第61話 奥方様、湯気の手前で戻る
講習席は、今日も硬かった。
石の席。
背もたれは低い。
貴族家の応接室にあるような柔らかな椅子ではない。
水音が近い。
仮受付が見える。
救護席も見える。
第5層入口も見える。
座れば、全部が視界に入る。
逃げ場の少ない席だ。
リューベック男爵夫人エレオノーラは、その席の前で足を止めていた。
昨日、彼女は手袋を外した。
戻ります、という言葉も決めた。
だが、この席にはまだ座っていない。
今日は、その続きだった。
セリーヌが横に立つ。
ベルノ家令は少し後ろに控えている。
グラントは仮受付側。
マイラは記録板を持っている。
クレスとカティアも、第1層にはいた。
ただし、今日の護衛が決まっているわけではない。
まだ、誰がどこまで付き添うのか。
誰が奥方を止めるのか。
誰が報酬を扱うのか。
それも含めて、今日決める予定だった。
エレオノーラは講習席を見下ろし、小さく言った。
「思っていたより、硬い席ですのね」
カティアが即座に言う。
「第5層の床は、もっと優しくねえよ」
エレオノーラはカティアを見る。
不快そうではなかった。
むしろ、昨日より少しだけ慣れた顔だった。
「では、今のうちに慣れておきます」
そう言って、エレオノーラは座った。
葡萄色の外套の裾を整える。
背筋は伸びたまま。
顎も上がりすぎない。
貴族の奥方の姿勢で、冒険者の講習席に座った。
周囲の冒険者たちが、少しだけ静かになる。
ベルノが息を止めた。
セリーヌも、手を前で重ねたまま目を伏せた。
メリダが席の前に立つ。
「じゃあ、今日はまず言葉の確認だよ」
「はい」
「昨日決めた言葉。覚えてるね」
エレオノーラは少しだけ顎を引いた。
「戻ります」
声は小さい。
でも、はっきりしていた。
マイラが記録する。
奥方本人、撤退申告語を再確認。
戻ります。
メリダは頷く。
「いいねえ。それは、怖いって言葉の代わりにもなる。体調が怪しい時にも使える。続けていいか迷った時にも使える。口にしたら、周りは進ませない」
「分かっています」
「分かった顔してる時が、1番危ないんだけどねえ」
カティアが横からぼそっと言う。
「それはあたしの台詞だろ」
エレオノーラはそちらを見る。
「では、分かっていない顔を練習します」
「そういう返しは上手くならなくていい」
少しだけ笑いが起きた。
だが、すぐに水音へ戻る。
今日決めるべきことは、まだ重い。
湯溜まりへ行きたい。
だが、第5層の奥へいきなり連れていくには早い。
その空気を、誰も口に出しきれずにいた。
そこで、壁際から声が上がった。
「なら、第3層と第4層を歩かせた方がいい」
振り向いたのは、昨日第5層湯溜まりまで到達した組だった。
Bランク盾役のギード。
Cランク槍使いのラナック。
Cランク斥候のミリア。
Cランク魔術士のテオル。
Cランク治癒役のイーリス。
派手さはない。
だが、門番を倒し、湯溜まりへ届き、無理に長居せず戻ってきた組だ。
最初から彼らが護衛に決まっていたわけではない。
ただ、講習席でのやり取りを聞いて、前に出てきた。
ギードはエレオノーラではなく、まずクレスを見た。
「第5層の湯溜まりは、まだ早いと思う」
クレスは短く返す。
「理由は」
「奥方様は戻りますを決めた。でも、迷宮の中で報酬を見て止まる感覚をまだ知らない。第5層で初めてやるには重すぎる」
クレスは黙って聞く。
ギードは続けた。
「まず第3層と第4層を歩いて、迷宮がどういう場所か見た方がいい。戻り道を見てから報酬を取る。報酬を持って戻る。その感覚を先に入れた方がいい」
メリダが小さく笑った。
「いいねえ。まともなことを言う盾役は、貴重だよ」
ラナックが横で肩をすくめる。
「こいつ、昨日から盾みたいなことしか言わねえ」
「盾役だ」
ギードは短く返し、それからベルノへ向き直った。
