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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第63話 雫は屋敷で静かに光る



ーーーーside エレオノーラ


 リューベック男爵家の屋敷へ戻ってから、最初に騒いだのは侍女たちではなかった。


 夫だった。


「エレオノーラ」


 玄関広間で私を出迎えた夫は、いつもの落ち着いた顔をしていた。


 けれど、視線は正直だった。


 髪。


 手。


 頬。


 歩き方。


 その順番で見た。


 夫婦でなければ見逃す程度の違いかもしれない。


 髪の重さが少し抜けたこと。


 手袋をしていない右手の色が、前より自然に見えること。


 疲れそのものは消えていないのに、人前へ出るための力が少し戻っていること。


 夫は、それを見た。


 そして、すぐには何も言わなかった。


 私は先に頭を下げた。


「戻りました」


 夫の表情が、そこで変わった。


 湯の効果を見る顔ではなくなった。


 私が迷宮から帰ったことを受け止める顔になった。


「よく戻った」


「はい」


 その言葉を聞いて、私はようやく自分が屋敷へ戻ってきたのだと感じた。


 ベルノが後ろで記録を持っている。


 セリーヌは少し控えた位置にいる。


 彼女の手も、昨日までとは少し違う。


 目立つほどではない。


 けれど、長く屋敷で働く者なら気づく。


 侍女たちは気づいていた。


 気づいて、見ないふりをしていた。


 それが、ありがたかった。


 応接室へ移ると、ベルノが記録を広げた。


 第3層。


 第4層。


 第5層入口。


 撤退申告語、戻ります。


 門番戦。


 湯溜まり。


 帰還。


 救護席確認。


 夫は記録を最後まで読んだ。


 それから、静かに言う。


「これは、美容の話ではないな」


「はい」


 私は頷いた。


「最初に伝えるべきことは、湯の効能ではありません。私は、戻りました」


「そのようだ」


 夫は琥珀の雫の小瓶を見た。


 深い色の液体が、光を受けて小さく揺れる。


「これが、第4層の報酬か」


「ええ」


「香りだけで分かる。高い酒だ」


「酒としても価値はあります。ただ、酒としてだけ扱うと、意味を間違えます」


 夫は私を見る。


「迷宮の報酬だからか」


「はい」


 私は買い取った紅肌の雫と琥珀の雫を、テーブルの上に並べた。


 護衛冒険者たちから、2割増で買い取ったもの。


 男爵家の資産として記録されたもの。


 だが、しまい込むために買ったわけではない。


「使い道を決めたいと思います」


 夫が頷く。


「考えはあるのだな」


「侯爵家へお渡しします」


 夫の眉がわずかに動いた。


「侯爵家へ」


「デビュタントを控えるご令嬢がいらっしゃいます。今は少し体調を崩していると聞きました」


「その話は聞いている。だが、体調を崩している相手に紅肌の雫か」


「だからこそ、説明を添えます」


 私は紅肌の雫を1本手に取った。


 淡い赤み。


 血色を整え、くすみを和らげる雫。


 しかし、病を治すものではない。


 傷を消すものでもない。


「これは薬ではありません。体調を治すものではない。けれど、デビュタントを前にしたご令嬢にとって、血色や肌のくすみを整えることには意味があります」


 夫は少し考える。


「侯爵本人には」


「琥珀の雫を」


 夫は小さく息を吐いた。


「贈答としては、格がある」


「ええ。ただし、ただの珍しい酒としては渡しません」


「迷宮の報酬として、か」


「はい。清水の迷宮は、都合よく願いを叶える場所ではない。そう伝えるためにも」


 夫はしばらく黙った。


 それからベルノへ目を向ける。


「手配できるか」


 ベルノが頭を下げる。


