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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第47話 母を連れて湯気の奥へ



 Aランク冒険者三人が第3層を踏破した翌朝。


 清水の迷宮、第1層。


 酒場の空気は、いつもより少し硬かった。


 理由は分かっている。


 次は、第4層。


 そして、その奥の第5層。


 Aランク三人が、本来見に来た場所へ進む日だ。


 カイルは朝から落ち着きがない。


 ティアは掲示板と記録板を読み直している。


 ラハルは大盾を壁に立てかけ、戦槌の柄を確認している。


 クレスは第5層の記録をまとめていた。


 カティアは腕を組み、壁に寄りかかっている。


 メリダは講習席の前で、いつもより静かに木板を持っていた。


 仮受付の横には、条件板が掛かっている。


【第5層湯溜まり護衛依頼について】


【講習未受講者の受注不可】


【第4層突破記録必須】


【門番記録確認必須】


【撤退判断は護衛側に従うこと】


 そこまでは、昨日までと同じだ。


 だが、今日の話は少し違った。


 グラントが、机の上に一枚の記録板を置いた。


「Aランク三名のみで第5層を確認するだけなら、問題は少ないでしょう」


 カイルが胸を張りかける。


 ティアが横目で見る。


 カイルは胸を戻した。


 グラントは続ける。


「ですが、今後の依頼は違います。貴族夫人、商家の奥方、場合によっては従者を伴う護衛です。強い者だけで進む確認では、足りません」


 クレスが頷く。


「護衛対象がいる時の確認が必要だ」


 酒場が少しざわつく。


「護衛対象?」


「非冒険者を連れて行くのか?」


「第5層まで?」


 オルド村長が渋い顔をした。


「いきなり貴族を連れて行くわけにはいかん」


「だから、試験が必要です」


 グラントは静かに言った。


「信頼できる村の人間で、女性目線の確認ができ、指示に従える者。湯溜まりに必要なものを、冒険者とは別の目で見られる者」


 その時、酒場の奥から声がした。


「私が行きます」


 エナだった。


 ミルの母。


 清水の酒場を手伝い、食事を出し、ミルを見守り、増え続ける冒険者たちにも落ち着いて対応してきた人だ。


 エナは普段と同じ前掛け姿ではなかった。


 動きやすい服。


 丈夫な靴。


 肩には小さな荷袋。


 戦う格好ではない。


 だが、行くつもりの格好だった。


「お母さん!?」


 ミルが目を丸くする。


 オルド村長も立ち上がった。


「エナ、本気か」


「はい」


 エナは静かに頷いた。


「奥方様たちを迎えるなら、村の女が何も知らないままでは駄目です。湯に入る場所なら、女にしか分からない不安もあると思います」


 カティアが眉を寄せる。


「本気かよ。第5層だぞ」


「分かっています」


 メリダが歩いてきた。


「怖いよ」


 エナはメリダを見る。


「怖くないとは言いません」


 酒場の音が、少し遠くなった。


 エナは続ける。


「でも、怖い場所なら、なおさら先に知っておきたいんです。何が怖いのか。どこで足が止まるのか。湯に入る前に何が必要なのか。帰ってきた後、何を用意しておくべきなのか」