「ただし、無料ではやらない」
ベルノの目が少し鋭くなる。
家令の目だ。
「条件を伺いましょう」
ギードは言った。
「俺たちが道中で取得した紅肌の雫と琥珀の雫を、少し色をつけて買い取ってくれ」
エレオノーラがわずかに首を傾げる。
「あなた方が取得した分を、ですか」
「ああ。奥方様が自分で取得した分は、奥方様のものだ。使うなり持ち帰るなりすればいい。俺たちの分を買い取ってくれれば、それを今日の護衛報酬にできる」
ベルノが即座に問う。
「買い取り額は」
ギードはグラントを見る。
グラントが少し考え、穏やかに答えた。
「通常相場の2割増が妥当でしょう。護衛料として別途高額を設定するより、取得物の買い取りとして記録できます」
ベルノはすぐに紙を求めた。
仮受付の職員が記録紙を用意する。
グラントが条件を整理する。
「護衛冒険者が道中で取得した紅肌の雫、琥珀の雫を、男爵家が通常相場の2割増で買い取る」
「エレオノーラ様ご本人が取得した紅肌の雫、琥珀の雫は、ご本人のもの」
「セリーヌ様が取得した分も、ご本人側のもの」
「第5層は入口確認まで。門番戦は行わない」
「第5層入口で奥方様が戻りますと申告した場合、即撤退」
ベルノは1つずつ頷く。
「通常の護衛料より、取得物が残る形ですな」
グラントは頷いた。
「はい。買い取った紅肌の雫は、男爵家の資産になります。社交上の贈り物にも、屋敷内での褒美にも使えるでしょう。琥珀の雫も、男爵様への説明や客人向けの品として価値があります」
ベルノはエレオノーラを見る。
「奥方様。支払いの説明はしやすい形です」
エレオノーラは少し考えた。
「私が取得した紅肌の雫は、私が使います」
セリーヌが頷く。
「はい」
「あなたの分は、あなたが使いなさい」
セリーヌが驚いた。
「私の分も、でございますか」
「同行するのでしょう?」
「はい」
「なら、取得するのでしょう。手を見せるのは、私だけではないはずです」
セリーヌは、何か言いかけてやめた。
「ありがとうございます」
エレオノーラは続ける。
「買い取った紅肌の雫は、屋敷で相談しましょう。娘に見せれば欲しがるでしょうし、長く仕えてくれている者へ渡してもよい。ほかの夫人への贈り物にもなるかもしれません」
ベルノが深く頷く。
「では、男爵家として、その条件を認めます」
ギードは短く言った。
「それなら受ける」
クレスがギードを見る。
「第5層入口で欲を出すなよ」
「出さねえよ」
「出たら戻れ」
「分かってる」
「奥方様じゃなくて、お前が戻れ」
ギードは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ口元を歪めた。
「それも分かってる」
カティアが鼻で笑う。
「分かってる奴ほど、もう1回言われるんだよ」
ギードは反論しなかった。
エレオノーラは、そのやり取りを見ていた。
貴族に向ける言葉ではない。
冒険者同士の、少し荒い確認。
でも、そこには命の重さが混ざっている。
エレオノーラは薄い手袋をした手を、膝の上で重ね直した。
第3層、藻の迷路。
エレオノーラは最初の数歩で、すぐに歩き方を変えた。
第1層の床とは違う。
足元が柔らかい。
滑る。
視界の端で藻が揺れ、道が微妙に曲がって見える。
水の匂いは清水の間より濃く、足音は少し吸われる。
ギードが前に立つ。
ラナックは少し横。
ミリアが戻り道を確認する。
テオルは魔力を抑え、イーリスはエレオノーラとセリーヌの後ろに立つ。
エレオノーラは、ほとんど喋らなかった。
息が上がっているわけではない。
だが、口を開く余裕がないのだろう。
藻の迷路は、第5層ほどの熱も湯気もない。
それでも、初めて入る者にとっては十分に迷宮だった。
ミリアが短く言う。
「奥方様、右に寄りすぎです。足元、藻の下が少し沈みます」
