第51話 最初の奥方護衛依頼
エルネスタ商会から正式な護衛相談が届いた翌朝。
清水の迷宮、第1層。
仮受付の横に、いつもより大きな机が出されていた。
机の上には記録板。
依頼書。
条件確認用の木札。
そして、エナさんが用意した布の束。
湯上がり用。
髪を拭く用。
足元に敷く用。
予備。
昨日までなら、ただの布の山に見えたかもしれない。
だが、今は違う。
第5層へ人を連れていくための装備だった。
依頼人は、エルネスタ商会の奥方。
名は、マルティナ夫人。
年は四十前後。
細い指に指輪をはめ、上品な灰色の外套を羽織っている。
だが、ただの飾られた奥方という感じではなかった。
目が動く。
洗い場を見る。
保管庫を見る。
仮受付を見る。
冒険者を見る。
そして、掲示板を見る。
商会の奥にいるだけの人ではない。
商売の現場を知っている目だった。
夫人の後ろには、エルネスタ商会の使者と、護衛役の商会員が一人。
ただし、第5層へ入るのは夫人だけだ。
付き添いを増やせば、それだけ危険が増える。
この条件は、グラントが最初に確認していた。
「本日の本番護衛は、マルティナ夫人お一人です。侍女、商会員、追加護衛は第5層へ同行しません」
マルティナ夫人は静かに頷いた。
「承知しています」
オルド村長が念を押す。
「第3層帰還記録、第4層突破記録は、昨日までに確認済みですな」
仮受付の職員が記録板を読む。
「はい。マルティナ夫人、第3層帰還記録あり。第4層突破記録あり。琥珀の雫取得記録あり。第5層事前説明、受講済みです」
マルティナ夫人は、昨日の第3層と第4層を思い出したのか、ほんの少しだけ表情を硬くした。
「第3層は、戻れない感じが嫌な場所でした。第4層は、香りで足が止まりますね」
メリダが木板を持って笑った。
「いい感想です。覚えてるなら、今日は助かります」
「怖かったので、忘れません」
「なおさらいい」
グラントが依頼条件を読み上げる。
「第5層では、護衛側の撤退判断に必ず従うこと」
「はい」
「勝手に歩かないこと」
「はい」
「湯溜まり到達後も、入浴前休憩、湯上がり後休憩を行うこと」
「はい」
「男女別。見張り必須。女性付き添い役の指示に従うこと」
「はい」
「撤退となった場合でも、基本報酬および危険手当は支払われます」
「当然です」
マルティナ夫人は、そこで少しだけ微笑んだ。
「湯に入れなかったから支払わない、などと言えば、次に私を守ってくれる人はいなくなります」
商人らしい。
そして、正しい。
オルド村長が小さく息を吐いた。
「分かっておられるなら助かります」
「商会が欲しいのは、無理を通した一度の成功ではありません。続けられる仕組みです」
グラントの目が光った。
「その通りです」
オルド村長が胃を押さえる。
「そこで意気投合するな」
今回の護衛は、かなり厚い。
クレス。
カティア。
ティア。
カイル。
ラハル。
メリダ。
そして、エナさん。
マルティナ夫人の女性付き添い役として、エナさんが同行する。
戦闘はしない。
しかし、湯前の休憩、布、着替え、髪を拭く手順、怖がる場所の確認。
そこはエナさんの役目だ。
マルティナ夫人は、エナさんに深く頭を下げた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。怖い時は、遠慮せず言ってください」
「奥方が怖がるのは、見苦しくありませんか?」
エナさんは首を横に振った。
「黙って固まる方が、ずっと危ないです」
マルティナ夫人は一瞬目を丸くし、それから笑った。
「では、怖い時は怖いと言います」
「はい。それが一番助かります」
カイルがそれを聞いて、少し真面目な顔をした。
ティアが横から見る。
「あなたも同じよ」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
「今日は奥方の護衛です。格好をつける場ではありません」
「分かってるって」
カイルは少しむくれたが、すぐにクレスを見た。
クレスは何も言わない。
