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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第62話 奥方様、湯気の奥へ届く



 第1層の仮受付前に、昨日の言葉がまだ残っていた。


 俺たちじゃ護衛しながら、門番と戦うのは無理です。


 ギードが言った言葉だ。


 第5層の門番を倒した経験がある冒険者の言葉。


 その言葉は、逃げではなかった。


 線引きだった。


 自分たちだけなら戦える。


 だが、リューベック男爵夫人エレオノーラと侍女長セリーヌを守りながら、あの門番と戦うのは違う。


 戦えることと、護れることは違う。


 その違いが、第1層の空気を少し硬くしていた。


 黒い水膜の向こうで、クレスがギードの前に立つ。


 貴族へ向ける時とは違う。


 冒険者同士の声だった。


「自分たちだけなら倒せる。でも、守りながらは無理。そういうことだな」


 ギードは頷く。


「ああ。門番を見ると、どうしても門番を倒す動きになる。奥方様と侍女長の足までは見切れない」


「分かった」


 クレスは短く返す。


 責めない。


 慰めない。


 確認だけする。


「戻せるところまで戻した。無理なところで渡した。それでいい」


 ギードは目を逸らす。


「褒めるな」


「褒めてない。確認だ」


 カティアが壁際で腕を組んでいる。


 今回も同行しない。


 ただし、出発前の装備確認だけは勝手に始めていた。


 クレス。


 ティア。


 ラハル。


 カイル。


 そして、エレオノーラとセリーヌ。


 門番戦を前提にした本番護衛だ。


 ベルノ家令は第1層待機。


 帰還確認と記録、報告、支払い関係を引き受ける。


 ベルノは不満そうではなかった。


 むしろ、自分の役割をはっきり理解している顔だった。


「奥方様をお待ちすることも、家令の仕事でございます」


 そう言っていた。


 エレオノーラは、昨日より少し軽い外套を着ていた。


 手袋は薄い。


 手を隠すためではなく、守るためのもの。


 紅肌の雫はすでに使ったらしい。


 手の血色は、昨日より少しだけ良くなっている。


 だが、荒れそのものが消えたわけではない。


 だからこそ、湯溜まりを求める理由も残っている。


 セリーヌも、昨日取得した紅肌の雫を使っていた。


 指先の色が少し戻っている。


 それでも、彼女は自分の手を時々見ていた。


 震えを隠さないためだろう。


 カティアがセリーヌの前に立つ。


「侍女長」


「はい」


「奥方様を見るなら、顔じゃなくて手と足を見ろ」


 セリーヌは小さく頷く。


「顔は隠せます。手と足は、遅れますね」


「分かってんならいい」


「昨日、少し学びました」


「少しで止めるな。奥で全部使え」


「はい」


 カティアは次にエレオノーラを見る。


「奥方様」


「はい」


「今日は、湯に入る日じゃねえ」


 ベルノが少しだけ眉を動かした。


 しかし、エレオノーラは止めなかった。


 カティアは続ける。


「戻れる形のまま、門番の前に立つ日だ。湯は、その後に残ってたら入ればいい」


 エレオノーラは静かに頷いた。


「覚えておきます」


「分かった顔してる時が、1番危ねえ」


 エレオノーラは少しだけ笑う。


「では、分かっていない顔を練習します」


「そういう返しは上手くならなくていい」


 周囲に小さな笑いが起きた。


 だが、すぐに消える。


 クレスがエレオノーラへ向き直る。


 声が丁寧なものに変わった。


「奥方様。ここから先は、前回とは違います。第5層入口で戻る確認ではありません。門番戦を前提に進みます」


「はい」


「戻ります、と言えば戻ります。湯溜まりが見えていても戻ります。門番が倒れかけていても戻ります」


 エレオノーラの指先が少し動く。


「門番が倒れかけていても、ですか」


「はい」


「あと少しでも」


「はい」


 ティアが横から静かに言う。


「あと少し、で死ぬ人が1番多いわ」


