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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第57話 湯気に慣れる者たち



 朝の第1層で、革を打つ音がしていた。


 こん、こん、こん。


 酒場の横ではない。


 救護席の近くでもない。


 仮受付の横に置かれた簡易の作業台で、職人が盾の革帯を締め直している。


 昨日、第5層入口で傷んだ盾だ。


 持ち主のCランク盾役は、作業台の前に立ったまま、無言でそれを見ていた。


 その横には、昨日のBランク剣士がいる。


 腕を組み、壁にもたれ、不機嫌そうな顔で。


 ただし、帰ろうとはしていない。


 逃げる者の顔ではない。


 納得はしていないが、戻ってきた者の顔だ。


「まだかかるのか」


 Bランク剣士が言う。


 職人は釘を打つ手を止めない。


「急がせるなら、盾じゃなく飾り板を持っていきな」


「飾り板?」


「見栄を張るには向いてる。受けたら割れる」


 周囲に少しだけ笑いが起きた。


 Bランク剣士は不満そうに鼻を鳴らしたが、言い返さなかった。


 カティアが作業台の横で、傷んだ革帯をつまみ上げる。


「昨日これで奥に行こうとしたのかよ」


 盾役が少し気まずそうに答える。


「まだ保つと思った」


「保つかどうかを第5層で試すな。試すならここでやれ」


 カティアは革帯を職人へ投げ返した。


「盾役が倒れると、前衛が急に勇者になる。で、だいたい死にかける」


 Bランク剣士の眉が動いた。


「俺に言ってるのか」


「自覚があるなら早いな」


「昨日も同じようなことを言われた」


「昨日言われて直ってねえなら、今日も言われるだろ」


 カティアはさらっと言った。


 昨日のメリダとは違う刺し方だ。


 メリダは笑って逃げ道を作る。


 カティアは逃げ道の前に短剣を置く。


 どちらも必要だった。


 Bランク剣士は舌打ちした。


 だが、足は動かない。


 作業台から離れない。


 職人が最後の革帯を締め直し、盾を盾役へ返した。


「受けるなよ」


 盾役が盾を受け取りながら眉を寄せる。


「盾なのにか」


「受け流せって意味だ。昨日みたいに熱水を下へ流されたら、革より先に足が死ぬ」


 カティアが頷く。


「ほら、職人にも言われてるぞ」


 盾役は小さく息を吐いた。


「分かった」


 Bランク剣士は、その盾を見てから仮受付へ向かった。


 手には、昨日書き直した申請書がある。


 だが、端に一行増えていた。


 盾の状態確認後、第5層へ。


 自分で書いたのだろう。


 字は荒い。


 だが、書いてある。




 仮受付で、グラントが申請書を確認した。


 治癒役の魔力が半分を切ったら撤退。


 斥候が戻り道に不安を出したら撤退。


 盾の縁が割れ、受け流しに支障が出たら撤退。


 前衛が条件を無視して踏み込んだ場合、盾役が下がる。


 盾役が下がったら全員が下がる。


 そして、盾の状態確認後、第5層へ。


 グラントは最後の一行を見て、少しだけ目を上げた。


「追加したのですね」


「昨日の革帯でうるさかったからな」


 Bランク剣士はぶっきらぼうに言う。


「うるさかったから書いた。別にありがたがってるわけじゃない」


「記録には、装備確認項目追加、と残します」


「人の話を聞いてるか?」


「聞いています」


 グラントは淡々と印を押した。


「ありがたがってはいない、は不要なので残しません」


 隣にいた仮受付の職員が、少しだけ肩を震わせた。


 Bランク剣士は不満そうだったが、怒りはしなかった。


 治癒役が小さく頭を下げる。


「今日は、門番前までで一度状態確認をお願いします」


 Bランク剣士が横目で見る。


「門番を見てから考える」


「見たら進みたくなるので、見る前にお願いします」


 その言い方に、斥候が小さく頷いた。


「広間の入口で確認。盾、魔力、戻り道。それから入るか決める」


 盾役も言う。


「俺はそれでいい」