 メリダは黙って聞いていた。


 エナはミルの方を見る。


 ミルは泣きそうな顔をしている。


「お母さん、行くの?」


「行って、帰ってくるのよ」


「でも」


「帰ってくるために行くの」


 エナはミルを抱きしめた。


「ミルがいつも言ってくれるでしょう。おかえりなさいって。あれを、ちゃんと言ってもらうために行くの」


 ミルはエナの服をぎゅっと握った。


 カイルが、その様子を見ていた。


 いつものようにすぐ口を出さない。


 ただ、少しだけ真面目な顔になっていた。


 ティアがエナを見る。


「勝手に歩かない。指示に従う。撤退命令には絶対に従う。それが条件よ」


「はい」


「怖い時は、怖いと言ってください。我慢して足を止める方が危険です」


「分かりました」


 ラハルが大盾を持ち上げた。


「ならば、わしの盾の後ろにいればよい!」


 声が大きい。


 でも、不思議と安心感があった。


 エナは少し笑った。


「お願いします」


 ラハルは満足そうに頷く。


「任された!」


 クレスが記録板を閉じる。


「手順を踏む。まず、エナの第3層帰還記録を作る。休憩。その後、第4層。疲労が強ければそこで中止。問題なければ第5層へ進む」


 カティアが言う。


「あたしとクレスは見る側だ。手は出さねえ」


 カイルが少し驚いた顔をした。


「出ないんですか?」


 クレスは頷く。


「Aランク三人が、護衛対象を守って進めるかを見る」


 ティアが短く言う。


「当然ね」


 ラハルが笑う。


「よかろう! 城門役は任せよ!」


 メリダが言う。


「私はエナの足を見るよ。どこで止まりそうになるか、どこで怖がるか。それが今日の記録だ」


 グラントが仮受付の職員に頷く。


「試験護衛、開始記録をお願いします」


 仮受付の職員が緊張した顔で筆を取った。


 ミルはまだエナの服を握っていた。


 エナはもう一度、ミルの頭を撫でる。


「行ってきます」


 ミルは涙をこらえて、声を出した。


「いってらっしゃい」


 その言葉に、カイルが少しだけ目を細めた。




 黒い水膜の内側で、俺はその場面を見ていた。


「エナさんが行くのか……」


『必要な試験ね』


「理屈では分かるけど、緊張するな」


『貴方が緊張してどうするの』


「いや、ミルの顔見たらさ」


 ミルは必死に泣かないようにしていた。


 エナさんは落ち着いている。


 でも、怖くないわけじゃない。


 その怖さを分かった上で行く。


 非冒険者を連れて行く護衛依頼。


 言葉にすると簡単だ。


 でも、それは誰かの母親を連れて、魔物のいる場所へ進むということでもある。


「強い人が奥へ行くのとは、全然違うな」


『ええ。守って帰すというのは、そういうことよ』


 第3層入口へ、一行が向かう。


 Aランク三人。


 エナさん。


 クレス。


 カティア。


 メリダさん。


 クレスとカティアは、手を出さない位置。


 でも、目は離していない。


 メリダさんは、エナさんの歩幅をすでに見ている。


 カイルは前へ行きたそうだが、ティアに見られて少し下がる。


 ラハルはエナさんの前ではなく、少し斜め前に立った。


 完全に視界を塞がない。


 でも、何か来たら盾が入る位置。


「ラハルさん、でかいけど邪魔じゃないな」


『守る立ち方を知っているのね』


「城門なのに気配りできる」


『城門に失礼よ』


 俺は黙った。


 一行は、第3層へ入っていった。




 第3層。


 藻の迷路。


 湿った空気。


 ぬるりとした床。


 戻ろうとすると、さっきの通路が違って見える場所。


 エナは入ってすぐ、息を飲んだ。


「……後ろが、分かりにくいんですね」


 メリダがそれを聞き逃さない。


「そう。冒険者でも焦る。非冒険者なら、もっと怖い」


「はい」


 ティアがエナの靴元を見る。


「歩幅を小さく。床を蹴らず、置くように」


「はい」


 カイルが前方の藻の影に気づく。


「来る」


 声と同時に、剣が抜かれた。


 藻の陰から魔物が跳ねる。


 カイルは前へ出る。


 だが、離れすぎない。


 踏み込みは鋭い。


