第56話 霧を作らない日
第5層へ挑む申請書の一枚が、仮受付の机の上で止まった。
止めたのはグラントだ。
筆を置き、相手の冒険者を見る。
「この内容では通せません」
相手はBランクの剣士だった。
肩幅が広く、装備も悪くない。
仲間は四人。
Cランクの盾役。
Cランクの魔術士。
D上位の斥候。
D上位の治癒役。
組み合わせとしては、無茶ではない。
ただ、申請書の撤退条件欄がひどかった。
そこには、短くこう書かれていた。
状況次第。
グラントはその二文字を指で叩いた。
「状況次第、では記録になりません」
Bランク剣士は少し不満そうに眉を寄せる。
「第5層は状況が変わる場所だろう。細かく決めても、その通りにはならない」
「その通りにならないから、先に決めます」
「俺たちは新人じゃない」
「はい。ですから、なおさらです」
グラントの声は静かだった。
だが、退く気はなさそうだった。
横で見ていたメリダが、机に肘をつく。
「状況次第って書く奴はね、だいたい奥で欲に負けた時も状況次第って言うんだよ」
Bランク剣士の目が鋭くなる。
「言い方が悪いな」
「耳に悪いだけで、命にはいい」
メリダは軽く言う。
「盾が割れたら戻る。治癒役の魔力が半分を切ったら戻る。斥候が戻り道を見失ったら戻る。そういう書き方をしておきな」
「数字や条件で縛ると、行ける場面を逃す」
「逃していいんだよ」
メリダの返事は速かった。
「逃した獲物はまた狙える。逃した命は戻らない」
少しだけ空気が重くなる。
Bランク剣士は口を閉じた。
仲間の治癒役が、小さく手を上げる。
「あの、魔力半分で戻る、は入れてほしいです」
Bランク剣士が振り向く。
「半分は早い」
「帰り道もあります」
「門番を倒せば帰還路がある」
「倒せなかった時の話をしています」
治癒役の声は小さい。
だが、引かなかった。
斥候も続ける。
「俺も戻り道を条件に入れたい。第5層の湯気は、帰りの方が見づらい」
Bランク剣士は二人を見た。
苛立っている。
だが、反論しきれない。
彼自身も、分かってはいるのだろう。
湯溜まりへ行きたい。
門番を越えたい。
Bランクとして、Cランク組より前へ出たい。
その気持ちは分かる。
分かるが、その気持ちをそのまま第5層へ持ち込むと、湯気に足を取られる。
グラントは新しい紙を差し出した。
「書き直してください。書き直したら、講習席へ」
「また講習か」
「はい」
「Bランクでも?」
「Bランクでもです」
Bランク剣士は鼻から息を吐いた。
紙を受け取る。
その手に、少し力が入っていた。
黒い水膜の前で、俺はその様子を見ていた。
「こういうのが出てくるよな」
『当然ね』
ヴェルティアの返事は、淡々としていた。
『第5層に価値があると知れば、人間は急ぐわ。危険を知っても、急ぐ者は急ぐ』
「救護席もできたしな」
『戻れば支えがある。そう思う者も出るでしょうね』
「戻れれば、だな」
『ええ。戻れれば』
俺は水膜に映る仮受付を見ながら、息を吐いた。
救護席を作った。
講習も増えた。
撤退判断も記録され始めた。
だが、それで全員が慎重になるわけではない。
むしろ、慎重な仕組みができたことで、多少無理をしてもいいと考える奴も出てくる。
安全柵ができると、柵に体重を預ける奴が出る。
人間、そういうところがある。
俺も人間なので、分かってしまうのが嫌だ。
『第6層を作ればいいのではなくて?』
ヴェルティアが言った。
意外な言葉ではなかった。
むしろ、彼女ならそう言う気がしていた。
「今?」
『ええ』
「第5層でまだこういう状態なのに?」
『だからよ』
ヴェルティアの気配が、黒い水膜の奥で少し強くなる。
『第5層に慣れ始めた者たちは、いずれ第5層を軽く見る。湯溜まり、護衛、救護席。人間側の手順が整うほど、迷宮を施設として扱う者が増えるわ』
「生活インフラ迷宮としては、耳が痛いな」
『貴方が作っているのは、人間の施設ではない。迷宮よ』
その言葉は、少し刺さった。
ヴェルティアは続ける。
『奥があると示すことは、迷宮としての圧になる。第5層の先に未知がある。そう分かれば、人間は第5層を終点だと思わない』
「でも、第6層を出すなら完成させたい。環境だけの冷たい通路を作っても、中身がない」
『中身のない冷気でも、人間は恐れるわ』