 Bランク剣士は少し黙った。


 不機嫌そうな沈黙。


 だが、拒否の沈黙ではなかった。


「……分かった。広間の前で一度止まる」


 治癒役の肩が、ほんの少しだけ下がった。


 それを見て、Bランク剣士が顔をしかめる。


「そんなに信用なかったのか」


「昨日は、少し」


 治癒役は正直だった。


 Bランク剣士は何か言いかけ、やめた。


 代わりに、剣帯を締め直す。


 謝らない。


 認めない。


 でも、聞いた。


 今はそれで十分だった。




 黒い水膜の前で、俺はその様子を見ていた。


「口では全然認めないな」


『行動は変わっているわ』


「そのくらいが自然か」


『人間は、負けを言葉にするより先に、道具を直すことがあるのね』


「あるある。謝罪メールより先に資料直すやつ」


『シャザイメール?』


「説明すると胃が痛くなる文化」


『また妙な文化ね』


「俺もそう思う」


 昨日の時点で、あのBランク剣士はまだかなり危うかった。


 いや、今も危うい。


 核が見えたら足が出る。


 強い前衛ほど、そこで自分を信じてしまう。


 自分を信じること自体は悪くない。


 ただ、第5層はそれだけでは足りない。


 仲間の声。


 盾の状態。


 治癒役の魔力。


 戻り道。


 自分以外の情報で止まれるかどうか。


 そこを見る階層になっている。


『第6層を見せたら、あの者はどうなると思う?』


 ヴェルティアが聞いた。


「たぶん、前を見る」


『霧の中でも?』


「見るだろうな。見えないからこそ、見ようとする」


『そして横を取られる』


「フォグスカウトにな」


 口に出した瞬間、頭の中で霧が揺れた。


 冷たい白。


 足元に沈む霧。


 視界の端を抜ける薄い影。


 前にフロストガード。


 奥にミストアーチャー。


 傷を戻すフロストヒーラー。


 霧を濃くするミストキャスター。


 そして、背中へ回るフォグスカウト。


 第5層と違う。


 ホットスプリングガーディアンは大きな一体だった。


 第6層の門番は、役割を持った五体。


 前を見る者ほど、横と後ろを失う。


 想像すると、迷宮がわずかに応えようとする。


 俺はそこで意識を止めた。


「まだ作らない」


『ええ』


「今日は、あいつが第5層で仲間の声を聞けるかを見る」


『それも迷宮の試練ね』


「そうだな」


 水膜の向こうで、Bランク剣士の組が第5層へ入っていった。




 第5層の湯気は、昨日より白く見えた。


 実際に濃いわけではない。


 たぶん、見る側の気持ちの問題だ。


 Bランク剣士の組は、入口で一度止まった。


 斥候が床を見る。


 盾役が革帯を引く。


 治癒役が自分の魔力を小さく確かめる。


 魔術士が杖を構え、風の向きを選ぶ。


 Bランク剣士は、一番前ではなく、盾の斜め後ろに立った。


 昨日より、半歩だけ後ろだ。


 本人は気づかれたくなさそうだったが、分かる。


 少し下がっている。


 スチームバットが来た。


 上ではない。


 横から、湯気を裂くように低く滑り込む。


 斥候が短く言う。


「左、低い」


 Bランク剣士の足が動く。


 前へ出ようとした。


 盾役が盾を半歩出す。


 進路を塞ぐ。


 剣士の足が止まる。


 魔術士の風が遅れて通った。


 白い湯気が割れ、スチームバットの羽が見える。


 そこを切った。


 速い。


 止まってからでも十分速い。


 もう一体は斥候が落とした。


「今、止めたな」


 Bランク剣士が低く言う。


 盾役は盾を戻しながら答える。


「止める役だからな」


「邪魔だった」


「生きてる」


 Bランク剣士は舌打ちした。


 それ以上は言わない。


 進む。


 スチームウルフは、湯気の奥から低く回り込んできた。


 Bランク剣士は今度、すぐには出なかった。


 盾役が正面。


 斥候が床。


 魔術士が湯気。


 治癒役が後ろ。


 声が一つずつ重なる。


「右、濡れ石」


「風、左へ」


「盾、下げすぎない」


