第47話 母を連れて湯気の奥へ
Aランク冒険者三人が第3層を踏破した翌朝。
清水の迷宮、第1層。
酒場の空気は、いつもより少し硬かった。
理由は分かっている。
次は、第4層。
そして、その奥の第5層。
Aランク三人が、本来見に来た場所へ進む日だ。
カイルは朝から落ち着きがない。
ティアは掲示板と記録板を読み直している。
ラハルは大盾を壁に立てかけ、戦槌の柄を確認している。
クレスは第5層の記録をまとめていた。
カティアは腕を組み、壁に寄りかかっている。
メリダは講習席の前で、いつもより静かに木板を持っていた。
仮受付の横には、条件板が掛かっている。
【第5層湯溜まり護衛依頼について】
【講習未受講者の受注不可】
【第4層突破記録必須】
【門番記録確認必須】
【撤退判断は護衛側に従うこと】
そこまでは、昨日までと同じだ。
だが、今日の話は少し違った。
グラントが、机の上に一枚の記録板を置いた。
「Aランク三名のみで第5層を確認するだけなら、問題は少ないでしょう」
カイルが胸を張りかける。
ティアが横目で見る。
カイルは胸を戻した。
グラントは続ける。
「ですが、今後の依頼は違います。貴族夫人、商家の奥方、場合によっては従者を伴う護衛です。強い者だけで進む確認では、足りません」
クレスが頷く。
「護衛対象がいる時の確認が必要だ」
酒場が少しざわつく。
「護衛対象?」
「非冒険者を連れて行くのか?」
「第5層まで?」
オルド村長が渋い顔をした。
「いきなり貴族を連れて行くわけにはいかん」
「だから、試験が必要です」
グラントは静かに言った。
「信頼できる村の人間で、女性目線の確認ができ、指示に従える者。湯溜まりに必要なものを、冒険者とは別の目で見られる者」
その時、酒場の奥から声がした。
「私が行きます」
エナだった。
ミルの母。
清水の酒場を手伝い、食事を出し、ミルを見守り、増え続ける冒険者たちにも落ち着いて対応してきた人だ。
エナは普段と同じ前掛け姿ではなかった。
動きやすい服。
丈夫な靴。
肩には小さな荷袋。
戦う格好ではない。
だが、行くつもりの格好だった。
「お母さん!?」
ミルが目を丸くする。
オルド村長も立ち上がった。
「エナ、本気か」
「はい」
エナは静かに頷いた。
「奥方様たちを迎えるなら、村の女が何も知らないままでは駄目です。湯に入る場所なら、女にしか分からない不安もあると思います」
カティアが眉を寄せる。
「本気かよ。第5層だぞ」
「分かっています」
メリダが歩いてきた。
「怖いよ」
エナはメリダを見る。
「怖くないとは言いません」
酒場の音が、少し遠くなった。
エナは続ける。
「でも、怖い場所なら、なおさら先に知っておきたいんです。何が怖いのか。どこで足が止まるのか。湯に入る前に何が必要なのか。帰ってきた後、何を用意しておくべきなのか」
メリダは黙って聞いていた。
エナはミルの方を見る。
ミルは泣きそうな顔をしている。
「お母さん、行くの?」
「行って、帰ってくるのよ」
「でも」
「帰ってくるために行くの」
エナはミルを抱きしめた。
「ミルがいつも言ってくれるでしょう。おかえりなさいって。あれを、ちゃんと言ってもらうために行くの」
ミルはエナの服をぎゅっと握った。
カイルが、その様子を見ていた。
いつものようにすぐ口を出さない。
ただ、少しだけ真面目な顔になっていた。
ティアがエナを見る。
「勝手に歩かない。指示に従う。撤退命令には絶対に従う。それが条件よ」
「はい」
「怖い時は、怖いと言ってください。我慢して足を止める方が危険です」
「分かりました」
ラハルが大盾を持ち上げた。
「ならば、わしの盾の後ろにいればよい!」
声が大きい。
でも、不思議と安心感があった。
エナは少し笑った。
「お願いします」
