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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第52話 Cランクだけの第五層



 最初の奥方護衛依頼が成功した翌日。


 清水の迷宮、第1層。


 酒場の空気は、明るいだけではなくなっていた。


 マルティナ夫人が第5層の湯溜まりへ到達した。


 条件を守り、護衛に従い、休憩を挟み、無事に戻ってきた。


 その話はすぐに広がった。


 湯溜まりの効果。


 湯上がりの変化。


 冷果水。


 女性付き添い役。


 商家奥方の満足。


 そういう明るい話は、冒険者たちの耳を熱くした。


 だが、同時に別の話も広がっている。


 スチームウルフ。


 スチームバット。


 レッドスプリングスライム。


 湯気で鈍る視界。


 熱で乱れる呼吸。


 そして、ホットスプリングガーディアン。


 門番。


 あれを越えなければ、湯溜まりには届かない。


 Aランクがいれば越えられる。


 クレスがいれば安定する。


 カティアが横を見れば崩れない。


 では、Cランクだけならどうか。


 その問いが、酒場の隅に静かに置かれていた。


 そして、その問いに最初に手を伸ばしたのは、バレスたちだった。


 Cランク盾役のバレス。


 弓斥候のリーネ。


 槍持ちのオルト。


 治癒役のユリア。


 短剣使いのミーナ。


 五人全員がCランク。


 第3層帰還記録もある。


 第4層突破記録もある。


 第5層入口戦闘講習も受けている。


 だが、クレスは同行しない。


 カティアも同行しない。


 Aランク三人も同行しない。


 完全な、Cランクだけの第5層挑戦だった。


 仮受付の前で、オルド村長が渋い顔をしている。


「本当に行くのか」


 バレスは頷いた。


「行きます」


「無理をするな」


「無理なら戻ります」


 メリダが木板を持って立っていた。


「その言葉、奥で言えるかどうかだね」


 バレスは少しだけ笑った。


「言えるようにしてきたつもりです」


 リーネが続ける。


「入口戦闘講習、第5層記録、門番戦記録。全部読みました」


 ミーナが言う。


「読みましたけど、読んだだけで勝てるとは思ってません」


 ユリアが小さく頷く。


「治癒できる傷と、治癒している間に死ぬ傷は違います」


 オルトは短く言った。


「戻る」


 言葉は少ない。


 でも、全員がその意味を分かっていた。


 メリダは五人を見回す。


「今日は、誰も褒めてくれないよ」


 リーネが首を傾げる。


「褒めてくれない?」


「Aランクが横で支えてくれない。クレスが危ないところで切ってくれない。カティアが横槍を落としてくれない。自分たちで気づいて、自分たちで戻る」


 バレスの手が、盾の取っ手を握り直す。


「はい」


「門番を倒すことだけ考えるな。湯溜まりに着いても、帰還路へ入るまで油断するな。湯に入るなら、入った後も休め。浮かれるな」


 ミーナが苦笑した。


「湯に入れるか分からないのに、そこまでですか」


「そこまで考えない奴は、門番を越えても足を滑らせる」


 メリダの声は軽い。


 だが、内容は重い。


 グラントが条件を読み上げる。


「第5層挑戦、Cランク五名。依頼ではなく自主攻略。第3層帰還記録、第4層突破記録、入口戦闘講習受講確認済み。撤退判断はパーティ内で行うこと。帰還後、記録提出」


 仮受付の職員が書き込む。


 その横で、ミルが心配そうに五人を見ていた。


「いってらっしゃい」


 いつもより、少し声が小さい。


 バレスは笑って、盾を軽く叩いた。


「戻ってくるよ」


 ミルは頷いた。


「おかえりなさいって、言います」


 バレスの顔が、少し引き締まった。


「頼む」


 五人は、第5層へ向かった。




 黒い水膜の内側で、俺は五人を見ていた。


「Cランクだけか」


『ええ』


 ヴェルティアの声は静かだった。


「クレスもカティアも行かない。Aランクも行かない」


『それを選んだのは人間たちよ』


「分かってる」


 分かっている。


