第54話 帰らなかった冒険者
第5層の掲示板には、二つの記録が並んでいた。
【第5層Cランク攻略記録】
【Cランク五名のみで湯溜まり到達確認】
【門番戦、正面突破は危険】
【足部破壊、視界確保、横槍処理、治癒役保護が重要】
【盾損耗大】
【撤退判断を保持できないパーティは挑戦不可】
そして、その隣。
【第5層重傷撤退記録】
【Cランク二名、D上位二名】
【門番戦にて撤退】
【湯溜まり未到達】
【盾役重傷、弓手肩損傷、前衛脚部損傷、治癒役魔力枯渇】
【一射欲、治癒役前進、盾角度喪失が崩れの原因】
【撤退判断が遅れると重傷化】
【撤退判断を出したため全員帰還】
成功と重傷撤退。
両方が並んだことで、第1層の空気は少し変わった。
酒場で第5層の話をする者は減っていない。
むしろ増えた。
ただ、声の温度が変わった。
「五人なら行ける」
「四人だときつい」
「盾が重要だ」
「治癒役が前に出ると崩れる」
「魔術士がいれば、湯気を払えるんじゃないか?」
「斥候が足元を見れば、もっと安定するだろ」
「でも、戻ってるんだろ?」
「戻ったから記録が残ったんだよ」
慎重になった者がいる。
逆に、成功例と失敗例の境目を見て、自分たちなら越えられると考える者もいる。
迷宮は、そういう場所だ。
怖さを見て下がる者もいれば、怖さを見て燃える者もいる。
掲示板の前に、五人の冒険者が立っていた。
Cランク盾役のガンズ。
Cランク女剣士のセリア。
Cランク魔術士のノルン。
D上位斥候のルカ。
D上位治癒役のヨハン。
全員、第3層と第4層の記録はある。
第5層入口戦闘講習も受けている。
ガンズは厚い盾を持ち、掲示板をじっと見ていた。
セリアは腰の剣を確認しながら、門番戦の記録を何度も読む。
ノルンは灰色の短杖を手に、湯気と視界に関する記録へ目を通している。
ルカはしゃがみ込み、掲示板下に残された泥や石片の跡を見ていた。
ヨハンは少し落ち着かない顔だった。
メリダが近づく。
「読むところ、そこだけでいいの?」
セリアが振り向いた。
「全部読んでる」
「目がコアのところばっかり見てるよ」
「コアを割らなきゃ勝てないでしょ」
メリダは木板で自分の肩を軽く叩いた。
「足を壊す記録も読んだ?」
「読んだ」
「盾損耗大は?」
「読んだ」
「治癒役を前に出すな、は?」
ヨハンが先に答えた。
「読みました。自分は前に出ません」
メリダはヨハンを見る。
「前に出たくなるよ。仲間が倒れたら」
ヨハンは少し黙った。
「……出ないようにします」
「そこ、出ませんって言い切れないなら、悪くないね」
ガンズが言う。
「撤退判断は俺が出す」
「セリアは従う?」
メリダの視線がセリアへ向く。
セリアは少し不満そうにした。
「従う」
「本当に?」
「従うって言ってるでしょ」
ルカがしゃがんだまま言う。
「ガンズが戻るって言ったら、私がセリアの外套を引く」
「私は子供か」
「湯気の中でコア見たら、子供より走りそうだから」
セリアは言い返そうとして、やめた。
ノルンが静かに言う。
「私は視界を作る。止める判断はガンズ。足元はルカ。治癒はヨハン。セリアは、前に出る前に一度声を聞く」
「分かってる」
軽口はある。
だが、完全に浮いているわけではない。
記録も読んでいる。
条件も満たしている。
止める理由はなかった。
仮受付の職員が確認する。
「ガンズ、セリア、ノルン、ルカ、ヨハン。第3層帰還記録、第4層突破記録あり。第5層入口戦闘講習受講済み。自主攻略として第5層挑戦記録を付けます」
グラントが横から言う。
「帰還後は、成否にかかわらず報告をお願いします。撤退時も、必ず記録を残してください」
ガンズが頷いた。
「分かっています」