ラハルは満足そうに頷く。
「任された!」
クレスが記録板を閉じる。
「手順を踏む。まず、エナの第3層帰還記録を作る。休憩。その後、第4層。疲労が強ければそこで中止。問題なければ第5層へ進む」
カティアが言う。
「あたしとクレスは見る側だ。手は出さねえ」
カイルが少し驚いた顔をした。
「出ないんですか?」
クレスは頷く。
「Aランク三人が、護衛対象を守って進めるかを見る」
ティアが短く言う。
「当然ね」
ラハルが笑う。
「よかろう! 城門役は任せよ!」
メリダが言う。
「私はエナの足を見るよ。どこで止まりそうになるか、どこで怖がるか。それが今日の記録だ」
グラントが仮受付の職員に頷く。
「試験護衛、開始記録をお願いします」
仮受付の職員が緊張した顔で筆を取った。
ミルはまだエナの服を握っていた。
エナはもう一度、ミルの頭を撫でる。
「行ってきます」
ミルは涙をこらえて、声を出した。
「いってらっしゃい」
その言葉に、カイルが少しだけ目を細めた。
黒い水膜の内側で、俺はその場面を見ていた。
「エナさんが行くのか……」
『必要な試験ね』
「理屈では分かるけど、緊張するな」
『貴方が緊張してどうするの』
「いや、ミルの顔見たらさ」
ミルは必死に泣かないようにしていた。
エナさんは落ち着いている。
でも、怖くないわけじゃない。
その怖さを分かった上で行く。
非冒険者を連れて行く護衛依頼。
言葉にすると簡単だ。
でも、それは誰かの母親を連れて、魔物のいる場所へ進むということでもある。
「強い人が奥へ行くのとは、全然違うな」
『ええ。守って帰すというのは、そういうことよ』
第3層入口へ、一行が向かう。
Aランク三人。
エナさん。
クレス。
カティア。
メリダさん。
クレスとカティアは、手を出さない位置。
でも、目は離していない。
メリダさんは、エナさんの歩幅をすでに見ている。
カイルは前へ行きたそうだが、ティアに見られて少し下がる。
ラハルはエナさんの前ではなく、少し斜め前に立った。
完全に視界を塞がない。
でも、何か来たら盾が入る位置。
「ラハルさん、でかいけど邪魔じゃないな」
『守る立ち方を知っているのね』
「城門なのに気配りできる」
『城門に失礼よ』
俺は黙った。
一行は、第3層へ入っていった。
第3層。
藻の迷路。
湿った空気。
ぬるりとした床。
戻ろうとすると、さっきの通路が違って見える場所。
エナは入ってすぐ、息を飲んだ。
「……後ろが、分かりにくいんですね」
メリダがそれを聞き逃さない。
「そう。冒険者でも焦る。非冒険者なら、もっと怖い」
「はい」
ティアがエナの靴元を見る。
「歩幅を小さく。床を蹴らず、置くように」
「はい」
カイルが前方の藻の影に気づく。
「来る」
声と同時に、剣が抜かれた。
藻の陰から魔物が跳ねる。
カイルは前へ出る。
だが、離れすぎない。
踏み込みは鋭い。
剣は速い。
魔物が跳ねる先を読んで、切り落とす。
すぐに戻る。
ティアが短く頷いた。
「今の距離はいいわ」
カイルの顔が少し明るくなる。
「よし」
「調子に乗らない」
「はい」
ラハルは後ろへ回り込もうとした魔物を盾で止めた。
叩き潰すのではない。
まず止める。
エナが驚いて後ずさろうとしたところへ、ラハルの声が飛ぶ。
「下がるなら、わしの盾から離れるな!」
「はい!」
エナは足を止めた。
メリダがすぐに記録する。
「驚くと後ろへ下がろうとする。盾の位置が見えると止まれる」
クレスは黙って見ている。
カティアも手を出さない。
第3層の魔物は、Aランク三人にとって脅威ではなかった。
だが、エナにとっては違う。
音。
湿気。
戻れない感覚。
足元のぬめり。
目の前で剣が振られる怖さ。
全部が、冒険者ではない人間の歩みを遅らせる。