 冷たい声だった。


 でも、嘘がなかった。


 エレオノーラはティアを見る。


「あなたが、ティア様ですね」


「ティアでいいわ。今日は治癒と補助、それからあなたと侍女長の状態確認を見る」


「私が隠した場合は」


「隠した顔を見るより、隠した手を見るわ」


 ティアの視線がエレオノーラの手袋へ落ちる。


「手、足、呼吸、視線。言葉より先に出るものを見る。気に入らなくても、従いなさい」


 エレオノーラは少しだけ目を伏せた。


「従います」


「よろしい」


 カイルが横で肩を回す。


「オレは?」


 ティアが見もせずに言う。


「前に出すぎない係」


「それ役目としてどうなの」


「あなたが1番危ないから」


「いや、オレAランクなんだけど」


「だから危ないの」


 カイルは頬を膨らませた。


 ラハルが豪快に笑う。


「はっはっは! 若さは刃、刃は振り回せば味方も切る!」


 ティアが今度はラハルを見る。


「あなたもよ」


「ぬ?」


「正面から受けすぎない。騎士の名誉より、奥方様の足元」


 ラハルの髭がぴくりと動いた。


「わしが受けずして誰が受ける」


 クレスが冒険者へ向ける声で言う。


「ラハル、受けるな。流せ。奥方様の足元が揺れる」


 ラハルは1瞬だけ不満そうにした。


 だが、すぐに大盾を鳴らす。


「よかろう。今日は受ける騎士ではなく、揺らさぬ壁となろう」


 ベルノがエレオノーラの前に立つ。


「奥方様」


「ええ」


「お戻りをお待ちしております」


 エレオノーラは少しだけ笑った。


「戻りました、と言えるようにします」


 ベルノは深く頭を下げた。


「はい」


 その言葉を持って、同行組は第5層へ向かった。




 第5層入口の湯気は、昨日と同じだった。


 白く、熱く、濡れている。


 ただし、昨日とは並びが違う。


 先頭にラハル。


 その斜め後ろにクレス。


 カイルは横へ広がりすぎない位置。


 ティアはエレオノーラとセリーヌの近く。


 エレオノーラは中央。


 セリーヌはその半歩後ろ。


 戻り道を完全に塞がない。


 前に出すぎない。


 後ろに下がりすぎない。


 守るための隊列。


 エレオノーラは昨日と同じ場所で止まった。


 ここで、戻りますと言った。


 その記憶があるのだろう。


 彼女の指先が動く。


 セリーヌがすぐに見る。


「奥方様。指に力が入っています」


 エレオノーラは自分の手を見る。


「はい。入っています」


 ティアが頷く。


「申告できるなら、まだいいわ」


 クレスがエレオノーラへ確認する。


「奥方様。ここから先は門番戦の範囲です。戻りますと言えば、戻ります」


 エレオノーラは湯気の奥を見た。


 そして、静かに答えた。


「進みます。けれど、戻りますは忘れません」


 クレスは頷く。


「確認しました。進みます」


 熱が足元から上がる。


 濡れた床が、靴底を試す。


 湯気が視界を細く切る。


 ホットウォーターリザードの気配が横を走ったが、カイルが先に動いた。


 しかし、飛び出さない。


 半歩だけ出て、剣の腹で進路を止める。


 クレスが横から切る。


 リザードは熱水を吐く前に床へ落ちた。


「カイル、出すぎるな」


「出てないって」


「次は出る顔だった」


「顔まで見るの、ずるくない?」


 ティアが冷たく言う。


「顔に出るあなたが悪い」


 カイルは言い返せなかった。


 スチームバットが上から来る。


 2体。


 湯気に紛れて羽音だけが近づく。


 ティアが指を上げる。


「上。右が先。左は遅らせる」


 薄い風が通った。


 湯気が裂ける。


 カイルが右を落とし、クレスが左の軌道だけをずらす。


 ラハルは動かない。


 大盾を構え、エレオノーラの視界の壁になっている。


 スチームウルフが低く回り込もうとした。


 今度はラハルが反応しそうになる。


 大盾が前へ出かける。


 クレスが短く言った。


「ラハル、動くな」


「ぬう」


「そいつは誘いだ。足元が開く」