「侯爵家への訪問調整、贈答記録、品目説明書、すべて整えます」


「セリーヌ」


 私が呼ぶと、セリーヌが前へ出た。


「はい」


「あなたも来なさい」


「私も、でございますか」


「ええ。紅肌の雫と湯溜まりの違いを説明する時、あなたの記録も必要になります」


 セリーヌは少しだけ自分の手を見た。


 湯で整った指。


 それでも、完全ではない手。


「承知しました」


 私は頷いた。


 迷宮から戻った雫は、屋敷の棚で終わらせない。


 ただし、欲しがる相手へ軽く渡すこともしない。


 説明と一緒に渡す。


 それが、湯気の奥から持ち帰った者の責任だと思った。




 侯爵家の応接室は、広かった。


 リューベック男爵家のものより、調度も壁の絵も重い。


 置かれている椅子も、机も、香も、すべてがこちらへ立場の違いを知らせてくる。


 けれど、不思議と足はすくまなかった。


 第5層の床の方が、ずっと滑った。


 湯気の方が、ずっと視界を奪った。


 門番の腕の方が、ずっと重かった。


 ここは迷宮ではない。


 戻り道は、見える。


 侯爵は、落ち着いた方だった。


 年齢は夫より上。


 声は低く、動きは少ない。


 ただ、視線はよく動く。


 私の手。


 セリーヌの手。


 ベルノが持つ箱。


 すべてを見ていた。


「清水の迷宮から戻られたと聞いた」


「はい。第5層の湯溜まりまで到達し、戻りました」


「第5層か」


 侯爵はその言葉だけを静かに繰り返した。


 私は、第3層、第4層、第5層入口、門番戦、湯溜まり、帰還後の確認について話した。


 侯爵は途中まで口を挟まなかった。


 だが、湯溜まりの効果に話が移った時、初めて少しだけ身を乗り出した。


「その湯は、どの程度まで整える」


「髪のきしみ、肌表面の荒れ、手肌の乾き、血色の沈み。そうした表面の不調です」


「表面か」


「はい」


「深いものには届かぬ」


 問いというより、確認だった。


 私は頷く。


「届きません」


 侯爵は少し黙った。


 ここで、最初のずれが生まれた。


 侯爵が欲しがっているのは、美容の話だけではない。


 少なくとも、そう見えた。


 私は紅肌の雫を出す前に、言葉を選んだ。


 父親として、娘に渡す前に自分が確かめておきたいのだろう、と思った。


 何を確かめたいのかは、聞かなかった。


 ベルノが箱を開ける。


 中には紅肌の雫と琥珀の雫。


 紅肌の雫は、ご令嬢へ。


 琥珀の雫は、侯爵本人へ。


 そう記録された品だ。


 侯爵の視線が、まず紅肌の雫へ向いた。


「娘は、今日は出られぬ」


「伺っております。ご体調を崩されていると」


「デビュタントを前にしている。少し焦ってもいる」


 侯爵の声に、父親としての色が混ざった。


 強い方だ。


 それでも、娘のことになると少しだけ違う。


 私は紅肌の雫を箱から取り出す。


「こちらをご令嬢へお預けいたします。ただし、先に申し上げます。これは体調を治す薬ではございません」


 侯爵の視線が止まる。


「病には効かぬか」


「効きません」


「熱や疲労は」


「治せません。休養と医師の判断が必要です」


「傷は、治せぬのか」


 侯爵は、ほんのわずかに視線を落とした。


 手ではなく、少し遠いところを見る目だった。


「治せません」


 私はゆっくり答えた。


「紅肌の雫は、肌の血色やくすみを整えるものです。深い傷も、傷跡も、病も治せません。若返りでもありません」


 侯爵は黙っていた。


 落胆はあった。


 けれど、不快ではない。


 期待したものと違ったと知った時の、静かな落ち方だった。


 私は言葉を続ける。


「ですが、デビュタントを控えるご令嬢にとって、血色が整うこと、顔色の沈みが和らぐことには意味があると思います。ただし、体調が戻ってからお使いください。弱っている時に無理をして社交の場へ出るためのものではありません」