 第5層は、Aランク専用の場所ではない。


 Cランクだけで行けるかどうか。


 それは、いつか誰かが確かめる必要があった。


 準備した者が、記録を読み、講習を受け、連携を整えた上で挑む。


 それなら、止める理由はない。


 でも、怖いものは怖い。


「成功してほしいけど、楽勝だと困る」


『わがままね』


「いや、楽勝だったら、第5層を舐める奴が増える」


『その通りよ』


「でも、失敗してほしくはない」


『それも当然ね』


 俺は水膜を見つめる。


 五人は第4層報酬部屋奥の階段を下りていく。


 第5層の湿った熱が、彼らを迎える。


 白い湯気。


 濡れた石。


 足元の熱。


 ここから先に、俺は口を出せない。


 黒い水膜の中で見ているだけだ。


 それが、迷宮主というやつらしい。


 慣れない。


 まったく慣れない。




 第5層入口。


 バレスが最初に盾を構えた。


「ここからは声を短くする」


 リーネが頷く。


「上、音、影を見る」


 ミーナが腰を落とす。


「横と足元」


 オルトが槍を構える。


「押し返す」


 ユリアが一歩後ろに立つ。


「治癒は即時。無理なら撤退」


 バレスは全員を見る。


「行く」


 入口付近の湯気の中から、スチームバットが飛んだ。


 二体。


 上から斜めに来る。


 リーネは目だけで追わない。


 羽音を聞く。


 一射目。


 羽の端を裂く。


 スチームバットの軌道が乱れる。


 ミーナが短剣で落とす。


 もう一体はオルトの槍が払った。


 まず、一戦。


 入口戦闘講習でやった通り。


 だが、講習と本番は違う。


 湯気が濃い。


 足元が熱い。


 呼吸が少し浅くなる。


 バレスが言う。


「止まる。息を戻す」


 誰も文句を言わない。


 止まる。


 呼吸を整える。


 それだけで、少し違った。


 進むと、スチームウルフが現れた。


 三体。


 一体が正面。


 二体が横へ分かれる。


「正面受ける」


 バレスが盾を出す。


 正面のスチームウルフが跳ぶ。


 盾が鳴った。


 重い。


 思ったより重い。


 バレスの足が半歩滑る。


「足!」


 ミーナが叫ぶ。


 ユリアがすぐに足元へ補助をかける。


 滑りを抑える淡い光。


 バレスは踏み直した。


 オルトが右へ。


 槍で横の一体を牽制する。


 リーネが左の一体を射る。


 湯気で矢がわずかに遅れる。


 当たったが浅い。


 スチームウルフが低く走る。


 ミーナが短剣で鼻先を払う。


「近い!」


「下がるな、横!」


 バレスの声。


 ミーナは後ろへ下がりかけた足を横へ逃がした。


 スチームウルフはバレスの盾へ誘導される。


 オルトの槍が脇腹へ入った。


 リーネの二射目。


 倒れる。


 正面の一体は、バレスが受け、オルトが突き、ミーナが脚を切った。


 最後の一体は逃げるように湯気へ下がる。


「追わない」


 バレスが言う。


 オルトの足が止まる。


 槍が届きそうだった。


 でも、追わない。


 湯気の向こうへ一歩踏み込めば、位置が崩れる。


 リーネが息を吐いた。


「見失った」


「それでいい。追わない」


 バレスは自分に言い聞かせるように言った。


 五人は進む。


 スチームバット。


 ミネラルクラブ。


 ホットウォーターリザード。


 それぞれが、講習で聞いた通りの嫌らしさを持っていた。


 ミネラルクラブは硬い。


 オルトの槍が弾かれる。


 バレスが盾で押し止め、ミーナが関節を狙う。


 リーネが目を狙って矢を入れる。


 ユリアが小さな水の流れで足元を冷やす。


 倒すまでに時間がかかった。


 ホットウォーターリザードは、熱水弾を吐いた。


「横!」


 ミーナが叫ぶ。


 バレスが盾を斜めにする。


 熱水が盾に当たり、湯気が一気に上がる。


 視界が白く潰れた。


「声!」


 リーネが叫ぶ。


 バレスがすぐ答える。


「盾、中央!」


「左、リーネ!」


「右、ミーナ!」


「後ろ、ユリア!」


「前、オルト!」


 声で位置を確認する。


