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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第49話 進まないための第5層



 清水の洗い場ができてから、第1層の朝は少し変わった。


 酒場の裏から、水音が聞こえる。


 さらさら、ぱしゃり、ころころ。


 布をすすぐ音。


 食器を洗う音。


 水路に汚れがほどけて流れていく音。


 昨日まで山になっていた布や食器は、まだ多い。


 でも、洗う人たちの顔は少しだけ楽になっていた。


「こっちの布、血汚れです!」


「泥のやつと混ぜないで!」


「はい!」


 フィンが、抱えていた布の束を慌てて分けた。


 弓を持つ手で布を抱えるのは、少し変な感じだった。


 でも、今の清水の迷宮では、それも仕事の一つだった。


 サナは洗い場の端で、乾かす布を数えている。


 ニーナは食材保管庫の前で、エナさんから置き場所を教わっている。


 リオは講習席の椅子を並べ直していた。


 若手たちは、久しぶりに第1層の前の方へ戻ってきていた。


 奥へ進む冒険者が増えた。


 Aランクが来た。


 第5層の湯溜まりの話で酒場はずっと騒がしい。


 その間、フィンたちは裏方や講習の手伝いをしていた。


 自分たちが置いていかれているわけではない。


 それは分かっている。


 でも、分かっていても、胸の奥が少し落ち着かない。


 フィンは、洗い場から酒場へ戻る途中で足を止めた。


 視線の先には、カイルがいた。


 Aランク冒険者。


 十六歳。


 明るくて、声が大きくて、剣を持つと空気が変わる。


 しかも、クレスを見つけると犬みたいに目を輝かせる。


「クレスさん! 昨日の門番戦のここなんですけど!」


「近すぎた」


「やっぱり!」


「戻る位置が一歩遅い」


「はい!」


 怒られているのに、カイルは嬉しそうだった。


 フィンはそれを見て、苦笑する。


 自分たちと年が近い。


 というより、カイルは自分より年下だ。


 それなのに、Aランク。


 第5層の門番と戦い、エナさんを守りながら戻ってきた。


 フィンは、手に持っていた布の端を握った。


「同じ若いって言っても、全然違うな」


 ぽつりと漏れた言葉に、隣のサナが反応した。


「フィン?」


「いや」


 フィンは首を振る。


「なんでもない」


 だが、サナは同じ方を見た。


 カイルが笑っている。


 その横で、クレスはいつも通り静かだ。


 強い人たちの会話。


 自分たちにはまだ遠い場所。


 ニーナも戻ってきて、同じようにカイルを見た。


「……あの人、私たちとあまり年が変わらないんですよね」


 リオが椅子を抱えたまま言う。


「変わらないどころか、俺たちより若い」


 その言葉で、四人とも黙った。


 沈んだわけではない。


 でも、何かが胸の中で重くなった。


 その時、メリダが木板を肩に担いでやってきた。


「比べる相手を間違えると、足がもつれるよ」


 フィンたちが振り向く。


 メリダはいつものように、少し眠そうな目をしていた。


「カイルを見て焦るのは分かる。若い。強い。Aランク。眩しいねえ」


 カイルは向こうでくしゃみをした。


 ティアが何か言っている。


 メリダは続けた。


「でも、あれをそのまま真似したら死ぬよ」


「……はい」


 フィンは素直に頷いた。


 メリダは木板で軽く自分の肩を叩く。


「見るなら、強さだけじゃない。戻り方も見な」


「戻り方?」


「そう。今日はちょうどいい」


 メリダはクレスの方を見た。


 クレスも、こちらを見ていた。


 どうやら話はもう決まっていたらしい。


「フィン、サナ、ニーナ、リオ」


 クレスが呼んだ。


 四人が背筋を伸ばす。


「第3層と第4層へ行く」


「えっ」


 フィンの声が裏返った。


 クレスは表情を変えずに続ける。


「修行と確認だ。第5層は入口付近まで。奥へは進まない」


「第5層……」


 ニーナの顔が強ばる。


 リオも椅子を置いた。


「入口付近だけでも、俺たちが行っていいんですか」


「行くために見る。進むためではない」


 クレスの言葉は短い。


 でも、重かった。