 剣は速い。


 魔物が跳ねる先を読んで、切り落とす。


 すぐに戻る。


 ティアが短く頷いた。


「今の距離はいいわ」


 カイルの顔が少し明るくなる。


「よし」


「調子に乗らない」


「はい」


 ラハルは後ろへ回り込もうとした魔物を盾で止めた。


 叩き潰すのではない。


 まず止める。


 エナが驚いて後ずさろうとしたところへ、ラハルの声が飛ぶ。


「下がるなら、わしの盾から離れるな!」


「はい!」


 エナは足を止めた。


 メリダがすぐに記録する。


「驚くと後ろへ下がろうとする。盾の位置が見えると止まれる」


 クレスは黙って見ている。


 カティアも手を出さない。


 第3層の魔物は、Aランク三人にとって脅威ではなかった。


 だが、エナにとっては違う。


 音。


 湿気。


 戻れない感覚。


 足元のぬめり。


 目の前で剣が振られる怖さ。


 全部が、冒険者ではない人間の歩みを遅らせる。


 エナは何度か足を止めた。


 そのたびに、ティアが短く声をかける。


「怖いなら、言って」


「……怖いです」


「言えたなら大丈夫。進むか戻るかを判断できるわ」


 エナは頷いた。


 メリダが少しだけ笑う。


「いいね。怖いを隠さない護衛対象は助かる」


 カイルは横で真剣に聞いていた。


 やがて、一行は第3層の報酬部屋へ着いた。


 紅肌の雫が、エナの前に現れる。


 小さな瓶。


 赤みを帯びた透明な雫。


 エナは、それを不思議そうに見た。


「これが……」


「紅肌の雫だ」


 クレスが言う。


「肌や顔色に効果がある。戦闘には関係ない」


 エナは受け取った。


 しばらく見つめる。


 自分で使うか、村の記録に回すか、迷っている顔だった。


 だが、クレスは何も言わない。


 メリダも急かさない。


 そのまま、一行は帰還路を通り、第1層へ戻った。




「おかえりなさい!」


 ミルの声が響いた。


 エナが戻ってきた瞬間、ミルは駆け出した。


 途中で転びそうになり、フィンにそっと支えられる。


 エナは膝をつき、ミルを抱きしめた。


「ただいま」


 ミルがエナの肩に顔を押しつける。


「お母さん、怖かった?」


「怖かったわ」


「でも、帰ってきた」


「帰ってきたわ」


 そのやり取りを、カイルが見ていた。


 昨日も、ミルは「おかえりなさい」と言っていた。


 Aランクが戻っても、若手が戻っても、村の手伝いが戻っても。


 当たり前みたいに。


 でも、当たり前ではない。


 迷宮から戻る者に、その言葉は思ったより深く届く。


 カイルは自分の荷袋から、小瓶を取り出した。


 昨日、第3層で得た紅肌の雫。


 まだ使わずに持っていたものだ。


「エナさん」


 エナが顔を上げる。


「はい?」


「これ、使ってください」


 カイルは紅肌の雫を差し出した。


 酒場がざわつく。


「え?」


「紅肌の雫を?」


「大銀貨二枚のやつだぞ?」


 エナも驚いた。


「いえ、そんな高価なものは」


「オレ、もう一本持ってるから」


 カイルは少し照れたように笑った。


「昨日、ミルにおかえりって言ってもらえて、嬉しかったんです。なんか、すごく」


 ミルが目を丸くする。


「私?」


「うん。オレ、迷宮から帰ってきて、そう言ってもらえるの、好きだなって思った」


 カイルは小瓶をエナの手に乗せる。


「だから、ミルと一緒に使ってください。二人で」


 ティアが横で静かに見ていた。


 止めない。


 ラハルも笑っている。


 エナは小瓶を見て、カイルを見た。


「本当に、いいんですか?」


「はい!」


 カイルは大きく頷く。


「オレ、こういうの、難しいことは分かんないけど。おかえりって言ってくれる人がいるなら、その人にも良いことがあってほしいです」


 ティアが小さく息を吐いた。


「あなたらしいわね」


「変か?」


「変ではないわ」


 エナはしばらく黙った。


 それから、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「やめてください。そういうの、なんか照れます」