それだけで、カイルの背筋が伸びた。
ラハルが大盾を担ぐ。
「夫人よ! わしの盾の後ろにいればよい!」
マルティナ夫人は穏やかに頭を下げた。
「頼もしいです」
「はっはっは! 任されよ!」
ティアがすぐに言う。
「声量は控えめに」
「む。承知した」
カティアは腰の短剣を確認しながら、マルティナ夫人の周囲を見ていた。
「横から来るやつはあたしが見る。足元、荷物、布の位置。エナさん、変だと思ったらすぐ言ってくれ」
「分かりました」
クレスが最後に言う。
「目的は、湯溜まり到達と生還。討伐は手段だ。撤退判断は俺が出す」
全員が頷いた。
マルティナ夫人も、迷わず頷いた。
そして、ミルが入口近くに立つ。
「いってらっしゃい!」
マルティナ夫人は、その声に少し驚いたようだった。
それから、ゆっくり笑った。
「行ってまいります」
エナさんが隣で言う。
「帰ってきたら、おかえりなさいって言ってもらえますよ」
「それは、楽しみですね」
一行は、第5層へ向かった。
黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。
「いよいよ本番護衛か」
『ええ』
ヴェルティアの声も、いつもより少し硬い。
試験ではない。
依頼だ。
商会の奥方を、本当に第5層へ連れていく。
エナさんの時は、村側の確認だった。
今回は、外から来た依頼者。
商売の目を持つ人。
成功すれば、噂はさらに広がる。
失敗すれば、それも広がる。
「怖いな」
『怖いでしょうね』
「止めるべきだったかな」
『条件は満たしている。説明も受けている。護衛も厚い。撤退条件も明確。ここで止める理由はないわ』
「そうなんだけどさ」
『それでも怖いのは、悪いことではないわ』
俺は水膜を見つめる。
一行は第4層の報酬部屋奥から、第5層へ降りていく。
今回は第3層、第4層の描写は省かれているわけじゃない。
昨日までに済ませてある。
記録があり、条件を満たしている。
だから今日、第5層へ入る。
手順を踏んだ上での本番だ。
「第5層、頼むぞ」
『迷宮に頼むの?』
「いや、変なのは分かってるけど」
『貴方は迷宮主でしょう』
「だから余計にだよ」
ヴェルティアは、少しだけ黙った。
それから静かに言った。
『迷宮は手を緩めない。でも、道は開いているわ』
「うん」
それが、今できる全部だった。
第5層。
温かい湿気が、階段の下から上がってくる。
白い湯気。
濡れた石。
壁を走る白い鉱物筋。
足元の熱。
マルティナ夫人は、第5層入口で足を止めた。
すぐに、エナさんが横につく。
「息をゆっくり」
「……はい」
マルティナ夫人は深く息を吸い、吐いた。
「第4層と、まるで違いますね」
ティアが答える。
「ここから先は、熱と湯気で判断が鈍ります。気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「分かりました」
ラハルが前に立つ。
盾を斜めに構え、マルティナ夫人から視界を奪いすぎない位置。
カイルはその少し横。
飛び出せる位置ではなく、戻れる位置。
クレスは全体を見る。
カティアはマルティナ夫人の横から後ろ。
メリダは木板を持ち、足元と顔色を見ている。
エナさんは布袋を抱え、夫人の歩幅に合わせた。
「歩幅、小さくします」
マルティナ夫人が言う。
エナさんが頷く。
「それでいいです」
入口から少し進んだところで、湯気の向こうに影が走った。
スチームウルフ。
二体。
片方は正面。
もう片方は横へ回る。
ラハルが声を抑えて言う。
「盾の後ろへ」
マルティナ夫人は、すぐに盾の影へ入った。
昨日までの訓練が効いている。
恐怖で後ろへ下がるのではなく、盾の位置へ入る。
正面のスチームウルフが跳ぶ。
ラハルの盾が受ける。
衝撃を斜めに逃がし、足場を崩さない。
カイルが横の一体へ走る。
速い。
だが、遠くへ行かない。
首元へ一撃を入れ、すぐ戻る。
戻る途中で、もう一体の脚を切る。
深追いしない。
ティアの補助魔法が、マルティナ夫人の足元に淡く広がる。