 カイルがぱっとこちらを向いた。


「クレスさん、オレも行っていいですか!」


 ティアがすぐに視線を向ける。


「あなたが格好をつける場所ではないわ」


「分かってる」


「本当に?」


「……本当に」


「少し間があったわね」


「本当に!」


 ティアはしばらくカイルを見る。


 カイルは逃げない。


 やがて、ティアは小さく息を吐いた。


「護衛対象は若手たち。あなたの目的は討伐ではなく、距離を見ること。前に出る時は、戻る位置まで考えなさい」


「はい!」


 ラハルが笑う。


「若者同士、よい刺激になろう!」


 カティアは壁にもたれたまま言った。


「刺激で燃え上がって突っ走ったら、ティアに凍らされるけどな」


 カイルが真顔になった。


「気をつけます」


 ティアは否定しなかった。


 フィンたちは顔を見合わせる。


 Aランクが同行する。


 クレスが見る。


 メリダも記録役としてつく。


 豪華というより、逃げ場がない。


 フィンは喉を鳴らした。


「お願いします」


 サナ、ニーナ、リオも続いた。


「お願いします」


 カイルはにっと笑った。


「よろしくな! クレスさんに見てもらってるなら、オレたちちょっと仲間みたいなもんだろ!」


 フィンは驚いた。


「仲間……ですか?」


「うん。クレスさんに怒られる仲間」


 その言い方に、リオが少し笑った。


 サナも肩の力を抜く。


 ニーナは小さく息を吐いた。


 クレスは否定しなかった。


 ただ、短く言った。


「準備しろ」


 その一言で、空気が変わった。




 黒い水膜の内側で、俺はその様子を見ていた。


「フィンたち、久しぶりに前へ出るな」


『そうね』


 ヴェルティアが答える。


 俺は水膜の中の第1層を見る。


 フィン。


 サナ。


 ニーナ。


 リオ。


 最初に第2層で苦戦していた若手たち。


 第3層以降の話が増えてから、少し後ろにいた。


 でも、彼らも清水の迷宮で変わってきた冒険者だ。


 ずっと置いていくわけにはいかない。


「カイルも一緒か」


『悪くないわ』


「若手から見たら、カイルって眩しすぎない?」


『だからこそ、近くで見る意味があるのでしょう』


「眩しいものって、近くで見ると粗も見えるしな」


『失礼ね』


「いや、褒めてる。たぶん」


 カイルは強い。


 でも危うい。


 進みたがる。


 飛び込みたがる。


 ただ、昨日エナさんを守る戦いで、少し変わった。


 戻ることを覚え始めている。


 そのカイルが、若手たちと一緒に行く。


 これは、けっこう大きい。


「第5層は入口付近までか」


『賢明ね』


「しかも、見るだけじゃなくて、少し戦うんだな」


『空気だけでは分からないこともあるわ』


「進まないために、少しだけ戦う」


『ええ。奥へ行くための戦いではなく、戻るための経験ね』


 俺は頷いた。


 奥に進むだけが攻略じゃない。


 見る。


 感じる。


 少し戦う。


 そして戻る。


 今日は、そういう日だった。




 一行は第3層へ入った。


 クレス。


 カイル。


 メリダ。


 フィン。


 サナ。


 ニーナ。


 リオ。


 カティアは第1層に残った。


 ティアとラハルも今回は同行しない。


 見る者が多すぎると、若手の足が見えなくなるからだ。


 第3層、藻の迷路。


 湿った空気。


 ぬるい床。


 戻る道が分かりにくい通路。


 若手たちは、入ってすぐに少し表情を変えた。


 経験がある場所だ。


 それでも、慣れたとは言い切れない。


 フィンが弓を構える。


 サナが左右を見る。


 ニーナが後ろの通路を確認する。


 リオが盾を持つ手を握り直す。


 クレスは先頭ではなく、少し横に立った。


「動け」


 短い指示。


 フィンが小さく頷く。


 水路の脇から、水スライムが滑るように現れた。


 カイルの足が反射で動きかける。


 だが、止まった。


 自分の剣が届く距離。


 若手たちの位置。


 クレスの視線。


 全部を見て、カイルは一歩だけ下がる。


「フィン、右!」


 フィンが矢を放つ。


 水スライムの動きがずれる。


 リオが盾で止める。