 休憩中、エナとミルは酒場の端の席に座った。


 木杯ではなく、小さな器を二つ。


 エナの紅肌の雫。


 カイルから渡された紅肌の雫。


 ミルは緊張した顔で器を見ている。


「お母さん、本当にいいの?」


「カイルさんが、あなたにもって」


「高いんでしょ?」


「高いわね」


「じゃあ」


「でも、こういうものは、気持ちも一緒に受け取るものよ」


 エナはミルの髪を撫でた。


「一緒に使いましょう」


 ミルは小さく頷いた。


 二人は、同じタイミングで紅肌の雫を飲んだ。


 すぐに劇的な変化が起きるわけではない。


 だが、少しずつ、顔色が整っていく。


 エナの頬に、疲れで沈んでいた色が戻る。


 ミルの肌にも、ほんのり血色が差した。


 親子で、少し顔を見合わせる。


「……お母さん」


「ミルも、少し明るくなったわね」


「お母さんも」


 ミルが笑った。


 エナも笑った。


 カイルはその光景を見て、満足そうにしていた。


 ティアが横に立つ。


「よかったわね」


「うん」


「でも、気前よく渡しすぎる癖は直した方がいいわ」


「今言う?」


「今だから言うの」


「……はい」


 それでも、ティアの声は少し柔らかかった。


 休憩は長めに取った。


 エナの足、呼吸、顔色。


 メリダが一つずつ確認する。


「続けられるかい」


「はい」


「無理してない?」


「怖さは残っています。でも、今なら進めます」


 メリダは頷いた。


「よし。次は第4層だよ」




 第4層、琥珀の貯蔵庫。


 エナは入ってすぐ、足を止めた。


 香りが違う。


 第3層の湿った藻とは違う。


 熟成した酒のような、甘く深い香り。


 棚。


 樽。


 琥珀色の光。


 冒険者でさえ足を止める場所だ。


 非冒険者なら、なおさらだった。


「これは……」


 エナは小さく呟く。


「足が止まりますね」


 メリダがすぐに記録する。


「第4層、香りで足が止まる。報酬前でも注意」


 ラハルが鼻を鳴らす。


「よい香りだ!」


 ティアが言う。


「判断を鈍らせるわ。長居しない方がいい」


 カイルは棚を見ながらも、足は止めている。


 昨日より、少し慎重だ。


 クレスはそれを見ていた。


 何も言わない。


 ただ、見ている。


 第4層の魔物も、Aランク三人にとって大きな障害ではなかった。


 カイルが前方を切る。


 ティアが香りの濃い場所で意識を保つ補助をかける。


 ラハルが盾で通路を塞ぎ、エナの退路を守る。


 エナは、時々足を止める。


 そのたびに言葉にする。


「ここは、見てしまいます」


「ここは、匂いでぼんやりします」


「ここは、綺麗で、進むのを忘れそうになります」


 メリダは記録する。


「欲じゃなくても、足は止まる。綺麗な場所でも危ない」


 やがて、第4層の報酬部屋。


 エナの前に、琥珀の雫が現れた。


 小さな瓶。


 琥珀色。


 高品質な酒に相当する一滴。


 エナは受け取り、少し困った顔をした。


「これは、私が飲むものではありませんね」


 グラントがいれば、値段を計算しただろう。


 冒険者なら、売るか飲むか考える。


 だが、エナは瓶を両手で包んだ。


「ミルが成人したら、お祝いに渡します」


 ミルはまだいない。


 だが、エナの声は柔らかかった。


 この世界では、十五歳で成人だ。


 酒を飲めるようになる年。


 まだ先の話。


 けれど、母親にとっては、いつか来る日の話だった。


 カイルが笑う。


「いいな、それ」


 ティアも静かに頷いた。


「大切な保管理由ね」


 ラハルが胸を張る。


「祝いの酒か! よい! 実によい!」


 エナは小瓶を丁寧にしまった。


 それから、深く息を吸う。


「続けられます」


 メリダが見る。


「無理なら、ここで戻るよ」


「分かっています」


 エナは頷いた。


「でも、ここまで来て分かりました。第5層へ行く前に、すでに休憩が必要です。奥方様なら、ここで気持ちがふわつく方もいると思います」


 メリダが記録する。


「第4層後、休憩必須候補」


 クレスが短く言う。


「いい記録だ」


 そして、一行は第5層へ降りた。




 第5層。


 温かい湿気。


 湯気。


 白い鉱物筋。


 足元から伝わる熱。


 エナは入った瞬間、表情を変えた。


