第48話 清水の裏方区画と霧冷えの構想
エナさんを連れた第5層試験護衛の翌日。
清水の迷宮、第1層。
酒場は、朝からいつも通り騒がしかった。
いや、いつも以上だった。
「布! 湯上がり用の布、どこに置いた!」
「そっちは昨日使った分!」
「洗った食器が足りません!」
「宿泊室の寝具、もう一組出せるか?」
「第5層講習の人たち、昼まで待機です!」
「待機なら酒場の奥へ!」
「飯は?」
「飯は順番!」
冒険者が増えた。
護衛依頼の相談が増えた。
講習を受ける者が増えた。
簡易宿泊室を使いたがる者も増えた。
当然、食事が増える。
食器が増える。
布が増える。
寝具が増える。
洗い物が増える。
清水の迷宮は奥へ広がっている。
だが、その分だけ、手前で働く人たちの仕事も増えていた。
エナさんは、洗い終わった布を抱えて酒場の奥へ戻ってきた。
顔には疲れがある。
でも、昨日の紅肌の雫と湯溜まりのおかげか、血色はまだ良い。
そのせいで、男冒険者たちの何人かが一瞬そちらを見る。
すぐに女性冒険者たちの視線が刺さった。
「見てない」
「何も言ってないけど?」
「すみません」
男冒険者が勝手に謝った。
カティアがそれを見て鼻で笑う。
「学習が早いな」
エナさんは困ったように笑い、布を机に置いた。
「見られるより、洗い物が増える方が大変ですね」
その一言に、村の女性たちが深く頷いた。
「布が足りません」
「洗う場所も足りません」
「食器も増えました」
「肉も魚も、置き場所を考えないと」
「宿泊室が増えると、寝具も増えるんですよ」
オルド村長が遠くで頭を抱える。
「今度は布か」
グラントが微笑む。
「布と食材は、人が増えれば必ず増えます」
「嬉しそうに言うな」
「流通が増えますので」
「わしの胃も流通してどこかへ行きそうだ」
「それは困ります」
「本当に困っている顔をしろ」
メリダが講習席から声をかけた。
「村長、裏方が倒れたら講習も護衛も止まるよ」
「分かっている」
「なら、先に手を打つんだね」
オルド村長は、清水の壁を見た。
まるでそこにいる何かへ文句を言うような顔だった。
「また、迷宮が聞いているのか」
誰も答えなかった。
だが、何人かが壁を見た。
清水はただ静かに流れている。
返事はない。
人間の前では。
黒い水膜の内側で、俺は両手を合わせていた。
「聞いてます」
『聞いているわね』
ヴェルティアは呆れたように言った。
俺は水膜越しに、酒場の裏側を見る。
布の山。
食器の山。
水仕事をする村の女性たち。
料理用の食材。
肉。
魚。
野菜。
湯上がり用の布。
宿泊室の寝具。
冒険者の濡れた外套。
増築した酒場や宿泊室は役に立っている。
でも、人が増えれば当然、裏で支える人も忙しくなる。
「これ、護衛より先に裏方が倒れるやつじゃない?」
『可能性はあるわね』
「エナさん、昨日第5層行ったばっかりなのに、もう布を抱えてるし」
『働き者ね』
「いや、そこ感心して終わっちゃ駄目だろ」
俺は腕を組む。
DPはある。
昨日の試験護衛で、かなり増えた。
でも、使い道を間違えると、便利になった分だけまた人が増える。
迷宮あるあるなのかもしれない。
便利にする。
人が来る。
もっと便利にしないと回らなくなる。
水車みたいだ。
いや、俺が水車に足を突っ込んでいるのか。
「村人側に使うか」
『それがいいでしょうね』
「洗い場と、食材保管庫」
『妥当ね』
「汚れが落ちやすい洗い場。あと、冷蔵の保管庫。別に冷凍部屋も」
ヴェルティアが少しだけ目を細めた。
『冷凍?』
「凍らせて保存するやつ」
『氷漬けの部屋ということ?』
「まあ、そんな感じ。肉とか魚とか、すぐ使わないものを保管する」
