第55話 王都へ届く湯気と訃報
第5層の掲示板には、三つの記録が並んだ。
【第5層Cランク攻略記録】
【第5層重傷撤退記録】
【第5層死亡記録】
成功。
重傷。
未帰還。
その三つが並ぶと、第1層の空気は分かりやすく変わった。
湯溜まりの話をする者は、まだいる。
髪が艶やかになるとか、手肌が整うとか、湯上がりの冷果水がうまいとか。
そういう話は消えない。
消えないが、声の出方が変わった。
昨日までなら、誰かが言った。
「俺もそろそろ第5層、行ってみるか」
今は違う。
「俺もそろそろ第5層……いや、もう一回記録読むか」
そうなる。
良いことだ。
読め。
読んでから行け。
読んで、それでも行くなら行け。
迷宮は止めない。
ただ、掲示板は黙って立っている。
清水の救護席の前にも、人が集まっていた。
【清水の救護席】
【重傷者優先】
【治癒師、記録係の指示に従うこと】
【座る、または寝かせることで微弱な治癒補助を受けられます】
【擦り傷、打撲、軽い火傷、軽度の出血、疲労由来の震えに有効】
【骨折、深い裂傷も通常より回復が早まります】
【治療の代替ではなく、治療補助です】
【瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には追いつきません】
【長時間占有禁止】
【傷を隠さず、帰還後すぐ申告すること】
この板も、何度も読まれている。
特に最後の方。
瀕死には追いつかない。
即死には効かない。
そこを読んでから、冒険者たちは救護席を見る。
便利な場所だ。
だが、助けてくれる場所ではない。
戻ってきた者を支える場所だ。
その違いが、第1層の空気に少しずつ染みていった。
マイラは救護席の運用記録を取っていた。
「ロナンさん、腕の痛みはどうですか」
前回の重傷撤退で腕を折ったロナンが、救護席に座っている。
左腕はまだ吊られている。
すぐ治るわけではない。
だが、顔色は前よりいい。
「熱が引くのは早い。夜に疼くのも少し減った」
「動かしてはいけません」
「分かってる」
「分かっている人は、普通そこで手を動かしません」
ロナンの指が少し動いたところで、マイラの声が飛んだ。
ロナンは大人しく手を止める。
隣では、ヘレナが救護席に腰を下ろしていた。
魔力枯渇の震えが残っていた治癒役だ。
「長く座ると、体の芯が少し戻る感じがします」
マイラが記録する。
「魔力そのものを回復するわけではなく、疲労由来の震えと緊張を抑える方向ですね」
ティアが横から頷く。
「治癒術の代わりにはならないわ。でも、処置後に寝かせる場所としては有効」
メリダが笑う。
「つまり、戻ってから怒られる場所ができたわけだ」
ロナンが顔をしかめる。
「怒られる前提か」
「そりゃそうだよ。戻ったらまず怒られる。生きてる証拠だね」
カティアが横から言う。
「怒られるうちは上等だろ。死んだら怒鳴れねえからな」
軽口の形をしているが、内容は軽くない。
ただ、こうやって言葉にできるくらいには、第1層は動き始めていた。
未帰還者が出た。
それで全部が止まるわけではない。
止まったら、第5層はただの恐怖になる。
記録して、講習にして、席を作って、次へ渡す。
それが、ここでのやり方だった。
メリダは講習席に新しい板を立てた。
【第5層追加講習】
【コアが見えた時ほど、足を止めること】
【視界を確保した時ほど、横方向を疑うこと】
【魔術で湯気を割っても、安全が確定するわけではない】
【斥候は足元だけでなく、戻り道を確認すること】
【回収不能判断は裏切りではなく、帰還判断である】
【戻った者が記録を残すこと】
講習席に座った冒険者たちは、誰も茶化さなかった。
いつもの臆病者講習なら、少しは笑いが混じる。
メリダもあえて軽く言う。
「いいかい。コアが見えた時、人間はだいたい馬鹿になる」
何人かが苦笑する。
メリダは木板で掲示板を叩いた。
「笑うところだけど、笑って終わるなよ。見えた時が一番危ない。見えてない横から腕が戻る。記録にあるね」