 サナが横から短剣を入れる。


 ニーナが後ろの絡み藻に気づいた。


「後ろ、足元!」


 絡み藻がリオの足首へ伸びる。


 カイルがそちらへ動く。


 速い。


 だが、倒して終わりではない。


 一撃で絡み藻を断つと、すぐ戻ってきた。


 若手たちの横へ。


 フィンは、その動きを見た。


 速すぎる。


 でも、遠くへ行かない。


「今の、追えばもう一体いけたんじゃ」


 リオが呟く。


 カイルは苦笑した。


「行けたと思う。でも、今日はそういう日じゃないから」


 フィンは少し驚いた。


 Aランクなら、行けるなら行くのだと思っていた。


 カイルなら、なおさらだ。


 でも、行かなかった。


 クレスが言う。


「若手を置いて進むなら、護衛ではない」


「はい!」


 カイルは返事をした。


 なぜか嬉しそうだった。


 メリダが木板に書き込む。


「速い者が止まる練習。若手側、置いて行かれない安心あり」


 フィンたちは第3層を進む。


 以前よりは動ける。


 だが、まだ足が止まる。


 戻れない感じが首筋を冷やす。


 曲がり角の向こうに、何がいるか分からない。


 戦闘よりも、道の分からなさが心を削る。


 サナが小さく言った。


「ここ、やっぱり嫌です」


 メリダが頷く。


「嫌でいい。嫌な場所で無理に笑う奴ほど、戻れなくなる」


 ニーナが後ろを見た。


「さっきの入口、もう分からないです」


「そういう階層だ」


 クレスが言う。


「帰る道を覚えるのではなく、帰る判断を覚えろ」


 フィンは、その言葉を反芻した。


 帰る道ではなく、帰る判断。


 難しい。


 でも、少しだけ分かる。


 道を覚えられない場所なら、進み方そのものを間違えないようにするしかない。


 途中、フィンが焦って矢を外した。


 水スライムが横へ跳ねる。


 サナが追いかけかける。


「追うな」


 クレスの声。


 サナの足が止まる。


 カイルも同時に動きかけて、止まった。


 フィンが二射目を放つ。


 今度は当たった。


 リオが盾で押さえ、ニーナが絡み藻の伸びる方向を指示する。


 水スライムは倒れた。


 カイルは剣を抜いたままだったが、使わなかった。


「……助けないんですね」


 フィンが思わず言った。


 カイルは少し困った顔をする。


「助けるつもりだった。でも、クレスさんが止めたし、フィンたちでいけそうだったから」


 クレスが短く言う。


「できることを奪うな」


 カイルは深く頷いた。


「はい」


 フィンの胸に、その言葉が残った。


 助けてもらうことと、奪われることは違う。


 強い人が全部倒してくれたら安全だ。


 でも、それでは自分たちが何もできないままになる。


 第3層の報酬部屋へ着く頃には、若手たちの顔に疲れが出ていた。


 それでも、誰も膝をついていない。


 全員、立っている。


 紅肌の雫は、今回は目的ではなかった。


 だが、報酬として現れる。


 若手たちはそれを受け取り、少しだけ複雑な顔をした。


 以前なら、ただ喜んだかもしれない。


 今は違う。


 報酬を受け取るまでの道と、帰るまでの道が頭にある。


 メリダが笑った。


「いい顔だね。報酬だけ見てない顔だ」


 フィンは小瓶を握った。


「……戻るまでが、ですね」


「そう」


 メリダは頷く。


「戻るまでが、迷宮だよ」


 一行は帰還路を通り、第1層へ戻った。




 第1層で短い休憩を取った。


 ミルがいつものように叫ぶ。


「おかえりなさい!」


 フィンはその声を聞いて、前より少しだけ胸に染みる気がした。


 カイルも同じだったのか、少し笑っていた。


 ミルはカイルを見ると、ぺこりと頭を下げる。


「カイルさんも、おかえりなさい!」


「ただいま!」


 声が大きい。


 ミルが笑う。


 ティアが遠くから言う。


「酒場の中よ」


「すみません!」


 そのやり取りに、若手たちも少し笑った。


 休憩の間、メリダが第3層の記録を確認する。


 フィンの射撃。


 サナの追い足。


 ニーナの後方確認。


 リオの盾位置。


 カイルの戻る距離。


 全部が記録される。


 カイルは自分も記録対象になっていることに驚いていた。