「滑りにくくしています。動かず、立って」
「はい」
カティアが横から来た小さな影を短剣で払った。
スチームバット。
湯気の上をかすめるように飛んでくる。
「上!」
カティアの声。
ティアが杖を上げる。
風が細く走り、湯気が割れる。
スチームバットの位置が見えた。
カイルの剣が届く。
一体。
二体。
すぐに戻る。
マルティナ夫人は、両手を胸元で握っていた。
だが、声を出した。
「怖いです」
メリダが即座に頷く。
「いいです。言えてます」
エナさんも隣で言う。
「足は動いています。大丈夫です」
「はい」
大丈夫という言葉に、マルティナ夫人は少しだけ顔を上げた。
それから、ラハルの盾を見た。
盾が見える。
声が聞こえる。
エナさんが横にいる。
それだけで、怖さは消えないが、形を持った。
形があれば、扱える。
一行は進む。
スチームボアが通路を駆けてきた時、ラハルが正面で受ける。
カイルが横から脚を切る。
ティアが熱気を払う。
カティアが夫人の背後へ回り込もうとしたスチームバットを落とす。
クレスは動かない。
正確には、動く必要がない。
全体を見ている。
誰がどこへ行ったか。
夫人の足が止まっていないか。
カイルが戻る位置を失っていないか。
ラハルの盾が視界を塞ぎすぎていないか。
カティアが横を見ているか。
ティアの補助が切れていないか。
クレスの役目は、剣を振るうことではなく、崩れを見つけることだった。
「止まる」
クレスが言った。
一行は即座に止まった。
カイルも止まる。
マルティナ夫人が息を飲む。
「何か?」
「夫人の呼吸が速い」
夫人自身も気づいていなかったのか、驚いた顔をした。
エナさんがすぐに布を出す。
「ここで短く休みましょう」
メリダが頷く。
「いい判断。本人より先に周りが気づくこともある」
マルティナ夫人は、少し悔しそうに笑った。
「自分では、まだ大丈夫だと思っていました」
ティアが言う。
「そう思っている時ほど危険です」
「覚えます」
短い休憩。
湯気の薄い壁際。
ラハルが盾を立て、カイルが前を見る。
カティアは横道を確認する。
ティアがマルティナ夫人の顔色を見る。
エナさんが布で汗を押さえる。
メリダが記録する。
「護衛対象、熱気で自覚前に呼吸増加。周囲判断で休憩必要」
マルティナ夫人は、その記録を横目で見た。
「これは、依頼者にも必要な項目です」
グラントが聞いたら喜びそうな言葉だ。
でも、夫人は商売だけで言っているのではなかった。
自分が危うかったことを理解している。
一行は再び進んだ。
門番の前。
ホットスプリングガーディアン。
白い鉱物殻。
青白い湯脈。
胸のコア。
肩から立つ蒸気。
巨大な腕。
マルティナ夫人は、言葉を失った。
商人の奥方としての落ち着きも、第3層と第4層を抜けた経験も、目の前の存在には一瞬で削られた。
それでも、声を出した。
「……怖いです」
エナさんが頷く。
「はい」
ラハルが盾を前へ出す。
「盾の後ろへ」
今度は大声ではない。
低く、届く声。
マルティナ夫人は盾の後ろに入る。
ティアが杖を構える。
「夫人から離れすぎない。カイル、前へ出る時は戻る線を残して」
「はい!」
カイルの声も、今日は少し抑えめだった。
ホットスプリングガーディアンが腕を振り上げる。
ラハルが受ける。
盾が鳴る。
重い音が、第5層に響いた。
夫人の肩が震える。
だが、盾の後ろから出ない。
エナさんが横で言う。
「その位置です」
「はい」
ティアが蒸気を裂く。
「右肩、噴気孔」
カイルが走る。
一撃。
深追いしない。
戻る。
ガーディアンの腕が追う。
ラハルの盾が入る。
「よく戻った!」
「はい!」
カティアは夫人の周囲に来た小さなスチームバットを落とす。
門番戦の最中でも、横槍は来る。
そこを放置すれば、夫人は動けなくなる。
カティアの短剣は派手ではない。
だが、夫人へ届く危険だけを正確に切り落としていた。
クレスは、まだ動かない。
メリダは記録を続ける。
「門番戦中、護衛対象は盾の影に固定。横槍処理必須。蒸気で見失う前に声」