エレオノーラは止まる。
「ここですか」
「はい。踏まずに左へ」
エレオノーラは言われた通りに足を置いた。
セリーヌが後ろで同じ場所を踏みかける。
イーリスが手で止めた。
「侍女長様も、同じです」
「申し訳ありません」
「謝るより、足です」
イーリスの声は柔らかいが、迷いはない。
セリーヌは小さく頷き、足元を見る。
やがて、報酬の気配が見えた。
小さな瓶。
紅肌の雫。
淡い赤みを帯びた液体が、迷路の奥の台に置かれている。
エレオノーラの視線が、そこへ吸われた。
その一瞬、足が前に出かける。
ギードが低く言った。
「止まる」
強い声ではない。
命令でもない。
だが、よく通った。
エレオノーラの足が止まる。
ミリアが周囲を見る。
ラナックが横を塞ぐ。
テオルが背後の道を確認する。
イーリスがエレオノーラとセリーヌの顔色を見る。
誰も、すぐ瓶へ手を伸ばさない。
エレオノーラは、小さく息を吐いた。
「見えたら、手が出ますのね」
ギードが答える。
「出る。だから止める」
「今、私は止められたのですね」
「ああ」
「ありがとうございます」
ギードは少しだけ困った顔をした。
「礼は戻ってからでいい」
ミリアが安全を確認する。
「取っていいです」
まず、エレオノーラが紅肌の雫を取得した。
次にセリーヌ。
続いて護衛冒険者たちが、それぞれ自分の分を取得する。
エレオノーラは自分の瓶を見つめた。
欲しかったもの。
でも、思ったより重かったもの。
それを、薄い手袋の手で丁寧に包む。
「飲むのは戻ってからですか」
イーリスがすぐに答える。
「はい。記録後です」
「治癒役の方は、皆さんそうなのですね」
「たぶん、そうです」
少しだけ場が緩んだ。
だが、ギードはすぐに言う。
「戻り道確認。第4層へ進むか、一度戻るか決める」
エレオノーラは顔を上げた。
ミリアが道を見る。
テオルが魔力の残りを確認する。
イーリスがセリーヌの呼吸を見る。
セリーヌは大丈夫だと言いかけて、言葉を止めた。
「呼吸が少し浅いです。疲労か緊張かは、まだ判断できません」
イーリスが頷く。
「確認しました。継続可能。ただし次で悪化したら言ってください」
「はい」
エレオノーラはセリーヌを見た。
セリーヌは目を伏せたが、隠しはしなかった。
ギードがエレオノーラへ聞く。
「奥方様。進みますか、じゃない。戻れますか」
エレオノーラは少しだけ目を伏せた。
それから答える。
「戻れます」
「戻ります、ではないですね」
「はい。今は、戻れます」
ギードは頷く。
「なら、第4層へ行きます」
第4層は、第3層より歩きやすく見えた。
石が乾いている場所が多い。
空気に琥珀のような香りがある。
暗さも重すぎない。
貯蔵庫のような静けさ。
エレオノーラは、最初に少しだけ表情を緩めた。
「こちらの方が、歩きやすいのですね」
ラナックが苦笑する。
「そう見える」
「違うのですか」
ミリアが答えた。
「足場が良い時ほど、目が上がります。目が上がると、戻り道を落とします」
エレオノーラはゆっくり頷く。
「心が滑る、ということですね」
ミリアが少しだけ笑った。
「誰かが言っていましたか」
「ええ。言われそうな気がしました」
セリーヌが後ろで小さく息を吐く。
少しだけ緊張が解けた。
だが、その緊張が解けた分だけ、別のものが浮いた。
香りだ。
琥珀のような、深く甘い香り。
紅肌の雫を見た時とは違う。
琥珀の雫は、自分で使うものというより、誰かに見せるものに見えた。
家へ持ち帰る品。
男爵への説明。
客人への話題。
社交の席で、意味を持つ小瓶。
エレオノーラの視線が、棚の奥へ向かう。
セリーヌの視線も、同じ方向へ向いた。
その指が、手袋の上で小さく震えた。
イーリスは、まだ何も言わない。
だが、見ていた。
ミリアが静かに足を止める。
