表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/88

第60話 奥方様、手袋を外す



 リューベック男爵家の馬車は、昼前に来た。


 第1層の入口へ直接乗り込むことは許されなかった。


 馬車は外で止める。


 護衛は外で待つ。


 中へ入る人数は、事前に確認された者だけ。


 それが昨日決めた条件だった。


 貴族だから、ではない。


 貴族でも、だ。


 黒い水膜の向こうで、馬車の扉が開く。


 最初に降りたのはベルノ家令。


 次に、侍女長セリーヌ。


 その後に、濃い葡萄色の外套をまとった女性が降りた。


 リューベック男爵夫人。


 エレオノーラ。


 年齢は40前後に見える。


 派手な美人ではない。


 だが、姿勢がきれいだった。


 背筋を伸ばし、顎を上げすぎず、視線を落としすぎない。


 細い銀の髪飾り。


 手には薄い手袋。


 歩き方にも、立ち止まり方にも、誰かに見られることに慣れた人の癖があった。


 けれど、疲れていないわけではない。


 目元に薄い影がある。


 唇の色も、化粧で整えているのが分かる。


 手袋の指先は、ほんの少しだけ硬い。


 握りしめる癖があるのかもしれない。


 エレオノーラは第1層へ入ると、まず水盤を見た。


 次に酒場。


 仮受付。


 講習席。


 救護席。


 最後に、第5層入口を見た。


 昨日のセリーヌと似た順番だ。


 ただし、目の色は違う。


 セリーヌは確認に来た目だった。


 エレオノーラは、自分がそこへ行くかどうかを測る目だった。


 グラントが丁寧に頭を下げる。


「商人ギルドのグラントです。本日は条件確認のため、お越しいただきありがとうございます」


 ベルノが1歩前へ出る。


「男爵夫人エレオノーラ様でございます」


 エレオノーラは軽く頷いた。


「エレオノーラ・リューベックです。昨日は、家の者が世話になりました」


 声は柔らかい。


 だが、柔らかいだけではない。


 家の者、という言葉でベルノとセリーヌを包み、その上に自分の立場を置いている。


 貴族の声だ。


 カティアが壁際で小さく言う。


「本人か」


 メリダが隣で囁く。


「本人だねえ。紙よりずっと厄介で、紙よりずっと分かりやすい」


 クレスは静かに前へ出た。


「クレスです。第5層護衛条件の確認に立ち会います」


 エレオノーラの視線がクレスに向く。


「あなたが、撤退判断者になる方ですか」


「正式に依頼となる場合は、候補の1人です」


「候補」


「護衛構成が確定していませんので」


「そうですか」


 エレオノーラは少しだけ目を細めた。


 今の返事をどう受け取ったのか、すぐには分からない。


 ベルノが条件の写しを机に置く。


 昨日作られた紙だ。


 同行者全員講習。


 撤退判断者指定。


 本人希望より撤退判断優先。


 撤退時報酬。


 救護席使用同意。


 負傷および恐怖申告条件。


 湯溜まり到達保証なし。


 湯の効果保証なし。


 門番戦の危険軽減なし。


 紙の上に並んだ言葉は、やはり硬い。


 エレオノーラはその紙を読んだ。


 最初は穏やかな顔だった。


 だが、途中で指が止まる。


 本人希望より撤退判断を優先する。


 そこだ。


 予想通り、そこだった。


「ここは、私にも適用されるのですね」


 グラントが答えようとしたが、クレスが先に口を開いた。


「はい」


 エレオノーラはクレスを見る。


「私が、進めると言っても」


「撤退条件に該当すれば戻ります」


「私が、もう少しだけ、と言っても」


「戻ります」


「湯溜まりが見えていても」


「戻ります」


 クレスの声は変わらない。


 エレオノーラの表情も崩れない。


 だが、手袋の指先がわずかに動いた。


「私は依頼主です」


「はい」


「費用を支払うのは、こちらです」


「はい」


「それでも、私の希望は優先されない」


「第5層の中では」


 クレスの言葉で、空気が少し重くなる。


 エレオノーラは、すぐには返さなかった。


 怒っているわけではない。


 ただ、自分が普段立っている場所と、今の言葉の高さが合っていないのだろう。