ホットスプリングガーディアンの胸が光る。
ティアが言う。
「熱が来る」
ラハルが盾をわずかに斜めへ向ける。
「後ろへ押されるな。足を置け!」
マルティナ夫人が、言われた通り足を置く。
熱と蒸気が押し寄せる。
視界が白くなる。
その瞬間、夫人の手がエナさんの袖を掴んだ。
エナさんは振り払わない。
「ここにいます」
「……はい」
ティアが風を通す。
視界に細い道ができる。
カイルが左膝へ走る。
今度は、行く前に夫人の位置を一度見る。
確認してから、走る。
剣が鉱物筋を削る。
ラハルが戦槌で膝を打つ。
ガーディアンの巨体が傾く。
マルティナ夫人は、目を閉じかけた。
だが、閉じなかった。
「見ます」
誰に言ったのか分からない。
でも、そう言っていた。
ティアが少しだけ頷く。
「見て。怖いものを、見ないまま欲しがらないで」
その言葉は冷たかった。
だが、正しかった。
湯溜まりだけを欲しがるなら、ここは邪魔な門番だ。
だが、本当に第5層へ来るなら、これを見なければならない。
ガーディアンの胸が開く。
青白いコアが見えた。
カイルが一瞬、前へ飛び込みたそうにした。
しかし、止まる。
距離が足りない。
戻る線が細い。
ティアが短く言う。
「まだ」
カイルは止まった。
ガーディアンの腕が空振りし、ラハルが盾で押し返す。
今度は戻れる線ができる。
「今」
ティアの声。
カイルが走る。
ラハルの盾の縁を踏み台にし、斜めに跳ぶ。
ティアの補助が足元に光る。
カイルの剣が、胸のコアを裂いた。
ガーディアンの腕が戻る。
カティアが舌打ちする。
だが、夫人のそばを離れない。
ティアの光が腕の関節を一瞬止める。
カイルは着地し、転がるように戻る。
ラハルの盾の内側へ。
コアの亀裂が広がる。
ティアの追撃。
ラハルの戦槌。
ホットスプリングガーディアンの胸が砕けた。
巨体が沈む。
蒸気が止まる。
白い殻が灰色に変わっていく。
勝った。
だが、誰もすぐに声を上げなかった。
マルティナ夫人が、盾の後ろで震えていたからだ。
エナさんが声をかける。
「終わりました」
夫人は、少し遅れて頷いた。
「……はい」
カイルも剣を下ろしたまま、声を抑えていた。
ティアがそれを見て、小さく言う。
「よく我慢したわね」
「今、叫ぶ場面じゃないと思って」
「そうね」
カイルは、少し嬉しそうにした。
クレスが短く言う。
「門番突破。護衛対象、立っている」
マルティナ夫人は、震えたまま笑った。
「立っている、だけですが」
メリダが答える。
「立って帰れるなら、十分です」
その言葉に、夫人は深く頷いた。
湯溜まりに着いた時、マルティナ夫人はすぐには近づかなかった。
ぽこり、ぽこり。
白い石の中に湯が湧く。
柔らかな湯気。
奥には帰還路。
【1層へ】
壁文字が静かに浮かんでいる。
マルティナ夫人は、湯溜まりを見て、小さく息を吐いた。
「ここが……」
その声には、商売の熱より先に、疲労と安堵があった。
エナさんが布を広げる。
「まず座りましょう」
「湯に入る前に、ですね」
「はい」
夫人は素直に座った。
エナさんの試験記録が、ここで生きている。
湯に入る前に休む。
足元を整える。
布を準備する。
見張りの位置を決める。
湯上がり後の休憩も先に確認する。
マルティナ夫人は、手順を一つずつ見ていた。
「これは、必要ですね」
エナさんが頷く。
「湯を見た瞬間、気が抜けます」
「私も、今そうなりました」
「だから、座ります」
「はい」
メリダが嬉しそうに書く。
「試験記録、本番で有効」
女性組が湯に入る。
マルティナ夫人。
エナさん。
ティア。
カティア。
メリダ。
男性組は通路側を向いて見張る。
クレス。
カイル。
ラハル。
ラハルの盾が通路側に立つ。
カイルは背を向けたまま、今度はそわそわしなかった。
少しだけ、成長している。
湯に足を入れたマルティナ夫人は、目を閉じた。
「……これは」
声が、ほどけた。
湯は、門番戦の恐怖を消すわけではない。
疲労を完全に取るわけでもない。
傷を治すわけでもない。
だが、手肌の荒れが落ち着く。