 クレスの言葉通り、ウルフは横へ走っただけだった。


 本命は、逆側の湯気に紛れていたミネラルクラブ。


 濡れた石のように床へ伏せ、エレオノーラたちの足元を狙っていた。


 ティアが手を向ける。


「足元、固めるわ」


 薄い魔力が床を撫でる。


 濡れた石の表面が1瞬だけ硬くなり、ミネラルクラブの脚が引っかかった。


 カイルがそこを打つ。


 甲羅が割れる。


 ラハルがうなる。


「動かぬ壁も難しいものよ」


 クレスが返す。


「できてる。そのまま」


「む。ならば、わしは壁である」


 ラハルは前へ出る衝動を押し込めた。


 エレオノーラは、その背中を見ていた。


 大きな鎧。


 大きな盾。


 動かないことに力を使っている者。


 戦うとは、前へ出ることだけではない。


 それを見た顔だった。


 門番の広間が近づく。


 湯気の量が増える。


 音がこもる。


 重い何かが、奥で動いた。


 クレスが止まる。


「ここで確認します」


 エレオノーラが頷く。


 ティアが先に言う。


「奥方様、手」


 エレオノーラは自分の手を見る。


「震えています。ですが、持てます」


「呼吸」


「浅いです。吸います」


 エレオノーラは自分で息を吸った。


 セリーヌが続ける。


「私は、指が震えています。奥方様の右足が少し内側へ寄っています」


 ティアが頷く。


「見えているなら、いいわ。奥方様、足を戻して」


 エレオノーラは右足を半歩戻す。


 クレスが問う。


「戻りますか」


 エレオノーラは、湯気の奥を見た。


「いいえ。まだ、戻れます」


 クレスは少しだけ目を細めた。


「確認しました。進みます」


 その瞬間、白い湯気の奥で、重いものが動いた。


 鉱物の外殻。


 青白い核。


 肩から噴き出す蒸気。


 ホットスプリングガーディアンが、護衛対象を連れた一行の前に立った。




 最初の1撃は、音より先に圧が来た。


 ガーディアンの腕が上がる。


 湯気が押し潰される。


 ラハルが盾を構えた。


 受ける構え。


 正面から止める構え。


 騎士として、もっとも分かりやすい構え。


 クレスが叫ぶ。


「受けるな、流せ!」


 ラハルの足が1瞬だけ迷う。


 だが、盾の角度を変えた。


 衝撃を正面で抱えず、斜めに逃がす。


 重い腕が盾を滑り、床を叩く。


 床が揺れた。


 だが、揺れは小さい。


 エレオノーラは踏みとどまる。


 セリーヌがすぐに言う。


「奥方様、立っています。右手に力」


 ティアが短く返す。


「見えている。続けて」


 ガーディアンが蒸気を吐いた。


 白くなる。


 視界が消える。


 カイルが横へ出ようとする。


 ティアの声が鋭く飛ぶ。


「カイル、奥方様の視界から消えない位置」


 カイルの足が止まる。


「分かってるって。今日は格好よく倒す日じゃないんだろ」


「分かっているなら、半歩戻りなさい」


「はい!」


 カイルは半歩戻った。


 その半歩で、エレオノーラの視界から彼の背中が消えなくなる。


 それだけで、エレオノーラの呼吸が少し戻った。


 ティアはそこを見ていた。


 ガーディアンの脚が湯気の奥から出る。


 踏み込み。


 床の水が跳ねる。


 クレスは前へ出ない。


 まず、エレオノーラとセリーヌの足元を見る。


 ラハルの盾。


 カイルの位置。


 ティアの魔力。


 全部を見てから、言う。


「カイル、右脚だけ削れ。核を見るな」


「了解!」


 カイルが低く走る。


 速い。


 だが、遠くへは行かない。


 ガーディアンの右脚に刃を入れ、すぐ戻る。


 深くはない。


 でも、外殻に筋が入った。


 ラハルが盾を鳴らす。


「次、来るぞ!」


 ガーディアンの腕が横へ払われる。


 ラハルは、今度は最初から斜めに流した。


 盾の面を、重い腕が滑る。


 足が半歩ずれたが、ティアの魔力が床を押さえる。


 ラハルの踵が止まる。


「助かった!」


「礼は後」


 ティアはエレオノーラを見た。


