第59話 封蝋は湯気を知らない
朝の第1層で、仮受付の机だけが少し硬かった。
清水はいつも通り流れている。
酒場からは朝の汁物の匂いがする。
救護席には、昨日の第5層帰還者が1人、肩を回しかけてマイラに止められていた。
「まだ動かさないでください」
「もう痛みは引いた」
「痛みが引いたことと、動かしていいことは別です」
「……はい」
周囲に小さな笑いが起きる。
だが、仮受付の机の上にある封蝋付きの書状を見た者は、すぐに声を落とした。
細い蔦と小さな花の紋章。
リューベック男爵家。
第5層湯溜まり護衛依頼について、条件確認を求める書状。
昨日は封を切らなかった。
湯溜まり到達者の帰還と、欠けた盾と、救護席に座った治癒役。
それだけで、第1層は十分に重かったからだ。
今日は違う。
グラントが机の前に立ち、仮受付の職員が記録板を用意している。
マイラもいる。
クレス、カティア、メリダも呼ばれていた。
ヴァルクは少し離れた壁際にいる。
呼ばれてはいない。
だが、帰ってもいない。
本人はただの見物のつもりだろう。
顔はそう言っている。
しかし、視線は封蝋ではなく、机の横に置かれた昨日の欠けた盾へ向いていた。
グラントが封蝋を確認する。
「封は破られていません。リューベック男爵家の正式な印です」
仮受付の職員が記録する。
カティアが腕を組んだ。
「正式って言葉、だいたい面倒の匂いがするな」
メリダが軽く笑う。
「湯気より濃いかもねえ」
グラントは返事をせず、封を切った。
紙が開かれる。
文字は整っていた。
丁寧で、失礼はない。
だからこそ、厄介だった。
グラントは必要な箇所を声に出す。
「リューベック男爵家奥方、エレオノーラ様が、清水の迷宮第5層湯溜まりについて強い関心をお持ちであること」
仮受付の職員が記録する。
「湯溜まり護衛依頼の可否、必要費用、同行人数、護衛構成、危険時の対応、事前準備について条件確認を求めること」
グラントの声は一定だ。
「また、本日午後、男爵家より代理人を派遣するとのことです」
カティアが顔をしかめた。
「もう来るのかよ」
グラントは書状から目を離さない。
「昨日の便に同封されていた時点で、代理人はすでにプロンテラを出ているはずです」
「手際がいいな」
「貴族家は、遅れることを嫌います」
「第5層は、遅れた方が助かることもあるけどな」
カティアの言葉で、机の上の紙がさらに重く見えた。
クレスが静かに言う。
「代理人が来る前に、こちらの条件を整理しましょう」
グラントが頷く。
「はい。商人ギルドとしても、無条件で受けるつもりはありません」
「金になるのに?」
カティアの声は意地悪だった。
グラントは穏やかに微笑む。
「金になります。だからこそ、雑に受けると後で高くつきます」
「そこは分かってんのか」
「商人ですので」
グラントは別の紙を出した。
「貴族家が相手の場合、撤退時の支払い、責任範囲、同行者の扱い、怪我の記録、報告文の文言が問題になります。第5層の危険だけでなく、戻った後の揉め事も危険です」
メリダが肩をすくめる。
「奥で死ななくても、紙で殺されることはあるからねえ」
仮受付の職員が、一瞬だけ筆を止めた。
書くか迷ったのだろう。
マイラが淡々と言う。
「記録してください。比喩ですが、意味はあります」
「はい」
職員は記録した。
クレスが条件を口にする。
「第5層へ入る者は、全員が講習を受けること」
仮受付の職員が書く。
カティアが続ける。
「奥方様だけじゃねえ。侍女、荷持ち、護衛、案内、見張り。入るなら全員だ」
メリダが付け足す。
「怖くなった時に言う言葉も決めておくこと。貴族の人は、怖いって言いにくいかもしれないからねえ」
マイラが頷く。
「体調不良、魔力酔い、湯気による喉の痛み、足元不安、恐怖による震え。申告項目を分けます」
グラントが書きながら言う。
「撤退判断者は護衛側に置くべきでしょうか」
クレスが首を横に振る。
「護衛側、では弱いです。名前を決めます」
「代表者名ですか」
「はい。撤退判断者、補助判断者、治癒判断者、斥候判断者。最低でも4つ」
カティアが眉を上げた。
「多いな」