「報酬が見えます。全員、止まってください」
エレオノーラは、今度は自分で足を止めた。
「はい」
ギードが周囲を見る。
ラナックが横を塞ぐ。
テオルが棚の影を確認する。
イーリスがセリーヌの手を見た。
「侍女長様、指」
セリーヌは一瞬だけ手を握ろうとした。
だが、握らなかった。
「震えています。恐怖か、疲労かは判断できません」
イーリスは頷く。
「記録します。今のところ継続可能。ただし、第5層入口で悪化したら戻ります」
「はい」
エレオノーラはセリーヌを見た。
何か言いそうになった。
しかし、言わなかった。
代わりに、自分の手も見る。
薄い手袋の下で、指先が少し硬くなっていた。
ミリアの確認後、琥珀の雫を取得した。
まずエレオノーラ。
次にセリーヌ。
続いて護衛冒険者たち。
ラナックが自分の瓶を見て言う。
「こいつは、確かに目が上がるな」
ギードが低く言う。
「瓶を見るな。戻り道を見る」
「分かってる」
「分かってるなら瓶をしまえ」
ラナックは瓶をしまった。
エレオノーラはそのやり取りを見ていた。
護衛冒険者も、報酬に目が行く。
欲は自分だけのものではない。
それが分かった顔だった。
そこから第5層入口までの道は、長くなかった。
だが、誰も急がなかった。
エレオノーラも、急がなかった。
セリーヌは時々、自分の指先を見ていた。
イーリスも、それを見ていた。
第5層入口の前で、空気が変わった。
第4層の香りが、熱に押された。
白い湯気が入口の奥から流れてくる。
床は濡れている。
水音が近いのに、清水の間の音とは違う。
こもっている。
熱を含んでいる。
奥の何かが、呼吸しているようにも聞こえる。
エレオノーラは、入口で止まった。
ギードは前へ出ない。
ラナックも槍を構えない。
ミリアは床を見ている。
テオルは風を起こさない。
イーリスはエレオノーラとセリーヌを見ている。
今日は、ここまで。
深くは入らない。
門番の広間どころか、第5層入口の雰囲気を確認するだけだ。
それでも、熱は来る。
湯気は来る。
床の濡れは、足の裏へ情報を送ってくる。
エレオノーラの視線が、湯気の奥へ向いた。
たぶん、湯溜まりを想像したのだろう。
髪。
手。
湯。
効果。
その全部が、白い向こうにある。
だが、同時に別のものもある。
門番。
熱水。
濡れた床。
戻れない欲。
セリーヌの指が震えた。
第4層より、はっきりと。
イーリスが小さく言う。
「侍女長様、震え悪化」
セリーヌは唇を結ぶ。
エレオノーラがそれを見る。
そして、自分の手を見る。
薄い手袋の指先も、少し震えていた。
ギードが言った。
「奥方様。ここで確認です。入りますか、ではありません」
エレオノーラは顔を上げる。
ギードは続ける。
「戻れますか」
白い湯気が揺れる。
エレオノーラは、しばらく答えなかった。
湯気の奥を見た。
足元を見た。
セリーヌの手を見た。
自分の手を見た。
それから、静かに言った。
「戻ります」
声は大きくなかった。
だが、はっきり聞こえた。
ギードは即座に頷く。
「確認しました。戻ります」
誰も説得しなかった。
ラナックも、もう少しだけとは言わない。
ミリアはすぐに戻り道を見る。
テオルは風を起こさず、後方の空気だけ確認する。
イーリスはエレオノーラとセリーヌの間に立つ。
セリーヌが、ほんの少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
エレオノーラは答えない。
答える余裕がないのかもしれない。
でも、足は後ろへ動いた。
自分で戻る足だった。
第1層へ戻った時、ベルノはすぐに立ち上がった。
顔には出さない。
しかし、手に持った条件の写しが少しだけ音を立てた。
エレオノーラは第5層湯溜まりへは届いていない。
第5層の奥へも入っていない。