 見えない中で、名前を出す。


 それだけで、崩れかけた形が戻る。


 湯気が薄れた時、ホットウォーターリザードはまだいた。


 オルトが槍を引き、突く。


 バレスが盾で進路を塞ぐ。


 リーネの矢が喉元へ入る。


 ミーナが脚を切る。


 倒れた。


 ユリアがバレスの手を見た。


「火傷、浅いけどあります」


「今は?」


「動けます。でも悪化させないでください」


「分かった」


 治癒を入れる。


 短い。


 必要最低限。


 ユリアは魔力を温存する。


 ここで全部治そうとすれば、後が持たない。


 五人は、また進んだ。




 黒い水膜の内側で、俺は拳を握っていた。


「危ないな……」


『危ないわね』


「でも、戻ってる。止まってる。追ってない」


『講習が生きているわ』


「それでもギリギリに見える」


『Cランクだけで第5層を進むなら、あのくらいでしょう』


 ヴェルティアの声は冷静だ。


 冷静すぎて、少し怖い。


 でも、たぶん正しい。


 Cランクは弱くない。


 冒険者としては中堅だ。


 経験もある。


 自分の役割も知っている。


 それでも、第5層は簡単ではない。


 湯気。


 熱。


 足元。


 魔物。


 連携のズレ。


 ほんの少しの判断遅れ。


 全部が重なる。


「門番まで、体力残るか?」


『そこが問題ね』


 バレスの盾は傷ついている。


 ユリアは魔力を温存しているが、すでに何度か治癒を使った。


 リーネの矢も減っている。


 ミーナの息が少し上がっている。


 オルトは口数が少ない分、疲れが見えにくい。


 五人はまだ行ける。


 でも、余裕はない。


「戻る判断するなら、門番前か」


『そうね。門番を見る前に戻れるなら、それも判断よ』


「でも、たぶん行くよな」


『行くでしょうね』


 俺は水膜を見た。


 五人は、門番の前へ近づいていた。




 広い空間。


 湯気の奥から、重い足音が響いた。


 どん。


 どん。


 どん。


 ホットスプリングガーディアン。


 白い鉱物殻。


 青白い湯脈。


 胸のコア。


 肩から噴く蒸気。


 巨大な腕。


 バレスは、盾を構えたまま息を吐いた。


「……でかいな」


 リーネが短く言う。


「記録より、でかく見える」


 ミーナが笑っていない顔で言った。


「記録板、もう少し怖く書いといてほしい」


 ユリアが杖を握る。


「撤退するなら、今です」


 オルトはホットスプリングガーディアンを見たまま言う。


「まだ、足は残ってる」


 バレスは全員を見る。


 誰も目を逸らしていない。


 でも、全員怖がっている。


 それでいい。


 怖くないと言う者がいたら、バレスは戻るつもりだった。


「戦う。崩れたら即撤退」


 全員が頷いた。


 ホットスプリングガーディアンが腕を振り上げた。


「受け流す!」


 バレスが盾を斜めに構える。


 衝撃。


 盾が鳴る。


 足が滑る。


 膝が落ちかける。


 ユリアの補助が足元に入った。


 バレスは歯を食いしばる。


 受け切れない。


 でも、流せる。


 腕が横へ逸れる。


「右肩!」


 リーネの声。


 記録にあった噴気孔。


 リーネが矢を放つ。


 一射。


 二射。


 湯気でぶれる。


 一射目は外れた。


 二射目が噴気孔の縁を削る。


 ミーナが走る。


 足元を見ながら、短く入る。


 噴気孔ではなく、腕の関節へ短剣を当てる。


 深くは入らない。


 すぐ戻る。


 オルトが槍を構え、左膝を狙う。


 ホットスプリングガーディアンの腕が戻ってくる。


「下がれ!」


 バレスの声。


 オルトが下がる。


 一瞬遅い。


 巨腕が槍の先を弾いた。


 槍が飛ぶ。


「オルト!」


 ミーナが叫ぶ。


 オルトは転がりながら予備の短槍を抜く。


「動ける!」


 だが、投げれば次はない。


 予備の短槍は一本だけ。


 その一本をどう使うかで、彼の届く距離は変わる。


 ユリアが駆け寄りかける。


「行くな!」


 バレスが止める。


