第53話 湯気の向こうで折れた盾
Cランク五人だけで第5層を突破した。
その話は、清水の迷宮の第1層に、思った以上の速さで広がった。
バレスたちは戻ってきた。
盾は割れた。
槍は折れた。
肩は切れた。
治癒役は魔力を使い切りかけた。
それでも、全員が戻ってきた。
そこまで含めて記録された。
掲示板にも、はっきり書かれた。
【第5層Cランク攻略記録】
【Cランク五名のみで湯溜まり到達確認】
【門番戦、正面突破は危険】
【足部破壊、視界確保、横槍処理、治癒役保護が重要】
【盾損耗大】
【撤退判断を保持できないパーティは挑戦不可】
だが、人間は不思議だ。
書かれている全部を読む者ばかりではない。
都合のいいところだけを拾う者がいる。
Cランク五名のみで湯溜まり到達確認。
そこだけが、酒場の空気の中で妙に光った。
「Cランクでも行けるってことだろ」
「バレスたちが行けたなら、俺たちも行けるんじゃないか」
「盾が割れたって言っても、戻ってきてるしな」
「湯に入れたんだろ?」
「報酬としては十分だ」
そういう声が、ちらほら混じるようになった。
もちろん、全員ではない。
記録を真剣に読む者もいる。
バレスの割れた盾を見て、顔をしかめる者もいる。
リーネの肩の傷を見て、笑えなくなる者もいる。
だが、成功の話は熱を持つ。
その熱は、湯気より厄介なことがある。
メリダは掲示板の前で、木板を肩に担いでいた。
「読んだ?」
声をかけられた冒険者たちが振り向く。
四人組。
Cランク二人。
D上位二人。
全員、若くはない。
経験もある。
だが、表情に少しだけ浮き足立ったものがあった。
先頭に立つのは、盾役のロナン。
Cランク。
丸盾ではなく、縦長の盾を使う男だ。
もう一人のCランクは、片手剣のセイル。
残る二人はD上位。
弓のナッツ。
治癒役のヘレナ。
ロナンは掲示板を指で叩いた。
「読んだ。第5層入口戦闘講習も受けた。第3層も第4層も突破済みだ」
メリダは眠そうな目で見る。
「門番戦の記録は?」
「読んだ」
「盾損耗大、も?」
「盾は新しい。昨日、鍛冶屋で補強してもらった」
「それはいいね。で、撤退判断は誰がする?」
「俺だ」
ロナンが言った。
迷いはない。
そこだけなら、悪くなかった。
メリダはセイルを見る。
「異論は?」
セイルは肩をすくめた。
「ロナンが駄目だと言えば戻る」
「本当に?」
「ああ」
ナッツが横から言う。
「でも、入口で戻るつもりはないですよ。さすがに門番までは見る」
ヘレナが少し不安そうにナッツを見る。
「見るだけなら、ね」
メリダは、その小さなズレを見逃さなかった。
「見るだけ、倒すまで、湯溜まりまで。その言葉は奥で変わるよ」
ロナンが笑う。
「分かってる。俺たちはバレスたちみたいに無茶はしない」
メリダの目が細くなった。
「バレスたちは無茶してないよ」
空気が少し止まった。
ロナンは、すぐに言い直した。
「悪い。そういう意味じゃない。俺たちも慎重に行く」
「ならいい」
メリダは木板を下ろす。
「講習を受けた。記録も読んだ。条件は満たしてる。止めはしない」
そこで、声が少し低くなった。
「でも、覚えておきな。第5層は、戻る判断が一拍遅れたら噛むよ」
ロナンは頷いた。
「分かってる」
その返事は、軽くはなかった。
だが、深くもなかった。
仮受付で挑戦記録が書かれる。
オルド村長は、また渋い顔をしていた。
「昨日の今日で行くのか」
ロナンが答える。
「記録が増えているうちに、行きます」
「増えているからこそ、読め」
「読みました」
仮受付の職員が確認する。
「ロナン、セイル、ナッツ、ヘレナ。第3層帰還記録、第4層突破記録あり。第5層入口戦闘講習受講済み。自主攻略。第5層挑戦記録を付けます」
ミルが不安そうに立っていた。
昨日、バレスの盾に「ありがとう」と言ったばかりだ。