だが、第3層を踏破し、第4層を踏破し、第5層入口で自分から戻った。
ベルノが深く頭を下げる。
「奥方様。お戻りを確認いたしました」
エレオノーラは少しだけ息を整えてから答える。
「戻りました」
その言葉に、マイラが記録する。
戻ります。
実使用。
第5層入口。
本人申告。
撤退成立。
セリーヌは救護席へ案内された。
「私は」
セリーヌが言いかける。
イーリスが止める。
「指の震えが悪化していました。座ってください」
セリーヌはエレオノーラを見た。
エレオノーラは、少しだけ笑った。
「座りなさい」
「奥方様」
「戻ってから叱られると言ったのは、あなたでしょう」
セリーヌは一瞬だけ困った顔をした。
それから、救護席に座った。
淡い光が、彼女の肩と指先の強張りを少しずつほどいていく。
エレオノーラはそれを見ていた。
自分はまだ座っていない。
でも、止めなかった。
それも、今日の変化だった。
グラントが買い取りの記録を始める。
「では、護衛冒険者取得分の買い取りを確認します」
ギードたちは、それぞれ紅肌の雫と琥珀の雫を取り出した。
男爵家が買い取る分だ。
エレオノーラ本人の分は、彼女の手元に残る。
セリーヌの分も、セリーヌのものとして記録された。
グラントが読み上げる。
「護衛冒険者取得分、紅肌の雫。通常相場に2割上乗せで男爵家買い取り」
ベルノが頷く。
「認めます」
「護衛冒険者取得分、琥珀の雫。同じく通常相場に2割上乗せ」
「認めます」
ラナックが小さく息を吐いた。
「少し色をつけて、って言った割には、ちゃんとした取引になったな」
グラントが微笑む。
「迷宮産の品は、記録がある方が後々強いです」
「商人って感じだな」
「商人ですので」
ベルノがエレオノーラへ問う。
「奥方様。ご自身の紅肌の雫は」
「使います」
即答だった。
「琥珀の雫は」
「夫への説明に使います。第4層まで歩いた証として」
「承知しました」
エレオノーラは少し考え、買い取った紅肌の雫のうち1本を見た。
「これは、屋敷に戻ったら相談しましょう。娘に見せれば、きっと欲しがります。長く仕えてくれている者へ渡してもよいでしょうし、親しい夫人への贈り物にもなります」
セリーヌが救護席で小さく目を伏せた。
自分の分を得たばかりなのに、まだ恐縮しているらしい。
エレオノーラはそれには触れなかった。
代わりに、ギードたちへ向き直る。
「今日は、ありがとうございました」
ギードは少し困った顔をした。
「礼は、戻ったから受け取ります」
「では、改めて。戻してくださって、ありがとう」
ギードは軽く頭を下げた。
「第3層と第4層なら、連れて戻れます。第5層の入口も、見せるところまではできる」
そこで、彼は第5層入口を見た。
「でも、俺たちじゃ護衛しながら、門番と戦うのは無理です」
言い訳ではなかった。
実際に門番を倒した者の線引きだった。
昨日は自分たちだけで戦った。
今日は護衛対象がいる。
貴族の奥方がいる。
侍女長がいる。
守りながら戦うなら、話が変わる。
ギードはクレスへ向いた。
クレスは仮受付の横に立っていた。
同行していない。
ただ、戻りを見ていた。
ギードが言う。
「クレス。第5層の奥は、俺たちじゃ無理だ。あとは任せた」
クレスは短く頷いた。
「ああ。よく戻した」
ギードは少しだけ目を逸らす。
「褒めるな」
「褒めてない。確認だ」
「似たようなもんだろ」
「違う」
冒険者同士の短いやり取りだった。
エレオノーラはそれを見ていた。
クレスが今度は彼女へ向き直る。
声が少し変わる。
丁寧なものになる。
「奥方様。次に第5層の奥へ向かう場合は、門番戦を前提に護衛構成を組み直します」
エレオノーラは頷いた。
「今日のようには、行けないのですね」
「はい。入口で戻ることと、門番の前で戻ることは違います」