メリダは最後に五人を見る。
「湯溜まりへ行く前に、帰る場所を忘れるな」
ルカが短く答えた。
「戻り道を見る」
「いい返事だね」
ミルが入口の近くで、小さく手を振った。
「いってらっしゃい」
ガンズが盾を軽く上げる。
「戻ってくる」
セリアも笑った。
「ちゃんと、おかえりって言ってね」
ミルは頷く。
「はい!」
セリアは掲示板をもう一度見てから、第5層へ向かった。
黒い水膜の前で、俺はその五人を見ていた。
「また第5層か」
『ええ』
「成功、重傷撤退、と来て次。まあ、こうなるよな」
『記録が増えた直後は、人も動くわ』
「第5層に行ける冒険者が増えるのは、迷宮としてはいい。でも、全員が湯溜まりまで行けるわけじゃない」
『そこを学ぶ期間ね』
「今回は魔術士と斥候入りか」
『前回より、視界と足元への意識はあるわね』
「その分、コアを狙う前衛が走りやすくなる可能性もある」
『見えたからこそ、進むこともあるわ』
「嫌な真理だな」
会社でもあった。
資料が整ったから、危険が消えたと勘違いする。
実際は、危険の場所が見えるようになっただけなのに。
迷宮なら、その代金はもっと高い。
俺は水膜を覗く。
ガンズたちは、第4層の奥から第5層へ降りていった。
「さて、どうなるか」
『見るしかないわね』
「記録係みたいになってきた」
『実際、記録は大事よ』
「分かってる」
俺は椅子に座り直した。
今日も、第5層の湯気が白く揺れている。
第5層入口。
ガンズが盾を構える。
「短い声で行く。ルカ、足元。ノルン、湯気。セリア、横。ヨハン、後ろ」
「了解」
「分かった」
「はい」
「見ます」
入口付近の湯気から、スチームバットが飛び出した。
ルカが先に音へ反応する。
「上、二体」
ノルンが短杖を振る。
細い風が走り、湯気が薄く割れた。
セリアが剣を抜く。
一体目を斬る。
二体目はノルンの風で軌道を乱され、ガンズの盾へぶつかった。
ガンズが盾で落とす。
まずは悪くない。
スチームウルフが二体。
ガンズが一体を盾で止める。
セリアが脚を切る。
ルカがもう一体の回り込みを短剣で牽制する。
ノルンが足元の湯気を散らす。
ヨハンが滑り止めの補助を入れる。
講習通り。
記録通り。
だが、セリアの踏み込みは少し深い。
「戻れ」
ガンズが言う。
セリアはすぐ戻った。
まだ、聞けている。
進む。
ミネラルクラブ。
ホットウォーターリザード。
レッドスプリングスライム。
それぞれを倒すたびに、五人は止まって呼吸を整えた。
ガンズの判断は悪くない。
ルカは足元の滑りと横道をよく見る。
ノルンは湯気を払う風と、床を冷やす小さな魔法を使い分けている。
ヨハンは治癒より補助を優先し、魔力を残している。
セリアは少し前へ出がちだが、声をかければ戻る。
危うさはある。
だが、崩れてはいない。
「行けるわね」
セリアが言った。
ガンズがすぐに返す。
「まだ門番前だ」
「分かってる」
ルカがセリアを見る。
「本当に?」
「分かってるって」
ノルンは何も言わなかった。
ただ、短杖を握る指が少し強くなっていた。
やがて、広間が見えた。
湯気の奥から、重い足音が響く。
ホットスプリングガーディアン。
白い鉱物殻。
青白い湯脈。
胸のコア。
肩から立つ蒸気。
巨大な腕。
セリアの目が、胸のコアへ吸い寄せられた。
ガンズが盾を前へ出す。
「まず足。記録通りだ」
「分かってる」
セリアは答えた。
答えたが、視線は胸のままだった。
ホットスプリングガーディアンの腕が振り上がる。
「受け流す!」
ガンズが盾を斜めに構えた。
衝撃。
盾が鳴る。
足が滑る。
ヨハンの補助が入る。
ガンズは踏み直した。
「右肩、湯気を割る」
ノルンが短く言い、風を通す。