髪の絡まりがほどける。
肌の表面が整う。
汗と湯気で重くなっていた体の不快感が、静かに引いていく。
マルティナ夫人は、自分の手を見た。
商会の奥方の手。
帳面に触れ、布に触れ、商品に触れ、時に荷の確認もする手。
そこにあった細かな荒れが、少し落ち着いている。
「なるほど」
商人の声が戻った。
カティアが言う。
「もう計算してんのか」
「してしまいますね」
マルティナ夫人は苦笑した。
「ですが、それより先に思いました」
「何を」
「ここまで来て、ようやく得られるから価値があるのですね」
湯気の中で、声が少し静かになる。
「第1層に湯だけがあれば、きっともっと多くの人が求めます。でも、この湯は、怖い道を越えて、守られて、やっと入るものです。そのことを忘れて売れば、事故になります」
ティアが少しだけ目を細めた。
「理解が早いわね」
「怖かったので」
マルティナ夫人は笑った。
「怖い思いをして、ようやく分かりました。これは、楽な商品ではありません」
メリダが頷く。
「いい依頼者だね」
エナさんも言う。
「奥方様方に伝えるなら、その怖さも伝えてください」
「もちろんです」
湯から上がった後も、すぐには動かない。
布で髪を拭く。
手を拭く。
座る。
呼吸を整える。
マルティナ夫人は、湯上がり後の休憩の必要性も理解した。
「湯から上がった後、立ち上がった瞬間に少し力が抜けますね」
エナさんが頷く。
「はい。そこで急がせると危ないです」
「記録に入れましょう」
「もう入っています」
メリダが木板を見せる。
マルティナ夫人は、少し笑った。
「頼もしいこと」
準備を整え、一行は帰還路へ向かった。
第1層に戻った瞬間、ミルの声が響いた。
「おかえりなさい!」
マルティナ夫人は、帰還路から出て、その声を受けた。
一瞬、言葉が出ないようだった。
それから、ゆっくり頭を下げた。
「ただいま戻りました」
ミルは嬉しそうに笑った。
エナさんも笑う。
酒場の視線が集まる。
マルティナ夫人の髪は、入る前より柔らかくまとまっていた。
顔色も整っている。
手肌も、細かな荒れが落ち着いていた。
派手な変化ではない。
だが、近くで見れば分かる。
商人たちは、その変化を逃さなかった。
「奥方様……」
「髪が」
「顔色も」
「これは」
グラントが記録板を持って近づく。
「ご無事で何よりです。報告は休憩後に」
マルティナ夫人は頷いた。
「その通りです。まず、座らせてください」
その一言に、エナさんが満足そうに頷いた。
冷果水が出された。
湯上がり後の、冷たい果実水。
マルティナ夫人はそれを一口飲み、目を細めた。
「これは良いですね」
ミルがぱっと笑う。
「冷果水です!」
「とても良い名前です」
ミルの顔がさらに明るくなる。
カイルは隣で自分の分を飲み干しかけ、ティアに視線で止められた。
報告は、休憩後に行われた。
グラント。
オルド村長。
仮受付。
商会の使者。
クレス。
メリダ。
エナさん。
そして、マルティナ夫人。
記録板には、次々に項目が増えていく。
【第5層本番護衛記録】
【依頼者:エルネスタ商会マルティナ夫人】
【第3層帰還記録確認済み】
【第4層突破記録確認済み】
【第5層事前説明受講済み】
【第5層入口、熱気による呼吸増加あり】
【護衛側判断により短時間休憩】
【門番戦、盾の視認で安定】
【女性付き添い役、有効】
【湯溜まり到達後、入浴前休憩有効】
【湯上がり後、即時移動不可。休憩有効】
【冷果水、湯上がり後の提供に適性あり】
オルド村長が板を読み、息を吐く。
「成功、でいいのだな」
クレスが頷く。
「成功だ」
グラントも頷く。
「正式依頼として、成立しました」
マルティナ夫人は、そこで口を開いた。
「ただし、依頼を増やすなら、条件を緩めてはいけません」
商会の使者が少し驚く。
「奥方様?」
「第3層、第4層の記録。事前説明。撤退判断。女性付き添い。休憩。布。湯上がり後の管理。どれも必要です」
夫人は自分の手を見る。
「湯の価値は本物です。だからこそ、急がせてはなりません」