「貴族本人の希望が強くなった場合、1人の声では押し負ける可能性があります」
クレスの声は静かだ。
しかし、鋭い。
「撤退判断者だけでなく、複数の条件にかかった時点で撤退が優先される形にした方がいい」
メリダが頷く。
「本人が嫌がっても、って書かないと駄目だね」
仮受付の職員の筆が止まる。
「そのまま書いてよろしいですか」
カティアが言う。
「書け。そこを濁すと死ぬ」
グラントが、少しだけ表情を引き締めた。
「文言は整えます。ですが、意味は残します」
彼は新しい紙に書き始めた。
同行者本人の希望より、事前に指定された撤退判断を優先する。
奥方様、という言葉は使わない。
本人。
同行者。
撤退判断。
身分を少し剥がした言葉だった。
それを見て、カティアが少しだけ頷いた。
「その紙なら、まだ読める」
グラントは苦笑した。
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
「承知しています」
そう言いながらも、グラントは少しだけ楽しそうだった。
商人の顔ではある。
でも、今は利益だけを見ていない。
いや、利益を見ているからこそ、死体と揉め事を見ている。
それはそれで、信用できる現実だった。
午後になって、リューベック男爵家の代理人が来た。
馬車は第1層の外で止められた。
中へ入ったのは2人だけ。
1人は年配の家令らしい男。
背筋がまっすぐで、髪は白い。
もう1人は、侍女長らしい女性だった。
年齢は30代半ばほど。
濃い青の外套。
飾りは少ない。
だが、布地と仕立てで身分が分かる。
家令は仮受付の机を見た。
侍女長は、まず水盤を見た。
次に救護席。
講習席。
酒場。
最後に、第5層入口。
順番は悪くない。
ただし、その目にはまだ貴族家の屋敷の廊下が残っていた。
迷宮の奥を見に来たというより、奥方のために整えられる場所を探している目だった。
グラントが挨拶する。
「商人ギルド、グラントです」
家令が丁寧に頭を下げた。
「リューベック男爵家家令、ベルノと申します」
侍女長も続く。
「奥方様付き侍女長、セリーヌでございます」
声は落ち着いている。
偉そうではない。
だが、下手にも出ていない。
貴族家の代理人として、ちょうどよい高さに立っている。
カティアが小さく呟いた。
「面倒な高さだな」
メリダが囁き返す。
「低すぎても高すぎても困るからねえ」
グラントは書状を机に置いた。
「条件確認とのことでしたので、こちらでも案を用意しております」
ベルノが頷く。
「拝見いたします」
グラントが紙を渡す。
ベルノはすぐに費用と責任範囲の欄を見た。
その動きに迷いがない。
セリーヌは、同行人数と湯溜まり滞在時間の欄を見て眉を寄せた。
「同行者は最小限、とあります」
「はい」
グラントが答える。
「奥方様には、侍女が最低2人は必要です。着替え、髪、湯上がりの支度がございます」
カティアの眉が動く。
しかし、最初に答えたのはクレスだった。
「第5層へ入る人数が増えるほど、危険は増えます」
セリーヌはすぐには引かない。
「奥方様を人目に晒すわけには参りません」
「湯溜まりは社交用の浴場ではありません」
クレスの声は静かだった。
セリーヌの表情が少し硬くなる。
「承知しております。しかし、貴族の奥方様には守るべき体面がございます」
「第5層では、体面より隊列です」
今度はカティアが言った。
セリーヌの目がカティアへ向く。
カティアは腕を組んだまま続ける。
「髪を整える侍女が1人増えるたび、誰かがその侍女を守る。守る相手が増えれば、盾の角度が変わる。足が止まる。撤退が遅れる」
「ですが」
「ですが、じゃねえ。入る人数を増やすなら、危険も増える。それだけだ」
セリーヌは唇を引き結んだ。
怒りではない。
不満だ。
貴族家の内側では当然だったものが、ここでは当然ではないと言われた顔だった。
ベルノが紙から顔を上げる。
「撤退時の支払いについて確認したい。湯溜まりに到達しなかった場合も、基本報酬および危険手当を支払う、とあります」
グラントが答える。
「はい」
「奥方様が湯に入れなかった場合でも」
「はい」