今日は、別の盾が第5層へ向かう。
「いってらっしゃい」
ミルの声は、いつもより少し小さい。
ロナンは盾を持ち上げた。
「戻ってくる」
ミルは頷いた。
「おかえりなさいって、言います」
その言葉に、ヘレナだけが少し強く頷いた。
四人は、第5層へ向かった。
黒い水膜の前で、俺は腕を組んでいた。
「昨日の今日か」
『来ると思っていたのでしょう』
ヴェルティアの声は静かだ。
「思ってた。というか、来るよな。成功した直後が一番増える」
『ええ』
「バレスたちの記録を全部読めば、慎重になるはずなんだけどな」
『人間は、欲しいところから読むものよ』
「耳が痛い」
俺も会社員時代、説明書を最後まで読まないタイプだった。
いや、命がかかっているなら読む。
たぶん読む。
たぶん。
ロナンたちは弱くない。
Cランク二人とD上位二人。
無謀な新人ではない。
講習も受けている。
記録も読んでいる。
装備も整えている。
止める理由はない。
ただ、第5層がその「悪くない準備」をどう判定するかは別の話だ。
「ロナンたち、悪いパーティじゃないよな」
『悪くないわ』
「でも、昨日の五人より薄い」
『そうね。人数も、役割の厚みも、余裕も少ない』
「この差がどこで出るかだな」
『出るなら門番戦でしょうね』
水膜の中で、第5層の湯気が白く揺れた。
俺は椅子に座り直す。
「よし。記録を見るか」
『言い方が管理者らしくなってきたわね』
「嬉しくない成長だな」
『必要な成長よ』
まったく、その通りだった。
第5層入口。
ロナンが盾を前へ出す。
「声を短く。入口で崩れない」
セイルが剣を抜く。
「了解」
ナッツが弓を構える。
「上を見る」
ヘレナが杖を握る。
「治癒は温存します」
入口付近の湯気から、スチームバットが飛んだ。
二体。
ナッツが矢を放つ。
一体の羽を抜く。
落ちる前にセイルが斬る。
もう一体は上へ逃げる。
「追うな」
ロナンが言う。
ナッツの指が二射目をつがえかけて止まった。
「了解」
ここまでは、悪くない。
次に来たのはスチームウルフ。
二体。
ロナンが一体を盾で止める。
セイルが横から切る。
ナッツがもう一体の脚を射る。
ヘレナが足元に滑り止めの補助を入れる。
講習でやった動きだ。
多少荒いが、形になっている。
ロナンは息を吐いた。
「止まる。呼吸」
四人は止まった。
熱気の中で、呼吸を整える。
ナッツが小さく笑った。
「行けるな」
ヘレナがすぐに言う。
「まだ入口です」
「分かってる」
返事はあった。
だが、目は奥を見ていた。
進む。
ミネラルクラブ。
ホットウォーターリザード。
スチームボア。
戦闘は続く。
ロナンの盾はよく働いた。
縦長の盾で正面を塞ぎ、熱水を斜めに流す。
セイルは横から切り込み、深追いしない。
ヘレナは治癒を温存し、足元補助を優先する。
ナッツは湯気に少し苦戦したが、射撃の腕は悪くない。
だが、少しずつ削られていく。
ロナンの腕が痺れる。
セイルの呼吸が上がる。
ナッツの矢が減る。
ヘレナの額に汗が浮かぶ。
そして、湯気の中では、その少しずつが見えにくい。
「休むか」
セイルが言った。
ロナンは周囲を見る。
魔物の気配は遠い。
「短く休む」
そこで止まった。
悪くない判断だった。
だが、ナッツが奥を見ながら呟いた。
「バレスたちは、この先で門番まで行ったんだよな」
ヘレナが答える。
「昨日の人たちは、五人でした」
「分かってる」
「私たちは四人です」
「分かってるって」
ロナンが二人を見た。
「人数の差は分かってる。だから無理なら戻る」
セイルが軽く頷く。
「今はまだ戻れる」
その言葉が、少しだけ危なかった。
今はまだ。
奥へ進む理由にも、戻らない理由にもなる言葉だ。
四人は進んだ。
ホットスプリングガーディアンの広間が近づく。
黒い水膜の前で、俺は息を吐いた。
「今はまだ戻れる、か」