「オレもですか?」


「当然だよ」


 メリダは涼しい顔で言う。


「速い奴がどこで止まるかも、講習には大事だからね」


「なるほど」


 カイルは真剣に頷いた。


 ティアが少しだけ意外そうに見る。


「素直ね」


「オレ、今日はちゃんと学ぶ日って決めたから」


「三日続くといいわね」


「三日!?」


「まずは三日」


 カイルは少し悩んだ。


 ラハルが豪快に笑った。


「はっはっは! 三日続けば四日目もいける!」


「本当ですか!」


「気合いだ!」


 ティアが無言でラハルを見た。


 ラハルは咳払いした。


「……気合いだけではない」


 フィンたちは、そのやり取りを見ていた。


 Aランクでも注意される。


 Aランクでも止められる。


 Aランクでも学ぶ。


 少しだけ、遠すぎた背中が、人間の背中に見えた。


 休憩後。


 クレスが立ち上がる。


「次は第4層だ」


 若手たちの表情が引き締まる。


 第4層。


 琥珀の貯蔵庫。


 そこも、今の彼らには簡単な場所ではなかった。




 第4層へ入ると、空気が変わった。


 甘く深い香り。


 棚。


 樽。


 琥珀色の光。


 第3層の湿った不快感とは違う。


 ここは綺麗だった。


 だから、危ない。


 フィンは思わず足を止めた。


「……すごい」


 リオも周囲を見る。


「これ、報酬じゃなくても見ちゃうな」


 サナが慌てて目線を戻す。


「見すぎると駄目なやつ」


 ニーナは鼻を押さえた。


「香りで、少しぼんやりします」


 メリダが満足そうに頷く。


「いいね。欲だけじゃない。綺麗でも、香りでも、足は止まる」


 カイルも少しだけ棚を見ていた。


 クレスが視線を向ける。


 カイルは即座に姿勢を正した。


「見てません!」


「見ていた」


「少しです!」


 フィンたちは思わず笑いそうになった。


 だが、すぐに魔物の気配が来る。


 琥珀スライムが床を滑る。


 琥珀色の体が光を反射し、距離が分かりにくい。


 さらに奥の棚の影から、樽齧り鼠が一匹、荷袋の方へ走った。


 ニーナがすぐに声を上げる。


「荷物!」


 サナが反応する。


 だが、追いすぎる前にメリダの声が飛んだ。


「追う足、短く!」


 サナは踏み込みを半歩で止め、樽齧り鼠の進路を塞ぐ。


 フィンが矢を構える。


 しかし、第4層の香りと光で狙いが少し遅れる。


 クレスの声が飛ぶ。


「息を浅くするな」


 フィンははっとして、呼吸を整える。


 矢を放つ。


 樽齧り鼠が跳ね、進路を変える。


 リオが盾で押さえ込む。


 サナが短剣の柄で叩く。


 ニーナが水の魔法で琥珀スライムを押し戻した。


 琥珀スライムの体がぐにゃりと広がる。


「氷で足止め」


 クレスの指示。


 ニーナが小さく頷く。


 水の流れに冷気が混じり、琥珀スライムの端が白く固まる。


 カイルが一歩前へ出る。


 だが、倒しきらない。


 剣の背で琥珀スライムの動きをずらし、若手たちの前へ戻す。


 フィンが二射目。


 リオが盾で押す。


 サナが横を取る。


 琥珀スライムは崩れた。


 その時、上から粉が落ちた。


「酔香蛾!」


 メリダが言うより先に、ニーナが風を起こした。


 弱い風ではない。


 粉を払うための、短く鋭い風。


 琥珀色の羽を持つ酔香蛾が、棚の間からひらりと飛ぶ。


 カイルの剣が動きかける。


 だが、止まる。


 フィンが狙う。


 香りで目が重い。


 でも、風で粉が散った一瞬を逃さない。


 矢が酔香蛾の羽を貫いた。


 酔香蛾が落ちる。


 リオが盾で押さえる。


 サナがとどめを入れた。


 カイルは剣を肩に乗せかけ、途中でやめた。


 ティアがいないのに、なぜか注意される気がしたらしい。


 メリダが笑う。


「今のは良かったね」


「本当ですか!」


「カイルじゃなくて、若手の話」


「あ、はい」


「でも、邪魔しなかったのは良かった」


「ありがとうございます!」


 カイルはそれでも嬉しそうだった。


 第4層では、戦闘よりも足が止まることが多かった。


 琥珀色の棚。


 樽の影。


 香り。


 報酬への期待。


 フィンたちは何度も意識を持っていかれそうになる。