グラントが深く頷いた。
「商会として、その認識で進めていただけるなら助かります」
「エルネスタ商会は、無理な依頼を出しません」
夫人は微笑んだ。
「少なくとも、私が目を通す限りは」
オルド村長が少しだけ安心した顔をした。
「それはありがたい」
カティアが小さく言う。
「話の分かる奥方で助かったな」
マルティナ夫人は聞こえていたらしく、そちらを見た。
「怖い思いをすると、話が分かるようになります」
カティアは一瞬黙り、それから笑った。
「そりゃいい」
その後、正式な支払いが行われた。
基本報酬。
危険手当。
女性付き添い手当。
湯溜まり用具費。
冷果水代。
グラントが項目を一つずつ確認し、オルド村長がまた胃を押さえた。
「冷果水代まで項目になるのか」
「なります」
「なるのか」
「なりました」
ミルが小さく手を上げた。
「冷果水、また作ります!」
エナさんがすぐに言う。
「数を決めてからね」
「はーい!」
酒場に笑いが広がった。
最初の奥方護衛依頼は、成功した。
湯溜まりへ到達し、夫人は戻り、報酬は支払われ、記録は増えた。
そして、何より。
条件を守っても、商売になる。
危険を伝えても、価値は落ちない。
むしろ、価値がはっきりする。
そのことを、商人たちが理解し始めていた。
黒い水膜の内側で、俺は深く息を吐いた。
「帰ってきた……」
『帰ってきたわね』
「よかった」
『成功ね』
「うん。成功」
水膜の中では、マルティナ夫人が冷果水を飲みながら、グラントと話している。
エナさんは布を片づけている。
ミルは嬉しそうに杯を運んでいる。
カイルはまた冷果水を欲しがり、ティアに止められている。
ラハルは盾の傷を確認している。
カティアは短剣を拭いている。
クレスは記録板を読んでいる。
メリダは新しい講習項目を整理している。
全部が、ちゃんと帰ってきた後の光景だった。
表示が浮かぶ。
【第5層本番護衛依頼、成功】
【商家奥方の湯溜まり到達を確認】
【女性付き添い、湯前休憩、湯上がり休憩、冷果水提供の有効性を確認】
【依頼者の恐怖、納得、満足、商業価値、制度理解を獲得】
【護衛制度への信頼を獲得】
【獲得DP:1800】
【現在DP:14776】
「あと少しで一万五千か」
『第6層の推定必要DPに近づいているわね』
「近づいてる。でも、まだ開けない」
『ええ』
「第5層を、もう少し見ないと駄目だ」
今回の成功は大きい。
だが、成功したからといって、第5層が安全になったわけではない。
Aランクがいて、クレスがいて、カティアがいて、エナさんがいて、条件を守る夫人がいた。
だから成功した。
条件を外せば、どうなるか。
護衛が薄ければ。
欲を出せば。
撤退判断が遅れれば。
第5層は、たぶん簡単に牙を剥く。
『分かっているなら、いいわ』
ヴェルティアが静かに言った。
「うん」
第6層は見えてきた。
霧冷えの回廊。
霧蔵の小箱。
保存と輸送を変える報酬。
でも、その前に、第5層をもっと知らなければならない。
誰が突破できるのか。
どこで崩れるのか。
どこで戻るべきなのか。
湯溜まりの価値だけでなく、門番の危険も、もっと人間側に刻まれなければならない。
俺は水膜を見つめた。
マルティナ夫人が、ミルにもう一度礼を言っている。
ミルは笑顔で答えた。
「また来てください!」
夫人は少しだけ考え、笑った。
「はい。ただし、きちんと準備をしてから」
その返事は、とてもよかった。
清水の迷宮は、また一つ広がった。
奥へではない。
信用の方へ。
けれど、その信用の先には、まだ湯気に隠れた危険がある。
それを忘れない者だけが、次へ進める。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はエルネスタ商会の奥方を連れた、最初の第5層本番護衛依頼でした。
エナの試験記録や休憩手順が実際に役立ち、湯溜まり護衛制度が一つ形になりました。
続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