『迷宮内限定なら可能ね。外へ持ち出す力ではないもの』
「そうそう。ここ限定。清水の迷宮の裏方設備」
ヴェルティアは頷いた。
『なら、やりなさい。迷宮に人を呼ぶなら、呼ばれた人間を支える手も必要よ』
「だよな」
俺は目を閉じる。
第1層の奥。
酒場の裏手。
村人だけが使いやすい位置。
冒険者が勝手に入りにくいように、酒場の動線から少し外す。
まず、洗い場。
白い石の洗い台。
浅い水槽。
細く流れる清水。
布をすすぐ場所。
食器を洗う場所。
泥や汗、血や油が落ちやすい浄化水路。
ただし、布が溶けるわけではない。
鍋が勝手に磨かれるわけでもない。
洗う手は必要だ。
でも、汚れがほどけるように落ちる。
次に、食材保管庫。
清水の冷気が通る低温の部屋。
野菜や果物、飲み物、下ごしらえした食材を置ける棚。
さらに奥に、凍結保管室。
肉や魚を凍らせて置ける小部屋。
人が長く入る場所ではない。
荷を入れ、すぐ出る。
冷たすぎる場所。
でも、食材は守れる。
「よし」
黒い水膜の奥で、清水が少し強く流れた。
表示が浮かぶ。
【清水の洗い場を形成】
【浄化水路を形成】
【汚れ分離機能を付与】
【消費DP:3000】
【食材保管庫を形成】
【低温保管室を形成】
【凍結保管室を形成】
【消費DP:2500】
【現在DP:8458】
「減ったな」
『必要経費ね』
「経費って言葉、だんだん馴染んできて嫌だな」
『馴染みなさい。貴方は迷宮主よ』
「迷宮主、洗濯場を作る」
『立派な仕事よ』
「そうかな」
『ええ。戦う者を支える者を支える。迷宮としては悪くないわ』
ヴェルティアの声は、珍しく柔らかかった。
夜。
第1層の奥で、白い石壁が静かに動く。
清水の流れが枝分かれする。
酒場の裏手に、新しい水音が生まれる。
冷たい空気が、細い通路の奥に満ちる。
食材を置く棚が並び、さらに奥に白く霜のついた扉が形を取る。
派手な宝箱ではない。
魔物を倒す武器でもない。
だが、翌朝の村人たちを救う場所だった。
翌朝。
第1層は、また騒ぎになった。
「裏に水路ができてる!」
「洗い場だ!」
「何これ、布をすすげる!」
「食器も洗えるぞ!」
「奥、涼しい!」
「保管庫だ!」
「こっち、寒い! 息が白い!」
「扉を開けっぱなしにしない!」
エナさんが、洗い場の前で立ち止まっていた。
白い石の洗い台。
浅く流れる清水。
布を入れると、泥汚れが水にほどけるように浮く。
鍋の油も、いつもよりずっと早く落ちる。
エナさんは、ゆっくり手を水に入れた。
「……これは、助かります」
声が小さかった。
でも、重かった。
村の女性たちが次々に洗い場を試す。
「本当に落ちる」
「布をこすりすぎなくていい」
「手が荒れにくそう」
「食器の油も早い」
「水が汚れたと思ったら、下へ流れていく」
ミルは目を輝かせて、水路を覗き込んでいた。
「お水、きれい!」
エナさんがすぐに言う。
「走らない。水路に手を入れすぎない」
「はーい!」
仮受付の職員も見に来ていた。
「洗い場は、村人作業用として管理した方がいいですね」
グラントがすでに記録している。
「冒険者が勝手に服を持ち込むと混みます。受付か酒場経由で洗濯依頼にするべきでしょう」
オルド村長が唸る。
「また仕事が増える」
「ですが、収入にもなります」
「増える仕事と収入が同時に来るのが怖い」
グラントは微笑む。
「発展です」
「その言葉を笑顔で言うな」
次に、食材保管庫が確認された。
低温保管室。
そこは、ひんやりとした空気が流れる部屋だった。
白い石棚。
清水が壁の細い溝を流れ、その冷たさが空気を落ち着かせている。
野菜を置く。
果物を置く。
飲み物の壺を置く。