 そのたびに、クレスが短く声をかける。


「前」


「足元」


「見すぎるな」


「息を整えろ」


 カイルは横で、少しだけそわそわしていた。


 自分ならもっと早く進める。


 敵もすぐ倒せる。


 報酬部屋まで一気に行ける。


 そう思っているのが、顔に出ていた。


 だが、進まない。


 若手たちの速度に合わせる。


 時々、歩幅が合わなくなりそうになると、自分で足を止める。


 フィンはそれを見ていた。


 速い人が遅く歩く。


 それが、意外と難しそうだった。


 やがて、報酬部屋へ着いた。


 琥珀の雫が現れる。


 若手たちの目が吸い寄せられる。


 売れば高い。


 飲めば特別な酒。


 大人たちが騒ぐもの。


 フィンは小瓶を見つめた。


 クレスが言う。


「報酬を見ている間も、帰り道は残っている」


 フィンははっとした。


「はい」


 サナも頷く。


 ニーナは小瓶を丁寧にしまう。


 リオは少し名残惜しそうだったが、周囲を見る。


 メリダが言った。


「欲で止まる足を覚えな。足が止まったことに気づければ、まだ帰れる」


 カイルも、自分の琥珀の雫を見た。


 少し考えてからしまう。


「これ、クレスさんはどうしてるんですか?」


「保管している」


「飲まないんですか?」


「必要な時でいい」


「かっこいい……」


 カイルの目がまた輝いた。


 クレスは黙った。


 フィンたちは、それを見て笑いそうになった。


 このAランクは強い。


 でも、クレスの前では本当に分かりやすい。


 少しだけ、怖さが薄れた。




 第4層を抜けた先。


 第5層への階段。


 そこに立った時、若手たちの顔から笑いが消えた。


 下から、温かい湿気が上がってくる。


 白い湯気。


 石の奥から聞こえる、ぽこり、ぽこりという音。


 空気が重い。


 熱いのに、背中が冷える。


 フィンは喉を鳴らした。


 階段を下りる。


 一段。


 また一段。


 第5層入口。


 足元の石が、じんわり温かい。


 壁に白い鉱物筋が走っている。


 視界の先は湯気で白い。


 遠くに、何かが動いた気配がある。


 まだ入口付近だ。


 まだ深く入っていない。


 それなのに、空気が違った。


「……ここ、違う」


 フィンが呟いた。


 サナは無言で頷く。


 ニーナは両手を握っていた。


「見えにくいです」


 リオが盾を少し上げる。


「奥に行く場所じゃないって、分かる」


 その言葉に、カイルも黙った。


 いつもの彼なら、奥を見て目を輝かせただろう。


 実際、少しだけ輝きかけていた。


 だが、若手たちの表情を見て、その光が落ち着いた。


 クレスが言う。


「入口付近で一戦だけ経験する。深くは入らない」


 フィンの喉が鳴った。


「一戦……」


「逃げる距離を残す。湯気の中で戦う感覚を見る」


 メリダが木板を構える。


「怖いなら怖いって言いな。第5層で黙って固まるのが一番危ない」


「……怖いです」


 ニーナが先に言った。


 サナも頷く。


「私も」


 リオが盾を握る。


「でも、立てます」


 フィンは弓を構えた。


「やります」


 カイルは剣を抜く。


 だが、前に飛び出さない。


 クレスの横ではなく、若手たちの少し前。


 戻れる位置。


 湯気の中から、ばさり、と音がした。


 スチームバットが二体。


 白い湯気を裂くように、上から飛び込んでくる。


 フィンが弓を上げる。


 見えにくい。


 第3層や第4層とは違う。


 姿が見えたと思った瞬間、湯気で輪郭がぼやける。


「音を聞け」


 クレスの声。


 フィンは目だけで追うのをやめた。


 羽音。


 湯気を切る音。


 近い方へ矢を放つ。


 矢は羽をかすめた。


 スチームバットの軌道が乱れる。


 カイルが一歩だけ出て、剣の腹で叩き落とした。


 すぐ戻る。


 もう一体がサナの横へ回る。


 リオが盾を出す。


 だが、湯気で少し遅れた。


 スチームバットの爪が盾の縁をかすめる。


「横!」


 サナが短剣で払う。


 ニーナが風を起こした。


 強すぎない風。


 湯気を全部消すのではなく、目の前だけを薄くする風。