『便利な言葉ね』
「だな。戻るためにも使えるし、進むためにも使える」
『だから危うい』
ロナンたちはまだ崩れていない。
戦闘もできている。
撤退を考える余力もある。
だからこそ、進む。
完全に崩れていたら、逆に戻りやすい。
まだ行ける。
まだ戻れる。
まだ倒せる。
この「まだ」が、第5層ではややこしい。
「今日の記録は、その辺になりそうだな」
『ええ。成功例の次に必要な記録ね』
「成功したやつの次は、だいたい誰かが境目を踏む」
『経験則?』
「元会社員のな。前任者ができたから自分もできると思って、手順を一つ飛ばすやつ」
『妙に具体的ね』
「地味に痛いんだよ、あれ」
ヴェルティアは少しだけ呆れたように沈黙した。
水膜の向こうで、ロナンたちは門番の広間へ入った。
広間。
湯気の奥から、重い足音が響く。
ホットスプリングガーディアン。
ロナンが盾を構える。
「門番。記録通り、まず足を狙う」
セイルが剣を下げる。
「右から入る」
ナッツが弓を構える。
「肩と膝を見る」
ヘレナが杖を握る。
「無理なら戻ります」
「分かってる」
ロナンが答えた。
ホットスプリングガーディアンの腕が振り上がる。
「受け流す!」
ロナンが盾を斜めに構えた。
衝撃。
盾が鳴る。
ロナンの足が滑る。
ヘレナの補助が入る。
持ち直す。
最初の一撃は耐えた。
「いける!」
ナッツが叫び、右肩の噴気孔を狙う。
一射。
当たった。
噴気孔の縁が欠け、蒸気の流れが乱れる。
セイルが右へ走る。
足元を見る。
深追いしない。
膝へ斬り込む。
一撃。
戻る。
ここまでは、記録通り。
だが、ガーディアンの腕が予想より早く戻った。
「戻れ!」
ロナンの声。
セイルは戻る。
腕が床を叩く。
石片が飛ぶ。
セイルの脚に当たった。
「くっ」
「セイル!」
「動ける!」
セイルは叫んだ。
動ける。
確かに動ける。
だが、足の動きは少し鈍った。
ヘレナが治癒に行こうとする。
「まだ!」
ロナンが止める。
治癒役が前へ出るには早い。
ヘレナは歯を食いしばって止まった。
ホットスプリングガーディアンの胸が光る。
「熱が来る!」
ナッツが叫ぶ。
ロナンが盾を構える。
蒸気。
白い壁。
視界が消える。
「声!」
ロナンが叫ぶ。
「盾、中央!」
「剣、右!」
「弓、左!」
「治癒、後ろ!」
返事はあった。
まだ全員いる。
だが、距離がずれていた。
セイルの足が遅れている。
ナッツが左へ寄りすぎている。
ヘレナの位置が少し後ろへ下がりすぎている。
白い蒸気の中で、そのズレは見えない。
湯気が薄れた瞬間、ホットスプリングガーディアンの左腕がナッツの方へ動いた。
「ナッツ、下がれ!」
ロナンが叫ぶ。
ナッツは下がる。
だが、矢をつがえたままだった。
もう一射いける。
そう思ったのが、見えた。
矢が飛ぶ。
膝に当たる。
だが浅い。
次の瞬間、腕が来た。
ナッツは避けた。
完全には避けきれなかった。
左肩から弓ごと弾かれ、床に転がる。
「がっ!」
「ナッツ!」
ヘレナが走り出した。
今度は止まらない。
止まれなかった。
治癒役が前に出る。
それを見て、ロナンが盾を動かす。
ナッツとヘレナの間に入ろうとする。
その瞬間、ホットスプリングガーディアンの足が動いた。
巨体が踏み込む。
ロナンは盾を構え直せない。
セイルが割り込む。
「ロナン!」
剣で腕の関節を打つ。
ほとんど効かない。
それでも一瞬、腕の向きが変わる。
ロナンは盾を出した。
だが、角度が悪い。
受け流せない。
正面から受けた。
盾が悲鳴を上げる。
腕ごと、押し込まれる。
骨の折れる音がした。
「ぐああっ!」
ロナンの叫びが湯気の中で割れた。
盾がひしゃげる。
左腕が曲がってはいけない方向へ沈む。
体ごと壁に叩きつけられた。
ヘレナの顔から血の気が引く。
「ロナン!」
「戻れ!」
ロナンが叫んだ。