 依頼主。


 貴族家。


 男爵夫人。


 奥方様。


 その言葉が、第5層の前で少しずつ外されていく。


 セリーヌが小さく息を呑んだ。


 ベルノは黙っている。


 金と責任の人は、ここでは口を挟まない。


 これは、エレオノーラ本人の問題だった。


 カティアが壁際から言う。


「嫌なら入らない方がいい」


 セリーヌが少しだけカティアを見る。


 だが、エレオノーラが先に答えた。


「ずいぶん、率直ですのね」


「湯気の中で飾っても、見えねえからな」


 カティアの返しに、エレオノーラの眉が少し動いた。


 不快。


 しかし、興味もある。


 そんな顔だった。


「あなたは、私が湯溜まりへ行くことに反対ですか」


「反対ってほど、あんたを知らねえ」


「では」


「知らない奴を奥へ入れるのが危ないって話をしてる」


 カティアは腕を組んだまま続ける。


「貴族だからじゃない。BランクでもCランクでも同じだ。自分の希望を折れない奴は、第5層で折れる」


 その言葉に、ヴァルクが壁際でわずかに顔をしかめた。


 自分の話だと思ったのだろう。


 たぶん、合っている。


 エレオノーラはヴァルクに気づいたが、何も言わなかった。


 代わりに、条件紙へ視線を戻す。


「私が戻ることに同意すれば、護衛は引き受けていただけるのですか」


 ベルノが少しだけ口を開きかける。


 だが、クレスが答える。


「同意は条件の1つです。十分条件ではありません」


「まだ足りないと」


「はい」


 エレオノーラは、そこで初めて少し笑った。


「ずいぶん、買い物が難しい場所ですのね」


 メリダがのんびりと言う。


「買うものが湯じゃなくて、戻る確率だからねえ」


 エレオノーラの笑みが止まった。


 メリダは続ける。


「湯溜まりは、約束じゃない。約束できるのは、準備することと、戻るために止めること。そこまでだよ」


「戻る確率」


 エレオノーラは、その言葉をゆっくり繰り返した。


 貴族の口に乗ると、少し違う響きになる。


 飾られた言葉の上に、冷たい石が置かれたような空気だった。


 エレオノーラはベルノを見る。


「ベルノ」


「はい」


「湯溜まりへ到達できなかった場合でも、支払いは発生するのですね」


「条件上は、その通りでございます」


「家としては、どう見ますか」


 ベルノは少しだけ考えた。


 即答しない。


 家令らしい。


「湯溜まり到達を成果とするなら、不利です。しかし、奥方様の無事の帰還を成果とするなら、妥当です」


 エレオノーラの目が、少しだけ変わった。


「あなたは、どちらを成果と見ますか」


「家令としては、後者です」


「男爵は」


「説明が必要です」


「でしょうね」


 エレオノーラは小さく息を吐いた。


 その吐息に、少しだけ人間味が混ざった。


 貴族の奥方ではなく、家の中で説明をしなければならない人の息だった。


 セリーヌが静かに言う。


「奥方様」


「分かっています」


 エレオノーラはセリーヌを見る。


「あなたは、昨日これを読んで、どう思いましたか」


 セリーヌは少し迷った。


 昨日より、表情が硬い。


 奥方の前だからだ。


 答え方を選んでいる。


「厳しい条件だと思いました」


「それだけ?」


「侍女としては、受け入れにくい条件もございます」


「たとえば」


「救護席での確認です。完全な秘匿ができないこと。弱った姿を、冒険者たちの目がある場所で確認されること」


 エレオノーラの指が、手袋の上で止まる。


 セリーヌは続ける。


「ですが、隠す方が危険だと説明を受けました」


「あなたは納得したの?」


 セリーヌは、今度は長く黙った。


 周囲も黙る。


 カティアも口を挟まない。


 セリーヌはようやく答えた。


「納得した、とは申し上げません」


 エレオノーラの目がわずかに細くなる。


「正直ね」


「ただ、奥方様をお連れするなら、そこを避けてはならないと考えます」


「なぜ」


 セリーヌは救護席を見た。


 今日も、何人かの冒険者が短時間座っている。


 軽傷。


 喉の痛み。


 足首の違和感。


 どれも大怪我ではない。