「恐れさせるためだけに作るのは違う」
『迷宮としては、違わないわ』
ヴェルティアの声は冷えていた。
怒っているわけではない。
けれど、俺とは違う場所から見ている。
『人間の準備が整うまで待ち続ければ、迷宮は人間の都合に合わせるだけになる。奥は、奥として存在するべきよ』
「それは分かる」
俺は否定しなかった。
分かる。
本当に分かる。
第6層を作りたい気持ちはある。
熱の次は冷え。
湯気の次は霧。
第5層の白さとは違う、肌に刺さるような白い冷気。
足元にまとわりつく霧。
近いはずの音が遠く聞こえ、遠いはずの足音が背中側で鳴る通路。
そこに魔物を置く。
霧に紛れる獣。
足首を狙う蟹。
冷たい床に溶けるスライム。
そして、最後に五体の番隊。
前へ立つフロストガード。
奥から射るミストアーチャー。
削った分を戻すフロストヒーラー。
霧と冷気で崩すミストキャスター。
横や背後へ消えるフォグスカウト。
第5層とは違う。
一体の強敵ではない。
小さな戦場だ。
冒険者側の役割を、魔物側も持つ。
盾役だけが強くても駄目。
前衛だけが速くても駄目。
魔術士だけが視界を開いても駄目。
治癒役を守れなければ崩れる。
斥候を軽く見れば、背中を刺される。
想像すると、形が見えてくる。
迷宮が、俺の意識に応えようとする。
第5層湯溜まりの奥。
温かい湯気の向こう。
そこに、冷たい白を差し込める。
今すぐではなくても。
いや、環境だけなら、もう少しで届く。
それが分かる。
分かってしまう。
俺は、少しだけ手を伸ばしかけた。
『作る?』
ヴェルティアが問う。
責める声ではない。
試す声でもない。
ただ、迷宮の核として、俺を見る声だった。
「……まだだ」
俺は手を引いた。
ただし、すっきりした答えではなかった。
迷った。
普通に迷った。
作りたい。
見たい。
冷たい霧の入口を、あの湯気の奥に置きたい。
でも、今じゃない。
「完成させられない奥を置くと、人間側も迷宮側も半端になる」
『半端』
「人間に見せるためだけの冷気なら、ただの脅しだ。迷宮としての試練じゃない。逆に、環境だけ先に作って後から魔物を足すと、第6層の意味がぼやける」
『意味にこだわるのね』
「こだわる。第6層は、第5層と違うものにする。そこは譲らない」
ヴェルティアは、少し黙った。
沈黙の間に、水膜の向こうでBランク剣士が講習席へ移動している。
まだ不満そうな顔だ。
だが、紙は書き直している。
治癒役の魔力半分。
斥候が戻り道に不安を出した時。
盾が大きく損耗した時。
撤退条件が、ようやく言葉になった。
『では、待つのね』
「待つ」
『必要な力が満ちるまで』
「通常魔物と番隊まで、一気に作れるだけ貯める」
『その間、第5層を甘くしないこと』
ヴェルティアの声が、少し鋭くなった。
『救護席があるからといって、第5層を人間向けに柔らかくしない。講習があるからといって、奥の危険を薄めない。そこは約束して』
「分かってる」
『本当に?』
「本当に」
俺は水膜を見る。
第5層は熱い。
湯気が視界を奪い、足元を滑らせる。
門番は容赦しない。
そこで死者も出た。
救護席を作ったのは、奥を柔らかくするためじゃない。
戻った者を支えるためだ。
「第5層はそのまま。第1層を厚くする」
『なら、いいわ』
ヴェルティアの気配が、少しだけ落ち着いた。
講習席では、メリダがBランク剣士の組を前に立たせていた。
「せっかくだから、書き直した条件を声に出してみな」
Bランク剣士が嫌そうな顔をする。
「必要か?」
「奥で声に出せないなら、ここでも出せないよ」
「……治癒役の魔力が半分以下になったら撤退」
治癒役が小さく頷いた。
「斥候が戻り道に不安を出したら撤退」
斥候も頷く。
「盾が大きく損耗したら撤退」
Cランク盾役が自分の盾を見た。
メリダは首を傾げる。
「大きく、ってどのくらい?」
Bランク剣士が詰まる。
盾役が口を開いた。
「縁が割れて受け流しに支障が出たら」
「いいね。具体的だ」
メリダが木板に書き留める。
「じゃあ追加。前衛が条件を無視して踏み込んだ場合は?」
空気が止まった。
Bランク剣士の眉が動く。
「俺のことか」
「自覚があるなら早い」
メリダは悪びれない。
「誰が止める?」
治癒役が言いにくそうに手を上げる。
「私が、止めます」