 治癒役が前へ出れば終わる。


 ユリアは止まった。


 その判断に、オルトが短く頷く。


 ホットスプリングガーディアンの胸が光る。


「熱!」


 リーネが叫ぶ。


 バレスが盾を構える。


 だが、さっきより足が弱い。


 ユリアが補助を重ねる。


 ミーナがバレスの後ろから声を出す。


「右足、滑ってる!」


 バレスが踏み直す。


 蒸気が噴き出す。


 白い壁。


 何も見えない。


「声!」


 リーネが叫ぶ。


「盾、中央!」


「弓、左!」


「短剣、右!」


「槍、前寄り!」


「治癒、後ろ!」


 声が返る。


 全員いる。


 まだ崩れていない。


 リーネが矢をつがえる。


 見えない。


 だから音を聞く。


 蒸気の中で、ホットスプリングガーディアンの胸が軋む音。


 そこへ矢を放つ。


 当たった。


 浅い。


 だが、コア周りの鉱物に傷がつく。


 蒸気が少し薄れる。


 オルトが短槍で左膝を突く。


 今度は深追いしない。


 一撃。


 戻る。


 ミーナが右の関節へ入る。


 一撃。


 戻る。


 バレスが盾で腕を逸らす。


 腕が重い。


 盾の縁が欠ける。


 破片が飛ぶ。


 バレスの頬を切った。


 血が流れる。


 ユリアが叫びかける。


 だが、バレスが先に言う。


「浅い!」


 浅い。


 たぶん浅い。


 今はそう言うしかない。


 ホットスプリングガーディアンが膝をついた。


 左膝の鉱物が割れている。


 胸のコアが、少しだけ開く。


 全員が、それを見た。


 狙える。


 だが、遠い。


 Cランクの足では、カイルのように跳べない。


 ラハルの盾を踏み台にすることもできない。


 ティアの補助もない。


 クレスの判断もない。


 バレスは一瞬で考えた。


 正面から行けば潰される。


 無理にコアを狙えば死ぬ。


「足を壊す!」


 バレスが叫んだ。


 コアではない。


 まず、動きを落とす。


 オルトが頷く。


 ミーナが右へ走る。


 リーネが膝裏へ矢を入れる。


 ユリアが冷却を足元へ流す。


 温かい濡れ石の上に、薄い冷気が走る。


 ホットスプリングガーディアンの足元がわずかに固まる。


 ミーナの短剣が右膝の隙間へ入る。


 オルトの短槍が左膝をもう一度突く。


 バレスが盾で巨腕を逸らす。


 盾が悲鳴を上げる。


 持つ手が痺れる。


 それでも、逸らす。


 巨体が傾いた。


 胸が下がる。


「リーネ!」


 リーネはすでに矢をつがえていた。


 息を止める。


 湯気。


 熱。


 揺れる光。


 胸のコア。


 一射。


 矢がコアに刺さった。


 亀裂。


 だが、砕けない。


 ホットスプリングガーディアンの腕がリーネへ向かう。


 バレスは間に合わない。


 ミーナも遠い。


 オルトが、さっき抜いた予備の短槍を投げた。


 腕の関節へ当たる。


 これでオルトの手元に、まともな槍はなくなった。


 逸れる。


 それでも腕は来る。


 リーネは横へ跳ぶ。


 腕が床を砕いた。


 石片が飛び、リーネの肩を切る。


「ぐっ」


「リーネ!」


「動ける!」


 リーネは叫び返した。


 ユリアが治癒に走ろうとする。


「後!」


 ミーナの声。


 スチームバットが一体、湯気の上から来ていた。


 門番戦の最中の横槍。


 ユリアが狙われる。


 ミーナが戻る。


 間に合うか。


 バレスは盾を動かせない。


 リーネは肩を切っている。


 オルトは武器を投げた。


 今のオルトにできるのは、折れた槍の柄を拾いに走ることくらいだった。


 ユリアが杖を構える。


 治癒役が、自分を守るために魔法を使う。


 短い光が走り、スチームバットの軌道がずれる。


 ミーナの短剣が届いた。


 落とす。


 ユリアは息を吐く。


「大丈夫です」


 その声は震えていた。


 だが、立っている。


 ホットスプリングガーディアンのコアには亀裂が入っている。


 バレスは盾を構え直す。


 盾はもう、かなり欠けていた。


 まともに受ける盾ではなくなっている。