 スチームバットの位置が見えた。


 フィンの二射目が当たる。


 落ちた。


 全員が息を吐く。


 だが、終わりではなかった。


 足元の湯気の中から、赤みを帯びた影がぬるりと出た。


 レッドスプリングスライム。


 熱を持った体が、石の上を這う。


「触るな」


 クレスの声が低くなる。


 リオが盾で止めようとする。


「盾の正面だけ。押し込むな」


 リオは踏み込みを抑えた。


 盾で受ける。


 じゅ、と湿った音がした。


 熱が伝わったのか、リオの顔が歪む。


 サナが横へ行こうとする。


 足元が濡れている。


 滑りかけた。


 カイルが動く。


 サナを引き戻すのではなく、自分の剣でスライムの進路を軽く弾く。


 戻す。


 若手たちの位置へ、戦える距離で戻す。


「ニーナ、水じゃなくて、冷やせるか!」


 フィンの声。


 ニーナが頷く。


「やってみます!」


 小さな氷の魔法が、床の水気を伝う。


 レッドスプリングスライムの端が白く固まる。


 動きが鈍った。


 フィンが矢を放つ。


 サナが今度は足元を見て踏み込む。


 リオが盾で押さえる。


 カイルはとどめを刺せる位置にいた。


 でも、刺さない。


 若手たちの攻撃が重なり、レッドスプリングスライムは崩れた。


 湯気が少し晴れる。


 残ったのは、荒い息だけだった。


 フィンは、自分の手が震えていることに気づいた。


 サナは膝に手を置きかけ、すぐに姿勢を戻した。


 ニーナは唇を噛んでいる。


 リオは盾を見ていた。


 盾の縁に、熱で変色した跡がある。


「……入口で、これか」


 リオが呟いた。


 メリダがすぐに書き込む。


「第5層入口戦闘。湯気で弓の狙いが鈍る。盾に熱。足元が滑る。風で視界を作れる。冷却は有効。前に出すぎると戻れない」


 クレスが言う。


「今日はここまでだ」


 短い。


 はっきりした声だった。


 フィンたちは、ほっとした。


 同時に、少し悔しさもあった。


 入口付近。


 小さな戦闘。


 門番どころか、湯溜まりにも近づいていない。


 それでも、体は戻りたいと言っている。


 カイルが奥を見た。


 湯気の向こう。


 魔物の気配。


 進める。


 自分なら、進める。


 たぶん、そう思った。


 フィンはカイルを見た。


 Aランクなら、この先へ行けるはずだ。


 カイルなら、飛び込めるはずだ。


 カイルの手が、剣の柄に触れた。


 そして、離れた。


「戻ろう」


 カイルが言った。


 フィンは目を見開いた。


 カイルは若手たちを見て、少し笑った。


「今日は入口で一戦する日だろ。奥へ行く日じゃない」


 クレスがカイルを見た。


 少しだけ間があった。


「いい判断だ」


 その一言で、カイルの顔が一気に明るくなった。


 だが、叫ばない。


 唇を結び、拳を握って、どうにかこらえる。


 メリダが笑った。


「声、出したかったね」


「はい」


「出さなかったのも、いい判断だ」


「ありがとうございます!」


 結局、声は少し大きかった。


 でも、いつもよりは小さかった。


 フィンは、カイルを見る。


 強い人は、進める人だと思っていた。


 奥へ行ける人。


 魔物を倒せる人。


 報酬を取れる人。


 でも、今見たAランクは、進めるのに戻る人だった。


 進めるからこそ、戻ると決める人だった。


 フィンは弓を握り直す。


「戻ります」


 サナが頷く。


「戻ります」


 ニーナも。


「戻ります」


 リオも。


「戻る」


 クレスは頷いた。


 一行は、第5層の入口付近から戻った。


 門番とは戦わない。


 湯溜まりも見ない。


 ただ、入口の空気と、入口の戦闘だけを持ち帰った。




 第1層へ戻ると、ミルの声が響いた。


「おかえりなさい!」


 フィンは、今度こそはっきりと答えた。


「ただいま」


 声は少し小さかった。


 でも、ちゃんと出た。


 サナも、ニーナも、リオも、それぞれ答えた。


 カイルも答えた。


「ただいま!」


 やっぱり少し大きかった。


 ティアが振り向く。


「声」


「ただいま」


 カイルは言い直した。


 少し小さく。


 ミルが笑った。