「湯溜まりへ行くには、門番と戦う必要がある」
「そうです」
エレオノーラは手元の紅肌の雫を見る。
次に琥珀の雫。
最後に、第5層入口を見る。
「今日は、戻れました」
「はい」
「次は、戻るだけでは足りないのですね」
クレスは少しだけ間を置いた。
「次も、戻ることが最優先です。その上で、門番と戦います」
その言葉に、エレオノーラはゆっくり頷いた。
「分かりました」
カティアが壁際からぼそっと言う。
「分かった顔してる時が、1番危ねえけどな」
エレオノーラはそちらを見た。
「では、分かっていない顔を練習します」
「そういう返しは上手くならなくていい」
少しだけ笑いが起きた。
だが、すぐに水音へ戻る。
今日、湯溜まりには届かなかった。
でも、紅肌の雫を持ち帰った。
琥珀の雫も持ち帰った。
第5層入口で、戻りますを使った。
それは失敗ではない。
むしろ、今日の目的そのものだった。
黒い水膜の前で、俺はゆっくり息を吐いた。
「戻ったな」
『ええ。自分で言ったわ』
「第5層入口で、戻ります」
『良い使い方だったわね』
俺は水膜の向こうを見る。
エレオノーラは、湯溜まりへ行っていない。
第5層の門番とも戦っていない。
でも、第3層と第4層を歩いた。
報酬を見て、足が出そうになった。
止められた。
自分の分を取得した。
護衛冒険者の取得分を、2割増で買い取った。
セリーヌの震えを見た。
第5層入口の熱と湯気を見た。
そして、戻った。
今日の迷宮経験としては、十分に濃い。
表示が浮かぶ。
【貴族本人の講習席着席を確認】
【第5層踏破経験者による第3層、第4層の迷宮経験同行申し出を確認】
【護衛冒険者取得分の紅肌の雫、琥珀の雫を男爵家が2割増で買い取る条件を確認】
【貴族本人の第3層踏破を確認】
【紅肌の雫取得を確認】
【貴族本人の第4層踏破を確認】
【琥珀の雫取得を確認】
【第5層入口到達後、本人撤退申告「戻ります」を確認】
【護衛冒険者取得分の紅肌の雫、琥珀の雫を男爵家が2割増で買い取り成立】
【第5層門番戦は未実施】
【獲得DP:1540】
【現在DP:20776】
「一気に増えたな」
『貴族本人が歩き、報酬を得て、欲の前で戻ったもの。しかも、報酬の買い取りまで成立したわ』
「買い取りまでDPになるのか」
『迷宮産の報酬が、人間の欲と価値に触れたのよ。しかも入口で』
「なるほど」
あと少し。
第6層に必要な形へ、数字は近づいている。
でも、俺はまだ第6層へ意識を飛ばしきれなかった。
今日、見えた課題は1つだ。
戦えることと、護れることは違う。
ギードたちは門番を倒せる。
でも、エレオノーラとセリーヌを抱えたまま、あの門番とは戦えない。
それを言えた。
それを渡せた。
そこが大きい。
『次は、門番ね』
「うん」
『奥方は戻れる。護衛は退ける。では、次は何を見るの?』
「守りながら戦えるか、だな」
湯気の奥にいる白い門番。
あれは、ただ倒す相手ではなくなる。
エレオノーラを守り、セリーヌを止め、戻りますを拾い、それでも湯溜まりへ届くか。
第5層が、次の顔を見せようとしている。
清水の迷宮は、今日も第6層を作らない。
その代わり、貴族の奥方を第5層入口から戻した。
次に向かうのは、入口ではない。
湯気の奥。
白い門番の前だった。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はエレオノーラが第3層と第4層を踏破し、第5層入口で自分から「戻ります」を使う回でした。
第5層踏破経験のある冒険者たちが、迷宮経験同行と取得報酬の買い取りを条件に案内役を申し出る形になりました。
次は門番戦を前提とした本格護衛へ進みます。
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