弓手はいない。
その代わり、セリアが見えた肩へ踏み込む。
だが、ガンズの声が先に飛ぶ。
「肩じゃない。膝」
セリアは歯を食いしばり、軌道を変えた。
膝へ一撃。
戻る。
そこまでは良かった。
ルカが横から入り、ガーディアンの足元の濡れ石を確認する。
「右足、滑りやすい。こっちへ誘導できる」
ノルンが床へ冷気を流す。
ガーディアンの足元に、薄い白が走る。
記録にはない組み方だった。
悪くない。
魔術士と斥候がいるからできる動きだ。
ガーディアンの腕が戻る。
ガンズが盾を入れる。
「下がれ!」
セリアは下がる。
腕が床を叩き、石片が飛ぶ。
小さな破片がセリアの頬を切った。
血が流れる。
セリアは、それを指で拭った。
「浅い」
その声に、少し熱があった。
ガンズが眉を寄せる。
「冷静に行け」
「行けてる」
ホットスプリングガーディアンの胸が光る。
熱と蒸気。
白い壁が広がる。
「声!」
ガンズが叫ぶ。
「盾、中央!」
「剣、右!」
「斥候、足元!」
「魔術、後ろ左!」
「治癒、後ろ!」
返事はそろった。
ノルンが風を通す。
湯気が割れる。
それが、見せてしまった。
胸のコア。
さっきより開いている。
ガンズの盾が腕を逸らし、ノルンの風が蒸気を割り、ルカの誘導で足元がわずかに傾いた。
胸の前に、一瞬だけ道ができていた。
行ける。
そう思ったのが、セリアの動きに出た。
「セリア、まだ!」
ルカが叫ぶ。
ガンズも叫ぶ。
「戻れ!」
だが、セリアは踏み込んだ。
一歩。
二歩。
剣を低く構え、胸のコアへ向かう。
速い。
悪い動きではなかった。
相手が普通の魔物なら、勝ち筋だったかもしれない。
だが、ここは第5層の門番戦だ。
湯気が流れる。
視界が白くずれる。
ノルンが慌てて風を通そうとする。
しかし、風は一方向にしか道を作れない。
見えた道の横から、ガーディアンの左腕が戻ってきた。
ガンズは盾を出そうとした。
間に合わない。
ルカが短剣を投げる。
腕の関節に当たる。
少しだけ軌道がずれる。
だが、止まらない。
ヨハンが前へ出かける。
「出るな!」
ガンズが叫ぶ。
ヨハンは止まった。
止まってしまった。
治癒役としては正しい。
仲間としては、苦しい。
セリアが振り向いた。
一瞬だけ、目が合った。
次の瞬間、ホットスプリングガーディアンの腕が、セリアを湯気の向こうへ叩き込んだ。
音がした。
石と鎧と剣がぶつかる、嫌な音。
セリアの剣が床を滑った。
「セリア!」
ルカが叫ぶ。
ガンズが前へ出ようとする。
だが、ホットスプリングガーディアンがもう一歩踏み込んだ。
胸のコアは閉じかけている。
腕はまだ動く。
セリアは湯気の向こうで倒れている。
動きは見えない。
声もない。
ガンズは、盾を握り締めた。
行けば、届くかもしれない。
だが、行けば四人とも潰れるかもしれない。
ノルンが顔を青くして、杖を構える。
「風で、視界を」
「届く距離じゃない!」
ルカが叫んだ。
その声で、ガンズの判断が決まった。
「撤退!」
ルカが目を見開く。
「でも!」
「撤退!!」
ガンズの声が、広間に響いた。
ヨハンが唇を噛む。
ノルンの杖が震える。
ルカが床に落ちたセリアの剣を見た。
ホットスプリングガーディアンがこちらへ向き直る。
今、迷えば全員が戻れなくなる。
「声を切るな! 下がる!」
ガンズが盾を構えたまま後退する。
ルカはセリアの剣を見た。
拾えない。
拾いに行けない。
ノルンが何度も振り返る。
しかし、湯気が濃い。
セリアの姿は見えない。
声もない。
「ルカ!」
「いる!」
「ノルン!」
「いる!」
「ヨハン!」
「います!」
「下がれ!」
四人は広間から逃げた。
スチームバットが追う。