「空気が、重いです」


 ティアがすぐに答える。


「ゆっくり呼吸して。熱で急ぐと余計に疲れるわ」


「はい」


 カイルは前を見ている。


 いつもなら飛び出しそうな目だ。


 だが、今日はエナの位置を何度も確認している。


 ティアに言われたからだけではない。


 ミルの「おかえりなさい」が、まだ彼の中に残っていた。


 スチームウルフが来た。


 二体。


 横へ回ろうとする。


 カイルが前へ出る。


 今度は追いすぎない。


 一体を斬り、すぐ戻る。


 もう一体はラハルの盾へぶつかった。


「盾の後ろへ!」


 ラハルの声が響く。


 エナが反射的に盾の影へ入る。


 巨大な盾が、目の前に壁を作る。


 爪の音。


 衝撃。


 だが、エナには届かない。


 ティアの補助魔法が足元に淡く光る。


「滑らないようにしてあるわ。慌てず立って」


「はい」


 カティアは少し離れて見ていた。


 手は出さない。


 クレスも動かない。


 メリダはエナの足元と目線を見ている。


「盾が見えると安心する。湯気で人が見えなくなると不安が増える」


 記録板に書く。


 次はスチームバット。


 上から来る。


 カイルが反応するより先に、ティアが杖を上げた。


 薄い光が天井近くに走る。


 スチームバットの軌道がずれる。


 カイルの剣がそこへ入る。


「ナイス!」


「声が大きい」


「はい!」


 ミネラルクラブはラハルが盾で止め、戦槌の柄で横へ押し潰した。


 ロックエイプは石を投げてきたが、ティアが防御の膜で軌道をずらし、カイルが岩場まで詰めて戻る。


 戻る。


 戻るのだ。


 カティアがぼそっと言った。


「あいつ、ちゃんと戻ってるな」


 クレスが短く答える。


「ああ」


 それだけだった。


 だが、カイルが聞いていたら、たぶん一日中喜んだだろう。


 ホットウォーターリザードの熱水弾は、ラハルの盾とティアの補助で横へ流した。


 エナはそのたびに肩を震わせる。


 だが、声を出す。


「怖いです」


 メリダが頷く。


「いいよ。言えてる」


 そして、奥。


 重い足音が響いた。


 どん。


 どん。


 湯気が押し寄せる。


 白い鉱物殻。


 青白い湯脈。


 胸のコア。


 ホットスプリングガーディアン。


 エナの顔から血の気が引いた。


「……あれを、越えるんですね」


 ティアが静かに言う。


「越えられないと判断したら戻るわ」


 ラハルが大盾を構えた。


「だが、今日は越える!」


 カイルが剣を抜く。


「オレが行く!」


 ティアの声が飛ぶ。


「護衛対象から離れすぎない」


 カイルの足が止まる。


 止まった。


 一瞬、悔しそうな顔をしたが、すぐ頷く。


「分かってる!」


 ラハルが前へ出る。


 巨大な盾が、エナと後方を守る壁になる。


「盾の後ろに集まれ! まだ始まったばかりだ!」


 ホットスプリングガーディアンの腕が振り下ろされた。


 ラハルは受けた。


 いや、完全には受けない。


 盾を斜めに置き、衝撃を横へ逃がす。


 床が割れる。


 蒸気が爆ぜる。


 それでも、盾の後ろは崩れない。


「はっはっは! この程度で老いぼれ扱いとは、見る目がないな!」


 ティアが低く言う。


「笑っている場合ではありません」


「笑うのも士気よ!」


「なら、短く」


「うむ!」


 ティアの杖が光る。


 蒸気が一瞬薄く裂ける。


 視界が開く。


「右肩、噴気孔」


 カイルが走る。


 速い。


 でも、遠くへ行きすぎない。


 右肩へ斬撃。


 深くはない。


 だが、噴気孔の縁が欠ける。


 蒸気の流れが乱れる。


 ガーディアンの腕がカイルを追う。


 カイルは逃げるのではなく、戻る。


 ラハルの盾の影へ戻る。


 巨腕が追ってくる。


「よく戻った!」


 ラハルが盾を押し出す。


 巨腕と盾がぶつかる。


 音が洞窟を揺らす。


 ティアが補助を重ねる。


 ラハルの足元に淡い光。


 滑らない。


 沈まない。


 押し切られない。


「胸の光が強くなるわ」


 ティアが言う。


「熱が来る」


 エナが息を飲む。


 メリダが横で声をかける。


「下がりすぎない。盾を見て」


「はい!」


 ホットスプリングガーディアンの胸から蒸気が噴き出した。