 報告は酒場の一角で行われた。


 第3層。


 若手の動き。


 第4層。


 琥珀スライム、酔香蛾、樽齧り鼠への対応。


 香りと報酬で足が止まること。


 第5層。


 入口付近だけでも空気が違うこと。


 湯気で視界が鈍ること。


 スチームバットの羽音。


 レッドスプリングスライムの熱。


 盾に伝わる温度。


 足元の滑り。


 奥へ行かず戻ったこと。


 メリダが木板を掲げる。


「第5層入口戦闘講習。これは使えるね」


 グラントが頷く。


「第5層へ進む前に、入口付近で一戦だけ経験させる手順を作れます。ただし、撤退判断込みですね」


 オルド村長が言う。


「また講習が増えるのか」


「増えますね」


「分かっていたが、聞きたくなかった」


 エナさんが笑う。


「でも、入口で戻る練習は必要だと思います」


 その言葉に、酒場の何人かが頷いた。


 第5層は、湯溜まりの話ばかりが広がっている。


 髪が整う。


 肌が整う。


 湯に入れる。


 そんな明るい話が多い。


 でも、その手前には魔物がいる。


 熱気がある。


 湯気がある。


 門番がいる。


 入口付近だけでも、若手の顔色が変わる場所だ。


 フィンは、カイルの横に立った。


「あの」


「ん?」


「強い人って、進める人だと思ってました」


 カイルは少し黙る。


 フィンは続けた。


「でも、今日、戻るって言ったのを見て……それも強いんだなって」


 カイルは目を瞬いた。


 それから、少し照れたように頭をかいた。


「オレも、ちょっと前まで進む方が強いって思ってた」


「今は違うんですか?」


「まだ、完全には分かってないと思う」


 カイルは正直に言った。


「でも、クレスさんが見てる時に、置いて進むのは違うって分かった。あと、ミルにおかえりって言われると、戻らないとなって思う」


 フィンは、ミルの方を見た。


 ミルはエナさんと洗い場の話をしている。


 小さな声。


 明るい顔。


 誰かが戻るたびに、あの子は「おかえり」と言う。


 それを聞くために戻る。


 少し、分かる気がした。


「俺も、戻れるようになりたいです」


 フィンが言う。


 カイルは笑った。


「それ、いいと思う」


 クレスが二人の横を通り過ぎた。


「戻れる者が、次に進める」


 それだけ言って、記録板の方へ行こうとした。


 カイルはまた目を輝かせた。


「今の、かっこよくない?」


 フィンは笑った。


「はい」


 少しだけ、距離が縮まった気がした。


 カイルはそこで、自分の腰袋を叩いた。


「あ、そうだ!」


 ティアが遠くで目を細めた。


「今度は何?」


「いや、ちゃんとしたやつ!」


 カイルは琥珀の雫の小瓶を取り出した。


「今日、第4層も抜けたんだろ? だったら、これで乾杯しようぜ」


 フィンたちは目を丸くした。


「乾杯?」


「うん。戻ってきた祝い。あと、進まなかった祝い」


「進まなかった祝いって」


 リオが困ったように笑う。


 カイルは真面目だった。


「大事だろ。進めるけど戻ったんだから」


 その言葉に、フィンは黙った。


 サナも、ニーナも、リオも、少しだけ顔を見合わせる。


 カイルはクレスの方へ振り向いた。


「クレスさんも! 一緒に飲みませんか!」


 酒場の空気が少し止まった。


 クレスは振り返る。


 カイルの顔は期待で光っている。


 まぶしい。


 朝の琥珀の棚よりまぶしい。


 クレスは、ほんの少しだけ考えた。


「第4層内では飲むな」


「はい!」


「帰還記録後なら、少量ならいい」


「じゃあ!」


「飲む者は自分の分を自分で管理しろ。飲みすぎるな」


「はい!!」


 カイルの声が跳ねた。


 ティアがすぐに言う。


「声」


「はい」


 今度は少し小さかった。


 エナさんが小さな杯を出してくれた。


 酒場の隅の席。


 フィン。


 サナ。


 ニーナ。


 リオ。


 カイル。


 クレス。


 メリダも記録役として座った。


「私は味見程度にしておくよ」


 カイルは自分の琥珀の雫を開けようとして、クレスに見られて止まった。


「記録」


「あっ」


 仮受付で取得記録を済ませてから、改めて小瓶を開ける。