声は痛みで潰れている。
だが、はっきりしていた。
「撤退! 戻れ!」
セイルが一瞬、ホットスプリングガーディアンを見る。
まだ倒せない。
膝も壊れていない。
コアも開いていない。
ナッツは肩を押さえて転がっている。
ロナンは盾ごと潰された。
ヘレナは前に出すぎた。
これ以上は死ぬ。
「撤退!」
セイルが叫んだ。
ヘレナがロナンへ治癒をかける。
完全に治す余裕はない。
痛みを鈍らせ、出血を抑え、動かせるだけにする。
「立てますか!」
「立つ!」
ロナンは歯を食いしばった。
左腕は使えない。
盾も使えない。
セイルが肩を貸す。
ナッツは弓を拾えない。
右手で自分の肩を押さえ、よろめきながら立つ。
ヘレナが二人の後ろへ下がる。
ホットスプリングガーディアンが追ってくる。
門番の動きは遅い。
だが、広間を出るまでは届く。
「湯気!」
セイルが叫ぶ。
ヘレナが残った魔力で、床の水気を一気に蒸発させる。
白い湯気が広がる。
視界が悪くなる。
敵にも、自分たちにも。
だが、今は逃げるための白だった。
「声、切らすな!」
セイルが叫ぶ。
「ロナン!」
「いる!」
「ナッツ!」
「いる!」
「ヘレナ!」
「後ろ!」
声だけで位置をつなぐ。
ミネラルクラブが横から出た。
セイルが剣で弾く。
倒さない。
止めるだけ。
スチームバットが上から来る。
ナッツが弓なしで短剣を抜き、片手で払う。
肩の痛みで顔が歪む。
ヘレナが転びかける。
ロナンが無事な右腕で引いた。
「止まるな!」
その声だけで、全員が前へ出る。
戻る。
湯溜まりではない。
報酬ではない。
帰還路でもない。
第1層へ戻るための、長い戻り道。
門番を倒していないため、湯溜まり奥の帰還路は使えない。
来た道を戻るしかない。
それが、こんなに遠い。
入口へ。
第4層への階段へ。
息が焼ける。
足が滑る。
ロナンの顔色が悪い。
ナッツは何度も膝をつく。
セイルの脚の傷が開く。
ヘレナは魔力切れ寸前だった。
それでも、戻る。
戻るしかない。
階段が見えた時、セイルが笑いそうになった。
だが、笑わない。
笑ったら足が止まる。
「上がれ!」
四人は、第5層から逃げ出した。
黒い水膜の前で、俺はロナンたちの動きを追っていた。
「撤退は出た」
『ええ』
「遅かったけど、出た」
『だから戻れる可能性が残ったわ』
「門番未討伐だと帰還路が使えないの、こういう時に効くな」
『湯溜まりへ届いた者の帰還路だもの』
「だよな。楽はさせない、と」
『迷宮だからね』
俺は指で机を叩いた。
ロナンたちは第5層から第4層へ戻っている。
ロナンの腕はひどい。
ナッツの肩もやばそうだ。
セイルの脚も、あとでマイラに怒られるやつだ。
ヘレナは魔力が薄い。
でも、全員まだ歩いている。
「戻れそうだな」
『ええ。あそこまで来れば、後は第1層側の仕事ね』
「救護の導線、もっとちゃんと作った方がいいかもな」
『候補に入れておきなさい』
「はいはい。DPを使う話がまた増えた」
『貯めるだけより健全よ』
ヴェルティアの言い方は軽い。
俺も、それに合わせて肩の力を抜いた。
第5層で怪我をする。
それ自体は、これからも起きる。
なら、第1層側で何ができるかを考えればいい。
救護席。
布。
水。
マイラの動線。
洗い場。
記録。
そういうものを整える。
迷宮の中で手を出さないなら、戻ってきた後の受け皿を厚くする。
それが、今の俺にできる現実的な仕事だった。
第1層に戻った瞬間、ミルは声を上げかけた。
「おかえりなさ……」
途中で止まった。
ロナンが崩れたからだ。
セイルが支えきれず、一緒に膝をつく。
ナッツは肩を押さえたまま壁にもたれた。
ヘレナは杖を落とした。
酒場の空気が凍った。
次の瞬間、メリダの声が飛ぶ。
「マイラ! 救護!」
マイラはすでに走っていた。
エナさんが洗い場から布を掴む。