 白い壁。


 視界が消える。


 ティアが杖を床へ突く。


「風よ、薄く」


 強い風ではない。


 吹き飛ばすのではなく、視界の線だけを作る風。


 白い蒸気の中に、細い道ができる。


「カイル、左膝。ラハル様、腕を受けずに流して」


「承知!」


「はい!」


 カイルが左へ走る。


 左膝の薄い鉱物筋を斬る。


 一撃。


 二撃。


 ガーディアンが膝を引く。


 そこへラハルが踏み込んだ。


 盾で腕をずらし、戦槌を膝へ叩き込む。


 鈍い破砕音。


 巨体が傾く。


 エナはその音に震えた。


 だが、倒れない。


 ラハルの背中を見ている。


「胸、開きます」


 ティアが言う。


 カイルが前へ出ようとする。


 ティアの声が、先に刺さる。


「届かない距離なら行かない」


「分かってる!」


 カイルは一度止まる。


 そして、周囲を見る。


 倒れた岩片。


 ラハルの盾。


 ガーディアンの傾き。


 正面から飛ぶのではなく、斜めに走る。


 岩片を蹴る。


 ラハルが一瞬だけ盾を下げる。


 カイルは盾の縁を踏み台にした。


「借ります!」


「行けい!」


 跳ぶ。


 ティアの補助が、カイルの足元に一瞬だけ光る。


 体勢が崩れない。


 剣が胸のコアへ向かう。


 ガーディアンの腕が戻る。


 ティアが左手を上げた。


「止まりなさい」


 光の鎖が、腕の関節に絡む。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ止まる。


 だが、Aランクには十分だった。


 カイルの剣が、胸のコアを裂いた。


 青白い光が弾ける。


 カイルは着地し、すぐ後ろへ戻る。


 戻る。


 ラハルの盾の内側へ。


 ティアがもう一度、杖を振る。


 コアの亀裂に光が走る。


 内側から崩れるように、ガーディアンの胸が砕けた。


 巨体が膝をつく。


 蒸気が止まる。


 白い鉱物殻が、ゆっくり灰色へ沈んでいく。


 ホットスプリングガーディアンは、動かなくなった。


 クレスは、一度も動かなかった。


 カティアも、一度も手を出さなかった。


 カイルは息を吐く。


 剣を下ろす。


 そして、エナを見た。


「大丈夫ですか?」


 エナは少し震えながらも、頷いた。


「はい。……怖かったです」


 ティアが近づく。


「それでいいわ。怖いまま、立っていられた」


 ラハルが豪快に笑う。


「よくぞ盾の後ろに残った!」


 エナは小さく笑った。


「盾の後ろから、出る気にはなれませんでした」


 メリダが記録板に書く。


「門番戦、護衛対象は盾の視認で安定。蒸気中、声と背中が重要。討伐中も帰る位置を失わせないこと」


 クレスが短く言った。


「いい戦闘だった」


 カイルの顔が、ぱっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


 カティアが鼻を鳴らす。


「飛び出して戻らねえかと思ったけどな」


「戻りました!」


「そこは偉い」


 カイルは、一瞬固まった。


「今、褒めました?」


「うるせえ」


 カイルは嬉しそうに笑った。


 ティアが小さく言う。


「調子に乗らない」


「はい!」


 その声は、また少し大きかった。




 湯溜まりの空間は、戦闘の後とは思えないほど静かだった。


 ぽこり、ぽこり。


 湯が湧く音。


 白い石。


 柔らかな湯気。


 奥には、水紋の帰還路。


 壁文字。


【1層へ】


 エナは湯溜まりを見て、しばらく黙っていた。


 それから、深く息を吐いた。


「ここまで来て、やっと湯なのですね」


 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


 冒険者にとっては、報酬地点。


 商人にとっては、価値のある場所。


 貴族にとっては、効果を得る場所。


 だが、エナにとっては違う。


 怖い道を越えて、ようやく辿り着く場所だった。


「奥方様を連れてくるなら、湯に入る前に座れる場所が必要です」


 エナはゆっくり言った。


「着替え。布。髪を拭くもの。湯から出た後に休む時間。見張りの位置も、もう少し考えた方がいいです。近すぎると落ち着きません。でも遠すぎると怖い」


 メリダが急いで記録する。