エナは何度か足を止めた。
そのたびに、ティアが短く声をかける。
「怖いなら、言って」
「……怖いです」
「言えたなら大丈夫。進むか戻るかを判断できるわ」
エナは頷いた。
メリダが少しだけ笑う。
「いいね。怖いを隠さない護衛対象は助かる」
カイルは横で真剣に聞いていた。
やがて、一行は第3層の報酬部屋へ着いた。
紅肌の雫が、エナの前に現れる。
小さな瓶。
赤みを帯びた透明な雫。
エナは、それを不思議そうに見た。
「これが……」
「紅肌の雫だ」
クレスが言う。
「肌や顔色に効果がある。戦闘には関係ない」
エナは受け取った。
しばらく見つめる。
自分で使うか、村の記録に回すか、迷っている顔だった。
だが、クレスは何も言わない。
メリダも急かさない。
そのまま、一行は帰還路を通り、第1層へ戻った。
「おかえりなさい!」
ミルの声が響いた。
エナが戻ってきた瞬間、ミルは駆け出した。
途中で転びそうになり、フィンにそっと支えられる。
エナは膝をつき、ミルを抱きしめた。
「ただいま」
ミルがエナの肩に顔を押しつける。
「お母さん、怖かった?」
「怖かったわ」
「でも、帰ってきた」
「帰ってきたわ」
そのやり取りを、カイルが見ていた。
昨日も、ミルは「おかえりなさい」と言っていた。
Aランクが戻っても、若手が戻っても、村の手伝いが戻っても。
当たり前みたいに。
でも、当たり前ではない。
迷宮から戻る者に、その言葉は思ったより深く届く。
カイルは自分の荷袋から、小瓶を取り出した。
昨日、第3層で得た紅肌の雫。
まだ使わずに持っていたものだ。
「エナさん」
エナが顔を上げる。
「はい?」
「これ、使ってください」
カイルは紅肌の雫を差し出した。
酒場がざわつく。
「え?」
「紅肌の雫を?」
「大銀貨二枚のやつだぞ?」
エナも驚いた。
「いえ、そんな高価なものは」
「オレ、もう一本持ってるから」
カイルは少し照れたように笑った。
「昨日、ミルにおかえりって言ってもらえて、嬉しかったんです。なんか、すごく」
ミルが目を丸くする。
「私?」
「うん。オレ、迷宮から帰ってきて、そう言ってもらえるの、好きだなって思った」
カイルは小瓶をエナの手に乗せる。
「だから、ミルと一緒に使ってください。二人で」
ティアが横で静かに見ていた。
止めない。
ラハルも笑っている。
エナは小瓶を見て、カイルを見た。
「本当に、いいんですか?」
「はい!」
カイルは大きく頷く。
「オレ、こういうの、難しいことは分かんないけど。おかえりって言ってくれる人がいるなら、その人にも良いことがあってほしいです」
ティアが小さく息を吐いた。
「あなたらしいわね」
「変か?」
「変ではないわ」
エナはしばらく黙った。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「やめてください。そういうの、なんか照れます」
休憩中、エナとミルは酒場の端の席に座った。
木杯ではなく、小さな器を二つ。
エナの紅肌の雫。
カイルから渡された紅肌の雫。
ミルは緊張した顔で器を見ている。
「お母さん、本当にいいの?」
「カイルさんが、あなたにもって」
「高いんでしょ?」
「高いわね」
「じゃあ」
「でも、こういうものは、気持ちも一緒に受け取るものよ」
エナはミルの髪を撫でた。
「一緒に使いましょう」
ミルは小さく頷いた。
二人は、同じタイミングで紅肌の雫を飲んだ。
すぐに劇的な変化が起きるわけではない。
だが、少しずつ、顔色が整っていく。
エナの頬に、疲れで沈んでいた色が戻る。
ミルの肌にも、ほんのり血色が差した。
親子で、少し顔を見合わせる。
「……お母さん」
「ミルも、少し明るくなったわね」
「お母さんも」
ミルが笑った。
エナも笑った。