「奥方様、呼吸」


 エレオノーラは答えようとして、声が出なかった。


 口は開いている。


 息が止まっている。


 核が見えたのだ。


 湯気の切れ間に、青白い核が見えた。


 門番の胸の奥。


 勝利の印に見えるもの。


 それを見て、エレオノーラの呼吸が止まった。


 セリーヌが叫ぶ。


「奥方様、息が止まっています」


 ティアがすぐに言う。


「息を吸いなさい。美しく立つより、生きて立つ方が先よ」


 エレオノーラの肩が震えた。


 彼女は息を吸った。


 深くはない。


 でも、吸った。


「吸えました」


 セリーヌが言う。


「吸えています」


 ティアが頷く。


「よろしい」


 ガーディアンの核がまた湯気に隠れる。


 カイルが刃を握り直す。


 今度は飛び出さない。


 核を見ても、足を止めた。


 クレスがそれを見て、短く言う。


「今は待て」


「分かってる」


「核より戻り道」


「分かってる」


 カイルの声は悔しそうだった。


 それでも戻った。


 Aランクの足が、核ではなく戻り道を優先した。


 それを見て、エレオノーラの目が少し変わる。


 強い者でも止まる。


 強い者でも見送る。


 自分だけが戻る練習をしているわけではない。


 この戦い全体が、戻るために組まれている。


 ガーディアンが蒸気を強く吐いた。


 広間が白く潰れる。


 音が乱れる。


 水音。


 鎧の軋み。


 エレオノーラの呼吸。


 セリーヌの衣擦れ。


 どれも距離が曖昧になる。


 ティアが目を細める。


「蒸気、濃い。切るけど、全部は開けないわ」


 クレスが頷く。


「細くでいい」


 ティアが指を振る。


 風が通った。


 大きく晴らさない。


 細い線を作るだけ。


 門番の脚。


 盾の位置。


 戻り道。


 エレオノーラの足。


 必要なものだけが見える。


「ラハル、左へ寄せろ」


「承知!」


「カイル、右脚2回。戻れ」


「はい!」


 カイルが跳ぶ。


 1撃。


 戻る。


 2撃。


 戻る。


 ガーディアンの右脚に割れが走る。


 ラハルが盾で圧をかける。


 受けない。


 押すのでもない。


 門番の重心を少しずらす。


 クレスはまだ核へ行かない。


 エレオノーラを見る。


「奥方様、立てますか」


「立てます」


「戻りますか」


 エレオノーラは口を開いた。


 白い湯気が流れる。


 門番の核がまた見えた。


 手が震える。


 セリーヌがそれを見る。


 エレオノーラは、自分で息を吸った。


「いいえ。まだ、戻れます」


 クレスは頷く。


「なら、終わらせます」


 声が変わった。


 静かだが、速い声。


 冒険者たちへの指示が飛ぶ。


「ラハル、右へ流せ。受けるな」


「応!」


「カイル、膝。深追いなし」


「了解!」


「ティア、核まで1本」


「分かったわ」


「セリーヌ様、奥方様の右手と呼吸を見ていてください」


「はい」


「奥方様、足を動かさず、息を止めないでください」


「はい」


 門番が動く。


 腕が振り上がる。


 ラハルの盾が、今度は最初から流す角度で構えられる。


 衝撃が盾の面を滑る。


 床が鳴る。


 エレオノーラの足元へ揺れが来る。


 だが、小さい。


 ティアの魔力が床を撫で、濡れた石の滑りを1瞬だけ殺す。


 カイルが右膝へ入る。


 深く。


 でも、すぐ戻る。


 外殻が割れる。


 ガーディアンの巨体が傾く。


 湯気が大きく乱れる。


 核が見えた。


 青白い光。


 勝利の位置。


 同時に、欲を引っ張る光。


 クレスが動いた。


 速い。


 でも、遠くへ飛びすぎない。


 一直線ではない。


 エレオノーラの視界から完全には消えない軌道。


 カイルが横を塞ぐ。


 ラハルが腕を流す。


 ティアの細い風が核までの線を作る。


 クレスの剣が、その線を通った。


 青白い核に刃が届く。


 硬い音。


 割れる音。


