に迷宮奥部の追加確認を含めない判断を確認】
【冷霧区域を第5層湯溜まり護衛依頼から分離する判断を確認】
【冷霧区域を現時点で公開依頼に含めない判断を確認】
【冷霧区域再調査候補にメリダを追加する判断を確認】
【獲得DP:460】
【現在DP:2856】
「線を引くだけで、迷宮は反応するんだな」
『迷宮の扱いが決まったのよ』
「外の欲じゃなくて、入口での判断に反応した」
『ええ』
俺は表示を見る。
2856。
第6層を作った後の少ないDPが、少しだけ戻った。
数字よりも気になったのは、4枚目の紙だった。
冷霧区域。
第5層湯溜まり奥に確認。
湯溜まり護衛依頼には含めない。
公開依頼には含めない。
上位冒険者による再調査待ち。
人間が、迷宮の奥に名前を仮でつけた。
まだ知られていない場所を、知られすぎないように紙へ閉じた。
それは不思議な光景だった。
俺たちが作った霧を、人間が紙で縛ろうとしている。
もちろん、霧そのものは縛れない。
でも、人間の足は少し止められる。
それでいい。
全部を止める必要はない。
湯を求める者たちに、水を差すつもりはない。
けれど、湯の奥にある霧まで、望まれた形で差し出すつもりもなかった。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、外から届いた第5層湯溜まり護衛依頼の整理文書と、清水側で見つかった冷霧区域の扱いを分ける回でした。
紅肌の雫と琥珀の雫は買い取り依頼として処理し、第5層湯溜まり護衛は別枠。
さらに、湯溜まりの奥にある冷霧区域は、湯溜まり護衛依頼に含めず、上位冒険者による再調査待ちとしました。
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