ノルンが風で軌道を乱す。
倒したかどうかは見ない。
ミネラルクラブが横から出る。
ガンズが盾で弾く。
倒さない。
止めるだけ。
ルカが足元の滑る場所を避けるように誘導する。
「右、濡れてる! 左!」
ヨハンが足元補助を入れようとして、魔力を止めた。
今使い切れば、途中で倒れる。
温存する。
それもまた、苦しい判断だった。
来た道を戻る。
湯溜まりへは届いていない。
帰還路は使えない。
第5層入口まで、自分たちの足で戻るしかない。
ルカは一度だけ振り向いた。
湯気の奥は白い。
何も見えない。
「セリア……」
ガンズが叫ぶ。
「止まるな!」
四人は戻った。
戻るしかなかった。
黒い水膜の前で、俺はその様子を見ていた。
「一人、残ったな」
『ええ』
ヴェルティアの声は短い。
「ガンズの撤退判断は?」
『遅くはないわ。踏み込みを止められなかった時点で、もう選択肢が減っていた』
「回収に行ったら?」
『四人とも危なかったでしょうね』
「だよな」
俺は水膜を見る。
四人は戻っている。
セリアは戻っていない。
第5層の門番戦で、コアを狙った。
魔術で湯気が割れ、斥候が足場を見た。
道が見えた。
だから踏み込んだ。
そして、見えていない横の腕を受けた。
記録として言えば、そうなる。
感情で言えば、もっといろいろあるだろう。
でも、俺がここでやるべきことは一つだ。
「記録にするしかないな」
『ええ』
「これで、第5層は死者も出る場所になった」
『最初からそういう場所よ。ただ、人間側の記録に載ったのが初めてというだけ』
「そういうことだな」
俺は椅子から立ち上がった。
「戻ってきた四人を見よう」
『ええ』
水膜の向こうで、ガンズたちは第5層を抜け、第4層を戻り、第1層へ向かっていた。
第1層へ戻った時、ミルはいつものように声を上げようとした。
「おかえりなさ……」
そこで止まった。
戻ってきたのは、四人だった。
ガンズ。
ノルン。
ルカ。
ヨハン。
セリアはいない。
酒場の音が消えた。
ガンズの盾は削れている。
ノルンの顔色は悪い。
ルカの手は震えている。
ヨハンは唇を噛んでいる。
だが、四人とも大きな怪我はしていない。
それが、逆に第1層の空気を重くした。
重傷者が戻った時の騒ぎとは違う。
救護の声が飛ぶより先に、全員が数を見た。
四人。
五人で行った。
四人。
メリダが最初に動いた。
「座りな。水を飲む」
ガンズは首を横に振った。
「報告を」
「水を飲んでから」
「先に、報告を」
メリダは一瞬だけガンズを見て、それから頷いた。
「分かった」
グラントが記録板を持つ。
クレスも近づいた。
カティアは周囲へ目を向ける。
「騒ぐな。聞け」
ミルはエナさんの服を握っていた。
ルカが椅子に座り、両手で自分の膝を押さえた。
ノルンは短杖を握ったまま、動けない。
ヨハンは床を見ていた。
ガンズが報告する。
「門番戦で、セリアがコアを狙って前へ出ました」
声は硬い。
「止めました。戻れと叫びました。でも、踏み込みました」
ルカが震える声で言う。
「私も、まだって言った」
ノルンが小さく続ける。
「私の風で、コアが見えました。見せてしまいました」
ガンズは続ける。
「蒸気の横から腕が戻りました。セリアは、ガーディアンの腕に叩かれました」
ヨハンが小さく言った。
「治癒は、届きませんでした」
ガンズの手が盾を握る。
「回収に行けば、全員潰れると判断しました。撤退しました」
その言葉に、酒場の何人かが息を飲んだ。
回収に行かなかった。
仲間を置いて戻った。
言葉だけなら冷たい。
だが、第5層の記録を読んでいる者なら分かる。
そこで回収に行けば、四人も戻らなかったかもしれない。