Bランク剣士がそちらを見る。
「お前が?」
「はい。私が魔力を見て、無理だと思ったら言います」
「戦闘中に聞こえなかったら?」
斥候が言った。
「俺が繰り返す」
盾役も続ける。
「俺が下がる。盾が下がったら、全員下がる形にする」
Bランク剣士は、何か言いたそうにした。
だが、言わなかった。
代わりに、短く頷いた。
「分かった」
メリダが笑う。
「はい、一歩前進。第5層へ行く前に、一回戻れたね」
「まだ入ってもいない」
「だからいいんだよ。入る前に戻れる奴は、奥でも戻れる可能性がある」
講習席の何人かが、妙に納得した顔をしていた。
なるほど。
確かに、これは一つの撤退だ。
強がりから、手順への撤退。
言い訳から、条件への撤退。
戦う前に、一度戻った。
悪くない。
黒い水膜の前で見ている俺にも、少し響いた。
迷宮に入る前から、迷宮は人間を試している。
いや、人間側が自分たちを試し始めたのかもしれない。
その日、第5層へ入った組は多くなかった。
無理に増やす必要はない。
むしろ、今日は申請と講習と救護席の運用が中心だった。
それでも、二組が第5層入口まで入り、一組が門番前で戻った。
門番を倒した組はいない。
湯溜まりへ届いた組もいない。
だが、戻り方の記録は増えた。
入口戦闘で、スチームバットの羽音を拾い損ねた斥候がいた。
その組は予定より早く戻った。
治癒役が、魔力の減り方を申告したからだ。
別の組では、ホットウォーターリザードの熱水で盾の革帯が傷んだ。
盾役はまだ行けると言ったが、事前に決めた条件に引っかかったため、斥候が撤退を告げた。
少し揉めた。
入口近くで、前衛が奥を見た。
でも、戻った。
戻った後、その前衛は救護席の端に座り、しばらく黙っていた。
怪我は浅い。
だが、納得するのに時間がかかっている顔だった。
マイラは急かさなかった。
ただ、水を置いた。
「傷は浅いです。でも、判断が重かったなら、少し座っていてください」
前衛は水を見た。
「怪我じゃなくても、座っていいのか」
「邪魔にならない時間なら」
「負けたみたいだ」
「戻ったんです」
マイラは淡々と言った。
「負けたかどうかは、次に同じ場所へ行った時に分かります」
前衛は黙って水を飲んだ。
この救護席、思ったよりも広い意味を持ち始めている。
傷を治す場所。
傷を見せる場所。
戻った判断を、少しだけ体に馴染ませる場所。
そこまでいくと、ただの設備ではない。
第1層の一部だ。
戻ってきた者を、すぐ次へ押し出さないための重し。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
水膜の前で、ヴェルティアが静かに言った。
『今の救護席、貴方は好きでしょう』
「分かる?」
『分かるわ。貴方、こういう地味な機能を見る時の方が嬉しそうだもの』
「派手な報酬も好きだけどな」
『でも、今はそちらではない』
「うん」
今日の動きで、迷宮に力が戻ってきているのが分かった。
大きくではない。
少しずつだ。
講習を受ける。
条件を書く。
入る前に言葉にする。
戻る。
傷を見せる。
救護席へ座る。
それらが迷宮に触れ、ゆっくりとDPになっていく。
今の合計は、一万五千を少し超えた。
霧冷えの回廊の環境だけなら、もう作れるところまで来ている。
その事実が、また俺を少し揺らした。
今なら作れる。
冷たい霧だけなら。
温かな湯気の奥に、ひやりとした白を置ける。
次に湯溜まりへ届いた冒険者が、それを見たらどう思うだろう。
恐れるか。
興奮するか。
戻って報告するか。
それだけでも、きっと大きな反応がある。
DPだって動くだろう。
外の欲ではなく、実際に見た者の認識なら、迷宮に触れる。
そう考えた瞬間、また手が伸びそうになった。
ヴェルティアは止めなかった。
止めない。
彼女は迷宮の核だ。
作れるものを作ること自体を、悪いとは思っていない。
だからこそ、ここは俺が止めなければならない。
「作らない」
今度は、さっきよりもはっきり言えた。
『理由は?』
「半端だから」
『それだけ?』
「それだけじゃない」
俺は第1層を見る。
救護席。
仮受付。
講習席。
第5層へ向かう入口。
戻ってきた冒険者。
水を飲む前衛。
記録を書くグラント。
盾の革帯を確認する職人。
魔力残量を話す治癒役。