 侯爵の視線が私へ戻る。


「そこまで言う贈り物は珍しい」


「迷宮産の報酬ですので」


「売り文句より、注意書きが先か」


「はい」


 侯爵は、少しだけ口元を動かした。


 笑みというには小さい。


 けれど、空気がわずかに緩んだ。


「分かった。娘には、そう伝える。体調が戻ってから使わせる」


 その言葉で、紅肌の雫の話は終わった。


 それ以上、私は踏み込まなかった。


 次に、琥珀の雫を差し出す。


「こちらは侯爵閣下へ」


 侯爵は瓶を受け取る。


 濃い琥珀色の液体が、小さく揺れた。


 栓を開けなくても、香りの深さが伝わるようだった。


「酒か」


「高級な酒に近いものです。量は多くありません。ですが、第4層の報酬として得られる品です」


「飲めば分かる品だろうな」


「味より先に覚えていただきたいのは、これは第4層の報酬だということです」


 侯爵は瓶を光に透かした。


「紅肌の雫は、傷を治せない。琥珀の雫は、酒ではあるが、ただの酒ではない」


「はい」


「清水の迷宮は、都合のよい奇跡だけを寄越す場所ではないのだな」


「その通りです」


 私は頷いた。


「願えば叶う場所ではありません。戻ってこられる者だけが、報酬を持ち帰ります」


 侯爵は琥珀の雫を箱へ戻した。


 その扱いは丁寧だった。


 珍しい酒への扱いではない。


 意味を受け取った品への扱いだった。


「リューベック男爵夫人」


「はい」


「この品を受け取ろう。娘への紅肌の雫も、私が預かる。ただし、娘には効能より先に危険の話をする」


「ありがとうございます」


 私は、深く頭を下げた。


 侯爵は、それ以上この場で湯溜まりの話を広げなかった。


 だから、私も広げなかった。


 紅肌の雫は、侯爵令嬢の手に渡る前に、侯爵の理解を通った。


 琥珀の雫は、ただの珍しい酒ではなく、迷宮の報酬として受け取られた。


 それで十分だった。


 侯爵家の応接室を出る時、ベルノが小さく言った。


「奥方様。よいお渡しでございました」


 私は首を横に振った。


「まだ分かりません」


「はい」


「けれど、軽くは受け取られませんでした」


「それは、確かでございます」


 私は廊下の先を見る。


 この屋敷のどこかに、デビュタントを控えた令嬢がいる。


 今日は姿を見せなかった。


 紅肌の雫が彼女にどう届くのかも、まだ分からない。


 ただ、少なくともその前に、父親が危険の話を聞いた。


 それだけは残った。


 清水の迷宮の水音は、屋敷の中で少しだけ形を変えた。




ーーーーside 大地


 俺に見えるのは、迷宮の中だけだ。


 侯爵家の応接室で何が話されたのかは知らない。


 エレオノーラがどんな顔で雫を渡したのかも知らない。


 侯爵がどんな声で受け取ったのかも知らない。


 それが分かったのは、別の形になってからだった。


 第1層の仮受付に、侯爵家の封蝋が付いた文書が届いた。


 持ってきたのは、侯爵家の使者だった。


 無茶な依頼ではない。


 いきなり湯溜まりへ連れていけ、でもない。


 まずは問い合わせ。


 グラントが文書を開き、仮受付の机で内容を確認する。


 オルド村長も同席している。


 マイラは救護席の記録を持ってきた。


 文書には、こうあった。


 紅肌の雫を受領したこと。


 琥珀の雫を受領したこと。


 紅肌の雫について、効果範囲の確認を求めること。


 病、深い傷、傷跡、体調不良への効果はないと聞いているが、相違ないか。


 琥珀の雫は、第4層報酬として扱うべき品であり、通常の酒として流通させない理解でよいか。


 湯溜まりは第5層報酬であり、浴場ではないという理解でよいか。


 第5層同行条件、門番戦、帰還後の確認、救護席使用条件について、商人ギルドの記録と照合したい。


 そこまで読まれて、ようやく俺は知った。


 紅肌の雫と琥珀の雫は、侯爵家へ渡っていた。


 そして、ただの贈り物としては受け取られなかったらしい。


「ちゃんと確認に来たな」