カイルはその光景を見て、満足そうにしていた。
ティアが横に立つ。
「よかったわね」
「うん」
「でも、気前よく渡しすぎる癖は直した方がいいわ」
「今言う?」
「今だから言うの」
「……はい」
それでも、ティアの声は少し柔らかかった。
休憩は長めに取った。
エナの足、呼吸、顔色。
メリダが一つずつ確認する。
「続けられるかい」
「はい」
「無理してない?」
「怖さは残っています。でも、今なら進めます」
メリダは頷いた。
「よし。次は第4層だよ」
第4層、琥珀の貯蔵庫。
エナは入ってすぐ、足を止めた。
香りが違う。
第3層の湿った藻とは違う。
熟成した酒のような、甘く深い香り。
棚。
樽。
琥珀色の光。
冒険者でさえ足を止める場所だ。
非冒険者なら、なおさらだった。
「これは……」
エナは小さく呟く。
「足が止まりますね」
メリダがすぐに記録する。
「第4層、香りで足が止まる。報酬前でも注意」
ラハルが鼻を鳴らす。
「よい香りだ!」
ティアが言う。
「判断を鈍らせるわ。長居しない方がいい」
カイルは棚を見ながらも、足は止めている。
昨日より、少し慎重だ。
クレスはそれを見ていた。
何も言わない。
ただ、見ている。
第4層の魔物も、Aランク三人にとって大きな障害ではなかった。
カイルが前方を切る。
ティアが香りの濃い場所で意識を保つ補助をかける。
ラハルが盾で通路を塞ぎ、エナの退路を守る。
エナは、時々足を止める。
そのたびに言葉にする。
「ここは、見てしまいます」
「ここは、匂いでぼんやりします」
「ここは、綺麗で、進むのを忘れそうになります」
メリダは記録する。
「欲じゃなくても、足は止まる。綺麗な場所でも危ない」
やがて、第4層の報酬部屋。
エナの前に、琥珀の雫が現れた。
小さな瓶。
琥珀色。
高品質な酒に相当する一滴。
エナは受け取り、少し困った顔をした。
「これは、私が飲むものではありませんね」
グラントがいれば、値段を計算しただろう。
冒険者なら、売るか飲むか考える。
だが、エナは瓶を両手で包んだ。
「ミルが成人したら、お祝いに渡します」
ミルはまだいない。
だが、エナの声は柔らかかった。
この世界では、十五歳で成人だ。
酒を飲めるようになる年。
まだ先の話。
けれど、母親にとっては、いつか来る日の話だった。
カイルが笑う。
「いいな、それ」
ティアも静かに頷いた。
「大切な保管理由ね」
ラハルが胸を張る。
「祝いの酒か! よい! 実によい!」
エナは小瓶を丁寧にしまった。
それから、深く息を吸う。
「続けられます」
メリダが見る。
「無理なら、ここで戻るよ」
「分かっています」
エナは頷いた。
「でも、ここまで来て分かりました。第5層へ行く前に、すでに休憩が必要です。奥方様なら、ここで気持ちがふわつく方もいると思います」
メリダが記録する。
「第4層後、休憩必須候補」
クレスが短く言う。
「いい記録だ」
そして、一行は第5層へ降りた。
第5層。
温かい湿気。
湯気。
白い鉱物筋。
足元から伝わる熱。
エナは入った瞬間、表情を変えた。
「空気が、重いです」
ティアがすぐに答える。
「ゆっくり呼吸して。熱で急ぐと余計に疲れるわ」
「はい」
カイルは前を見ている。
いつもなら飛び出しそうな目だ。
だが、今日はエナの位置を何度も確認している。
ティアに言われたからだけではない。
ミルの「おかえりなさい」が、まだ彼の中に残っていた。
スチームウルフが来た。
二体。
横へ回ろうとする。
カイルが前へ出る。
今度は追いすぎない。
一体を斬り、すぐ戻る。
もう一体はラハルの盾へぶつかった。
「盾の後ろへ!」
ラハルの声が響く。
エナが反射的に盾の影へ入る。
巨大な盾が、目の前に壁を作る。
爪の音。
衝撃。
だが、エナには届かない。