冒険者たちは頷く。
「魔術士が湯気を割る。斥候が足場を見る。盾が腕を逸らす。そこまでは良い。けど、道が見えた瞬間、前衛が走ったら終わる」
メリダは自分の足元を指す。
「足は勝手に前へ出る。だから、出る前に声を聞く。盾役の声、斥候の声、治癒役の声。聞けない奴は第5層へ行くな」
講習席の空気が引き締まった。
そこへカイルが通りかかり、真顔で頷いた。
「分かる。コア見えると行きたくなる」
ティアが横から冷たく言う。
「あなたは特にね」
「いや、今は待つって覚えたから」
「覚えたなら、三回復唱しなさい」
「コアが見えても走らない。コアが見えても走らない。コアが見えても走らない」
講習席の空気が少しだけ緩む。
メリダが笑った。
「はい、Aランクでも復唱する。Cランク以下はもっとやる」
カイルは少し照れた顔をしたが、反論はしなかった。
その横でクレスが静かに掲示板を見ている。
成功記録。
重傷撤退記録。
死亡記録。
そして、追加講習。
クレスは短く言った。
「記録は増えた。次は、読む側の問題だ」
カティアが鼻を鳴らす。
「読むだけで済むなら苦労しねえよ」
「だから講習がある」
「まあな」
冒険者たちは、そのやり取りも聞いていた。
強い者が軽く扱わない。
それだけで、記録の重さは増す。
黒い水膜の前で、俺は第1層の様子を見ていた。
「救護席、ちゃんと使われてるな」
『ええ』
「よかった。高かったからな、あれ」
『またDPの話?』
「大事だろ。五千四百だぞ。俺の感覚だと、家電一式を買った気分だ」
『カデンイッシキ?』
「ああ、そこからか」
ヴェルティアに説明するには、少し長い。
冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器。
いや、炊飯器から説明しなきゃいけないか。
米文化の迷宮が始まってしまう。
「まあ、生活に必要な高いやつらだ」
『雑ね』
「説明すると長いんだよ」
『貴方の元の世界の話は、大抵そうね』
「はいはい」
『はいは一回!』
「はい」
『よろしい』
いつものやり取りで、少し肩の力が抜けた。
水膜の中では、メリダが講習を続けている。
マイラが救護席の記録を取っている。
グラントが護衛依頼の条件を整理している。
第5層に行く者は、一時的に減った。
だが、完全に止まってはいない。
むしろ、講習席に座る者は増えた。
「怖がって終わり、にはならなかったな」
『ええ。怖さが手順に変わっているわ』
「いいことだ」
『迷宮としてもね』
「DP的にもな」
『そこは隠さないのね』
「隠してもしょうがないだろ。第5層まで行く冒険者がいなくなったら、DPも減る。湯溜まり護衛も止まる。第6層どころじゃない」
『だから第1層を厚くする』
「そう。奥は甘くしない。でも戻ったら支える」
表示が浮かぶ。
【清水の救護席、運用開始】
【第5層追加講習、実施】
【第1層内での帰還判断、治療補助、再挑戦意識を確認】
【冒険者の慎重さ、講習需要、救護席利用、帰還欲を獲得】
【獲得DP:1040】
【現在DP:14396】
「お、増えた」
『第1層内で動いた認識だからね』
「王都とか教会が外で騒いでも?」
『それだけでは増えないわ』
「だよな。外部の欲まで勝手に吸ったら、迷宮じゃなくて怪談だ」
『貴方、時々まともなことを言うわね』
「時々って何だよ」
『頻度の問題よ』
「厳しい」
DPは増えた。
だが、それは王都や外の商人が噂したからではない。
第1層で、救護席が使われた。
講習が更新された。
冒険者たちが記録を読み、怖さを手順に変え始めた。
その認識が、迷宮に触れた。
だから増えた。
そこは間違えない方がいい。
外でどれだけ噂が膨らんでも、その欲はまだ迷宮に届いていない。
届くのは、人がここへ来て、水を飲み、掲示板を読み、足を踏み入れた時だ。
「となると、外への報告はDPじゃなくて、制度の話だな」