「護衛側判断で撤退した場合、依頼未達とは扱わない」
「その通りです」
ベルノの目が細くなる。
「男爵家としては、成果のない依頼に満額を支払う形になります」
「成果を湯溜まり到達だけに置くなら、そう見えます」
グラントは笑みを崩さない。
「ですが、この依頼の第一成果は、奥方様を生きて戻すことです」
ベルノは黙った。
その沈黙には、家令としての計算があった。
金額。
面子。
報告。
失敗時の説明。
護衛側に撤退権限を渡す不安。
ベルノは、そこを見ている。
セリーヌは別のところを見ていた。
救護席だ。
昨日の帰還者が座っている。
肩の痛みは引いているはずなのに、まだマイラの確認を待っている。
セリーヌが問う。
「あちらは、怪我人用の席ですか」
マイラが答える。
「治療補助と安静確認の席です。擦り傷、打撲、軽い火傷、疲労由来の震えなどに有効です。治癒役の処置を補助します」
「奥方様が使用する場合、人目を避けることはできますか」
マイラは即答しなかった。
グラントでも、クレスでもなく、マイラ自身が答える。
「完全にはできません」
セリーヌの眉がわずかに寄る。
「貴族女性の負傷や震えを、冒険者たちの前に晒すことになります」
「隠す方が危険です」
マイラの声は揺れない。
「痛み、震え、喉の痛み、魔力酔い、恐怖。隠すと次の判断が遅れます」
セリーヌは言葉を飲んだ。
飲んだが、まだ納得はしていない。
「奥方様は、弱った姿を見せることを嫌われます」
その言葉には、職務の硬さだけではないものが混ざっていた。
侍女長として、それを守ってきた時間の重さだ。
カティアが壁際から言う。
「第5層は、嫌がるかどうかを聞いてくれねえぞ」
セリーヌの視線がカティアへ向く。
「承知しております」
「まだ承知じゃねえよ」
カティアは救護席を顎で示す。
「あそこに座るかどうかを、体面で迷ってるうちは」
セリーヌは返せなかった。
ベルノが助けるように口を開く。
「救護席の使用については、別室対応や幕などを」
メリダがゆるく首を振った。
「隠す布が増えると、見る目も減るよ。見えない怪我は、奥でだいたい遅れる」
ベルノはメリダを見る。
「では、貴族家の体面はどう扱えばよろしい」
メリダは笑わなかった。
「戻ってから考えればいい。死んだら体面も何もないからねえ」
その言葉は柔らかいのに、冷たかった。
ベルノはそこで初めて、言葉を失った。
クレスが紙を指す。
「費用で買えるのは、準備、護衛、補償、撤退後の取り決めです」
全員の視線がクレスへ向く。
「ですが、第5層の危険そのものは買えません。封蝋は湯気を知りません。ですから、湯気の前に、封蝋の意味をほどく必要があります」
その場が静かになった。
封蝋は湯気を知らない。
ベルノが机の上の書状を見る。
セリーヌが第5層入口を見る。
細い蔦と小さな花の紋章。
それは綺麗だ。
整っている。
身分を示す。
だが、湯気の中では湿るだけだ。
門番の腕を止めない。
濡れた床を乾かさない。
恐怖で震える指を隠しても、足元は滑る。
ベルノが静かに言った。
「男爵家の印は、第5層では効かない、と」
クレスは頷く。
「効かせてはいけない、という意味です」
セリーヌが唇を引き結んだ。
この言葉は刺さったらしい。
納得ではない。
だが、避けられないものとして受け取った顔だった。
条件確認は、そこからさらに細かくなった。
ベルノは支払いと責任を詰めた。
「撤退時の基本報酬は支払う。ただし、護衛側の明確な過失がある場合は別途協議」
グラントが首を横に振る。
「協議は可能ですが、第5層内の判断を後から過失と断じる形にはできません。撤退判断を萎縮させます」
「では、どこで線を引く」
「事前条件違反です。護衛側が申告を怠った、指定判断者が不在だった、講習を受けていない者を入れた。そうした場合です」
ベルノは考え込む。
金と責任の人だ。
湯溜まりの効果より、支払いと説明の出口を見ている。
それは悪いことではない。
むしろ、家令として必要なのだろう。
セリーヌは同行者の数で粘った。
「侍女は2人必要です」
カティアが即座に言う。
「1人」
「湯上がりの支度が」