「見張りの距離。湯前休憩。布、着替え、髪拭き。湯上がり休憩」


 ティアも頷く。


「女性の付き添い役は必要ね。護衛とは別に」


「はい」


 エナは湯気の向こうを見る。


「あと、湯に入る前に気が抜けます。門番を越えた安心で、足元を見なくなるかもしれません」


 カティアが短く言う。


「それはあるな」


 女性組から湯に入ることになった。


 エナ。


 ティア。


 カティア。


 メリダ。


 男性組は通路側へ背を向け、見張りに立つ。


 クレス。


 カイル。


 ラハル。


 ラハルの盾が通路側に置かれると、それだけで扉のようだった。


 カイルは背を向けたまま、そわそわしている。


 ティアの声が湯気の向こうから飛ぶ。


「振り向いたら、しばらく口をきかないわ」


「振り向かない!」


「声が大きい」


「すみません!」


 湯に触れたエナは、小さく息を漏らした。


「……ああ」


 それは、怖さがほどける声だった。


 ティアは静かに湯を確認する。


「温度は高すぎない。長湯は避けるべきね」


 カティアは湯に浸かりながら、壁側を見ている。


「落ち着かねえな。慣れるけど」


 メリダが頷く。


「非冒険者なら、もっと落ち着かないよ。湯に入りたいのに、見張りもいる。魔物の後だ。気持ちが忙しい」


 エナは自分の手を見た。


 水仕事。


 料理。


 荷運び。


 ミルの世話。


 酒場の手伝い。


 ずっと使ってきた手。


 湯の中で、その手の荒れが少しずつ落ち着いていく。


 髪の絡まりも、ほどける。


 肌の表面も、柔らかく整っていく。


「……これは、喜びますね」


 エナは静かに言った。


「でも、喜ぶからこそ危ないです。もう一度入りたいと思ってしまう」


 メリダが笑う。


「いい記録だね」


 ティアも、自分の髪に触れかけて、途中で止めた。


 カティアがそれを見逃さない。


「気になるんだろ」


「確認よ」


「便利な言葉だな」


「あなたも髪が絡まりにくくなっているわ」


「見るな」


 エナが少し笑った。


 湯気の中で、女性たちの声は小さい。


 戦闘の後なのに、そこだけ少し日常のようだった。


 入浴は短めにした。


 湯上がり後、エナはすぐに記録を続けた。


「湯から出た後、少し座りたいです。急に歩くと、力が抜けそうになります」


 メリダが書く。


「湯上がり後、即移動不可。休憩必須」


 男性組と交代し、全員が必要な確認を終える。


 そして、一行は帰還路へ向かった。




 第1層に戻った時、最初に聞こえたのは、ミルの声だった。


「おかえりなさい!」


 その声は、朝より少し震えていた。


 エナが帰還路から出てくる。


 髪はいつもより柔らかく落ち着き、肌は湯上がりで明るい。


 手荒れも少し和らぎ、表情には疲れと安堵が混じっている。


 でも、確かに綺麗だった。


「ただいま、ミル」


 ミルが駆け寄って、エナに抱きつく。


「お母さん!」


「帰ってきたわ」


 その光景に、酒場が温かくなる。


 そして、少し遅れて別のざわめきが起きた。


「……エナさん、綺麗じゃないか?」


「言うな」


「いや、でも」


「ミルちゃんの母ちゃんだぞ」


「分かってる。分かってるけど、湯上がりっていうか」


「声を小さくしろ」


「手も綺麗になってる」


「見るなって」


 男冒険者たちが、妙にそわそわしている。


 普段から酒場で働くエナを見ている者は多い。


 水を配り、食事を出し、ミルを叱り、冒険者に笑って応じる姿を知っている。


 そのエナが、紅肌の雫と湯溜まりの効果で、疲れを少し落とし、柔らかい顔で立っている。


 動揺するなという方が難しかった。


 だが、女性冒険者たちの視線が鋭くなった。


「何を見てるのかな?」


「いや、違う」


「何が違うのかな?」


「綺麗だなと」


「正直すぎる」


 男冒険者が正座した。


 エナは少し頬を赤くしながらも、落ち着いて言った。


「見られすぎると、報告がしにくいです」


「すみません!」


 男たちが一斉に頭を下げる。


 カティアが腹を抱えそうになっていた。


「エナさん、強え」


 ラハルが豪快に笑う。


「はっはっは! 湯の力とは恐ろしいな!」


 ティアが静かに言う。


「ラハル様も見すぎないでください」


「む、失礼した!」