ティアの補助魔法が足元に淡く光る。
「滑らないようにしてあるわ。慌てず立って」
「はい」
カティアは少し離れて見ていた。
手は出さない。
クレスも動かない。
メリダはエナの足元と目線を見ている。
「盾が見えると安心する。湯気で人が見えなくなると不安が増える」
記録板に書く。
次はスチームバット。
上から来る。
カイルが反応するより先に、ティアが杖を上げた。
薄い光が天井近くに走る。
スチームバットの軌道がずれる。
カイルの剣がそこへ入る。
「ナイス!」
「声が大きい」
「はい!」
ミネラルクラブはラハルが盾で止め、戦槌の柄で横へ押し潰した。
ロックエイプは石を投げてきたが、ティアが防御の膜で軌道をずらし、カイルが岩場まで詰めて戻る。
戻る。
戻るのだ。
カティアがぼそっと言った。
「あいつ、ちゃんと戻ってるな」
クレスが短く答える。
「ああ」
それだけだった。
だが、カイルが聞いていたら、たぶん一日中喜んだだろう。
ホットウォーターリザードの熱水弾は、ラハルの盾とティアの補助で横へ流した。
エナはそのたびに肩を震わせる。
だが、声を出す。
「怖いです」
メリダが頷く。
「いいよ。言えてる」
そして、奥。
重い足音が響いた。
どん。
どん。
湯気が押し寄せる。
白い鉱物殻。
青白い湯脈。
胸のコア。
ホットスプリングガーディアン。
エナの顔から血の気が引いた。
「……あれを、越えるんですね」
ティアが静かに言う。
「越えられないと判断したら戻るわ」
ラハルが大盾を構えた。
「だが、今日は越える!」
カイルが剣を抜く。
「オレが行く!」
ティアの声が飛ぶ。
「護衛対象から離れすぎない」
カイルの足が止まる。
止まった。
一瞬、悔しそうな顔をしたが、すぐ頷く。
「分かってる!」
ラハルが前へ出る。
巨大な盾が、エナと後方を守る壁になる。
「盾の後ろに集まれ! まだ始まったばかりだ!」
ホットスプリングガーディアンの腕が振り下ろされた。
ラハルは受けた。
いや、完全には受けない。
盾を斜めに置き、衝撃を横へ逃がす。
床が割れる。
蒸気が爆ぜる。
それでも、盾の後ろは崩れない。
「はっはっは! この程度で老いぼれ扱いとは、見る目がないな!」
ティアが低く言う。
「笑っている場合ではありません」
「笑うのも士気よ!」
「なら、短く」
「うむ!」
ティアの杖が光る。
蒸気が一瞬薄く裂ける。
視界が開く。
「右肩、噴気孔」
カイルが走る。
速い。
でも、遠くへ行きすぎない。
右肩へ斬撃。
深くはない。
だが、噴気孔の縁が欠ける。
蒸気の流れが乱れる。
ガーディアンの腕がカイルを追う。
カイルは逃げるのではなく、戻る。
ラハルの盾の影へ戻る。
巨腕が追ってくる。
「よく戻った!」
ラハルが盾を押し出す。
巨腕と盾がぶつかる。
音が洞窟を揺らす。
ティアが補助を重ねる。
ラハルの足元に淡い光。
滑らない。
沈まない。
押し切られない。
「胸の光が強くなるわ」
ティアが言う。
「熱が来る」
エナが息を飲む。
メリダが横で声をかける。
「下がりすぎない。盾を見て」
「はい!」
ホットスプリングガーディアンの胸から蒸気が噴き出した。
白い壁。
視界が消える。
ティアが杖を床へ突く。
「風よ、薄く」
強い風ではない。
吹き飛ばすのではなく、視界の線だけを作る風。
白い蒸気の中に、細い道ができる。
「カイル、左膝。ラハル様、腕を受けずに流して」
「承知!」
「はい!」
カイルが左へ走る。
左膝の薄い鉱物筋を斬る。
一撃。
二撃。
ガーディアンが膝を引く。
そこへラハルが踏み込んだ。
盾で腕をずらし、戦槌を膝へ叩き込む。
鈍い破砕音。
巨体が傾く。
エナはその音に震えた。
だが、倒れない。
ラハルの背中を見ている。
「胸、開きます」
ティアが言う。