 だが、隠して第5層へ戻れば危ないものだ。


「貴族も、隠します」


 セリーヌの声は静かだった。


「疲れも、痛みも、怖さも。見せてはいけない場が多いのです」


 カティアが言った。


「じゃあ、ここでは見せろ」


 セリーヌはカティアを見る。


 昨日と同じ言葉。


 だが、今日は奥方本人の前だ。


 エレオノーラも、カティアを見た。


 カティアは視線を逸らさない。


「第5層は、隠した分から殺しに来る」


 その言葉は乱暴だった。


 だが、誰も笑わなかった。


 エレオノーラは手袋の指先を見た。


 しばらく見ていた。


 それから、自分で右手の手袋を外した。


 セリーヌが息を呑む。


「奥方様」


「よいの」


 外した手は、綺麗に整えられていた。


 爪も磨かれている。


 香油も使っている。


 だが、指の関節に小さな荒れがある。


 親指の付け根に硬くなった部分。


 人差し指に細いひび。


 見苦しいほどではない。


 ただ、隠していた理由は分かる。


 エレオノーラは手を机の上に置いた。


「これを見せたくないから、私は湯溜まりへ行きたいのです」


 声は静かだった。


「夜会があります。手紙も、帳簿も、刺繍も、減りません。香油では追いつかない。隠しても、近くで見られれば分かります」


 ベルノが静かに目を伏せた。


 家令は知っていたのだろう。


 だが、主の手が公の場に置かれるところを見るのは、別の重さがあったはずだ。


 エレオノーラは続ける。


「でも、行くためには、もっと見せなければならないのですね」


 マイラが答えた。


「はい」


 迷いのない返事だった。


 エレオノーラは少しだけ苦笑した。


「治癒役の方は、容赦がありませんのね」


「隠されると困ります」


「困る」


「はい。判断が遅れます」


 マイラの言葉は短い。


 でも、それで十分だった。


 黒い水膜の前で、俺は言葉を失っていた。


 紅肌の雫の時も、見た目を整えたい人の欲は見てきた。


 第5層の湯溜まりも、髪や手肌に効く報酬として作った。


 分かっていたつもりだった。


 でも、手袋の下のひびを見た瞬間、少し違った。


 報酬の効果。


 需要。


 貴族の欲。


 そういう言葉で片づけるには、あの手は近かった。


 働いた手だ。


 見られる手だ。


 隠していた手だ。


 それが机の上に置かれた。


 迷宮の入口で。


 水音の近くで。


 俺は、軽く茶化す言葉を見つけられなかった。


 エレオノーラは外した手袋を、すぐには戻さなかった。


 そのまま条件紙へ視線を落とす。


「恐怖申告、という項目がありますね」


「あります」


 マイラが答える。


「私は、怖いとは言いにくいです」


 メリダが頷く。


「だろうねえ」


「貴族だから?」


「それもある。奥方様だから、というのもある。あと、人によっては単純に言い慣れてない」


「言い慣れていない」


「怖いって言えない人は、別の言葉を決める。大事なのは、止まる合図として使えることだよ」


 エレオノーラは少し考えた。


「気分が悪い、では駄目ですか」


 マイラが首を横に振る。


「体調不良と混ざります」


「手が冷たい、では」


「確認はできますが、恐怖とは限りません」


 エレオノーラは困った顔をした。


 今度は、少しだけ本当に困っていた。


 貴族の奥方としての言葉ではなく、自分の口に乗る言葉を探している。


 セリーヌが言う。


「私が申告いたします。奥方様が怖がっておられると判断した場合、私が」


「いいえ」


 エレオノーラは遮った。


 セリーヌが驚く。


「奥方様」


「あなたが言うだけでは、私がまた隠します」


 その言葉に、セリーヌは口を閉じた。


 エレオノーラは条件紙を見つめる。


 それから、ゆっくり言った。


「戻ります」


 カティアの眉が動く。


 エレオノーラは続けた。


「怖い、と言うのは難しいです。でも、戻ります、なら言えます」


 メリダが少しだけ目を細めた。


「いいねえ。見栄っ張り向きだ」


 ベルノが咳払いする。


「メリダ殿」


「褒めてるよ。たぶん」


 エレオノーラは小さく笑った。


「見栄っ張りであることは否定しません」