『ええ。人間側の動きよ』
その通りだった。
第5層の死亡記録と救護席の形成。
それは、清水の迷宮の中だけでは終わらなかった。
ーーーーside プロンテラ冒険者ギルド
プロンテラ冒険者ギルドの奥室で、ギルド長は清水の迷宮から届いた報告書を読んでいた。
机の上には、三つの記録が写されている。
第5層Cランク攻略記録。
第5層重傷撤退記録。
第5層死亡記録。
そして、新しく形成された清水の救護席の概要。
ギルド長は、ゆっくり息を吐いた。
「来たか」
副官が眉を寄せる。
「死亡記録ですか」
「ああ。遅かれ早かれ出ると思っていたが、第5層で出た」
「閉鎖要請を出しますか?」
ギルド長は報告書を指で叩いた。
「第3層以降は本格迷宮だ。死亡者が出たから閉鎖、では冒険者ギルドが成り立たん」
「では?」
「条件強化だ」
副官が別紙を用意する。
ギルド長は読み上げる。
「第5層挑戦には第3層帰還記録、第4層突破記録、第5層入口戦闘講習、追加講習受講を必須とする。門番戦において、コア狙い先行を禁止。撤退判断者を事前申告。回収不能判断をした者を罰しない」
副官の筆が止まる。
「罰しない、と明記しますか」
「明記する。戻った者を責める空気ができれば、次は全滅する」
「……分かりました」
「それと、護衛依頼の条件も上げる。奥方護衛、商人護衛、見物気分の同行者は論外だ」
「湯溜まり需要は落ちませんか」
「落ちるだろう。一時的にはな」
ギルド長は報告書の救護席の項目を見る。
「だが、戻れば治療補助がある。これは大きい。無茶の理由にさせるな。戻る理由にしろ」
副官は頷いた。
「清水の迷宮は、危険を隠していませんね」
「そこが厄介で、信用できるところだ」
「厄介で信用できる」
「そういう迷宮だ」
ギルド長は、王都宛ての写しを用意するよう指示した。
「冒険者ギルド本部にも送る。死亡記録と救護席形成。両方だ。片方だけ送ると意味が歪む」
副官が頷く。
「すぐに」
ギルド長は窓の外を見た。
清水の迷宮は、湯と美容の話だけでは済まなくなった。
冒険者を呼ぶ。
商人を呼ぶ。
怪我人を出す。
死者も出す。
そして、戻った者を支える設備を作る。
「迷宮らしくなってきたな」
その声は、評価とも警戒ともつかなかった。
ーーーーside 教会
エリオ神官は、清水の迷宮から写された報告を静かに読んでいた。
第5層死亡記録。
清水の救護席。
微弱治癒場。
常時ライトヒール相当。
ただし、祈りによる発動ではない。
教会の癒やしではない。
迷宮機能として形成されたもの。
助祭トマが不安そうに尋ねる。
「神官様、これは……奇跡でしょうか」
エリオ神官は首を横に振った。
「少なくとも、教会が扱う奇跡とは違う」
「癒やしなのに?」
「癒やしの形をしていても、祈りに応じていない。清水の間と同じだ」
トマは報告書を見下ろす。
「なら、危険ですか」
「危険でもあり、有用でもある」
「両方ですか」
「両方だ」
エリオ神官は、救護席の注意書きを指でなぞる。
【瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には追いつきません】
「ここを隠していない」
「はい」
「人を集めるだけなら、この一文は邪魔になる。だが、迷宮は掲示している」
「なら、誠実なのでしょうか」
「迷宮に誠実という言葉を当ててよいかは分からない。ただ、少なくとも人間側が誤解しないための形にはなっている」
トマは少し考える。
「死亡者が出たのに、救護席を作ったんですよね」
「ああ」
「死者を戻すためではなく?」
「戻った者を支えるためだ」
エリオ神官は報告書を閉じた。
「教会としては、二つ伝える必要がある。救護席を奇跡として扱わないこと。もう一つは、救護席があるからといって無茶をしないこと」
「祈れば助かる場所ではない」
「そうだ。戻らなければ、癒やしも届かない」
トマは黙って頷いた。
清水の迷宮は、信仰を求めない。