カイルが前へ出ようとする。
ティアの声が、先に刺さる。
「届かない距離なら行かない」
「分かってる!」
カイルは一度止まる。
そして、周囲を見る。
倒れた岩片。
ラハルの盾。
ガーディアンの傾き。
正面から飛ぶのではなく、斜めに走る。
岩片を蹴る。
ラハルが一瞬だけ盾を下げる。
カイルは盾の縁を踏み台にした。
「借ります!」
「行けい!」
跳ぶ。
ティアの補助が、カイルの足元に一瞬だけ光る。
体勢が崩れない。
剣が胸のコアへ向かう。
ガーディアンの腕が戻る。
ティアが左手を上げた。
「止まりなさい」
光の鎖が、腕の関節に絡む。
一瞬。
本当に一瞬だけ止まる。
だが、Aランクには十分だった。
カイルの剣が、胸のコアを裂いた。
青白い光が弾ける。
カイルは着地し、すぐ後ろへ戻る。
戻る。
ラハルの盾の内側へ。
ティアがもう一度、杖を振る。
コアの亀裂に光が走る。
内側から崩れるように、ガーディアンの胸が砕けた。
巨体が膝をつく。
蒸気が止まる。
白い鉱物殻が、ゆっくり灰色へ沈んでいく。
ホットスプリングガーディアンは、動かなくなった。
クレスは、一度も動かなかった。
カティアも、一度も手を出さなかった。
カイルは息を吐く。
剣を下ろす。
そして、エナを見た。
「大丈夫ですか?」
エナは少し震えながらも、頷いた。
「はい。……怖かったです」
ティアが近づく。
「それでいいわ。怖いまま、立っていられた」
ラハルが豪快に笑う。
「よくぞ盾の後ろに残った!」
エナは小さく笑った。
「盾の後ろから、出る気にはなれませんでした」
メリダが記録板に書く。
「門番戦、護衛対象は盾の視認で安定。蒸気中、声と背中が重要。討伐中も帰る位置を失わせないこと」
クレスが短く言った。
「いい戦闘だった」
カイルの顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
カティアが鼻を鳴らす。
「飛び出して戻らねえかと思ったけどな」
「戻りました!」
「そこは偉い」
カイルは、一瞬固まった。
「今、褒めました?」
「うるせえ」
カイルは嬉しそうに笑った。
ティアが小さく言う。
「調子に乗らない」
「はい!」
その声は、また少し大きかった。
湯溜まりの空間は、戦闘の後とは思えないほど静かだった。
ぽこり、ぽこり。
湯が湧く音。
白い石。
柔らかな湯気。
奥には、水紋の帰還路。
壁文字。
【1層へ】
エナは湯溜まりを見て、しばらく黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
「ここまで来て、やっと湯なのですね」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
冒険者にとっては、報酬地点。
商人にとっては、価値のある場所。
貴族にとっては、効果を得る場所。
だが、エナにとっては違う。
怖い道を越えて、ようやく辿り着く場所だった。
「奥方様を連れてくるなら、湯に入る前に座れる場所が必要です」
エナはゆっくり言った。
「着替え。布。髪を拭くもの。湯から出た後に休む時間。見張りの位置も、もう少し考えた方がいいです。近すぎると落ち着きません。でも遠すぎると怖い」
メリダが急いで記録する。
「見張りの距離。湯前休憩。布、着替え、髪拭き。湯上がり休憩」
ティアも頷く。
「女性の付き添い役は必要ね。護衛とは別に」
「はい」
エナは湯気の向こうを見る。
「あと、湯に入る前に気が抜けます。門番を越えた安心で、足元を見なくなるかもしれません」
カティアが短く言う。
「それはあるな」
女性組から湯に入ることになった。
エナ。
ティア。
カティア。
メリダ。
男性組は通路側へ背を向け、見張りに立つ。
クレス。
カイル。