 スチームウルフが見えた瞬間、Bランク剣士が横から入る。


 追わない。


 深追いしない。


 見えた分だけを切る。


 それでも斬撃は鋭い。


 スチームウルフの脚が裂け、動きが止まる。


 盾に寄せられ、二撃目で倒れた。


 ホットウォーターリザードが出た時、昨日の傷が試された。


 熱水。


 盾の下。


 足元。


 盾役は角度をつけた。


 熱水を横へ流す。


 だが、石の溝に残った湯が靴底を滑らせた。


 盾が少し落ちる。


 Bランク剣士が前へ出る。


 出そうになった。


 治癒役が短く言う。


「支えるだけ」


 剣士の肩が止まる。


 斥候が続ける。


「右足、下げろ。そこ溜まってる」


 盾役が右足を下げる。


 Bランク剣士は剣を振らなかった。


 盾役の肩を押し、姿勢を戻す。


 ホットウォーターリザードは、魔術士の風で湯気を払われ、斥候に横を取られた。


 倒した。


 倒した後、Bランク剣士は小さく息を吐く。


「今のは、斬れた」


 治癒役が答える。


「斬った後、盾役が倒れていました」


「分かってる」


「分かっているなら、大丈夫です」


「大丈夫かどうかは俺が決める」


 言い返す声は荒い。


 だが、剣は抜きっぱなしにしない。


 鞘に半分戻し、周囲を見た。


 荒い口と、変わった手順。


 その差が、今の彼だった。


 ミネラルクラブとの戦闘で、盾の革帯が一度強く鳴った。


 昨日直した場所ではない。


 別の留め具だ。


 盾役がすぐに申告する。


「盾、使える。ただし受ける回数を減らす」


 治癒役が続ける。


「魔力、七割」


 斥候が戻り道を見る。


「今なら戻り道はきれい」


 Bランク剣士は、湯気の奥を見た。


 門番の広間へ続く白。


 行きたい顔だった。


 かなり行きたい顔だった。


 だが、昨日決めた通り、広間の前で止まった。


 止まったというより、盾役が止まり、斥候が止まり、治癒役が止まり、魔術士が止まり、結果として彼も止まった。


「確認」


 盾役が言う。


「盾は?」


「使える」


「魔力は?」


「七割」


「戻り道は?」


「今なら問題なし。ただし一戦後は保証しない」


 Bランク剣士が舌打ちする。


「保証しないって便利な言葉だな」


 斥候が淡々と返す。


「保証できないものを、できると言う方が便利だ」


 Bランク剣士は少しだけ笑った。


 ほんの少し。


 すぐ消えた。


「一度だけ入る。足を見る。核は狙わない」


 治癒役が確認する。


「魔力半分で撤退です」


「聞いた」


「半分です」


「二回言うな」


「奥では一回で足りないかもしれないので」


 Bランク剣士は嫌そうに顔を歪めた。


 だが、反論はしない。


 五人は広間へ入った。




 ホットスプリングガーディアンは、白い湯気の中で待っていた。


 大きな外殻。


 肩から吹き出す蒸気。


 胸の奥に、青白い核。


 あれは見える。


 見えてしまう。


 Bランク剣士の視線が、核へ吸われた。


 水膜越しでも分かる。


 剣士の足に、前へ出る力が乗る。


 盾役が斜めに立つ。


「腕は流す。足だけ見る」


 斥候が床を読む。


「右膝、遅い。床は濡れてる」


 魔術士が風を薄く通す。


 治癒役は距離を保つ。


 ガーディアンの腕が振り下ろされた。


 盾役は受けない。


 斜めに流す。


 重い音がした。


 盾の縁が鳴る。


 割れてはいない。


 Bランク剣士が踏み込む。


 膝へ一撃。


 浅い。


 だが、外殻に傷が入る。


 斥候が足首へ短剣を入れ、魔術士の風が湯気を裂いた。


 胸の核が、一瞬だけはっきり見えた。


 Bランク剣士の足が前へ出た。


 出た。


 盾役の声より早かった。


 治癒役の声が飛ぶ。


「半分!」


 魔力が半分を切った。


 紙に書いた条件。


 戻る条件。


 だが、核は見えている。


 Bランク剣士の剣は、もう前を向いていた。


 水膜の前で、俺は息を止めた。