「湯上がりの支度の前に、帰る支度だ」
「髪を濡らしたまま戻るわけには」
「戻れるなら濡れててもいいだろ」
セリーヌの目が少し鋭くなる。
「貴族女性の髪は、本人だけのものではありません」
カティアが一瞬黙った。
その言葉には、少しだけ別の重さがあった。
髪。
見た目。
夜会。
家。
評価。
侍女長の仕事。
カティアは雑に切り捨てようとして、やめた。
代わりに、メリダが間に入る。
「じゃあ、侍女は1人。湯溜まりでは髪を完全に整えない。第1層へ戻ってから、救護席確認後に整える。どうだい?」
セリーヌはすぐには答えない。
ベルノが見る。
セリーヌは小さく息を吐いた。
「奥方様は、不満を示されると思います」
カティアが言う。
「生きて戻ってから不満を言えばいい」
セリーヌはカティアを見る。
今度は怒らなかった。
「その言葉も、お伝えします」
「そのまま伝えるなよ」
「近い形で」
「そこはぼかせ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにまた紙へ戻る。
荷物は最小限。
香油や衣装箱は持ち込まない。
湯溜まり滞在時間は短く。
入浴より帰還を優先。
救護席使用に同意。
負傷、魔力消耗、恐怖による震えを隠さない。
湯溜まり到達を保証しない。
湯の効果を保証しない。
門番戦の危険を軽減しない。
紙は少しずつ厚くなる。
紙が厚くなるほど、貴族家の自由は薄くなる。
それをベルノは見ている。
セリーヌも見ている。
だが、2人とも席を立たなかった。
やがて、ベルノが言った。
「条件は厳しい」
グラントが頷く。
「はい」
「男爵家としては、受け入れがたい項目もあります」
「はい」
「特に、本人希望より撤退判断を優先する点。湯溜まり未到達でも基本報酬と危険手当を支払う点。救護席使用時に完全な秘匿ができない点」
「はい」
ベルノは紙を置いた。
「ですが、曖昧ではない」
その言葉に、グラントの目がわずかに細くなった。
ベルノは続ける。
「曖昧なまま奥方様をお連れする方が、家令としては恐ろしい」
セリーヌが少しだけベルノを見る。
初めて、家令と侍女長の視線が同じ場所に重なった。
奥方を連れていくかどうか。
連れていくなら、どう戻すか。
その一点だ。
セリーヌは救護席をもう1度見た。
「救護席について、奥方様に説明します」
マイラが頷く。
「お願いします」
「ただ、奥方様は弱った姿を見せることを嫌われます」
カティアが壁際から言う。
「じゃあ、ここでは見せろ」
セリーヌはカティアを見る。
その言葉は乱暴だった。
だが、妙にまっすぐだった。
セリーヌはすぐには返さない。
少しして、静かに言った。
「貴族も、隠します」
カティアの目がわずかに細くなる。
セリーヌは続けた。
「疲れも、痛みも、怖さも。見せてはいけない場が多いのです」
「じゃあ、ここでは見せろ」
カティアは同じ言葉を繰り返した。
今度は、さっきより少し低い声だった。
「第5層は、隠した分から殺しに来る」
セリーヌは唇を結んだ。
反論はしなかった。
「そのように、お伝えします」
カティアは視線を外した。
「そのまま伝えるなって言っただろ」
「近い形で」
「近すぎると怒られるぞ」
「慣れております」
セリーヌの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
そこに、ようやく侍女長という人間の顔が見えた。
話が通じるからではない。
奥方の面倒さを、誰より知っている顔だった。
夕方近く、ベルノとセリーヌは条件の写しを受け取った。
決定ではない。
持ち帰りだ。
正式依頼にするかどうかは、奥方本人の判断を経る。
ただし、条件を削るなら第5層へは入れない。
そこはグラントも、クレスも、カティアも、メリダも、マイラも譲らなかった。
ベルノが深く頭を下げる。
「男爵家へ持ち帰り、検討いたします」
セリーヌも頭を下げた。
「奥方様へ、湯溜まりだけでなく、戻る条件もお伝えいたします」
クレスが静かに言う。
「湯溜まりへ行く条件ではありません」
セリーヌが顔を上げる。
クレスは続けた。
「湯溜まりへ行けなかった時に、戻るための条件です」