 カイルはミルの方を見ていた。


 ミルがエナの手を握っている。


「お母さん、手、すべすべ」


「少しだけね」


「よかった」


 カイルはそれを見て、少しだけ笑った。


 ティアが横から言う。


「嬉しそうね」


「うん」


「よかったわね」


「うん」


 今度は、注意されなかった。


 エナの報告は、その後しっかり行われた。


 湯に入る前の休憩。


 湯上がり後の休憩。


 布と着替え。


 髪を拭くもの。


 女性付き添い役。


 見張りの距離。


 非冒険者の歩幅。


 第4層後の気持ちの緩み。


 第5層の熱気と怖さ。


 盾の位置。


 声かけの重要性。


 撤退命令の分かりやすさ。


 記録板は、すぐに文字で埋まった。


 メリダが満足そうに頷く。


「冒険者だけじゃ、出ない記録だね」


 グラントも頷く。


「受け入れ条件を更新しましょう」


 仮受付の横に、新しい追記板が掛けられた。


【第5層湯溜まり護衛追記事項】


【非冒険者同伴時、第4層後に休憩推奨】


【湯溜まり到達後、入浴前休憩を設けること】


【湯上がり後、即時移動禁止。休憩確認】


【布、着替え、髪拭き用具の準備】


【女性付き添い役を推奨】


【護衛対象から盾、声、帰還方向が分かる位置を維持】


 冒険者たちは、その板を黙って読んだ。


 ただの面倒な決まりではない。


 エナが怖がりながら歩き、帰ってきた結果だ。


 ミルが「おかえり」と言えた結果だ。


 カイルが小さく呟いた。


「守って帰すって、こういうことか」


 ティアが横で頷く。


「少し分かった?」


「うん」


「なら、今日来た意味はあったわ」


 ラハルは大盾を肩に担ぎ、満足そうに笑った。


「よい試験であった!」


 カティアが言う。


「あんたらだけで門番まで処理しきったのも、十分収穫だな」


 クレスも頷く。


「Aランク三人で、護衛対象を守りながら第5層突破可能。記録に残す」


 カイルは少し嬉しそうにした。


 だが、今度は胸を張りすぎなかった。


 ティアが見ていたからだ。




 黒い水膜の内側で、俺は表示を見ていた。


【試験護衛成功】


【非冒険者同伴での第5層到達を確認】


【第5層湯溜まり運用条件が更新されました】


【非冒険者目線、女性目線、湯前休憩欲、湯上がり休憩欲、用具需要を獲得】


【獲得DP:2148】


【現在DP:12272】


 続けて、文字が揺れる。


【母娘の安心を確認】


【紅肌の雫譲渡、親子使用、琥珀の雫保管欲を獲得】


【護衛制度の信頼、帰還欲、羨望、照れ、興奮を獲得】


【獲得DP:1686】


【現在DP:13958】


「増えたなあ」


『当然ね。今日はただ強い者が勝った日ではないもの』


「エナさん、すごかったな」


『ええ』


「怖いって言えるの、強いな」


『その通りよ』


 俺は第1層を見る。


 エナさんは、ミルと一緒に座っている。


 ミルはエナさんの手を何度も触っている。


 カイルはそれを見て笑っている。


 ティアは記録板を読み直している。


 ラハルはカティアに何か話しかけ、カティアは嫌そうな顔をしながらも逃げていない。


 クレスは追記板を確認している。


 メリダさんは、講習席の木板を持ち直した。


「次の講習、また増えるな」


『増えるでしょうね』


「強い人が奥へ行く迷宮じゃなくなってきた」


『最初から、そうなり始めていたわ』


「弱い人を連れて帰るための迷宮か」


『連れて行くかどうかを決めるのは人間よ。でも、帰るための道を考え始めたのも人間だわ』


 俺は頷いた。


 清水の迷宮は、強い者だけが奥へ進む場所ではなくなっていた。


 誰かを連れて行く。


 怖いと言う人を守る。


 湯に辿り着かせる。


 そして、もう一度「おかえり」と言える場所へ戻す。


 そのための道が、今日ひとつ形になった。


 水は流れる。


 湯気は立つ。


 人は欲しがる。


 けれど、その入口にはまた一枚、帰るための板が増えた。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回はエナを連れた試験護衛でした。

強い者が突破するだけではなく、怖がる人を守って帰すための記録が増えていきます。


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