ラハル。
ラハルの盾が通路側に置かれると、それだけで扉のようだった。
カイルは背を向けたまま、そわそわしている。
ティアの声が湯気の向こうから飛ぶ。
「振り向いたら、しばらく口をきかないわ」
「振り向かない!」
「声が大きい」
「すみません!」
湯に触れたエナは、小さく息を漏らした。
「……ああ」
それは、怖さがほどける声だった。
ティアは静かに湯を確認する。
「温度は高すぎない。長湯は避けるべきね」
カティアは湯に浸かりながら、壁側を見ている。
「落ち着かねえな。慣れるけど」
メリダが頷く。
「非冒険者なら、もっと落ち着かないよ。湯に入りたいのに、見張りもいる。魔物の後だ。気持ちが忙しい」
エナは自分の手を見た。
水仕事。
料理。
荷運び。
ミルの世話。
酒場の手伝い。
ずっと使ってきた手。
湯の中で、その手の荒れが少しずつ落ち着いていく。
髪の絡まりも、ほどける。
肌の表面も、柔らかく整っていく。
「……これは、喜びますね」
エナは静かに言った。
「でも、喜ぶからこそ危ないです。もう一度入りたいと思ってしまう」
メリダが笑う。
「いい記録だね」
ティアも、自分の髪に触れかけて、途中で止めた。
カティアがそれを見逃さない。
「気になるんだろ」
「確認よ」
「便利な言葉だな」
「あなたも髪が絡まりにくくなっているわ」
「見るな」
エナが少し笑った。
湯気の中で、女性たちの声は小さい。
戦闘の後なのに、そこだけ少し日常のようだった。
入浴は短めにした。
湯上がり後、エナはすぐに記録を続けた。
「湯から出た後、少し座りたいです。急に歩くと、力が抜けそうになります」
メリダが書く。
「湯上がり後、即移動不可。休憩必須」
男性組と交代し、全員が必要な確認を終える。
そして、一行は帰還路へ向かった。
第1層に戻った時、最初に聞こえたのは、ミルの声だった。
「おかえりなさい!」
その声は、朝より少し震えていた。
エナが帰還路から出てくる。
髪はいつもより柔らかく落ち着き、肌は湯上がりで明るい。
手荒れも少し和らぎ、表情には疲れと安堵が混じっている。
でも、確かに綺麗だった。
「ただいま、ミル」
ミルが駆け寄って、エナに抱きつく。
「お母さん!」
「帰ってきたわ」
その光景に、酒場が温かくなる。
そして、少し遅れて別のざわめきが起きた。
「……エナさん、綺麗じゃないか?」
「言うな」
「いや、でも」
「ミルちゃんの母ちゃんだぞ」
「分かってる。分かってるけど、湯上がりっていうか」
「声を小さくしろ」
「手も綺麗になってる」
「見るなって」
男冒険者たちが、妙にそわそわしている。
普段から酒場で働くエナを見ている者は多い。
水を配り、食事を出し、ミルを叱り、冒険者に笑って応じる姿を知っている。
そのエナが、紅肌の雫と湯溜まりの効果で、疲れを少し落とし、柔らかい顔で立っている。
動揺するなという方が難しかった。
だが、女性冒険者たちの視線が鋭くなった。
「何を見てるのかな?」
「いや、違う」
「何が違うのかな?」
「綺麗だなと」
「正直すぎる」
男冒険者が正座した。
エナは少し頬を赤くしながらも、落ち着いて言った。
「見られすぎると、報告がしにくいです」
「すみません!」
男たちが一斉に頭を下げる。
カティアが腹を抱えそうになっていた。
「エナさん、強え」
ラハルが豪快に笑う。
「はっはっは! 湯の力とは恐ろしいな!」
ティアが静かに言う。
「ラハル様も見すぎないでください」
「む、失礼した!」
カイルはミルの方を見ていた。
ミルがエナの手を握っている。
「お母さん、手、すべすべ」
「少しだけね」
「よかった」
カイルはそれを見て、少しだけ笑った。
ティアが横から言う。
「嬉しそうね」
「うん」
「よかったわね」
「うん」