クレスが静かに言った。
「判断は間違っていない」
ガンズの顔が歪む。
「でも、戻れなかった」
「それも記録だ」
クレスの声は低い。
「残った者を助けるために全員が死ねば、記録も残らない」
ルカが唇を噛む。
ノルンは目を閉じた。
メリダが木板に書く。
「コア狙い先行」
「風による視界確保後、横方向警戒不足」
「蒸気による腕戻り視認失敗」
「回収不能」
「撤退判断により四名帰還」
一つずつ、文字になる。
感情とは別に、記録になる。
グラントが仮受付の職員へ頷く。
掲示板に、新しい板が掛けられた。
【第5層死亡記録】
【Cランク三名、D上位二名】
【門番戦にて一名未帰還】
【湯溜まり未到達】
【コア狙い先行】
【視界確保後の横方向警戒不足】
【蒸気による腕戻りを見誤る】
【ホットスプリングガーディアンの攻撃を受け、回収困難と判断】
【撤退判断により四名帰還】
【第5層は、死亡の可能性がある本格迷宮である】
酒場の冒険者たちは、その板を黙って読んだ。
成功記録。
重傷撤退記録。
死亡記録。
三つが並んだ。
それで、第5層の形がようやく完成した。
湯に入れる場所。
稼げる場所。
中堅でも届く場所。
怪我をして戻る場所。
そして、戻らない者が出る場所。
ミルは板を見ていなかった。
ただ、入口の方を見ていた。
そして、小さな声で言った。
「……おかえり、言えなかった」
エナさんが、ミルの肩を抱いた。
「そうね」
それ以上は言わなかった。
酒場の誰も、軽口を叩かなかった。
だが、時間は止まらない。
ガンズには水が出される。
ノルンは椅子に座らされる。
ルカの手の震えをマイラが見る。
ヨハンは呼吸を整えさせられる。
仮受付は記録を閉じる。
メリダは新しい講習項目を作る。
戻った者の仕事が、すぐに始まった。
黒い水膜の前で、表示が浮かんだ。
【第5層死亡記録を確認】
【ホットスプリングガーディアン戦にて一名未帰還】
【コア狙い先行、視界確保後の横方向警戒不足、回収不能判断を記録】
【第5層危険認識、死亡への恐怖、撤退判断、講習需要を獲得】
【獲得DP:920】
【現在DP:17896】
「増えたか」
『ええ』
「死亡そのものってより、第5層がそういう場所だって認識が増えた感じだな」
『そうね』
「成功、重傷、死亡。記録としてはそろった」
『人間側にも、見え方が変わるでしょう』
俺は水膜を見る。
冒険者たちの目は、明らかに変わっていた。
湯溜まりへの憧れだけではない。
門番への恐怖。
撤退判断への意識。
回収できない場面への想像。
魔術で視界を作っても、それが安全とは限らないという理解。
それが混じり始めている。
「第5層まで行く冒険者、減るかもな」
『一時的には減るでしょうね』
「それはそれでまずい」
『DPの話?』
「うん。第5層に誰も行かなくなったら、湯溜まりも、護衛依頼も、講習も、報酬も止まる」
『だからと言って、第5層を甘くするつもりはないのでしょう』
「ない」
そこは決まっている。
第5層の中の難易度を下げるつもりはない。
門番を弱くするつもりもない。
死なない階層にするつもりもない。
でも、戻ってきた者を支える場所は厚くできる。
ロナンたちの時もそうだった。
酒場の真ん中で崩れて、マイラやティアがその場で処置した。
導線が悪い。
見物人が邪魔になる。
布、水、寝かせる場所、治癒役の位置。
そこを整えるだけで、生還後の回復はかなり変わる。
「救護席、作るか」
『今?』
「今だな。死亡記録の後だからこそ、戻ってきた者を支える設備の意味が出る」
『第5層の中ではなく、第1層に』
「そう。奥で助けるんじゃない。帰ってきた奴を助ける」
『いい線引きね』
「DPは使うけどな」