 琥珀色の香りが、ふわりと広がった。


 第4層の空気より、ずっと小さい。


 でも、確かにあの層の記憶を連れてくる香りだった。


 杯にほんの少しずつ注ぐ。


 多くはない。


 それでも、全員が少し緊張した。


 カイルが杯を持つ。


「じゃあ」


 クレスを見る。


 クレスは無言で頷いた。


 カイルは笑った。


「第5層の入口で、ちゃんと戻ってきたことに」


 フィンが杯を見る。


 サナが息を整える。


 ニーナが少しだけ微笑む。


 リオが盾を横に置く。


 メリダが木板を伏せた。


 クレスが杯を持つ。


 カイルが言った。


「乾杯!」


 杯が軽く触れた。


 琥珀の雫を口に含む。


 強い。


 甘い。


 木の香り。


 煙のような深み。


 喉を通ると、胸の奥がじんわり温かくなる。


 フィンは驚いて目を見開いた。


「……すごい」


 サナは小さく咳き込む。


「強い……でも、いい香り」


 ニーナは杯を両手で持つ。


「これ、ゆっくり飲むものですね」


 リオは真顔で言った。


「一気に飲んだら倒れる」


 メリダが笑う。


「正しい学びだね」


 カイルはクレスを見ていた。


「クレスさん、どうですか!」


「悪くない」


「悪くない!」


 カイルはそれだけで満足そうだった。


 クレスは杯を置く。


「今日は進まなかった。だから戻れた」


 その言葉に、若手たちは静かになった。


「次に進むために、今日は進まなかった。覚えておけ」


「はい」


 フィンたちは揃って答えた。


 琥珀の香りが、酒場の隅に静かに残る。


 それは報酬だった。


 でも、今日だけは勝利の酒ではなかった。


 戻る判断をした者たちの、小さな乾杯だった。




 黒い水膜の内側で、俺はその報告と乾杯を見ていた。


「カイル、ちゃんと戻ったな」


『ええ』


「しかも、乾杯まで誘った」


『いい祝い方ね。少し騒がしいけれど』


「カイルだからな」


 ヴェルティアが小さく笑った気がした。


「フィンたちも、いい顔してる」


 水膜の中で、フィンたちは第5層入口の話をしていた。


 怖かった。


 空気が違った。


 スチームバットが見えにくかった。


 レッドスプリングスライムの熱が怖かった。


 奥に行きたいとは思わなかった。


 でも、いつか行けるようになりたい。


 その言葉が出るなら、今日は十分だ。


 表示が浮かぶ。


【若手冒険者の第3層再訓練を確認】


【第4層での既存魔物対応、報酬欲、香り、視線誘導への警戒を確認】


【第5層入口戦闘手順を獲得】


【進まない判断、撤退意識、同行者速度調整を確認】


【カイルの帰還判断、若手への影響を確認】


【琥珀の雫による帰還祝い、共有欲、仲間意識を獲得】


【獲得DP:1892】


【現在DP:11776】


「いい増え方だな」


『第6層にはまだ足りないわね』


「分かってる」


 俺は苦笑する。


 霧冷えの回廊。


 霧蔵の小箱。


 空間と時間を扱う報酬。


 必要DPは大きい。


 でも、焦らなくていい。


 今日みたいな日があるなら、それでいい。


 進むために、進まない。


 奥へ行くために、入口で戦って戻る。


 それを覚える冒険者がいる。


 それを見て変わるAランクがいる。


 それを「おかえり」と迎える子がいる。


 そして、戻ってきたことを祝う小さな杯がある。


 清水の迷宮は、奥へ広がるだけではない。


 戻るための感覚も、少しずつ広がっている。


 フィンたちは、第5層を攻略していない。


 湯にも入っていない。


 門番にも会っていない。


 ただ、入口で戦って、戻ってきただけだ。


 けれど、その日。


 若手たちは一つ覚えた。


 進めることだけが強さではない。


 戻ると決められることも、迷宮では確かな強さなのだと。



後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は若手たちが第3層と第4層で修行し、第5層は入口付近で戦って戻る話でした。

進まない判断も、迷宮では大事な成長になります。


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