「人間側が、第5層を道具に変えようとしてる。湯溜まり、護衛、救護席、報酬。便利なものにしようとしてる」
『ええ』
「でも、今日みたいに揉めたり、書き直したり、戻ったりしているうちは、まだ第5層を見てる。怖さも、欲も、手順も、ちゃんと第5層の中で動いてる」
『第6層を見せれば、それが逸れる?』
「たぶん。奥があると知れば、第5層を足場にしようとする。まだ足場になりきってないのに」
俺は言葉を選ぶ。
「第5層を終点にする必要はない。でも、踏み台にするには早い」
ヴェルティアは黙った。
少しして、穏やかに言う。
『それは、人間側への配慮?』
「違う」
俺は首を横に振る。
「迷宮側の都合だ。第6層を第6層として機能させたい。第5層を軽く見たまま来た奴を、ただ霧で削るだけの場所にはしたくない」
『つまり、選びたいのね』
「うん。第6層に入る者を、ちゃんと選びたい」
『なら、待つ意味はあるわ』
ヴェルティアの声から、少しだけ鋭さが抜けた。
『貴方の答えは、人間に甘いからではない。迷宮として半端な入口を嫌った。そういうことね』
「そういうこと」
『なら、納得するわ』
「よかった」
『ただし』
「ただし?」
『待つ間に、第5層を温くしないこと』
「そこは約束する」
『救護席を理由に、奥を柔らかくしないこと』
「しない」
『人間側の紙や条件に合わせて、門番の腕を遅くしたりしないこと』
「しない」
『よろしい』
少しだけ、いつもの調子が戻った。
俺も息を吐く。
今日は、作らない。
環境だけなら作れる。
でも、作らない。
それは正解を最初から持っていたからではない。
迷った。
作りたかった。
湯気の奥に霧を見たかった。
でも、やめた。
作るなら、通常魔物も、番隊も、報酬へ続く意味も揃える。
それまでは、第5層を回す。
救護席を動かす。
講習を厚くする。
撤退の言葉を、人間たちの口に馴染ませる。
夕方近く、Bランク剣士の組が第5層入口から戻ってきた。
門番前までは行っていない。
スチームウルフとの戦闘で、盾役の革帯が傷んだ。
条件に引っかかった。
戻った。
Bランク剣士は不満そうだった。
だが、治癒役は明らかにほっとしていた。
斥候は戻り道で見つけた濡れ石の位置を報告した。
盾役は革帯を修理に出すと言った。
グラントが記録を取り、メリダが短く頷く。
「揉めた?」
Bランク剣士は渋い顔で答えた。
「少し」
「戻った?」
「戻った」
「なら今日は勝ちでいいよ」
「門番も見てない」
「条件を守った。仲間の声を聞いた。戻って報告した。十分だよ」
Bランク剣士は、納得していない顔のまま黙った。
その横で、治癒役が小さく言う。
「私は、助かりました」
Bランク剣士がそちらを見る。
治癒役は目を逸らさなかった。
「奥で言い出すより、紙に書いてあった方が言えました」
その一言で、Bランク剣士の顔から少し力が抜けた。
「……そうか」
「はい」
「なら、次も書く」
メリダが満足そうに笑った。
大きな勝利ではない。
湯溜まりにも届いていない。
だが、今日一番大事だったのは、たぶんこの一言だ。
次も書く。
それは、第5層へ戻る足が一本増えた音だった。
俺は黒い水膜の前で、小さく頷く。
「作らなくてよかった」
『今は、ね』
「うん。今は」
ヴェルティアの言う通りだ。
いつまでも作らないわけではない。
霧冷えの回廊は、いずれ作る。
冷たい霧も、濡れた石床も、音の狂う通路も、役割を持った番隊も。
全部揃えて作る。
その時は、人間側にも第5層を越えてきた足があるはずだ。
走る足だけではない。
止まる足。
戻る足。
仲間の声を聞く足。
それが揃ってから、霧に入ればいい。
今日は、霧を作らない日。
作れるものを作らずに済んだ日。
清水の迷宮は、奥を増やさなかった。
その代わり、第5層から戻るための言葉を、少しだけ増やした。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は第6層をまだ形成せず、第5層の運用と撤退条件、救護席の使い方を積み上げる話でした。
霧冷えの回廊は構想のまま、通常魔物と番隊まで揃えられる力が集まるまで待つことになります。
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