『使うためのDPでしょう』
「はいはい」
『はいは一回!』
「出た」
『貴方が言わせたのよ』
「はい」
『よろしい』
俺は黒い水膜に意識を向ける。
第1層の酒場横。
洗い場と保管庫から少し離れた、静かな壁際。
人が運び込みやすく、見物人が溜まりにくい場所。
そこに、救護用の区画を思い浮かべる。
長椅子。
寝台。
清水槽。
布置き場。
治癒役が立てる余白。
記録係が書ける小机。
淡い治癒の気配。
常時ライトヒール相当。
ただし、万能ではない。
擦り傷。
打撲。
軽い火傷。
軽度の出血。
疲労由来の震え。
そういうものには効く。
骨折や深い裂傷も、通常より早く治る。
だが、瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には追いつかない。
治療の代わりではなく、治療の補助。
マイラや治癒役の処置を底上げする場所。
長時間占有を防ぐため、使用時間制限も必要だ。
表示が浮かぶ。
【第1層救護区画形成】
【清水の救護席、形成】
【救護用長椅子、寝台、清水槽、処置机を形成】
【微弱治癒場、安静補助、治癒処置補助を付与】
【常時ライトヒール相当】
【瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には対応不可】
【使用時間制限あり】
【消費DP:5400】
【現在DP:12496】
第1層の壁際が、静かに変わった。
床の白石が広がる。
長椅子が二つ。
寝台が三つ。
小さな清水槽。
布を置く棚。
記録用の机。
淡い青白い光が、床の模様を流れる。
派手な光ではない。
寝息のような、薄い治癒の気配。
酒場の冒険者たちが一斉に振り向いた。
「何だ?」
「新しい区画?」
「救護用か?」
マイラが真っ先に近づいた。
床に手をかざす。
目を細める。
「……治癒の補助があります」
ティアも横に立つ。
「弱いわね。でも、常時流れている」
マイラが頷いた。
「ライトヒール相当です。ただ、これは便利ですが万能ではありません」
グラントがすぐに言う。
「説明板が必要ですね」
「はい」
マイラは表情を引き締めた。
「誤解されると危険です」
仮受付の職員が板を持ってくる。
マイラが口に出し、職員が書く。
【清水の救護席】
【重傷者優先】
【治癒師、記録係の指示に従うこと】
【座る、または寝かせることで微弱な治癒補助を受けられます】
【擦り傷、打撲、軽い火傷、軽度の出血、疲労由来の震えに有効】
【骨折、深い裂傷も通常より回復が早まります】
【治療の代替ではなく、治療補助です】
【瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には追いつきません】
【長時間占有禁止】
【傷を隠さず、帰還後すぐ申告すること】
板が掛けられる。
冒険者たちは真剣に読んだ。
特に、最後から二つ目。
【瀕死、内臓損傷、大量出血、即死には追いつきません】
そこを何人もが読み返した。
マイラは、ロナンを呼んだ。
まだ前回の負傷で腕を吊っている。
「少し座ってください」
「俺で試すのか」
「はい。嫌なら別の方にします」
「いや、座る」
ロナンが救護席に腰を下ろす。
淡い光が、床からゆっくり上がる。
派手な変化はない。
骨が一瞬で繋がるわけでもない。
腕がすぐ動くわけでもない。
だが、ロナンは少しだけ眉を上げた。
「痛みの熱が、少し引く」
マイラが確認する。
「腕は動かさないでください」
「分かってる」
「腫れの引きは早くなりそうです。ただ、固定と休養は必要です」
ティアも頷く。
「治療を強くするというより、治る方向へ体を押す感じね」