 ガーディアンの外殻が震えた。


 白い蒸気が一気に噴き出す。


 広間が真っ白になる。


 その中で、クレスの声が聞こえた。


「動くな。確認」


 勝った直後の声だった。


 歓声ではない。


 確認の声。


 ラハルが盾を下げない。


 カイルが飛び出さない。


 ティアがエレオノーラとセリーヌを見る。


 セリーヌがすぐに言う。


「奥方様、立っています。呼吸、浅いですが止まっていません。右手、震えあり」


 ティアが頷く。


「奥方様」


 エレオノーラは白い湯気の中で答えた。


「立っています。戻ります、ではありません」


 クレスが言う。


「確認しました」


 蒸気が薄れていく。


 ホットスプリングガーディアンの外殻は崩れていた。


 青白い核は砕け、白い鉱物片が床に散っている。


 門番は倒れた。


 だが、誰もすぐに湯溜まりへ走らなかった。


 クレスがもう1度言う。


「確認してから進みます」


 それが、この護衛戦の勝利の形だった。




 湯溜まりは、静かだった。


 白い湯気の奥に、温かな水面がある。


 戦闘の熱とは違う。


 柔らかい熱。


 エレオノーラはその前で、しばらく動かなかった。


 欲しかった場所。


 手袋を外した理由。


 戻りますを覚えた理由。


 第3層と第4層を歩いた理由。


 門番の前で息を吸った理由。


 その全部が、湯気の中にあった。


 たどり着いたのに、彼女はすぐに手を伸ばさなかった。


 セリーヌも同じだった。


 2人とも、水面を見ていた。


 まるで、湯そのものより、そこへ来るまでに置いてきた息を数えているようだった。


 ティアが静かに言う。


「女性から入ります。長湯はしない。効果確認をしたら帰ります」


 エレオノーラは少しだけ笑った。


「ここまで来ても、厳しいのですね」


「ここまで来たから厳しいのよ」


 男性陣は見張りに回った。


 視線は湯溜まりへ向けない。


 クレス、ラハル、カイルは入口側と戻り道を見る。


 ティアがエレオノーラとセリーヌを湯へ案内する。


 エレオノーラは薄い手袋を外した。


 湯に手を沈める。


 最初は、ただ温かいだけだった。


 次に、指先のこわばりがほどけた。


 親指の付け根の硬さが、少しやわらぐ。


 人差し指の細いひびが、目立たなくなる。


 肌の色が、無理に塗ったものではなく、内側から少し戻る。


 エレオノーラは息を呑んだ。


「これは」


 ティアがすぐに言う。


「治癒ではないわ。若返りでもない。深い傷や病を治すものでもない。表面の荒れ、血色、髪のきしみ。その程度よ」


「その程度」


 エレオノーラは自分の手を見る。


「その程度が、欲しかったのです」


 ティアは少しだけ黙った。


「そう」


 セリーヌも湯に手を入れていた。


 彼女は声を出さなかった。


 自分の指先を見ている。


 いつも奥方の髪を整え、衣装を整え、手袋を用意してきた手。


 人の前に出る手ではない。


 見せるための手ではない。


 けれど、荒れないわけではない。


 疲れないわけでもない。


 セリーヌはその手を湯の中で開いた。


 湯が指の間を通る。


 震えの残りが、少しずつほどける。


 誰もすぐには喋らなかった。


 湯気だけが揺れた。


 さっきまで門番の蒸気に押し潰されていた白とは違う。


 今の白は、隠すためではなく、少しだけ休ませるためにあるように見えた。


 エレオノーラが、湯の中のセリーヌの手を見る。


「あなたも、隠していたのですね」


 セリーヌは目を伏せる。


「侍女も、隠します」


 前の言葉の形を変えた返事だった。


 貴族も、隠す。


 侍女も、隠す。


 それを、湯が少しだけほどいている。


 エレオノーラは、すぐには返さなかった。


 湯の中で、自分の手を見た。


 それから、セリーヌの手を見た。


「私は、自分の手だけを見ていました」


「奥方様」


「あなたが隠していることも、ベルノが隠していることも、見ないでいたのかもしれません」


 セリーヌは首を横に振る。


「お役目です」