祈りに反応しない。
それでも、人を救う形を一つ作った。
教会にとって、それは扱いづらい。
だが、無視できない。
エリオ神官は王都教会への報告文を書き始めた。
ーーーーside 王都
王都に報告が届いたのは、それからしばらく後のことだった。
王宮の一室。
王女は、清水の迷宮に関する報告を両手で持っていた。
最初に読んだ時、彼女の表情は明るくなった。
湯溜まり。
髪や肌が整う効果。
商家奥方の到達。
冷果水。
清水の救護席。
だが、途中から表情が変わった。
第5層死亡記録。
門番戦にて一名未帰還。
コア狙い先行。
回収困難。
撤退判断により四名帰還。
王女は静かに言った。
「危険を、隠していないのですね」
向かいに座る王太子は、別の写しを読んでいた。
「隠していないからこそ、人が集まる」
「隠さないから、信じられるのではなくて?」
「その面もある。だが、危険が明記されていても人は行く。美容、報酬、名誉、商機。理由はいくらでもある」
王女は報告書を見る。
「でも、戻った人のために救護席を作っています」
「そこが一番厄介だ」
「厄介?」
王太子は机に報告書を置く。
「危険なだけなら、封鎖論が出る。利益だけなら、奪取論が出る。だが、あの迷宮は危険と利益と救護を同時に出している」
「悪いことではないと思います」
「悪いとは言っていない。制度なしで人を集めるには、あまりに強いと言っている」
王女は少し黙った。
王太子の言葉は冷たく聞こえる。
だが、心配していないわけではないことも分かっていた。
「王都から、誰かを送るのですか」
「正式な視察は避けられない」
「討伐ではなく?」
「現時点で討伐理由はない。死亡者は出たが、第3層以降の本格迷宮であり、記録も警告も講習もある。むしろ人間側の制度が追いついていない」
「では、何を見るのですか」
「所有権、管理権、税、護衛依頼、貴族の利用制限、救護席の扱い、教会との線引き」
王女は小さく眉を寄せた。
「たくさんありますね」
「ありすぎる」
王太子はため息をついた。
「美容効果のある湯、商人が欲しがる報酬、中堅冒険者でも届く階層、死亡記録、救護機能。これを地方の村と冒険者だけで回し続けるのは難しい」
「迷宮は、人間のものではないのでしょう?」
「だから厄介なんだ。人間のものではない場所に、人間の制度をどこまで掛けるかを決めなければならない」
王女は報告書の最後を見た。
【清水の救護席】
【戻った者を支える設備】
「私は、見てみたいです」
王太子の目が細くなる。
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「言う前から駄目だ」
「兄上」
「死亡記録を読んだ直後に、王女が湯溜まりを見たいと言い出したら、周囲の胃が死ぬ」
「私は湯溜まりだけを見たいわけではありません」
「なお悪い」
王女は少しだけ頬を膨らませた。
王太子は報告書をまとめる。
「まずは調査官を送る。冒険者ギルド、商業ギルド、教会、それぞれの報告を照合する。清水の迷宮が何をして、何をしていないのかを確認する」
「何をしていないのか?」
「そこが大事だ。外で欲しがる者がどれだけいても、迷宮がその欲を直接力にしているわけではない。少なくとも報告上は、迷宮内での行動と認識が変化を生んでいる」
王女は少し驚いた顔をした。
「そこまで見るのですね」
「見なければならない」
王太子は窓の外へ目を向けた。
「外の欲だけで迷宮が膨らむなら、それは都市の噂だけで怪物が育つようなものだ。そうではないなら、現地管理と入場制限で制御できる余地がある」
「では、清水の迷宮はまだ制御不能ではない?」
「まだ、だ」
その言葉は重かった。
王女は報告書を胸元へ抱えた。
「危険を隠さず、戻った者を助ける場所を作る迷宮……」
王太子は苦い顔をした。
「そういう言い方をすると、妙に善良に聞こえるからやめなさい」
「違うのですか?」
「迷宮だ。善良かどうかで判断するな」