すぐに凍るわけではない。
だが、酒場の熱気から離しておける。
「これはいい」
エナさんが頷いた。
「夏場なら、特に助かります」
奥の凍結保管室の扉を開けた瞬間、白い冷気が漏れた。
「寒っ!」
カイルが思わず声を上げる。
ティアがすぐに言う。
「長居しない方がいいわ」
ラハルが笑う。
「はっはっは! 鎧の中まで冷えるな!」
「入らないでください」
仮受付の職員が本気で止めた。
冷凍部屋には、肉や魚を置くための石棚があった。
水が凍りつくほど冷たい。
だが、迷宮の外へ冷気が漏れ続けるわけではない。
扉を閉めれば、静かに霜が壁へ戻る。
グラントの目が光った。
「これは食材の流れが変わりますね」
オルド村長が即座に言う。
「変えすぎるな」
「村の酒場で扱える食材が増えます」
「言うな」
「遠方から食材を仕入れる話も」
「言うなと言った」
「冷たい飲み物も出せます」
「それは少し欲しい」
村長が負けた。
カティアが笑った。
メリダは洗い場と保管庫を見て、頷いた。
「いいね。奥で死なないための講習も必要だけど、手前で倒れないための場所も必要だ」
ティアも静かに言う。
「裏方が倒れれば、護衛制度は維持できないわ」
カイルが首をかしげる。
「戦わない場所なのに、大事なんだな」
ティアが見る。
「今、それに気づいたなら覚えておきなさい」
「はい」
ラハルが大きく頷く。
「兵站は戦の柱よ! 飯と布を軽んじる者は、戦場で泣く!」
「声が大きいです」
「む、すまん!」
エナさんは、洗い場に戻っていた。
ミルと一緒に、昨日使った布をすすいでいる。
布の汚れが水にほぐれ、清水の流れへ消えていく。
エナさんは、それを見て小さく笑った。
「これなら、迎えられます」
その言葉を聞いて、俺は水膜の内側で少しだけ安心した。
その日の昼。
清水の酒場では、さっそく新しい規則が作られ始めた。
【清水の洗い場について】
【村人作業区画につき、冒険者の無断使用禁止】
【洗濯依頼は仮受付または酒場へ】
【血、泥、油汚れの布は分けて出すこと】
【食材保管庫について】
【無断持ち込み禁止】
【低温保管室、凍結保管室ともに管理者確認が必要】
【凍結保管室の扉を開けっぱなしにしないこと】
【人は中に長く留まらないこと】
掲示板の前で、冒険者たちが読んでいる。
「洗濯依頼できるのか」
「泥まみれの外套、助かるな」
「勝手に使うなって書いてあるぞ」
「血汚れは分けろって」
「凍結保管室、魚置けるかな」
「勝手に置くなって書いてあるだろ」
「清水の迷宮、どんどん便利になるな」
「便利だけど規則も増えるな」
メリダがその声を聞いて言った。
「規則が増えるのは、人が失敗する前に止めるためだよ」
カティアが横で言う。
「それでも失敗する奴はいるけどな」
「いるね」
メリダは否定しなかった。
グラントは、もう別の計算をしている。
「湯上がり布、洗濯依頼、冷たい飲み物、保存食、宿泊室の食事提供……」
オルド村長が耳を塞いだ。
「聞こえん」
「聞こえている顔です」
「聞こえん」
エナさんが笑った。
ミルも笑った。
それだけで、少しだけ空気が軽くなる。
だが、俺は黒い水膜の内側で、別の表示も見ていた。
洗い場。
保管庫。
冷凍部屋。
冷気。
水。
保存。
そして、次の階層。
「第6層、作れそう?」
俺が聞くと、ヴェルティアは水膜を見たまま言った。
『今のDPでは足りないわ』
「やっぱり?」
『貴方が考えている第6層は、ただ冷たい通路を作るだけではないのでしょう』
「うん」
頭の中には、ぼんやりと形がある。
第6層。
霧冷えの回廊。
第5層の熱気から一転、冷たい霧と濡れた石の階層。
湯上がり気分で油断した者を冷やす場所。
視界。