 行く。


 たぶん、行く。


 そう思った瞬間、斥候が叫んだ。


「戻り道、今ならある!」


 盾役が下がった。


 盾が下がった。


 昨日、紙に書いた合図だった。


 Bランク剣士の足が止まる。


 ほんの一瞬。


 止まった。


 次の瞬間、ガーディアンの腕が湯気の横から戻ってきた。


 核を狙うなら踏み込むはずだった場所。


 そこを、重い腕が蒸気ごと薙いだ。


 誰もいない空間が殴られた。


 Bランク剣士の顔色が変わる。


 盾役が叫ぶ。


「撤退!」


 今度は、Bランク剣士も動いた。


 前ではなく、後ろへ。


 斥候が退路を先導し、魔術士が湯気を横へ押し、治癒役が最後尾を確認する。


 盾役は、ガーディアンの追撃を流して下がる。


 全員が広間を出た。


 誰も倒れていない。


 誰も湯溜まりへは届いていない。


 だが、戻っている。


 戻れている。


 帰り道で、Bランク剣士はしばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「見えた」


 盾役が答える。


「ああ」


「行けると思った」


「見えたからな」


「紙がなかったら……」


 そこで、彼は言葉を切った。


 最後までは言わない。


 言えないのか、言いたくないのか。


 たぶん、両方だ。


 治癒役も、何も言わなかった。


 斥候が代わりに言う。


「紙だけじゃない。声もあった」


 Bランク剣士は返事をしない。


 ただ、剣を鞘に納める手が、少し震えていた。




 第1層へ戻ると、仮受付の前に人が集まった。


 グラントが確認紙を広げる。


「撤退条件は」


 Bランク剣士ではなく、治癒役が答えた。


「魔力半分以下。該当しました」


 グラントが記録する。


「副判断者は」


 斥候が答える。


「戻り道あり。今なら戻れると判断」


「盾役の合図は」


 盾役が盾を下ろした。


「下がりました。全員が下がりました」


 グラントは一つずつ記録する。


 淡々としている。


 その淡々とした記録が、妙に重い。


 メリダがBランク剣士を見る。


「核、見えた?」


「見えた」


「行きたかった?」


「……行けると思った」


 行きたかった、とは言わない。


 まだ、そこまでは言わない。


 メリダは追い詰めなかった。


「じゃあ、今日はそこまで記録しよう」


 Bランク剣士が顔を上げる。


「それで終わりか」


「終わりじゃないよ。続きは次に生きてるあんたが考える」


「嫌な言い方だな」


「耳に悪くて命にいいんだろ?」


「自分で言うな」


 Bランク剣士は、少しだけ口元を歪めた。


 笑ったのかもしれない。


 でも、すぐに消えた。


 マイラが治癒役を救護席へ案内する。


「座ってください」


「怪我はありません」


「魔力消耗と震えがあります」


「歩けます」


「歩けることと、判断できることは別です」


 治癒役は少しだけ目を丸くした。


 それから、静かに座った。


 救護席の淡い光が、指先の震えをゆっくり落ち着かせていく。


 Bランク剣士はそれを見ていた。


 自分の傷ではない。


 仲間の消耗。


 奥で声を出した者の疲れ。


 そこを見ている顔だった。


「半分で戻るのは早いって、昨日言ったな」


 ぼそりと、彼が言う。


 治癒役が顔を上げる。


「はい」


「今日も、早いとは思ってる」


 周囲の空気が少しだけ固まった。


 だが、Bランク剣士は続けた。


「でも、戻れた」


 それだけ言った。


 謝罪ではない。


 反省の演説でもない。


 ただ、結果を認めた。


 治癒役は、小さく頷いた。


「はい。戻れました」


 メリダが、少しだけ満足そうに目を細める。


「十分だね」


 その言葉に、Bランク剣士は何も返さなかった。


 ただ、確認紙をもう一度見た。


 紙に書いた条件。


 仲間の声。


 盾が下がる合図。


 それが、今日の彼の足を止めた。


 彼自身がそう言うには、まだ早い。