 そして、紙の余白を指した。


「恐怖申告の代わりとして、私の言葉は、戻ります。これで記録できますか」


 マイラが頷く。


「記録できます。ただし、戻りますは撤退申告として扱います。口にした時点で、撤退判断者が確認し、撤退に移ります」


「構いません」


 セリーヌがすぐに言う。


「奥方様、軽い不安で口にされると」


「軽い不安で口にするくらいなら、第5層へは行かない方がよいのでしょう?」


 エレオノーラはセリーヌを見た。


 セリーヌは答えられなかった。


 代わりに、クレスが言う。


「その理解で問題ありません」


 エレオノーラは頷いた。


「では、それで」


 仮受付の職員が記録する。


 奥方本人の撤退申告語、戻ります。


 意味。


 恐怖、体調不安、判断不安、継続困難を本人が示す言葉。


 申告時、撤退判断者が即時確認。


 原則、前進継続しない。


 紙に言葉が乗った。


 貴族の綺麗な言葉ではない。


 奥方の見栄を少し削った、戻るための言葉だった。


 ベルノが深く頭を下げた。


「奥方様。その言葉、家令として確かに承りました」


 エレオノーラがベルノを見る。


「ベルノ」


「はい」


「男爵へ、どう説明しますか」


 ベルノは少しだけ息を吸った。


「湯溜まりへ進むための言葉ではなく、お戻りいただくための言葉を決めた、と説明いたします」


「叱られるかしら」


「私が先に叱られましょう」


 セリーヌがそこで小さく言った。


「お叱りは、戻ってから受けます」


 カティアが横目で見る。


「誰に怒られたんだよ、昨日」


 セリーヌは少しだけ迷い、それから答えた。


「あなたに近い方々に、です」


「ぼかしすぎだろ」


「そのまま申し上げると、奥方様に余計な心配をおかけします」


 エレオノーラがセリーヌを見る。


 セリーヌは視線を伏せた。


 エレオノーラは察した顔をした。


「あなたも、ずいぶん怒られたのね」


「必要なことでした」


「そう」


 エレオノーラは、手袋を外した手を見たまま言った。


「では、私も少し怒られた方がいいのでしょうね」


 カティアが即座に言う。


「奥へ行く前ならな」


「奥では?」


「怒る暇があるなら戻れ」


 エレオノーラは、今度ははっきり笑った。


 場の空気がほんの少しだけ緩む。


 だが、軽くはならない。


 机の上には、外された手袋と、荒れた手と、戻りますと書かれた紙がある。


 それだけで十分だった。


 グラントが確認する。


「本日は、ここまででよろしいでしょうか。講習席での実際の確認は、日を改めて行う形にできます」


 エレオノーラは講習席を見た。


 石の席。


 簡素な席。


 冒険者が座る席。


 座ろうと思えば、今日座れる。


 だが、彼女はすぐには歩かなかった。


 手袋を外した手を、一度握る。


 そして、静かに言った。


「今日は、ここまでにします」


 セリーヌが少しだけ安堵した顔をした。


 ベルノも同じだった。


 エレオノーラは続ける。


「この手を見せるだけで、思ったより疲れました」


 マイラが頷く。


「それも記録します」


「本当に容赦がありませんのね」


「記録です」


 今度は、エレオノーラも少し笑った。


「では、記録してください。私は今日、手袋を外しました。次は、講習席に座れるかを確認します」


 仮受付の職員が書く。


 ベルノがその文字を見て、静かに言った。


「奥方様。今日は、よくお戻りになりました」


 エレオノーラは一瞬だけ驚いた顔をした。


「まだ、どこにも入っていませんよ」


「それでもです」


 ベルノの声は、家令としてのものではなく、長く仕えた者の声だった。


「お戻りになるための言葉を、持ち帰られます」


 エレオノーラは、しばらく何も言わなかった。


 それから、外した手袋をセリーヌへ渡した。


「では、持ち帰りましょう」


 セリーヌは手袋を受け取る。


 もう一度、深く頭を下げた。


 その日、エレオノーラは講習席には座らなかった。


 第5層へも入らなかった。


 湯溜まりへは、一歩も近づいていない。


 それでも、仮受付の机には新しい言葉が残った。


 戻ります。