 次に正面から受ければ、盾ごと持っていかれる。


 それなら、受ける道具としてではなく、壊す道具として使う。


 盾として最後まで立つのではなく、楔として胸へ押し込む。


 バレスはそう決めた。


「次で決める」


 リーネが肩を押さえながら頷く。


「撃てる」


 ユリアが短く治癒を入れる。


「完全には無理です。痛みだけ少し抑えます」


「十分」


 オルトは床に落ちた折れた槍の柄を握った。


 ミーナが右へ。


 バレスが前へ。


 ホットスプリングガーディアンが腕を上げる。


 バレスは受けない。


 盾をぶつける。


 腕ではなく、胸の下へ。


 自分の盾を、押し込む。


「今!」


 ミーナが右膝へ切り込む。


 オルトが左の割れた膝へ柄を叩き込む。


 ユリアが冷気を足元に流す。


 リーネが、最後の狙いを定める。


 コアの亀裂。


 湯気の隙間。


 矢が飛ぶ。


 刺さる。


 亀裂が広がる。


 バレスが盾ごと体当たりした。


 盾の欠けた縁が、コアの亀裂に食い込む。


 ばきり、と音がした。


 青白い光が弾ける。


 ホットスプリングガーディアンの胸が砕けた。


 巨体が崩れる。


 バレスは盾ごと吹き飛ばされ、床を転がった。


「バレス!」


 ユリアが走る。


 今度は止める者はいない。


 バレスは仰向けになり、荒く息をしていた。


 盾は割れている。


 腕は動く。


 脚も動く。


 だが、全身に衝撃が入っている。


「生きてる」


 バレスが言った。


 声はかすれていた。


 リーネが座り込む。


「勝った?」


 ミーナが湯気の奥を見る。


 ホットスプリングガーディアンは動かない。


 オルトが短く答える。


「勝った」


 ユリアはバレスの腕と胸を確認する。


「骨は……たぶん大丈夫。でも、無理に動かないでください」


 バレスは苦笑した。


「盾が死んだ」


 ミーナが割れた盾を見て言う。


「持ち主より先に死んで偉い盾だね」


 リーネが肩を押さえながら笑った。


「笑うと痛い」


「生きてるから痛いんだよ」


 五人は、しばらくその場で呼吸を整えた。


 湯気の奥から、ぽこり、ぽこりと湯の音が聞こえる。


 湯溜まりは近い。


 だが、誰もすぐに立ち上がらなかった。


 メリダがいれば、たぶんこう言っただろう。


 勝った直後が一番危ない、と。


 バレスがゆっくり上体を起こす。


「湯溜まりへ行く。ただし、急がない」


 全員が頷いた。


 五人は、壊れた盾と傷を抱えたまま、湯溜まりへ向かった。




 湯溜まり。


 白い石。


 静かな湯気。


 柔らかな湯の音。


 奥には帰還路。


【1層へ】


 壁文字を見た瞬間、五人の体から力が抜けそうになった。


 だが、バレスが言う。


「座る」


 湯に飛び込まない。


 報酬に飛びつかない。


 まず座る。


 息を整える。


 ユリアが全員の傷を見る。


「湯は傷を治しません」


 リーネが頷く。


「知ってる」


「傷口を濡らしすぎないようにします。肩は先に処置します」


「分かった」


 女性が先に湯へ入るか、男性が先か。


 ここでも少し迷った。


 だが、今日は護衛依頼ではない。


 五人で相談し、傷の状態を優先した。


 リーネとミーナ、ユリアが短く湯に入り、手肌と髪の変化を確認する。


 長湯はしない。


 次にバレスとオルトが入る。


 バレスは湯に肩まで浸かりそうになり、ユリアに止められた。


「傷があります。短く」


「はい」


 盾役が素直に従った。


 湯は、戦闘の疲労を消さない。


 痛みを完全には消さない。


 だが、肌の表面が整い、汗と泥の不快感が薄れる。


 髪の絡まりもほどける。


 ミーナが自分の手を見て言った。


「これ、人気出るわけだ」


 リーネが頷く。


「でも、門番越えてこれか」


 オルトが短く言う。


「安くない」


 バレスは湯気の向こうを見た。


「安くしたら、死ぬな」


 誰も笑わなかった。


 湯から上がった後、すぐには動かない。


 休む。


 水を飲む。


 傷を確認する。