「でも、人の営みに近づいています」
「だから調査が必要なんだ」
王都の窓の外では、何も湯気は立っていない。
清水の迷宮は遠い。
その遠さの分だけ、欲も恐れも膨らみやすい。
だが、その膨らみはまだ迷宮の力にはなっていない。
ただ、人間側の動きを早めるだけだった。
黒い水膜の前で、俺は第1層の掲示板を見ていた。
王都で誰が何を読んでいるかは、俺には見えない。
プロンテラの冒険者ギルドや教会で、どんな顔をされているかも分からない。
ただ、報告が外へ出たことは分かる。
グラントや仮受付の職員たちが写しを作っていたし、使者も出ていた。
外で何が起きるかは、人間側の話だ。
迷宮のDPとは、別の話。
「外が騒いでも、数字は増えない」
『ええ』
「でも、人は増えるかもしれない」
『それはあり得るわ』
「人が来て、ここで水を飲んで、掲示板を読んで、迷宮に入って、怖がったり欲しがったりすれば増える」
『そういうことね』
「分かりやすいようで、面倒だな」
『生きた運用とは、そういうものよ』
「ヴェル、最近まともな管理者っぽいこと言うな」
『最初からまともよ』
「はいはい」
『はいは一回!』
「はい」
『よろしい』
表示を呼び出す。
【第6層構想】
【霧冷えの回廊】
【冷霧、濡石、視界阻害、体温低下、距離感錯誤】
【報酬候補:霧蔵の小箱】
【空間格納、時間遅延、期限表示、破損時排出】
【推定必要DP:15000】
【現在DP:14396】
【DP不足】
「まだ少し足りないか」
『救護席を作ったからね』
「必要な遠回りだな」
『ええ』
第6層は、まだ開けない。
DPも足りていない。
それに、足りたとしても、すぐ開ける気にはなれなかった。
第5層の記録が出そろった。
救護席もできた。
講習も更新された。
外への報告も出た。
ここから、人がどう動くかを見る必要がある。
第6層は冷たい階層になる。
霧で見えず、足元が濡れ、体温が奪われ、距離感が狂う。
第5層とは別の危険がある。
湯気の次は、霧だ。
熱で判断を鈍らせた後に、冷えで判断を奪う。
そういう階層になる。
「もう少し、第5層と救護席の動きを見るか」
『そうね』
「王都の反応も、そのうち現地に来るだろうし」
『来るでしょうね』
「面倒だな」
『迷宮が大きくなるとは、面倒が増えることよ』
「生活インフラ迷宮、だいぶ役所っぽくなってきた」
『ヤクショ?』
「説明すると長い」
『またそれ?』
「はい」
『よろしい』
水膜の向こうでは、ミルが救護席の清水槽を布で拭いていた。
エナさんが慌てて止める。
「ミル、それは大人がやるから」
「でも、ここもおかえりの場所でしょ?」
「そうだけど、清水槽は勝手に触らないの」
「はーい」
マイラが苦笑しながら、救護席の使用記録を整えている。
メリダは講習席で、また冒険者たちを座らせていた。
グラントは新しい護衛依頼条件を書いている。
クレスは掲示板の前に立ち、カイルはその横で「コアが見えても走らない」を小さく復唱していた。
第5層は、人を帰さなかった。
その記録は消えない。
だが、その記録の隣に、救護席の板がある。
戻らなかった者の名前は、戻った者の判断材料になる。
戻った者の傷は、次の講習になる。
そして、帰ってきた者には、水と席がある。
王都へは湯気と訃報が届いた。
迷宮の中では、次に戻るための手順が増えた。
清水の迷宮は、今日も人を選ぶ。
そして人間たちは、選ばれるだけではなく、戻るための知恵を増やしていく。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は第5層の死亡記録と清水の救護席の運用が、冒険者ギルド、教会、王都へ伝わっていく話でした。
外の関心そのものは迷宮の力にはなりませんが、人間側の制度や視察の動きは少しずつ強まっていきます。
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