『ええ。外で何があったかは見えなくても、入口へ来た文書は見えるわ』


「そこ大事だよな」


『貴方は迷宮の内側の存在だもの』


 ヴェルティアの言い方は、いつもより少し静かだった。


 俺は文書の一文を見る。


 病、深い傷、傷跡、体調不良への効果はないと聞いているが、相違ないか。


「傷は治せない、か」


 俺は小さく呟いた。


 紅肌の雫を作った時、そこははっきり線を引いた。


 血色。


 くすみ。


 肌表面の調子。


 美容寄りの報酬。


 傷や病を治すものではない。


 便利すぎる奇跡にすると、第3層の重さが変わってしまう。


 それに、治療なら治療の場所がある。


 救護席もある。


 治癒役もいる。


 全部を1本の雫に背負わせるのは違う。


 でも、人間は期待する。


 傷は治せないか。


 病は治せないか。


 大事な人を元気にできないか。


 その気持ちは、分かる。


 分かるからこそ、線を引かないと危ない。


『貴方、少しだけ沈んだわね』


「そりゃ沈むよ」


『報酬の限界を決めたのは貴方よ』


「うん。だから沈むんだよ」


 万能にできない。


 万能にしない。


 それを決めた側にも、少しだけ重さは残る。


 水膜の向こうでは、グラントが使者へ丁寧に答えている。


「紅肌の雫は、血色とくすみ、肌表面の調子を整えるものです。病、深い傷、傷跡、体調不良を治すものではありません」


 使者が頷く。


「承知しました。文書に残します」


 マイラが救護席の記録を開く。


「救護席も万能治療ではありません。軽傷、疲労、震え、軽い火傷や擦り傷への補助です。重篤な傷や病の治療保証はありません」


「それも、確認いたします」


 使者は驚かなかった。


 がっかりした顔もしなかった。


 ただ、紙に落としていく。


 欲ではなく、確認を持って来た使者だった。


 それだけで、少し呼吸が楽になった。


 表示が浮かぶ。


【侯爵家使者の来訪を確認】


【紅肌の雫、琥珀の雫の受領確認文書を確認】


【紅肌の雫の効果範囲確認を確認】


【報酬の限界、危険、帰還条件への問い合わせを確認】


【湯溜まりを浴場ではなく第5層報酬として扱う認識を確認】


【獲得DP:620】


【現在DP:23276】


「増えた」


『外のやり取りではなく、入口へ届いた認識に反応したのね』


「分かりやすいな」


『分かりやすい方がいいでしょう』


 俺は水膜を見る。


 紅肌の雫は、まだ姿を見せていない侯爵令嬢のもとへ向かう。


 琥珀の雫は、侯爵本人の手に渡った。


 俺が知っているのは、文書に書かれたそこまでだ。


 傷は治せない。


 病も治せない。


 都合のいい奇跡ではない。


 それでも、人は欲しがる。


 だからこそ、説明がいる。


 そして今、その説明を求める文書が入口まで来ている。


 エレオノーラは、湯溜まりへ届いた人になった。


 でも、それだけではない。


 少なくとも、彼女が持ち帰った記録は、侯爵家の文書になって第1層へ戻ってきた。


 それは大きい。


 清水の迷宮の報酬は、屋敷の中で終わらなかった。


 紅肌の雫は、デビュタント前の令嬢へ。


 琥珀の雫は、侯爵の手へ。


 そして、その確認は、また第1層へ戻ってきた。


 水は巡る。


 欲も巡る。


 だから、迷宮は入口で待つ。


 進む者を選ぶために。


 戻る者を記録するために。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、エレオノーラが持ち帰った紅肌の雫と琥珀の雫が、侯爵家へ渡る回でした。

紅肌の雫はデビュタントを控える令嬢へ、琥珀の雫は侯爵本人へ。

ただし、傷や病を治すものではないという限界も、きちんと説明されました。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

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