 でも、彼の目はそこを見ていた。




 午後になって、Cランク中心の六人組が揉めた。


 場所は仮受付の前ではない。


 装備置き場の横だ。


 盾を壁に立てかけ、荷物をまとめ、これから第5層へ入る直前だった。


 前衛の一人が不満そうに言う。


「Bランクでも戻るなら、俺たちはいつまで入口だけやるんだよ」


 仲間の魔術士が返す。


「入口でまだ足元を取られてる」


「でも、毎回戻ってたら進まない」


「進まない日があってもいい」


「それじゃ稼げない」


 声が鋭くなりかけた。


 そこへカティアが来た。


 偶然ではない。


 彼女は、朝からこの組を見ていた。


 前衛が何度も奥を見ていることも、魔術士がそれを気にしていることも、斥候が口を挟むタイミングを探していることも。


 全部、見ていた。


「稼げないのと、帰れないの、どっちがいいんだよ」


 前衛が口を閉じる。


 カティアは立ち止まり、前衛の靴先を顎で示した。


「その靴、泥なら踏める。石なら滑る。第5層の濡れた床で、まだ半歩遅れてる」


「見てたのか」


「見てた。で、まだ奥を見る癖がある」


 前衛の顔が少し赤くなる。


「入口だけで戻るのは、臆病じゃないですか」


「臆病でいいだろ。死ぬより安い」


 メリダが言いそうな言葉を、カティアはもっと雑に投げた。


「入口を軽く見る奴は、入口で足を取られる。門番に殺される前に、床に負けるぞ」


 魔術士が静かに言う。


「入口二戦。床が荒れたら撤退。それで申請しています」


 カティアは前衛を見る。


「お前がそれを破るなら、あたしがここで蹴って止める。奥で仲間に止めさせるより安いだろ」


「物騒ですね」


「安いって言っただろ」


 前衛はしばらく黙った。


 そして、荷物の紐を締め直した。


「入口二戦。床が荒れたら撤退」


「声が硬い」


「入口二戦。床が荒れたら撤退」


「まあいい」


 カティアは壁にもたれ、腕を組んだ。


「戻ってきたら、靴底見せろ」


「靴底?」


「そこに今日の答えが出る」


 前衛は嫌そうな顔をしたが、頷いた。


 Cランク組は第5層へ入った。


 予定通り、入口戦闘だけ。


 スチームバットの二体目を見失いかけた。


 スチームウルフを追いかけそうになった。


 レッドスプリングスライムで足元が熱くなり、盾役が一度膝をついた。


 床が荒れた。


 魔術士が言う。


「条件です。戻ります」


 前衛は奥を見た。


 見たが、戻った。


 第1層へ帰還後、カティアが本当に靴底を見せろと言った。


 前衛は不満そうに片足を上げる。


 靴底には、濡れ石で滑った跡が斜めに残っていた。


 カティアが指差す。


「ほら。足が奥じゃなく横に逃げてる」


 前衛は黙った。


「門番の前でこれやったら、盾の内側に転がるぞ。邪魔だ」


「邪魔って」


「生きて邪魔なら次に直せる。死んだら邪魔にもなれねえ」


 言い方は最悪だ。


 だが、前衛は怒らなかった。


 靴底を見ていた。


 魔術士が隣で小さく言う。


「次、靴を替えましょう」


 前衛は短く答える。


「ああ」


 軽傷確認も行われた。


 盾役の膝に軽い打撲。


 魔術士の喉に蒸気の痛み。


 斥候の手に小さな切り傷。


 マイラは三人を救護席近くへ座らせる。


「順番に見せてください」


 前衛が少し口を開きかけた。


 大げさだ、と言いそうな顔だった。


 だが、カティアが靴底を持ったまま横にいる。


 前衛は口を閉じた。


「……見せます」


 マイラが頷く。


「はい。お願いします」


 軽傷を見せる。


 記録する。


 酒場で笑う前に確認する。


 この流れが、少しずつ第1層に馴染んでいく。


 派手な勝利はない。


 だが、戻る形は増えていく。




 黒い水膜の前で、ヴェルティアが静かに言った。


『今日は、足ばかり見ているわね』


「足元の階層だからな」


『第5層は湯気と門番だけではない。床を見る者が増えている』


「いいことだ」


 俺は第1層を見ていた。


 Bランク剣士はまだ救護席の近くにいる。