「役目で隠すことと、何もないことは違うでしょう」


 セリーヌは答えられなかった。


 湯が静かに揺れる。


 エレオノーラは続けない。


 責めない。


 ただ、湯の中で自分の手をゆっくり開いた。


 湯に入ったから、全部が解決するわけではない。


 夜会はある。


 帳簿もある。


 手紙もある。


 社交も、家の面子も、見られる場もなくならない。


 だが、この手を一度見せた。


 戻りますと言った。


 門番の前で息を吸った。


 今、湯に沈めている。


 それだけは、残る。


 セリーヌが小さく言った。


「奥方様」


「何かしら」


「戻ったら、記録を受けてくださいませ」


 エレオノーラは、ほんの少しだけ笑った。


「ええ。受けます」


「私も受けます」


「ええ」


 その短いやり取りだけで十分だった。


 ティアが少し間を置いてから言う。


「効果確認は十分。上がるわ」


 エレオノーラは水面を見た。


 名残惜しさが顔に出る。


 だが、もう少しだけ、とは言わなかった。


「はい」


 湯溜まりでの時間は短かった。


 それでよかった。


 湯は報酬だ。


 だが、帰るまでが迷宮だ。


 エレオノーラは湯から上がり、髪に手を触れた。


 重さが少し軽い。


 指通りが違う。


 目元の疲れまでは消えない。


 だが、見られることに耐える力が少し戻ったように見えた。


 彼女はそれを喜びすぎなかった。


 ただ、静かに息を吸った。


「帰りましょう」


 ティアが答える。


「ええ」


 帰還路を使い、同行組は第1層へ戻った。




 第1層で待っていたベルノは、エレオノーラの姿を見た瞬間、深く頭を下げた。


 顔は整えている。


 だが、指先が少しだけ震えていた。


 家令も隠す。


 たぶん、そういうことなのだろう。


 エレオノーラは、ベルノの前で止まった。


 湯溜まりへ届いた。


 門番を越えた。


 手も髪も、少し変わった。


 それでも最初に言ったのは、そのことではなかった。


「戻りました」


 ベルノは、深く、深く頭を下げる。


「奥方様。よくお戻りになりました」


 その言葉で、第1層の空気が少しだけほどけた。


 湯溜まりへ届いたことより先に、戻ったことを確認する。


 それが、この迷宮での順番だった。


 マイラが近づく。


「奥方様。救護席で確認を受けてください」


 ベルノが1瞬だけ表情を動かした。


 貴族の奥方が、冒険者たちの見える場所で救護席に座る。


 前なら、そこで空気が止まったかもしれない。


 だが、エレオノーラは自分から頷いた。


「先に確認を受けます」


 セリーヌも続く。


「私も受けます」


 マイラは記録板を開く。


「順番に確認します」


 エレオノーラは救護席に座った。


 石の講習席でも、貴族家の椅子でもない。


 迷宮から戻った者の席。


 淡い光が、足と肩の緊張を少しずつほどく。


 エレオノーラは自分の手を見る。


 湯で整った手。


 それでも、完全ではない手。


 その手を隠さず、マイラに見せた。


「指先の震えは、今はありません。呼吸も戻りました。足は、少し疲れています」


 マイラが記録する。


「確認しました」


 セリーヌも座る。


「指の震えは、湯溜まり後に軽くなりました。ですが、門番戦中は震えました」


「記録します」


 ティアが横で静かに言う。


「よく申告できたわ」


 セリーヌは少しだけ驚いた顔をした。


「ありがとうございます」


 そこで、カイルが小声で言った。


「オレも前に出すぎなかったんだけど」


 ティアは見もせずに答える。


「それは次も続けなさい」


「褒めてはくれない感じ?」


「今ので褒めたつもりよ」


「分かりにくいなあ」


 小さく笑いが起きた。


 笑いはそれだけで十分だった。


 グラントがベルノへ記録を確認する。


「第5層門番戦、護衛対象同行。湯溜まり到達。帰還後、救護席確認。記録として残します」


 ベルノは頷く。


「お願いします」


 ベルノはエレオノーラを見る。