ミルを抱き寄せて下がらせる。
仮受付の職員が記録板を取り落としかける。
クレスが立ち上がる。
カティアが周囲の冒険者を怒鳴った。
「見るだけの奴は下がれ! 道を開けろ!」
冒険者たちが一斉に動く。
ラハルが盾を持って、人垣を押し分ける。
「空けよ!」
ティアがロナンの前に膝をつく。
マイラがその横についた。
「左腕、骨折。肩も入っています。肋骨も確認します」
ロナンは歯を食いしばっていた。
「ナッツを……」
マイラが鋭く言う。
「あなたも重傷です。黙ってください」
「でも」
「黙ってください」
ロナンは黙った。
ティアが短く魔法を使う。
「出血を抑えるわ。固定を」
エナさんが布を渡す。
マイラが固定する。
ヘレナが震える声で言った。
「応急は、しました。でも、魔力が」
「座ってください」
マイラが言う。
「治癒役が倒れると、記録も取れません」
ヘレナはその場に座り込んだ。
ナッツの肩は外れかけていた。
セイルの脚には石片が刺さっている。
全員、命はある。
だが、無事ではない。
酒場の誰も、湯溜まりの話をしなかった。
冷果水の話もない。
紅肌の雫も、琥珀の雫も、この場では遠かった。
あるのは、濡れた装備。
血の匂い。
熱で歪んだ盾。
痛みをこらえる呼吸。
戻ってきた者たちの重さだった。
ミルはエナさんの服を握っていた。
目に涙が浮かんでいる。
それでも、小さな声で言った。
「……おかえりなさい」
ロナンの目が、少しだけ動いた。
痛みで顔は歪んでいる。
それでも、声を出した。
「ただいま」
その一言で、酒場の何人かが息を吐いた。
戻った。
重傷でも、戻った。
それが、どれだけ大きいか。
今の第1層にいる者たちは、全員分かった。
報告は、すぐには行われなかった。
まず治療。
固定。
水。
休息。
壊れた盾と折れた矢を片づける。
血のついた布を分ける。
洗い場が、また別の意味で役に立った。
エナさんが血の布を洗い場へ運ぶ。
水に沈める。
汚れがほどけていく。
だが、今日の汚れは、いつもより重く見えた。
しばらくして、ロナンたちは救護休憩用の席に寝かされた。
正式な救護室ではない。
だが、第1層の片隅にある静かな席が、今はその代わりになっている。
マイラが状態を整理する。
「ロナンさん。左腕骨折、肩の損傷、打撲多数。しばらく盾は持てません」
ロナンは目を閉じた。
「……はい」
「ナッツさん。左肩脱臼に近い損傷、打撲、擦過傷。弓はしばらく控えてください」
「はい」
「セイルさん。脚の裂傷と打撲。石片は取りました。歩けますが、無理は禁止です」
「ああ」
「ヘレナさん。魔力枯渇手前。しばらく治癒術は禁止です」
ヘレナは小さく頷いた。
「はい」
メリダが木板を持つ。
「報告できる?」
ロナンは少し息を整えてから言った。
「できる」
「無理なら後でいい」
「今、言う。忘れたくない」
メリダは頷いた。
酒場の空気が、静かになる。
ロナンが話す。
入口は問題なかった。
途中も崩れてはいなかった。
ただ、疲労が溜まった。
四人で門番へ入った。
最初は記録通りに動けた。
ナッツが一射欲を出した。
ヘレナが治癒に走った。
ロナンが盾を入れ直そうとして、角度を失った。
腕を潰された。
そこで撤退を決めた。
湯溜まりには届いていない。
門番は倒していない。
報酬はない。
ただ戻った。
メリダは、何度も頷きながら記録した。
「一射欲」
その言葉が板に書かれる。
ナッツが唇を噛む。
「俺のせいだ」
ロナンがすぐに言う。
「違う。撤退が一拍遅れた。俺の判断だ」
ヘレナが首を振る。
「私が前に出ました」
セイルが息を吐く。
「全員だろ」
メリダは木板を置いた。
「そう。全員だよ。誰か一人のせいにすると、次の奴が同じことをする」
四人が黙る。
「ナッツの一射欲。ヘレナの治癒走り。ロナンの盾角度。セイルの援護位置。全部が少しずつ重なった」