 治癒役の震えが落ち着くのを見ている。


 Cランク前衛は、自分の靴底を見ている。


 魔術士は喉を押さえながら、次の風の角度を仲間と話している。


 盾役は革帯を外し、職人に見せている。


 斥候は戻り道の濡れ石の位置を仮受付へ伝えている。


 今日は、湯溜まりに届いた者はいない。


 門番を倒した者もいない。


 だが、見る場所が変わった。


 核だけではない。


 靴底。


 革帯。


 魔力。


 戻り道。


 仲間の声。


 そういうものへ視線が移っている。


 それは地味だ。


 でも、第6層にはたぶん必要な地味さだ。


 表示が浮かんだ。


【第5層門番戦撤退記録を確認】


【Bランク剣士、コア視認後に撤退】


【治癒役の魔力申告、盾役の撤退合図、斥候の戻り道確認を確認】


【Cランク組、第5層入口戦闘後に予定撤退】


【靴底、盾革帯、軽傷確認、救護席利用を確認】


【獲得DP:1280】


【現在DP:16436】


「千二百八十か」


『今日の記録は濃かったわ』


「湯溜まりなし、門番討伐なしでも?」


『ええ。欲を止めた。条件を守った。仲間の声で戻った。軽傷を隠さなかった。迷宮に触れた認識としては、十分よ』


「なるほど」


 DPの数字は増えた。


 けれど、まだ足りない。


 第6層を、環境だけではなく、通常魔物と番隊まで揃えて作るには、まだ遠い。


 それでも、昨日よりは近い。


 数字よりも、足元の方が近づいた気がした。


『作りたくなった?』


「なった」


『正直ね』


「今日のBランク剣士を見てると、第6層でどうなるか見たくなる。でも、まだだ」


『今なら、前より迷わない?』


「いや、迷う」


 俺は水膜の奥に、第5層の湯気を見た。


「迷うけど、作らない。今日みたいな記録が、もう少し必要だ」


『もう少し』


「うん。第5層で、核を見ても止まれる奴。入口だけで戻れる奴。治癒役の声で戻れる奴。靴底を見て黙れる奴。そういう奴が増えてからだ」


『第6層に入る者を選ぶため?』


「そう」


 ヴェルティアは少し満足そうだった。


『なら、今日の我慢は迷宮のためね』


「たぶん」


『たぶん?』


「いや、迷宮のため。あと、俺の趣味のため」


『趣味?』


「未完成で出すの嫌なんだよ。どうせなら完成品で殴りたい」


『言い方はともかく、迷宮主らしいわ』


「褒められた気がしない」


『褒めているわよ。半分くらい』


「もう半分は?」


『まだ見ている』


「厳しい」


 俺は笑った。


 水膜の向こうで、Bランク剣士が立ち上がった。


 治癒役も立つ。


 まだ少し疲れているが、震えは落ち着いている。


 Bランク剣士は、確認紙をもう一度見た。


 そして、紙の端に小さく何かを書き足した。


 グラントが気づき、覗き込む。


「次回用ですか」


「まだ決めてない」


「では、仮記録にします」


「何でも記録するな」


「仕事ですので」


 Bランク剣士は文句を言いながら、紙を置いていった。


 何を書いたのか、グラントが読み上げることはなかった。


 ただ、水膜越しに見えた。


 短い一文。


 核が見えた時、盾を見る。


 俺は、少しだけ黙った。


 口では認めない。


 謝りもしない。


 だが、次の紙にそれを書いた。


 なら、今日はそれでいい。


 第5層は、湯気に慣れる場所になり始めていた。


 熱さを忘れるという意味ではない。


 熱いまま、怖いまま、欲しいまま、仲間の声で足を止める。


 そういう慣れ方だ。


 清水の迷宮は、今日も第6層を作らない。


 だが、第6層へ続くはずの足は、湯気の中で少しずつ形を覚えていた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は第5層の実戦で、撤退条件や仲間の声が本当に機能するかを描きました。

第6層はまだ伏せたままですが、そこへ進むための足場は少しずつ厚くなっています。


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