 壊れた盾をまとめる。


 矢の残りを数える。


 武器の状態を見る。


 そして、帰還路へ入る。


 五人は、湯溜まりへ到達した。


 だが、浮かれる余裕はなかった。


 それが、彼らが生きて戻る理由になった。




 第1層へ戻った時、最初に声を上げたのはミルだった。


「おかえりなさい!」


 その声に、バレスが少しだけ笑った。


「ただいま」


 声は低く、疲れていた。


 だが、確かに返った。


 リーネも、ミーナも、ユリアも、オルトも、それぞれ答える。


「ただいま」


「戻ったよ」


「ただいまです」


「戻った」


 酒場の空気が揺れた。


 五人だけで帰ってきた。


 Cランクだけで、第5層を突破した。


 だが、見た目は凱旋というより、ぎりぎりの帰還だった。


 バレスの盾は割れている。


 リーネの肩には処置の布。


 オルトの槍は折れている。


 ミーナの外套は裂けている。


 ユリアの顔には魔力を使った疲労が出ている。


 それでも、全員いる。


 全員、戻った。


 メリダがすぐに歩いてきた。


「座りな。報告は水を飲んでから」


 エナさんが清水を出す。


 ミルが慌てて杯を運ぶ。


 マイラも呼ばれ、傷の確認に入った。


「盾役、胸と肩を見せてください」


「大丈夫だ」


「記録ではなく治療です。見せてください」


「はい」


 バレスは逆らわなかった。


 マイラはリーネの肩も確認する。


「深くはありません。でも、無理に動かせば開きます」


「分かった」


 ユリアが横から言う。


「応急はしました」


「良い処置です。ですが、休ませてください」


「はい」


 酒場の冒険者たちは、少し離れて見ていた。


 誰も軽口を叩かない。


 Cランクだけで突破した。


 その事実は大きい。


 だが、壊れた盾と折れた槍が、それ以上に大きな声で語っていた。


 簡単ではない。


 真似をすればいいものではない。


 講習を受け、記録を読み、役割を守り、戻る判断を持って、それでもこうなる。


 グラントが記録板を持って座る。


「第5層、Cランク五名のみで突破。全員帰還。湯溜まり到達。門番討伐」


 バレスが水を飲んでから言う。


「討伐というより、盾で割った」


 ミーナが言う。


「盾が割れた、が正しい」


 リーネが肩を押さえながら言う。


「コアを狙えたけど、最初からコア狙いは無理です。足を壊さないと近づけません」


 オルトが短く続ける。


「膝」


 ユリアが補足する。


「足元の冷却が効きました。ただし、魔力を使います。長期戦になると危険です」


 メリダが木板に書く。


「Cランクのみ第5層突破条件。盾役の耐久、弓の精度、足止め、冷却、撤退判断。横槍対処。治癒役を前へ出さない」


 クレスが静かに聞いていた。


 カティアも腕を組んでいる。


 カイルは目を輝かせかけていたが、壊れた盾を見て黙っていた。


 ティアがそれを見て言う。


「分かる?」


 カイルは頷く。


「すごい。でも、怖い」


「その感想ならいいわ」


 ラハルがバレスの割れた盾を見た。


「よく耐えた盾だ」


 バレスは苦笑した。


「次はもっといい盾を買います」


 グラントの目が動いた。


「盾職人への需要が増えますね」


 オルド村長が即座に言う。


「今言うな」


「重要です」


「重要なのは分かるが、今言うな」


 ミルがバレスの横に立つ。


「盾、壊れちゃったの?」


「ああ」


「でも、バレスさんは戻った」


 バレスは一瞬黙った。


 それから、優しく笑った。


「盾のおかげでな」


 ミルは壊れた盾を見て、小さく頭を下げた。


「ありがとう、盾さん」


 酒場の空気が、少しだけ柔らかくなった。


 バレスは照れたように顔をそむける。


 ミーナが笑う。


「盾、葬式する?」


「しない」


「でも、感謝はしてるんでしょ」


「してる」


 リーネが小さく笑い、肩を押さえて顔をしかめた。


「笑うと痛いって」


 マイラがすぐに言う。


「笑わないでください」


「はい」


 報告は続いた。


 スチームバットの羽音。


 スチームウルフを追わなかった判断。