体温。
足音。
距離感。
湯気とは違う、冷たい霧の迷い。
そこまでは、まだ分かる。
問題は報酬だ。
「霧蔵の小箱」
俺はその名前を呟いた。
『空間を折り畳み、時間を遅らせる箱ね』
「言い方が怖いな」
『怖いことを考えているのよ』
「でも、生活インフラとしてはかなり便利だろ。食材、薬草、温かい料理、冷たい飲み物。輸送も変わる」
『だからこそ、高い』
表示が浮かぶ。
【第6層構想】
【霧冷えの回廊】
【冷霧、濡石、視界阻害、体温低下、距離感錯誤】
【報酬候補:霧蔵の小箱】
【空間格納、時間遅延、期限表示、破損時排出】
【推定必要DP:15000】
【現在DP:8458】
【DP不足】
はっきり出た。
「足りない」
『足りないわね』
「あと六千五百くらいか」
『最低でも、でしょうね』
「最低でも」
『空間と時間を扱うのよ。安く済むと思わないことね』
ヴェルティアの声は真面目だった。
たしかに、紅肌の雫や琥珀の雫とは違う。
湯溜まりとも違う。
霧蔵の小箱は、物流を変える。
保存を変える。
商人を動かす。
貴族も動かす。
たぶん、王都も動く。
「作ったら、絶対騒ぎになるよな」
『間違いなく』
「でも、面白いよな」
『ええ。とても』
ヴェルティアは否定しなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
「ただ、今じゃない」
『今ではないわ』
「まずは洗い場と保管庫を回す。第5層護衛制度を安定させる。それから第6層」
『妥当ね』
俺は頷いた。
DPが貯まったからといって、すぐ次の階層を作る必要はない。
今は、人が増えている。
村が変わっている。
酒場が変わっている。
裏方が変わっている。
そこでまた第6層を開けたら、たぶん村長の胃が本当に迷宮の床に吸われる。
「第6層は、構想だけ」
『ええ。冷たい霧は、もう少し先ね』
「その前に、布と魚と鍋だな」
『地味ね』
「でも大事」
『ええ。地味なものほど、迷宮を支えるわ』
俺は水膜を見た。
第1層の裏方区画では、エナさんたちが新しい洗い場を使っている。
食材保管庫では、村人が恐る恐る野菜を棚に置いている。
凍結保管室の扉を開けたカイルが、冷気に驚いてティアに注意されている。
ラハルは入りたそうにして止められている。
カティアは呆れている。
クレスは規則板を静かに読んでいる。
グラントはもう商売の計算をしている。
オルド村長は胃を押さえている。
そしてミルは、洗い場の水を見て笑っていた。
表示が、もう一度浮かぶ。
【村人作業区画の認識を確認】
【洗濯需要、食材保管需要、裏方負担軽減、受け入れ体制強化を獲得】
【清水の迷宮、第1層生活機能が拡張されました】
【獲得DP:1426】
【現在DP:9884】
「少し戻った」
『人が使えば、また増えるわ』
「第6層まで、あと五千ちょっと」
『焦らなくていいわ』
「うん」
清水の迷宮は、今日も少しだけ広がった。
奥へではない。
手前へ。
戦う者のためではなく、戦わない者のために。
布を洗う場所。
食材を守る場所。
働く人が倒れないための場所。
そして、その奥でまだ形にならない冷たい霧が、静かに構想だけを膨らませている。
第6層は、まだ遠い。
けれど、清水の流れはもう、その冷たさを少しだけ覚えていた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は村人側の裏方区画と、第6層構想の話でした。
洗い場と保管庫ができ、霧冷えの回廊はまだ少し先の目標になります。
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