 エレオノーラは救護席に座ったまま、自分の髪を少しだけ触っていた。


 それを見たベルノの目が、ほんの少し柔らかくなる。


「奥方様。男爵様への説明は、私が整えます」


 エレオノーラは笑った。


「琥珀の雫もあります」


「はい」


「紅肌の雫も、買い取った分があります」


「はい」


「ですが、最初に伝えるのは、湯の効果ではありません」


 ベルノは静かに答える。


「お戻りになったこと、でございますね」


「ええ」


 その言葉に、マイラの筆が止まった。


 少しだけ。


 それから、また記録が進む。


 エレオノーラは第5層湯溜まりへ届いた。


 だが、今日の成果は湯に入ったことだけではない。


 門番の前で立ち、戻る言葉を持ったまま勝ち、戻ってから自分で救護席に座った。


 そこまでが、今日の踏破だった。




 黒い水膜の前で、俺は長く息を吐いた。


「勝ったな」


『ええ。守りながら勝ったわ』


「普通に倒すより疲れた」


『貴方は見ていただけでしょう』


「見てるだけでも、胃に来るんだよ」


『気分だけで済めばいいわね』


「ほんとにね」


 ホットスプリングガーディアンは、倒された。


 でも、今日の門番戦は今までと違った。


 核が見えても、すぐ行かない。


 倒せる瞬間でも、戻り道を見る。


 ラハルが受けたいのを流す。


 カイルが飛びたいのを戻る。


 ティアが湯気を全部晴らさず、必要な線だけ作る。


 クレスが倒すより先に、エレオノーラの呼吸を確認する。


 セリーヌが震えを申告する。


 エレオノーラが、戻りますを持ったまま立つ。


 それで勝った。


 ただ強いだけではない。


 戻れる形のまま勝った。


 表示が浮かぶ。


【貴族本人の第5層門番戦同行を確認】


【護衛対象を守りながらの門番撃破を確認】


【撤退申告語「戻ります」の保持を確認】


【湯溜まり到達を確認】


【湯溜まり効果確認を確認】


【帰還後、貴族本人の救護席使用を確認】


【侍女長の震え申告、救護席使用を確認】


【獲得DP:1880】


【現在DP:22656】


「超えたな」


『ええ』


 第6層を作るために考えていた数字。


 それを超えた。


 今なら作れる。


 でも、俺は水膜の向こうを見た。


 救護席に座るエレオノーラ。


 その横に座るセリーヌ。


 ベルノが記録を受け取っている。


 クレスたちが武器を下ろし、ようやく少し息を抜いている。


 第5層の湯気の奥から戻ってきた人たちが、まだ第1層の水音の中にいる。


「今日は作らない」


『そう言うと思ったわ』


「今作ったら、今日の話が霧に食われる」


『貴方らしい言い方ね』


「門番の前で戻る形を作って、湯溜まりへ届いた。それをちゃんと終わらせたい」


『それでいいわ』


 ヴェルティアの声は、不思議と穏やかだった。


『第6層は逃げないもの』


「迷宮なのに?」


『迷宮だからよ』


 俺は少し笑った。


 水膜の向こうでは、エレオノーラが救護席から立ち上がろうとして、マイラに止められていた。


「まだです」


「もう大丈夫です」


「確認が終わっていません」


「……はい」


 エレオノーラが素直に座り直す。


 その手は、もう隠されていなかった。


 清水の迷宮は、今日も第6層を作らない。


 だが、作るだけの力はもうある。


 それでも今日は、湯気の奥から戻ってきた者たちを見ていた。


 奥へ進む理由は増えた。


 でも、それ以上に、戻る理由も増えた。


 次に霧を作る時。


 その霧は、今日の湯気を覚えているはずだった。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回はエレオノーラの第5層本番護衛、門番戦、湯溜まり到達、そして帰還後の救護席確認までを描きました。

第5層は突破されましたが、今回の成果は湯に入ったことだけではなく、守りながら勝ち、戻ってから確認を受けたことでもあります。


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