 その言葉は、封蝋よりも軽く、手袋よりも薄い。


 けれど、第5層の湯気の前では、たぶん何より重くなる。




 黒い水膜の前で、俺はまだ黙っていた。


 エレオノーラが手袋を外した場面が、ずっと残っている。


 荒れた手。


 見せたくなかった手。


 その手で、自分の撤退申告語を選んだ。


 戻ります。


 それは、格好いい言葉ではない。


 勇ましい言葉でもない。


 でも、あの人には必要な言葉だった。


「ヴェル」


『何?』


「俺、第5層の湯溜まりを作った時、手荒れとか髪艶とか、効果として考えてた」


『ええ』


「でも、今日の手を見ると、効果って言葉だけじゃ足りないな」


『欲、とも違った?』


「欲ではあると思う。見られたい、隠したい、整えたい。それは欲だ。でも、なんか、もう少し生活に近かった」


『貴族にも生活はあるわ』


「そうだな」


 当たり前なのに、俺は少し忘れていた。


 貴族という言葉が来た瞬間、面倒な権力や金や体面の塊として見ていた。


 もちろん、それもある。


 むしろ、かなりある。


 でも、あの手はただの権力ではなかった。


 手紙を書き、帳簿を見て、刺繍をし、人前に出て、それでも隠していた手だった。


 そして、その手を見せたからといって、第5層が優しくなるわけではない。


 それもまた、今日の重さだった。


『同情する?』


 ヴェルティアが聞いた。


「する」


 俺は正直に答えた。


「でも、同情で湯気は薄くしない」


『それでいいわ』


「門番の腕も遅くしない」


『当然ね』


「救護席は使わせる」


『ええ』


「戻ります、を言ったら戻す」


『必ずね』


 水膜の向こうで、エレオノーラたちの馬車がゆっくり離れていく。


 セリーヌは手袋を抱えている。


 ベルノは条件の写しを持っている。


 エレオノーラは、外套の袖の中で、手袋をしていない右手を隠していた。


 でも、もう誰も見ていない場所で隠しているわけではない。


 少なくとも、第1層は見た。


 マイラが記録した。


 カティアが見た。


 セリーヌも、ベルノも、クレスも、メリダも見た。


 俺も見た。


 表示が浮かんだ。


【貴族本人の来訪を確認】


【第5層湯溜まり護衛条件の本人確認を確認】


【奥方本人の手荒れ開示を確認】


【奥方本人の撤退申告語「戻ります」を確認】


【恐怖、体調不安、判断不安、継続困難時の撤退申告として記録】


【講習席着席は未実施】


【貴族の体面、隠す習慣、戻る意思の形成を確認】


【獲得DP:620】


【現在DP:19236】


「620」


『十分に濃いわ』


「戦ってないのに?」


『今日は、手袋が外れたもの』


「身分が講習席に座るのは、次か」


『ええ。今日はまだ座っていない』


「引っ張るなあ」


『人間は一度に全部は脱げないわ。手袋を外したなら、今日はそこまででいい』


 ヴェルティアの言葉は妙にしっくり来た。


 そうだ。


 今日は、そこまででいい。


 手袋を外した。


 戻ります、と言った。


 講習席には、まだ座っていない。


 その未完了が、むしろ良かった。


 まだ迷っている。


 まだ体面が残っている。


 まだ怖さを言い切れていない。


 だから次に意味がある。


 第6層は、まだ作らない。


 それどころか、第5層の入口で、やることがまた増えた。


 貴族の奥方が、講習席に座れるか。


 戻りますを、紙の上だけでなく、湯気の前で言えるか。


 侍女長が、主人を止められるか。


 家令が、戻った結果を家へ持ち帰れるか。


 清水の迷宮は、今日も奥を増やさない。


 その代わり、第5層の手前に、手袋を外した手と、戻るための言葉を残した。


 講習席は、まだ空いている。



後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回はリューベック男爵夫人エレオノーラ本人が第1層を訪れ、自分の手荒れと向き合いながら、撤退申告語「戻ります」を決める回でした。

講習席に座るところまでは進まず、次回は貴族の奥方が実際に講習を受けられるかが焦点になります。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