ヘレナも、魔力枯渇の疲れが残っていたため、短く座らされた。
「体の震えが少し落ち着きます」
マイラが記録する。
「疲労由来の震えに有効」
軽い切り傷を負っていた冒険者も試される。
血は早く止まった。
だが、深い傷ならこれだけでは足りない。
マイラははっきり言った。
「これは、戻ってきた人を助ける場所です。死んでから運ばれても治りません。瀕死で運ばれても、処置が遅れれば間に合いません」
酒場が静かになる。
だが、必要な静けさだった。
カティアが腕を組んで言う。
「つまり、奥で馬鹿やっていい理由にはならねえってことだ」
「はい」
マイラが頷く。
「むしろ、戻る判断を早める理由にしてください。戻ってくれば、ここで処置できます」
メリダが笑った。
「いいねえ。帰る理由が一つ増えた」
グラントはすでに費用と運用を考えている。
「救護席の使用は無料にしますか?」
マイラが答える。
「基本は重傷者優先です。料金より、占有を防ぐ規則が先です」
グラントはすぐに頷いた。
「では、基本使用は無料。長時間占有、軽傷の独占、商会護衛依頼時の専用確保は別規定にしましょう」
カティアが半眼になる。
「結局、規定が増えるんだな」
「増えます」
「だろうな」
エナさんが布棚を確認する。
「血の布、泥の布、清潔な布を分ける場所が必要ですね」
マイラが頷く。
「救護席用の布は専用でお願いします」
ミルがそっと清水槽を覗く。
「ここ、怪我した人が座るところ?」
エナさんが答える。
「そうよ」
「じゃあ、戻ってきた人が少し楽になるところ?」
「そうね」
ミルは少しだけ考えた。
「じゃあ、ここも、おかえりの場所だね」
誰もすぐには返事をしなかった。
それから、マイラが静かに頷いた。
「そうですね」
戻ってきた者が座る場所。
戻ってきた者を支える場所。
戻らなかった者を救う場所ではない。
その線引きが、救護席にはあった。
黒い水膜の前で、表示が浮かんだ。
【清水の救護席の有効性を確認】
【帰還後治療需要、治癒師補助需要、再挑戦意欲、安心感を獲得】
【第1層受け入れ体制が強化されました】
【獲得DP:860】
【現在DP:13356】
「使った分、少し戻ったな」
『ええ』
「でも第6層は遠のいた」
『必要な遠回りよ』
「だな」
第5層で死者が出た。
これは消えない。
救護席を作っても、セリアは戻らない。
そこは変わらない。
でも、次に誰かが重傷で戻った時、寝かせる場所がある。
治癒役が動ける場所がある。
布と水がある。
微弱でも治癒補助がある。
それだけで、戻る判断の価値は上がる。
「奥は奥。第1層は第1層だな」
『ええ。第5層の危険はそのまま。第1層の受け皿は厚くする』
「生活インフラ迷宮っぽくなってきた」
『最初からそのつもりだったのでしょう?』
「まあな」
俺は水膜を見る。
掲示板には、成功記録、重傷撤退記録、死亡記録が並んでいる。
その少し横に、清水の救護席の説明板が掛けられた。
湯溜まりへ行く者は、それを読む。
戻ってきた者も、それを読む。
そして、戻れなかった者の記録も読む。
第5層は、甘くならない。
でも、第1層は少し厚くなった。
それでいい。
迷宮は奥へ進む者を試す。
だが、帰ってきた者には、水と席を用意する。
清水の迷宮は、その線をまた一つ引いた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は第5層で初めて帰らなかった冒険者が出る話でした。
その記録を受けて、第1層には帰還後の冒険者を支えるための清水の救護席が形成されます。
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