今度は、注意されなかった。
エナの報告は、その後しっかり行われた。
湯に入る前の休憩。
湯上がり後の休憩。
布と着替え。
髪を拭くもの。
女性付き添い役。
見張りの距離。
非冒険者の歩幅。
第4層後の気持ちの緩み。
第5層の熱気と怖さ。
盾の位置。
声かけの重要性。
撤退命令の分かりやすさ。
記録板は、すぐに文字で埋まった。
メリダが満足そうに頷く。
「冒険者だけじゃ、出ない記録だね」
グラントも頷く。
「受け入れ条件を更新しましょう」
仮受付の横に、新しい追記板が掛けられた。
【第5層湯溜まり護衛追記事項】
【非冒険者同伴時、第4層後に休憩推奨】
【湯溜まり到達後、入浴前休憩を設けること】
【湯上がり後、即時移動禁止。休憩確認】
【布、着替え、髪拭き用具の準備】
【女性付き添い役を推奨】
【護衛対象から盾、声、帰還方向が分かる位置を維持】
冒険者たちは、その板を黙って読んだ。
ただの面倒な決まりではない。
エナが怖がりながら歩き、帰ってきた結果だ。
ミルが「おかえり」と言えた結果だ。
カイルが小さく呟いた。
「守って帰すって、こういうことか」
ティアが横で頷く。
「少し分かった?」
「うん」
「なら、今日来た意味はあったわ」
ラハルは大盾を肩に担ぎ、満足そうに笑った。
「よい試験であった!」
カティアが言う。
「あんたらだけで門番まで処理しきったのも、十分収穫だな」
クレスも頷く。
「Aランク三人で、護衛対象を守りながら第5層突破可能。記録に残す」
カイルは少し嬉しそうにした。
だが、今度は胸を張りすぎなかった。
ティアが見ていたからだ。
黒い水膜の内側で、俺は表示を見ていた。
【試験護衛成功】
【非冒険者同伴での第5層到達を確認】
【第5層湯溜まり運用条件が更新されました】
【非冒険者目線、女性目線、湯前休憩欲、湯上がり休憩欲、用具需要を獲得】
【獲得DP:2148】
【現在DP:12272】
続けて、文字が揺れる。
【母娘の安心を確認】
【紅肌の雫譲渡、親子使用、琥珀の雫保管欲を獲得】
【護衛制度の信頼、帰還欲、羨望、照れ、興奮を獲得】
【獲得DP:1686】
【現在DP:13958】
「増えたなあ」
『当然ね。今日はただ強い者が勝った日ではないもの』
「エナさん、すごかったな」
『ええ』
「怖いって言えるの、強いな」
『その通りよ』
俺は第1層を見る。
エナさんは、ミルと一緒に座っている。
ミルはエナさんの手を何度も触っている。
カイルはそれを見て笑っている。
ティアは記録板を読み直している。
ラハルはカティアに何か話しかけ、カティアは嫌そうな顔をしながらも逃げていない。
クレスは追記板を確認している。
メリダさんは、講習席の木板を持ち直した。
「次の講習、また増えるな」
『増えるでしょうね』
「強い人が奥へ行く迷宮じゃなくなってきた」
『最初から、そうなり始めていたわ』
「弱い人を連れて帰るための迷宮か」
『連れて行くかどうかを決めるのは人間よ。でも、帰るための道を考え始めたのも人間だわ』
俺は頷いた。
清水の迷宮は、強い者だけが奥へ進む場所ではなくなっていた。
誰かを連れて行く。
怖いと言う人を守る。
湯に辿り着かせる。
そして、もう一度「おかえり」と言える場所へ戻す。
そのための道が、今日ひとつ形になった。
水は流れる。
湯気は立つ。
人は欲しがる。
けれど、その入口にはまた一枚、帰るための板が増えた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はエナを連れた試験護衛でした。
強い者が突破するだけではなく、怖がる人を守って帰すための記録が増えていきます。
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