メリダは掲示板を見る。
「迷宮で崩れる時は、だいたいそうだよ」
クレスが静かに言った。
「撤退判断は遅かった」
ロナンは目を開ける。
「はい」
「だが、出した」
「はい」
「だから戻った」
その言葉に、ロナンの表情が少しだけ歪んだ。
悔しさか、安堵か。
たぶん両方だった。
クレスは続ける。
「次は、もっと早く出せ」
「……はい」
カティアが腕を組んで言う。
「湯に届かなかったことより、生きて戻ったことを記録しとけ。そこ間違えると、次は死ぬ」
酒場の冒険者たちは、誰も笑わなかった。
グラントが仮受付の職員に指示する。
「掲示板へ追記を」
新しい板が掛けられた。
【第5層重傷撤退記録】
【Cランク二名、D上位二名】
【門番戦にて撤退】
【湯溜まり未到達】
【盾役重傷、弓手肩損傷、前衛脚部損傷、治癒役魔力枯渇】
【一射欲、治癒役前進、盾角度喪失が崩れの原因】
【撤退判断が遅れると重傷化】
【撤退判断を出したため全員帰還】
冒険者たちは、その板を読んだ。
昨日の板の横に、今日の板が並んだ。
【Cランク五名のみで湯溜まり到達確認】
その横に、
【湯溜まり未到達】
【盾役重傷】
成功と失敗が、同じ掲示板に並んだ。
それでようやく、第5層の形が少しだけ正しく見えた。
黒い水膜の前で、俺は表示を見ていた。
【第5層重傷撤退を確認】
【ホットスプリングガーディアン未討伐】
【湯溜まり未到達】
【撤退判断遅延、重傷化、治癒役前進リスク、一射欲を記録】
【生還欲、恐怖、慎重さ、講習需要を獲得】
【獲得DP:700】
【現在DP:16976】
「増えたな」
『ええ』
「成功でも増えるし、こういう撤退でも増える。まあ、認識が増えたってことか」
『そういうことね』
「一射欲、治癒役前進、盾角度喪失。講習にそのまま入れられるな」
『メリダがもう入れるでしょう』
「だろうな」
俺は掲示板を見る。
成功記録の横に、重傷撤退記録。
こうやって並ぶと、第5層の説明としてはかなり強い。
Cランクでも届く。
でも、少し崩れると届かない。
撤退が遅いと重傷になる。
撤退を出せば、戻れる可能性が残る。
「救護席、ちゃんと作るか」
『今の片隅では足りない?』
「足りないというより、導線が悪い。戻ってきた時に酒場の真ん中で崩れると、全員が固まる」
『洗い場と同じね。必要になったから整える』
「そうそう。冒険者が怪我をしない迷宮にはできない。でも、戻ってきた後に寝かせる場所は作れる」
『なら、次のDP候補ね』
「第6層が遠のくな」
『必要なものが増えるのは、迷宮が使われている証拠よ』
「便利な前向き解釈」
『事実よ』
俺は少し笑った。
重傷者は出た。
湯溜まりには届かなかった。
けれど、全員戻った。
そして記録が増えた。
この記録は、次の誰かを止めるかもしれない。
あるいは、戻る判断を一拍早めるかもしれない。
それなら十分に意味がある。
水膜の向こうで、ミルが小さな声で言っていた。
「ちゃんと戻ってきたから、またおかえり言えたね」
エナさんが、ミルの頭を撫でる。
「そうね」
今日は成功ではない。
でも、全滅でもない。
湯溜まりには届かなかった。
だが、帰ってきた。
その重さを、清水の迷宮は記録した。
湯気の向こうで盾は折れた。
けれど、その盾が折れたことで、四人は戻った。
そして、掲示板には新しい言葉が増えた。
進めるかどうかではない。
戻るべき時に戻れるか。
第5層は、そこを見ている。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は第5層での重傷撤退回でした。
成功例の後に挑んだ冒険者たちが、湯溜まりへ届かず、撤退判断の遅れで大きな傷を負います。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