 ホットウォーターリザードの熱水。


 ミネラルクラブの硬さ。


 レッドスプリングスライムへの冷却。


 門番戦でコアを直接狙わず、まず膝を壊したこと。


 湯溜まり到達後、すぐに湯へ入らず休んだこと。


 傷がある者は入浴を短くしたこと。


 すべてが記録になる。


 そして、掲示板に新しい板が追加された。


【第5層Cランク攻略記録】


【Cランク五名のみで湯溜まり到達確認】


【門番戦、正面突破は危険】


【足部破壊、視界確保、横槍処理、治癒役保護が重要】


【盾損耗大】


【撤退判断を保持できないパーティは挑戦不可】


 冒険者たちは、その板を黙って読んだ。


 Cランクでも行ける。


 だが、Cランクなら誰でも行けるわけではない。


 それが、第1層の空気に刻まれた。




 黒い水膜の内側で、俺は長く息を吐いた。


「戻った……」


『戻ったわね』


「Cランクだけで突破した」


『ええ。準備と連携があれば、届くということね』


「でも、ぎりぎりだった」


『そこが重要よ』


 ヴェルティアの声は静かだった。


 水膜の中では、バレスたちがまだ報告を続けている。


 酒場の冒険者たちは、いつもより真剣に聞いている。


 壊れた盾。


 折れた槍。


 傷を負った肩。


 疲れた治癒役。


 それらは、言葉より強い。


「これで第5層突破者は増えたな」


『増えたわ』


「Aランクでも、護衛でも、Cランクでも行ける。でも、どれも簡単じゃない」


『そういう階層になったわね』


 表示が浮かぶ。


【Cランク冒険者五名、第5層突破】


【ホットスプリングガーディアン討伐記録追加】


【Cランク攻略手順、盾損耗、足部破壊、横槍処理、撤退判断の認識を獲得】


【湯溜まり到達者増加】


【中堅冒険者の期待、恐怖、成功欲、慎重さを獲得】


【獲得DP:1500】


【現在DP:16276】


「一万五千、超えた」


『第6層を作れる水準には届いたわね』


「……作れるんだな」


『推定ではね』


 霧冷えの回廊。


 霧蔵の小箱。


 ついに、手が届くところまで来た。


 でも、俺はすぐに頷けなかった。


 水膜の中で、バレスの盾が机に置かれている。


 割れた盾。


 五人を守った盾。


 ミルがそれを真剣に見ている。


 第5層は突破された。


 Cランクだけでも届いた。


 でも、これは成功例だ。


 成功例だけ見て、次へ進めば、たぶん誰かが勘違いする。


 俺は静かに言った。


「まだ、開けない」


『そう言うと思ったわ』


「第5層を、もう少し見たい」


『ええ』


「成功した次が、一番怖い」


 Cランクでも行ける。


 その言葉は、希望になる。


 同時に、油断にもなる。


 あの五人だから行けた。


 準備したから行けた。


 戻る判断を持っていたから行けた。


 でも、聞く側は都合よく削る。


 Cランクでも行ける。


 そこだけを聞く者が、必ず出る。


 ヴェルティアは静かに言った。


『迷宮は、次に進む者を止めないわ』


「分かってる」


『けれど、人間側の記録は増やせる』


「うん」


 俺は水膜を見る。


 掲示板に新しい記録が掛かる。


 Cランクだけでも第5層を突破できる。


 ただし、盾は割れ、槍は折れ、傷を負い、全員が疲れ切って戻ってきた。


 それを見て、何を学ぶか。


 それは人間次第だ。


 清水の迷宮は、また一つ階層の顔を増やした。


 第5層は、Aランクの戦場だけではない。


 商家奥方を守る護衛路だけでもない。


 中堅冒険者が、準備と連携で届く場所でもある。


 だが、それは決して、誰でも湯に浸かれる場所ではなかった。


 湯気の奥には、まだ牙がある。


 そして、その牙を見た者だけが、次の一歩を考えられる。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回はCランク冒険者だけで第5層突破に挑む話でした。

準備と連携があれば届く一方で、盾や武器を損耗する厳しい階層としての顔も見えてきました。


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