セリーヌは少しだけ目を伏せた。
「はい」
今度の返事は、さっきより軽くなかった。
2人は第1層を出ていった。
封蝋はもう閉じていない。
代わりに、条件の写しが残った。
紙が1枚増えた。
でも、それは貴族を奥へ進める紙ではない。
貴族を戻すための紙だった。
黒い水膜の前で、俺は長く息を吐いた。
「疲れた」
『貴方は話していないでしょう』
「見てるだけでも疲れるんだよ」
『便利な表現ね』
「今日は本当にそう」
貴族家の代理人は、思ったより横柄ではなかった。
でも、最初から分かっていたわけでもない。
ベルノは金と責任を見ていた。
セリーヌは体面と奥方の支度を見ていた。
それぞれの理屈があった。
どちらも悪意ではない。
けれど、そのまま第5層へ持ち込めば危ない。
封蝋は湯気を知らない。
クレスの言葉が、俺の中にも残っていた。
あの紋章は綺麗だった。
整っていた。
でも、湯気の中では何も知らない。
熱水も、濡れた床も、門番の腕も、治癒役の震えも知らない。
だから、入口でほどく必要があった。
貴族の紙を。
家の面子を。
奥方様、という言葉の高さを。
表示が浮かんだ。
【貴族家代理人の来訪を確認】
【第5層湯溜まり護衛依頼の条件確認を確認】
【同行者全員講習、撤退判断者指定、本人希望より撤退判断優先を確認】
【撤退時報酬、救護席使用同意、負傷および恐怖申告条件を確認】
【貴族家の欲、家令の責任計算、侍女長の体面維持、冒険者側の条件設定を確認】
【獲得DP:760】
【現在DP:18616】
「760」
『良い数字ね』
「戦ってないのに?」
『戦う前の欲と恐怖が、迷宮の入口で形になったわ』
「紙でDPか」
『紙そのものではないわ。紙に乗った判断よ』
なるほど。
貴族の書状。
条件確認。
撤退の優先。
救護席の同意。
怖さや痛みを隠さないこと。
それらは全部、第5層へ入る前の戦いだった。
剣は抜いていない。
魔法も撃っていない。
でも、迷宮に触れている。
俺は水膜の向こうを見る。
仮受付の机には、条件の写しがある。
貴族を通す紙ではない。
貴族を止める紙。
戻す紙。
場合によっては、湯に入れないまま帰す紙。
「第5層って、奥だけじゃないな」
『ようやく分かった?』
「分かってたつもりだった」
『つもりは、湯気で滑るわ』
「今日のヴェル、刺してくるな」
『貴族が来たもの。少し硬くしておきなさい』
「高貴なる硬度?」
『そうよ』
「言うんだ」
『貴族相手なら、こちらも高貴さを出すべきでしょう』
俺は少し笑った。
でも、すぐに真顔に戻る。
第6層は、まだ作らない。
それどころか、今は第5層の入口が厚くなっている。
冒険者のための入口。
商人のための入口。
貴族のための入口。
それぞれ違う紙が必要になる。
面倒だ。
でも、必要だ。
湯溜まりは報酬であって、予約制の浴場ではない。
貴族が来るなら、それを最初に飲み込んでもらう。
飲み込めないなら、入れない。
「奥方様、来ると思う?」
『来るでしょうね』
「だよな」
『欲は、条件を読んだだけでは消えないわ』
「なら、次は本人か」
『本人と、本人を止める者たちね』
水膜の向こうで、セリーヌが馬車へ乗る前に1度だけ振り返った。
視線は、第5層入口ではなく、救護席へ向いていた。
あの侍女長は、まだ全部を理解したわけではない。
けれど、少なくとも見た。
湯に入る前に、戻った後の場所を。
それでも、奥方を止められるかどうかは別だ。
清水の迷宮は、今日も第6層を作らない。
その代わり、第5層の手前に、また1枚、戻るための紙を置いた。
封蝋は湯気を知らない。
だから、湯気の前に封蝋をほどく必要があった。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はリューベック男爵家の代理人が来訪し、第5層湯溜まり護衛依頼の条件確認を行う回でした。
貴族家が相手でも、第5層の危険は変わりません。次は奥方本人が条件を受け入れられるかどうかが焦点になります。
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